僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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三章

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「前世紀の『なぎなた』とは異なり、現代の薙刀道では、骨盤の円運動をとても重視する。どれくらい重視するかと言うと、初心者に着物で型稽古をさせるほど重視する。洗濯機で洗える練習用着物を着て、足袋を履きたすきをかけ鉢巻を巻いた、江戸時代の武家の婦女が自宅で薙刀の稽古をする時と同じ服装で稽古させるの。帯をきりりと締め、両足を腰幅ほどしか広げられない状態で型の稽古をした方が、骨盤が描く円とその軸を意識しやすいのよ。この軸と、両手の真ん中にある軸、この二つの軸を体に叩き込んでからでないと、薙刀道でははかまでの稽古をさせない事になっているわ。だから薙刀を始めた子供は短くて半年、長くて三年を着物稽古のみに費やすものなのだけど・・・」
 昔の僕ならきっと三年以上かかって、道場の最長記録を更新したんだろうな。いや下手へたしたら、日本記録を樹立していたかもしれないなあ。などと考えていたせいで、口ごもる昴に気づくのが遅れた僕は、慌てて復唱した。
「はい、費やすものなのでございますか」
「ええ、費やすものなのだけど」
 両手で口元を覆いしばし笑いを堪えてから、昴は吹っ切れたように肩の力を抜いた。
「私はその二つを、初日の数時間で習得したそうなの。道場に備え付けの、薙刀協会公認AIが出した合格判定にどう対応すべきか判断しかねた師範代は、すぐ師範に相談された。師範は私の着物稽古を暫く見つめて仰った。『着物を着てする稽古は好きかい』 まったく覚えていないのだけど、私はすぐさま『はい、大好きです』と答えたそうなの。それから幼稚園に入園するまでの一年半、師範は着物での型稽古を、私に好きなだけさせてくださったわ。といっても最初の一年はさっき言った通り、全然覚えていないのだけどね」
 破格の天分を与えられていると知っているつもりだったが、まさかこれほどとは思わなかった。こりゃ女王様と感じても仕方ないよと、僕は胸の中で呟いた。
「一年半後、二つの軸運動は私にとって、睡眠中の呼吸のようなものになっていた。あまりに当たり前すぎて、私にとっては無いも同然なものに、なってしまったのね」
「うわあ」
 僕は、そう感嘆することしかできなかった。運動音痴に苦しんだ僕にとって、それは数万光年先に広がる美しい星雲と同じくらい、遥か彼方のことに思えたのである。けど昴は、そんな顔しないでと首を横に振った。何のことだろうとキョトンとする僕へ、何事にもメリットとデメリットがあるのよと、昴は厳しい表情を浮かべた。
「去年、眠留に高速ストライド走法を教えてもらった時、私はその走法と薙刀の軸運動を関連付けることができなかった。両者は瓜二つといえるほど似ているのに、その類似性に少しも気付けなかったの。薙刀の軸運動が当たり前になり過ぎていたせいで、意識に上ってこなかったのね」
 雷に打たれた。僕の研究テーマである「体の効果的な使用法とその鍛錬方法」を僕が研究できる理由を、初めて理解したからだ。僕はかつて、運動音痴にもがき苦しんだ。だからこそ僕は、運動音痴の仕組みとその改善方法を、理論的に説明できるのである。
「僕が運動音痴を克服したのは、小学四年生の時だ。だから僕は、運動音痴だったころの僕と、それを克服してからの僕の違いを、はっきり自覚している。違いの一つ一つを列挙し、それを関連付け、そして理論的に説明することができる。だからこそ僕はそれを、研究テーマに選べたんだ。けどもし僕が、生まれながらに運動神経抜群だったら・・・」
「あれほど分かりやすく説明するのは難しかったでしょうね。言ったこと無かったけど、わたし眠留の研究に、いつもすっごく感銘を受けているの。眠留の論文に涙を流さなかったことは、一度だって無いんだから」
 昴が受け取らなかった厚手のハンカチを、僕は昴に渡した。これを見越してこのハンカチを受け取らなかったんじゃないんだからねと、目元を押さえながら口を尖らせる幼馴染に、しみじみ思った。
 ああ、僕はなんて、幸せなのだろうと。

「薙刀における骨盤の軸運動と、高速ストライド走法における骨盤の軸運動は、どちらも双方向高速軸運動なの。双方向ではない一方行の回転を、例に挙げてみるわね」
 昴はそう言って床から立ち上がった。その、和服を着ているかのような仕草の、なんと艶やかだったことか。これも着物での型稽古の賜物たまものなんだろうな、おじさんとおばさんはさぞ喜んだろうなあと、頬をほころばせずにはいられなかった。
「一方行回転の代表に、野球の投球を挙げてみましょう。ボールを投げる際はこんなふうに、まず脚を踏ん張り骨盤を回転させ、それに上乗せして胴体を回転させ、この二つに胴の前屈を加えて肩を加速し、肘と手首と指で更に加速し、人差し指と中指の先端数センチに体中の筋力を集中させてから、腕を振りぬく。これが上手くいけばいくほど、ピッチャーはより速いボールを投げられるのね。私のように右腕で投げるなら、このとき腰へは、左回転だけが要求される。右脚一本で立つ際、体に右回転が若干発生するけど、それは左への回転量を増やすための措置だから、投球は左回転の一方行として良いと私は考えているわ」
