僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十章

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  梅の花 降り覆う雪を
  包み持ち 君に見せむと
  取ればにつつ

 不思議と驚きはなかった。それよりこの和歌の由来と意味が知りたくて、輝夜さんにそれを尋ねた。
「それは万葉集の、詠み人知らずの歌ね。見せむを『見てもらおうと』、消につつを『消えつつ』にすれば、情景が浮かぶと思う」
 言われるまま今一度目を閉じ、あの朝を思い出してみる。温暖化によりめっきり雪が少なくなった昨今では珍しく、あの日の前日は、牡丹雪の深々と降る日だった。夜半に空は晴れ渡り、目覚めると雪化粧を施された世界が広がっていた。僕と美鈴は境内へ走り出た。踏みしめる雪の感触、いつもより深く肌を刺す空気、丸みを帯びて響く僕と美鈴の歓声、どれもこれも楽しくて僕らは銀世界を走り回った。その最後、足跡の付いていない雪を求めて向かった裏庭で、息をのんだ。突き抜ける蒼天を背に、百花のさきがけと謳われる梅の花が、輝く雪に包まれ咲いていたのだ。雪を崩さぬよう花を驚かさぬよう僕はそっと両手を差し出し、それを包み込む。そしてそれを見て貰おうと、輝夜さんを呼んだ。しかし深紅の花を覆う雪は輝夜さんが傍らに来るより早く、消えてしまったのだった。
 という情景を、僕は話した。思い出の中の僕はいつの間にか大きくなり、輝夜さんも今の輝夜さんだったけど、心に映ったままを僕は語った。その終わり間近、輝夜さんを呼ぶ場面で、彼女はなぜか頬を朱に染めた。白く透きとおる肌に浮かぶ鮮やかな朱が、あの朝をまざまざと脳裏に描いてゆく。僕は記憶の世界に戻り、時間を忘れて輝夜さんを見つめていた。すると、
「眠留くん、それは恋歌なの。雪を優しく手に取るのは恋人に接する際の男性の優しさを、見て貰おうとするのは美しい時間を共有したいという想いを、それぞれ表現しているって考えられているの」
 清らかな雪に抱かれ咲き誇る、百花の姫のように輝夜さんは言った。いつもならここで慌てふためき空気を壊してしまうのだけど、なぜか今回は落ち着いて想いを告げられた。
「話の腰を折ってまで、この和歌を心の深奥から掬い上げた理由が分かったよ。いつものことで申し訳ないけど、先を聴かせてくれるかな」
 ――雪の結晶も素敵だけどそれが溶け、柔らかな雫になるのも、負けないくらい素敵だよなあ。
 そう思わずにいられない微笑みを僕に投げかけ、輝夜さんは先を続けた。
「物心ついてからずっとあった体の小ささへの諦めが、別の気持ちに替わる日が訪れた。それは、湖校の入学日。初登校の日の朝、校門で岬先輩を目にして、願ったの。ああこの先輩のように、私も背が高くなりたいなって」
 岬先輩、つまり岬静香先輩こそは、湖校の生ける伝説として名高い朝露の白薔薇。あのお方を名字で呼べる一年生は、薙刀部員しかいない。同じ部の後輩の彼女達だけが、朝露の白薔薇や騎士長ではなく、岬先輩と呼ぶ特権を与えられているのだ。
「その願いは、お隣さんと話すにつれ無限に大きくなって行った。だってその男の子は、背が高くなる未来をキラキラ話すんだもん。来年の春も再来年の春もその次も、この男の子とこうして話していたいな、一年でこんなに背が伸びたよって一緒に笑っていたいなって、私は願ったの」
 その願いが、雪に抱かれた梅の花なのだろう。光り輝く早朝の雪を輝夜さんの容姿に譬えるなら、梅の花は輝夜さんの心を表している。入学式の朝、僕らが初めて会話したとき、背が高くなりたいという希望の花を輝夜さんは既に咲かせていた。諦めに替わり、未来への願いが彼女の心に生じていた。朝露の白薔薇が輝夜さんの心に、それを芽生えさせていたのだ。「背の低さは諦めていた」という彼女の言葉に違和感を覚えた理由は、これだったのである。
