僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 十五分後の五時四十五分、夕食会はお開きになった。駐車場まで送るよと申し出るも、私達の立場だったらそれを望むのと返され、僕はあっけなく引き下がった。明日の再会を約束し、二人は玄関を後にする。玉砂利を踏む二人の足音が先ず東へ、次いで北へ遠ざかってゆく。その音に耳を済ませながら、僕は美鈴に話しかけた。
「なあ美鈴」
「なあに、お兄ちゃん」
 僕を兄と呼ばなかったのはあの一瞬だけで、テーブルに着くと美鈴はいつもの美鈴に戻った。ただそれでも、普段とは決定的に違うことが一つだけあった。僕は玄関の廊下に腰を下ろした。
「夏の終わりには、独特のもの悲しさがあるよね」
「うんそうね。ごめんねお兄ちゃん、私の声、もの悲しかったよね」
 僕の横に腰を下ろし、美鈴はうれいの増した声で謝る。はかなげな眼差しで遠くを見つめる妹の姿に、僕は腹をくくった。
「美鈴、話したい事がある。聞いてくれるかな」
「ううん、聞かない」
 墓場まで持って行くしかないと思っていた秘密を打ち明ける決意をした僕を、美鈴は拒絶した。けど僕は、驚きも慌てもしなかった。美鈴は崩していた脚を立て、両腕で抱えて、膝の上に顎を乗せた。
「お兄ちゃん、どうして普通にしているの?」
「だって美鈴は、きちんとした理由があって、そう言ったんだろ」
 相応の理由があったからこそ、美鈴はそうした。僕にとってそれは、太陽が東から昇り西へ沈むのと何ら変わらない、当然すぎるほど当然なことだった。だから聞かないと拒絶されても、驚きも慌てもせず、僕は普通にしていられたのである。
 けど美鈴は、やっぱりお兄ちゃんは何もわかってないと呟き、脚を抱きしめるように引き寄せ膝で顔を覆った。おそらく十年近い歳月を経て再会した、うずくまり悲しむ美鈴の姿に、妹を守ろうとする本能が炸裂した。その本能が僕に命じる。「この美鈴を前回見た場面を思い出せ」と。
 僕は記憶を探った。じゅうに満たない年月が流れたことは間違いないという直感に基づき、四歳前後の記憶から始めた。この玄関で小一時間前、四歳の誕生日の出来事を回想したことが役立ち、四歳ではないとすぐ判明した。僕は記憶の焦点を五歳に引き上げた。五歳なら幼稚園に入園した頃だと思った途端、幼稚園の制服を着た僕が、今と同じ姿勢でうずくまる美鈴を慰めている光景が心をかすめた。僕はそれを追いかけ、捕まえ、心を無にして、その記憶の中に入って行った。

 
 石段を登り切った先の、雨に霞む境内。拝殿の賽銭箱の横に、ピンクの長袖シャツと薄いベージュのスカートが、小さくうずくまっている。僕は美鈴に駆け寄る。石段を登りここまで駆けて来た僕の体は火照っていたが、美鈴は寒いのではないかと心配し、家に入ろうと促す。膝に顔をうずめたまま美鈴は微かに首を横に振る。ならせめて寒くないようにと、僕は美鈴の隣に座り体をくっ付ける。想像以上の冷たさに驚き美鈴を抱きしめる。お兄ちゃん、あったかい。美鈴は膝から顔を上げる。そして遠い目をして、言った。
「生まれてくる前、初めて妹になる者ですって挨拶したから、わかってた。でも、やっぱりつらい。幾千年の付き合いのない私は、昴お姉ちゃんと同じ想いを、抱いてもらえないの」

 
 思い出した。
 あれは幼稚園に入園した年の、梅雨。
 誕生日までまだ五カ月ほどあるから、美鈴は三歳。
 女の子のほうが早く成長するとはいえ、三歳にしてあれほど明瞭な言葉を紡いだ妹はやはり破格の人だったのだと、僕は今更ながら思った。
