僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十三章

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 やぐらの陰に隠れ、モンスターの気配を窺っていた湖校チームで最初に動いたのは、荒海さんだった。荒海さんは銃を持たない無手だったが、3メートル離れて後を追う真田さんと黛さんはホルスターから銃を抜き、銃口を建物へ向けていた。「もしもの時は俺達が猿を仕留めるからお前は建物に近づくことだけを考えろ」「おお、任せたぜ」という無言のやり取りを心の耳で聴いた人が、きっと大勢いたのだろう。しとしと降る小雨の音のみが、競技場を支配していた。
 櫓と建物の間に立つ杉の木に身を隠しつつ、三人は建物へ接近して行った。直径50センチ以上の木が少なくとも一本生えている場所に猿族は砦を作り、然るにより好条件の場所を猿族は奪い合うと言われていた。ここには立派な杉が正門側に二本、建物側に三本の計五本もあり、また巨大な岩を土台にして建物が建てられていることから、二強猿の一角をなす狒々がこの砦の主であることはほぼ間違いなかった。岩場で暮らすマントヒヒの性質を有する狒々は巨岩を家の基礎とすることを好み、チンパンジーに似た黒猩々くろしょうじょうは巨木を利用して家を建てることを好むからだ。その、建物側の三本の中で東を占める一本にたどり着いた荒海さんが、前を向いたまま木の陰を指さし、次いで手の平を後続の二人に見せた。「ここで待て」のハンドサインに従った二人を残し、荒海さんは単独で魔物の棲みへ近づいてゆく。すると見ていられないとばかりに、顔を手で覆い体をくの字に曲げる女子生徒が続出した。湖校の前に戦闘を披露した七校のうち六校は建物に決して近づこうとせず、唯一の例外の武州高校も万全の態勢を整えたのちチーム全員でそれを成していた。巨大な体を高速移動させるモンスターとは遠間で戦うべきであり距離を詰めてはならないのだと、女の子たちは知っていたのである。にもかかわらず荒海さんは、いつ魔物が飛び出てくるやも知れぬ場所へ、たった一人で向かった。武器を持たないどころか相殺音壁すら発動せず、己の隠密技術だけを頼りに単独で近づいて行った。何が何でも成功させてみせるという決意一色に染まった荒海さんの姿を、公式AIが上空一杯に映し出す。体をくの字に曲げていた一人の女子生徒が顔を上げ、目を見開いた。
 彼女は見たのだ。
 人類の命運を背負い、仲間の命を背負い、恐怖をねじ伏せ己の役目を果たそうとする、勇者の姿を。
 そして遂に建物の外壁まで辿り着いた勇者が、地に片膝付き姿勢を安定させる。その時、
「「「ウオオオ―――ッッ!!」」」
 本能の発露としか表現しえない雄叫びが、観客席から放たれたのだった。
 
 雄叫びは、長くは続かなかった。
 音のない世界で黙々と任務をこなしているかのような荒海さんの姿が、上空に再度映し出されたからである。AIの作った虚像の如く、観客席が一瞬で静まりかえる。嵐丸が観客席にペコリと頭を下げたような、そんな気がした。
 荒海さんは右胸のボタンを通常より一つ多い三つがし、一辺50センチの正三角形になるよう外壁に張り付けた。正三角形内に、建物内部のサーモグラフィーが映し出される。それを一瞥するや、荒海さんの眉がピクリと上がった。ほんの1ミリほどであっても、それが動揺を示していることは明らかだった。荒海さんは十指を滑らかに動かし動揺を封じてから、真田さんと黛さんに指を三本立てた左手を先ず見せ、そして左手の上に右手を持ってきて、右手の人差し指を立てて見せた。
「なっ」「えっ」「ええっ」
 一年の松竹梅が思わず漏らした叫び声を、選手控室に残した片割れの意識が聞いた。慌てて腰を直角に折る三人の頭を、竹中さんと菊本さんが優しくポンポンと叩く。自分への怒りと羞恥心で焼けこげそうな顔を必死で制御する一年生達へ、僕は胸中語りかけた。「気持ちは充分わかるよ、四匹の狒々を相手にするだけでも大変なのに、その内の一匹が上狒々だったんだからさ」と。
 人類の軍隊と魔族の軍隊には、科学力以外にも大きな違いが二つあった。一つ目は魔族の軍隊が、戦闘力のみで階級を分けている事だった。人類の軍隊は階級が上がるほど、人間性に裏付けされた指揮能力や知力に基づく作戦立案能力が重要になるが、魔族は戦闘力一辺倒の階級分けをしていたのだ。またそれは、二つ目の違いを発生させた理由でもあった。個々の戦闘力を至上にしせいで魔族の軍隊は、階級が極端に少なかったのである。
 階級を増やすと、隣接する階級の戦闘力差が少なくなり、下剋上が発生しやすくなる。強さを至上にした事が、同胞同士の傷つけ合いを招いたのだ。そのせいで他部族との戦争に負けてしまっては元も子もないため、魔族は階級を少数に留め、種族内闘争を減らそうとした。強い魔族ほどそれは顕著らしく、虫族には階級が五つあっても巨人族は一つ少ない四階級に留まり、猿族は更に一つ少ない三階級しかなかった。二強猿の一角をなす狒々にもそれは当てはまり、将軍を示す将狒々と、士官を示す上狒々と、一般兵の狒々の三階級に分けられていた。これこそが、荒海さんの眉に動揺を走らせた理由であり、一年生達の叫び声の理由だった。ただでさえ強い狒々族の中にあってさえ士官になった上狒々が、どれほど強いのか。それは最高難度の戦闘に幾度も勝利を収めてきた三巨頭をして未だ勝率六割を超えられずにいる事が、如実に物語っていた。
 しかし、いやだからこそ、竹中さんと菊本さんは命じた。
「先輩方から離れた選手控室にいようが、そんなの関係ない」
「ここにいる十二人も、全力で狒々と戦うぞ!」
 三年生以下の十人は静かに、だが燃え盛る闘志でもって敬礼を返した。わけても一年生達の、いかなることが起きようと今後は一切声を出すまいとする固く結ばれた口元に、自分達の役目を果たそうとする強い意志を僕は感じた。