「私の願いは、ゴールデンウィークの闇油戦で叶った。あの日を境に、私は背が伸び始めた。このまま伸び続ければ卒業式の日には、なんと175センチになる。入学式には130センチ台だった私が、そんな身長になるの。もう私、嬉しくて嬉しくて」
「むむっ、嬉しさなら僕だって負けないよ。HAIによると僕は、卒業式で192センチになる。しかも胴長短足とは真逆の、胴短長足になるんだって」
「キャ―、眠留くん素敵!」
「ひゃっは――!」
 喜びを抑えきれなくなった僕らは手をつないで立ち上がり、一緒にステップを踏んだ。美夜さんが気を利かせてコロブチカとオクラホマミキサーとマイムマイムを流してくれたから、台所はたちまちダンスホールになった。順番も最高と言うほかなく、コロブチカで初めて踊った日を思い出し、オクラホマミキサーで体を寄せあい、マイムマイムでノリノリに飛び跳ねた。「ヘイ、ヘイ」と声を合わせジャンプした時はあたかも月にいるかの如く、どこまでも高く飛び上れる気がした。
「眠留くん、どこかに出かける時間があったら、二人でこうして踊っていたい!」
「輝夜さん、今度二人でダンスの衣装を作ろう!」
「新調するの?!」
「輝夜さんのピッカピカの新品ドレス、見たくて仕方ない!」
「私だって眠留くんのタキシード姿を見たい!」
「楽しみだね輝夜さん!」
「楽しみね眠留くん!」
 三曲踊り終わり、僕らはハグしてそれぞれの席に戻る。生まれて初めて交わした、柔らかき事この上なく芳しき事この上ないハグは、人生の素晴らしさを僕に教えてくれたのだった。
 のだけど、
「その願いは叶ったの。でももう一つの願いは・・・」
 人生の素晴らしさを教えてくれた正面に座る人が、またもや俯いてしまったのである。最近は輝夜さんに叱られても、「もう知らない」とそっぽを向かれても、溢れ出る輝夜さんへの想いに支えられ取り乱さない僕になれたけど、俯かれるのは何度経験しても無理。たとえそれが本日四度目のことであろうと、一度目と変わらぬ慌てっぷりが僕を襲ったのだ。
「輝夜さん、もう一つの願いを教えて。僕は、どんな協力だってするから!」
 輝夜さんは下を向いたまま、嬉しさ一割、恥ずかしさ九割的な気配をまとった。僕がもっと女性に慣れていれば、九割の恥ずかしさを気に掛けられただろう。しかし言い訳になるが、僕にとって恥ずかしさは極普通の感情だったため、それよりも一割の嬉しさばかりが目に映ってしまった。俯くままの輝夜さんに、僕は訴え続けた。
「僕は未熟者だけど、根気ならある。輝夜さんと共に歩んで行けるなら、苦労を苦労と思わない自信もある。どうか、信じてくれないかな」
 輝夜さんは膝に置いていた手を持ち上げ、それを重ねて胸の中央に置いた。間違った知識が流布しているが、心臓は人の中心線の、ほんの少し左寄りにある。昴が両手で胸の中央をしばしば押さえるように、人は心臓の正確な位置を本能的に知っているものなのだ。情緒豊かな輝夜さんにも胸に手を添える習慣が昔からあったらしく、それは昴も同じだと知ってからは、二人はそれを度々するようになった。乙女の儚さと可憐さを高めるその仕草に魅了されたのは男子だけでなかったのだろう、一年女子の間でそれは大流行した。これが他校なら「ひそみに倣う」などと揶揄する男子がいたかもしれないが、男子専用の秘密掲示板ですらそれ関係の話が出たことはなかった。好意を寄せている女の子との会話中にそれをされると、喜びが胸に湧き上がるのを男子も知っていたからである。それは男に、胸を張らせ背筋を伸ばさせるという逆の姿勢を取らせたが、それでも女の子が胸にそっと手を添える仕草は、同じ場所に同じ想いを抱いていることを男に感じさせてくれた。よって今回もそうなるはずだったのに、
「ん?」
 僕は首を傾げた。
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