 そう、僕は今更ながら思った。なぜなら、五歳になったばかりの僕はその時、美鈴の話が難しすぎて、それを理解してあげられなかったのである。僕はうなだれ、後悔のため息をついた。
「お兄ちゃんが今何を考えているか、私にはわからない。でも、誤解を一つ解くことならできるの。お兄ちゃん、顔を上げて」
 言われるまま顔を上げた。するとそこに、清らかな光を放ついつもの美鈴がいた。脚を崩して座りながらも、人が獲得しうる最上の気品をその芯に感じずにはいられない、いつもの美鈴がいた。せめて表面を取り繕う努力をせねばと、僕は居住まいを正し美鈴に正対する。もうお兄ちゃんったらと、美鈴は顔をほころばせた。
「お兄ちゃんの話、明後日の夕方なら喜んで聴く。わたし、楽しみにしてるね」
「あさっての夕方?」 
 想定外のことを言われ目を白黒させるも、日時の復唱だけは辛うじて成功した。そんな残念な兄の残念さを指摘することなく、美鈴は僕の思考を、正しい方角へ導いて行った。 
「夕ご飯の少し前、水晶が私だけに教えてくれたの。お兄ちゃんは明日の夜、学校に泊まるって。だから話を聴くのは、明後日の夕方。お兄ちゃんが学校から帰って来るのを、わたし待ってるね」
 ここでようやく悟った。美鈴の「聞かない」を、僕は間違って解釈していたのだと。
 墓場まで持って行く秘密を打ち明けようとした僕を、美鈴は拒絶した。けどそれは「秘密を聞かない」ではなく、「今は聞かない」という意味にすぎなかった。明後日以降なら喜んで聴くねと、美鈴は誤解を正してくれたのである。そう話すと、
「うんそのとおり、今なら喜んで聴くよ、お兄ちゃん!」
 なんて全身で喜ぶものだから、僕はまたもや目を白黒させた。今なら喜ぶって、何?
「だってお兄ちゃん、あの雨の日のことを、思い出してくれたじゃない」
「えっ、美鈴さっき、僕が何を考えているか分からないって言わなかったっけ?」 
 慌てる僕に、美鈴は頬を盛大に膨らませた。
「詳しく分からなかっただけで、だいたいは分かったもん。もうお兄ちゃん、なんでそんな簡単なこと分からないの!」
「ひええ、ごめんなさい~~」
 美鈴は珍しく、大層ご機嫌斜めな様子だ。けど平謝りする僕にため息を一つ吐いただけで機嫌を直し、そして恥ずかしいやら嬉しいやらの本心を明かしてくれた。
「お兄ちゃんが大好きな妹にとって、お兄ちゃんは特別なの。大人になって別の道をゆくことになっても、お兄ちゃんは一生、私の特別なお兄ちゃんなの。呼びかけ方が変わっても、心の中でずっと変わらず、私はお兄ちゃんって呼び続ける。お兄ちゃん、忘れないでね」
 美鈴にお兄ちゃんと呼ばれるだけで幸せな気持ちになるのに、六連続でそう呼びかけられ、しかも心の中で一生そう呼び続けると約束してもらえた僕は、日本史上最も幸せな兄に違いない。その確信が、
「じゃあ兄ちゃんも明後日、秘密を喜んで打ち明けるね」
 という言葉につながったのだけど、そのとたん妹は気配を一転させ僕の両手をにぎり、厳格な面持ちで首を横へ振った。
「ううん、お兄ちゃんは明後日、許容すれすれの苦しみを背負い帰ってくる。そして泣きながら、私にそれを打ち明けるの。だから私も」
 美鈴は僕の手を握ったまま、すくっと立ち上がった。そして僕を立たせ、おでことおでこをくっつけて言った。
「お兄ちゃん、身長、同じになったね」
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