僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十三章

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 高校総体における新忍道は予選と本選の区別なく、戦闘二十五分のインターバル五分を基本としている。だがそれに準拠するのは観客のみであり、選手達は違った。インターバルの開始時間は選手達にとって、映し出された縮小サイズの砦をもとに装備と作戦を決定する、時間だったのである。公式AIの声が、選手控室に響いた。
「砦とその周囲の、縮小映像を映します」
 中心に2メートル四方の砦を配置した、一辺3メートルの3D映像が真田さん達の前に出現した。そのとたん口を固く閉じた僕とは異なり、
「右回転」
 真田さんの口調は普段と何も変わらなかった。砦とその周囲の縮小映像が右回転を始める。仮に今、こうして口を固く閉じていなかったら、僕は回転と同時に悲鳴を上げていたかもしれない。それは真田さん達を除く十二人全員に共通していて、一年の竹と梅本に至っては、両手で口をしっかり塞いでいた。その十二人の耳に、
「ストップ」
 真田さんの声が届いた。太く頼もしいその声に気持ちが幾分落ち着くも、気を抜いたせいで雑音を立て真田さん達の思考の邪魔をするなんてことは絶対避けねばならない。僕はなりふり構わず、両手で口をきつく押さえた。その甲斐あって、
狒々ひひで間違いないな」
 荒海さんの戦慄すべき言葉へも、不要な音を出すことはなかった。荒海さんが発言を続ける。
「ったく、俺らが最高難度だからって、公式AIもやってくれるぜ」
 僕と京馬と一年生の松竹梅は、口を両手で押さえたまま首肯した。なりふり構っていられなくなった僕を見て、京馬と松井も咄嗟に同じことをしていたのだ。
「大会規約にあった、直近一か月の3DG成績と合同受け身試験の点数をもとに各校の難易度を決定するという一文を目にしたとき覚悟を決めたつもりでしたが、最強魔族の一つとされる狒々に当たるとは、正直思っていませんでした」
 そう言いつつも、黛さんは滑らかな動作で銃の形状を対猿麻酔銃に変更した。りきみが一切ないのは真田さんと荒海さんも同じで、真田さんは苦笑しつつ荒海さんはグチを零しつつ、そして驚くべきことに楽しそうにしながら、対猿装備を次々装着していった。三巨頭のその姿に落ち着きを取り戻した僕は、江戸時代の剣術流派の多くが猿を最強としていたことを思い出していた。
 現代では到底許されることではないが、山犬を真剣で仕留めることを、免許皆伝の試験にしている剣術流派が江戸時代には多数あった。相手を殺さねば自分が殺されると本能で悟った山犬は、常人には残像を捉えるのがやっとの速度で死角へ移動し、攻撃を仕掛けてくる。それを目に頼らず察知し、重い日本刀を高速かつ正確に操作し、一刀で致命傷を与えるのは至難であるため、免許皆伝の試験とされることが多かったのだ。しかしそれは至難であっても、不可能ではなかった。才能に恵まれた剣士が相応の訓練を重ねて絶頂期に挑めば、決して不可能ではなかった。だが、猿は違った。免許皆伝後も成長を止めず、遥か高みに至ったほんの一握りの達人のみが、野生の猿を真剣で倒すことができたのである。
 犬はどんなに高速で動こうとそれは多くの場合、地面という二次元に限定された動きでしかない。よって剣士は、地面を走る犬を上から見下ろし、自分に飛び掛かってくる犬の軌道を上から見定められた。しかし猿は違う。猿は木に登り、人を三次元で襲ってくるのだ。目にもとまらぬ速度で木から木へ移動し、枝を故意に揺らし激しい葉音を立て、自分を見失わせてから、猿は背中に飛びついてくる。そして木より掴みやすい衣服を一瞬で登り、握力200キロの指で喉を引きちぎるか、眼球を容赦なくえぐる。しかも高度な知能を持つ猿は、それが可能な場所でのみ人を襲う。つまり剣士が猿と戦うためには、猿に有利で自分に不利な場所へ、あえて足を踏み入れねばならないのである。これが、江戸時代の剣術流派が猿を最強とした、理由なのだ。