 荒海さんのハンドサインを受け、真田さんは建物の屋根を指さした。鋭く頷く荒海さんと黛さんへ、真田さんは人差し指を眉間に当て親指をグッと立てる。「作戦続行」のハンドサインを出した際の、真田さんのその太い笑みに、息を呑んだ女子生徒は十指に余るほどいたようだった。
 その後、三戦士は相殺音壁を発動し素早く行動した。
 荒海さんは建物の正面入り口へ移動し、麻酔マキビシを大量に撒いた。
 真田さんと黛さんは銃をホルスターへ戻し、三本の杉にピアノ線を張った。
 援護射撃を捨てることで得たスピードを活かし、三戦士は作業を素早くこなしていった。
 仮にここが他のモンスターの砦だったら、たとえ無音球に包まれていようと、これほど大胆な行動は難しかった。
 しかし猿族では、それが可能だった。猿族は魔族随一の狡猾さを持つ半面、五感は最も鈍かったのである。
 視力も聴覚も嗅覚も、人の二割増しがせいぜいと言われていた。よって建物内の狒々達が三戦士の接近に気づいていない確証を得たなら、早さを最重視して決戦の準備をするのは、決して無謀ではなかったのだ。しかもそれを、最上級認定された三戦士が成すのだから、それは立派な作戦と言えよう。人の身体能力を遥かに凌駕するモンスターとの戦闘は慎重を上策としても、慎重すぎて勝機を逃すのは下策の極み。真田さん達はこれを基に作戦を立て、そして実行したのである。
 砦内に立つ五本の杉には、登りやすくするための足場が所々に設けられていた。狒々より木登りの得意な黒猩々なら足場はもっと小さく苦労したはずだが、かつて岩場で生活していた狒々の設けた足場は、ピアノ線を引っかけるに充分な大きさを有していた。真田さんと黛さんが手にしているメジャーに似た機具は細さ0.01ミリのピアノ線を、実際は炭素繊維を切断し、かつ引っかける際の幅広の土台を瞬時に作る優れ物で、二人は三本の杉に二本のピアノ線をきっかり七秒で張り終えた。ほぼ時を同じくして、荒海さんもマキビシを撒き終わっていた。相殺音壁を失った三人は中央の杉のもとへ忍び足で移動し、真田さんの肩の上に荒海さんが立ち、そして荒海さんの肩の上に黛さんが立って、杉上端の南面に激痛針を設置した。この、三人による立ち車は幾重もの意味で最も危険な場面だったため、控室にいる一年生の三人どころか三年生以下の十人全員が、震える膝を必死の形相で制御していた。もしここで恐怖に負け不要な音を出したら、建物から飛び出てきた狒々に、真田さん達は八つ裂きにされてしまう。このとき僕らは、これがインターハイの予選であることや3Dの虚像と戦っていることを完璧に忘れ、魂のレベルでそう信じていた。いかなる理由か知らないが、真田さんと黛さんがピアノ線を張った三本の杉の中央だけは3Dの虚像でない実体だったので、控室にいる僕だけでなく意識体となって宙に浮く僕も、これを命懸けの真剣勝負と認識していた。それは観客も同じだったらしく、激痛麻酔針を設置し終えた黛さんとその土台となっていた荒海さんが木を伝い地面に降り立った時、酸欠状態の体へ酸素を送り込もうとする深呼吸の音が、やたら大きく観客席に響いていた。
 しかし地に立った三人が銃を抜くなり、観客席は再度静まり返った。
 三人の眼光の鋭さに、誰もが悟ったからだ。
 生死を分かつ決戦が、始まったのだと。
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