「うん、僕もそう思う。バッティングもそうだしね」
「ええそうね、薙刀にもバッティングと同じ軸運動があるの。勝敗を決する一打を放つさい、私は薙刀を振りぬく。全ての力と想いを切っ先に込めて、後先考えず薙刀を一気に振り切る。あれは一方行の軸運動だと、私も思うわ」
 昴はバットをスパーンと振る真似をした。本人は何気なくやっているのだろうが、ピッチングフォームもバッティングフォームも、どちらもぞくぞくするほど美しい。いやはや、凄まじい女の子だ。
「双方向であっても高速でなければ、似てない部分が幾つか出てくるわね。例えば合戦の主要武器だったころの薙刀は、今の薙刀竹刀しないの数十倍の重さがあった。甲冑かっちゅうを打ち砕いても壊れない頑丈な薙刀を当時の技術で作れば、重くなって当然だったのよ。その重い薙刀を素早く操るためには、こんなふうに足を大きく広げて、太ももが地面と平行になるほど腰を落とす必要があったと思うの」
 昴は足を大きく開き全身をしならせ、長柄物ながえものを隆々と振る真似をした。彼女の桁外れの運動神経万能ぶりに、僕は息をつめ目を見開くことしかできなかった。
「重い薙刀をこんなふうに操るためには、それなりの筋力がどうしても必要になるわ。前世紀の『なぎなた』の基になった人体工学的な薙刀の理論も、男性の大筋力を前提として発達したと私には感じられるの。だから江戸時代の婦女の薙刀とは、異なる部分が出てくる。女薙刀と呼ばれる軽い薙刀を、腰幅ほどしか足を開けない着物を着て、筋力の弱い女性が高速で操る技術とは、異なる部分が出てきて当然なのよ。その最たるものが骨盤の双方向高速軸運動だと、私は考えているわ」
 僕は目を爛々と輝かせ、うんうん頷いた。翔人の刀術である翔刀術は創始者が鎌倉武士だったからか、重い薙刀を操る技術と共通点が多い気がする。つまりそれは裏を返すと、翔刀術使いである僕は、現代の薙刀道から学ぶことが沢山あるという事なのだ。これに血がたぎらずして、何にたぎると言うのか。僕は鼻息の荒い前のめり正座で、昴の説明の続きを待った。
「私達女は全身を隈なく使うことで、薙刀を高速で振る。けど、薙刀を振ることと薙刀を操ることは、少し違うの。たとえば、左斜め下に振りおろした薙刀を間髪入れず右へ払う場合、左斜め下に振りおろすのが振る事で、それを即座に右へ払うのが操る事ね。それを腰の動きを強調してスローモーションですると、こうなるのよ」
 昴は右中段で薙刀を振りかぶる。そして先ず腰を左に回転させ、それに連動して腰から上を左回転させて、薙刀を左下に振りおろした。しかし振りおろしが完了する前に腰は右への回転を始めていたため、薙刀の切っ先は小さなカーブをゆっくり描いたのち、淀みなく右へ払われた。動作終了の数秒後、僕は息を大きく吐いた。スローモーションであっても研ぎ澄まされたその動きが、空気を張り詰めたものにしていたのだ。
「こんなふうに、まず腰を回転させてから薙刀を動かすのね。でもこれは、実戦とはかけ離れた動きなの。腰を個別に動かすと、体全体も継ぎ目だらけの動きになるのよ。だから次は、もっと実戦に近づけてみるね」
 昴は前回と同じように薙刀を振りかぶる。そして右足を半歩踏み出し、薙刀を振り下ろして、それを右へ払った。その時の腰の動きは、まさに芸術。淀みないカーブを描く一本の紐のように腰を動かすことで、「振り下ろし」と「払い」という二つの動作を、継ぎ目のない一つの動作にしていたのである。
「男性なら薙刀の軌道を大筋力で強引に変えられても、女には難しい。だから腰に曲線を描かせて、流れに身を任せるの。これを身に付けてから男性の動きを見ると、軸の軌道が直線と角度で構成されているように感じるわ。もちろん、それはそれで男らしくて、カッコいいんだけどね」
 言い換えると一気に振り下ろすのは直線で、自在に操るのは曲線って感じかしらと、昴は恐ろしいことをサラリと言った。そう、恐ろしいことを事も無げに言い放った。だって、だってなぜなら!
「すっ、昴はそれを、あんな短時間でやってたのか? だって今見せてくれたのは本来、0.1秒前後ですることだろ? 僕は昴の試合をこれまで無数に見てきたけど、軸が曲線を描いていたなんて一度も気づかなかったよ!」
 そう僕は今まで、一度たりともそれに気づかなかった。しかも昴が見せてくれた曲線は前後左右の二次元ではなく、高低も含む三次元曲線だったのである。それを場合によっては0.1秒未満でしてのけていたなんて、一体全体コイツはどんだけぶっ飛んだ存在なのだろうか!
 しかし彼女はあっけらかんと、それこそあっけらかんの見本のように笑って言った。
「気づかなくて当然よ。だって私自身、それにまったく気づいていなかったんだから」
「どわっ!」
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