僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 女の子たちが笑いに満足したようなので、僕ら男子はくすぐり攻撃を止めた。プレゼンテーションでは聴衆の感情のうねりを、男子に発生させ女子に収束させるのが基本。露骨に言うと女子は男子より精神年齢が高く、収めどころや引きぎわなどの繊細な判断を男子より正確にするので、指標にさせてもらうのである。くすぐりに参加してくれた男子達へ礼を言い、僕はプレゼンを再開した。
「これから話すことは科学的裏付けのない、僕の個人見解です。ご了承ください」
 そう前置きし、皆へ頭を下げる。すると皆も姿勢を正し、僕に腰を折ってくれた。未完成の研究を公表するさい用いられるやり取りを経て、僕は本題に入る。いや、入ろうとしたのだけど、
「そうそうさっきの『固定部分をあえて弱く作る』も、俺の個人見解だからみんなヨロシク!」
 隣の猛に腰を折られてしまった。この「腰を折る」は頭を下げるという意味と、場の流れをぶった切るという二重の意味を持っていたので、みんな苦笑しつつ猛に頭を下げていた。う~む、猛のヤツ腕を上げたな。僕も負けないからな!
 なんて闘志を胸に、今度こそ本題に入った。
「小学生の時、世界最速スプリンターの映像に僕は仰天した。その選手は、体軸を少しも揺らさず100メートルを走っていた。僕にはこんなの、絶対無理だって思ったよ」
 それは、その選手が世界陸上100メートルで優勝した時の様子を、真正面から撮った映像だった。HAIに手伝ってもらい映像を解析したところ、体軸の横揺れの幅は、なんと1センチ未満しかなかったのである。
「でも挑戦せず諦めるのはしゃくだったから、それを実際に試してみた。その甲斐あって、根本的な疑問に気づくことができた。人の脚は横並びに付いているのに、この選手の体はなぜ、左右に揺れないのかなと」
 鏡の前でゆっくり歩くと、これは一目瞭然。右足を床に着いたとき体は右に揺れ、左足を床に着いたとき体は左へ揺れる。横に並んだ二本の足で歩けばこんなふうに、左右に揺れるのが普通なのだ。
「この選手はひょっとすると、完璧な一本道を走っているのかもしれないと僕は思った。重心の真下にある一本道を寸分たがわず走れば、体は左右に揺れないのかもしれない。僕は、そう考えたんだ。でもHAIに手伝ってもらい調べると、それは間違いだった。その選手は他の選手同様、右足用と左足用の二本の線の上を走っていた。人は自転車じゃないんだから、当然だよね」
 仮に人が自転車の両輪のような、前後に並ぶ二本足を持つ生物だったら、重心直下の一本道を走れただろう。でもそうではないのだから、そんなの初めから無理だったのである。
「行き詰った僕は走りについて考えるのを一旦止め、歩きについて考える事にした。するとまたすぐ、根本的な疑問に気づいた。口で説明するのは難しいから、実際に歩いてみるね。最初は、体を捻らない歩き方から」
 僕は体を捻らず手も振らず、ぎこちなく歩いた。それは、右足で踏み出した時は体の右側が前に出て、左足で踏み出した時は体の左側が前に出る、とても滑稽な歩き方だったから、皆どっと笑ってくれた。少々恥かしかったけど笑って貰うためにした事だったので、僕は満足した。
「じゃあ次は、体を捻って歩くね。わかりやすいよう、誇張して歩いてみるよ」
 これこそ超恥ずかしかったけど、僕は覚悟を決めてモデル歩きをした。しかも女性用の、腰の曲線を強調する歩き方だったから、みんな腹を抱えて笑っていた。幸い猛を初めとするノリの良い男達がすぐさま駆けつけ、モデル歩きを一緒に付き合ってくれたので、僕だけが注目されずに済んだ。後でジュースをおごるからねと、僕は心の中で皆に約束した。
「みんなが手伝ってくれたから、解りやすかったと思う。人はこんなふうに、無意識に体を捻って歩いている。でもあの選手には、体の捻りがまったく無かった。ここに至り僕はやっと気付いた。あの選手は胴体制御がずば抜けて巧いから世界最速スプリンターになれたんだって、やっと気づけたんだよ。陸上の素人だったせいで、胴体を固定した方が速く走れるって、僕は知らなかったんだね。ははは・・・」
 僕は頭を掻き苦笑した。皆も笑っていたが、真剣な表情を僕に向けている選手が二人だけいた。それは、猛と那須さんだった。共同研究者の猛は当然としても、那須さんが笑っていなかったことに僕は目を剥いた。那須さんは気付いているのだ。「胴体を固定する必要のない走り」を僕がしているのだと、猛以外では那須さんただ一人が、はっきり認識しているのである。僕は猛へ目をやった。猛が、承諾の首肯をした。目で猛へ感謝を伝え、那須さんに正対する。そして僕達二人の共同研究のかなめを、那須さんへ明かした。
「そして陸上素人の僕は、その時こう思ったんだよ。全身の筋力の何割かを、胴体を固定するために割いて人は走っている。ならばその必要のない走り方をすれば、固定していた分の筋力を、推進力に振り分けられるんじゃないかなってね」
 数秒間、場がシンと静まった。シンと静まるのはこれで二度目だが、今回は内情が前回とはまったく違っていた。前回は皆一様に、猛が吐露した事柄について考えていた。しかし今回は、それぞれの表情を見る限り、皆は三つのグループに分かれていた。一つは最も数の多い、何を言われたか分からずポカンとしているグループ。もう一つは短距離選手を中心とした、微かな不快感を顔に出したグループ。そして最後が猛と那須さん二人だけの、鷹の眼差しを僕に向けるグループだ。それに気づいていない振りをして、僕は努めてさりげなく話を再開した。
「僕は自分のラストスパートを、軸走りと呼んでいる。軸を極限まで細くすることを最重視して走っているから、そう名付けたんだね」
「それ、わかる。今日の部活前も、体育祭の時も、猫将軍君の走りには軸があった。体育祭の天川さんにも同種の軸があったけど、軸の細さは猫将軍君が完全に勝っていた」
 那須さんが、声も表情も抑揚なく言った。しかし僕はそこに、普段の彼女のマイペースさを一切感じなかった。なぜならいつもの那須さんはこんなふうに、先陣切って自分の意見を発言するタイプでは決してなかったからだ。それ故、
「猫将軍君ごめん、わたし何も知らないくせに、猫将軍君のこと少し怒っちゃいました」
 那須さんの幼馴染の兜さんが真っ先に一歩進み出て、僕に謝罪してくれた。幼馴染の兜さんには、那須さんの覚悟の大きさが、はっきり認識できたのである。そんな兜さんに、僕は心から首を横へ振る。かけがえのない幼馴染に無理解を示してしまった時の後悔なら、僕も痛いほど知っていたからね。
 兜さんを皮切りに、不快感を示していた女子の短距離選手達も謝罪してくれた。これには、一年生陸上部員の中で最も優秀な那須さんと、最も人望のある兜さんに加えて、きっと昴も影響しているのだろう。べらぼうな持久力を有する昴は、いわゆる陸上部員泣かせの生徒だからだ。
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