 3DGには類人猿型モンスターが多数実装されており、そして黛さんが述べたように、猿族は最強モンスターの一つに数えられていた。中でも狒々は、頭半分飛び出た存在だった。岩場での生活を主とするマントヒヒの身体能力に、木の上での生活を主とする猿の身体能力を加え、そして魔族特有の狡賢さを頭脳に宿したモンスター。それが、狒々なのである。雨のお陰で潜入が容易くなっているとはいえ、大切なインハイ予選にこれほどの強敵を選んだ公式AIへ、僕はほんの少し恨みを覚えた。でも、
 ――心よ静まれ
 ゆっくり息を吐き、自分にそう言い聞かせた。どれほど公式AIを恨もうと、モンスターが変更されることはない。なら僕にできるのは、狒々を倒す自分になる事だけ。レギュラー選手でなくとも、狒々と戦い狒々を倒す自分になって、真田さん達を応援することだけが、僕にできる唯一の事なのだ。それを果たすべく、目を閉じ精神を研ぎ澄まして、狒々との戦闘をシミュレーションした。それを経て追加装備を三つ思い付いた僕は、目を開けそれらを探した。だが装備をずらりと並べた台の上から、その三つは既に消えていた。三つとも、装着済みだったのである。シミュレーションが正しかったことを知り、右手をグッと握ったまさにその時、真田さんの頼もしい声が響いた。
「潜入場所はやぐらの陰。スコープで見張りの有無を精査し、三人で壁を越える。その後二手に分かれ、荒海は三角ボタンでサーモグラフィーを出し、出入口外にマキビシを撒く。ピアノ線は、俺と黛が設置する。激痛針は全員で行おう。作戦は以上だ。質問はあるか?」
 荒海さんと黛さんが首を鋭く横へ振った。それは1センチに満たない振り幅だったが、見過ごす者などこの部にいなかった。同じく、たとえ質問があろうと、戦闘に参加しない者が口を開くこともこの部ではなかった。新忍道は装備と作戦を部員全員で決めて良いが、戦闘に臨む者だけでそれを決定した場合、それは加点要素となる。去年六月のサークル発足以来、全国大会出場を目標に努力してきた僕らが、この場で不用意な発言をして加点の機会を台無しにするなど、絶対なかったのである。
 真田さん達はその後、作戦の確認作業を淡々とこなしていった。それは、雨天時における狒々攻略を幾度も経験済みの三巨頭だからこそ可能なことだったので、感極まった一年生三人は口だけでなく、顔全体を両手で覆い隠していた。僕も正直言うと、三人に混ざる寸前だった。雨でも火炎放射器を使わざるを得ない出場校の目立つ大会にあって、最強モンスターの一つである狒々と戦うに値するとみなされるためには、どれほど努力を必要とするのか。同じことを黙々とこなす日々の鍛錬へ、どれほど真剣に臨まなければならないのか。にもかかわらず堅苦しさや無理の一切ない、楽しくて仕方ない部にするためには、どのような人間性を獲得せねばならないのか。これらの事を、最上級生である真田さんと荒海さんは、身をもって僕に教えてくれた。先輩方と過ごした一瞬一瞬が、僕にそれを直接教えてくれたのである。それらのことが心に次々浮かび上がってきて、僕は口だけでなく目も覆う寸前になっていたのだ。
 けど僕は、目を開け続けた。
 普段と同じことを淡々とする、先輩方の姿を視界におさめ続けた。
 僕は顔を覆いたがる自分に言い聞かせた。
 ――見逃すな。瞼に焼き付けろ。真田さんと荒海さんは、教えてくれているんだ。絶対に負けられない戦いだからこそ普段どおりに行うことを、今もその身をもって僕らに教えてくれているんだ。そしてそれを教えてもらえるのは、永劫の時の中でたった一度きりの、今この瞬間だけなんだ――
 拳を握りしめ歯を食いしばり、僕は胸中そう叫び続けていた。
 そしてついに、その時が訪れる。
「狭山湖畔研究学校の戦士は、戦闘を開始してください」
 真田さんと荒海さんと黛さんは目で頷き合い、
 カツッッ
 僕らへ敬礼して、戦場へ去って行ったのだった。
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