僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 颯太君の問いは、デリケートな要素を複数含む難問だった。デリケートの最たるものは間違いなく、「最寄りの研究学校に入っても颯太君は寮生になる」だった。長野県には、長野市近郊に研究学校が一つあるだけだった。仮にその学校が松本市近郊にあったならギリギリ通学圏内だったかもしれないが、そうでないのだから颯太君は寮生になるしかない。すると必然的に、この旅館はかけがえのない働き手を一人失う事となる。まめまめしく働くこの子が旅館への印象に絶大な貢献をしているのは、経営学のずぶ素人である僕らにも、はっきり認識できる事だったのである。
 二つ目に挙げるべきは一つ目と大いに関係する、親御さんの気持ちだった。僕は寮生ではないけど、大勢の寮生をクラスメイトに持つ身として、それは決して他人事ではなかったのである。
 取り上げるべき三つ目も、デリケートな要素を多分に含んでいた。「颯太君にはかなりの高確率で研究学校の入学案内が届く」がそれだ。いやはっきり言うと、皆で確認したわけではないが僕ら十五人はこの子が来年、自分達の後輩になる予感がしきりとしていた。はやての名を持つこの子を、湖校の校風が招き寄せる。そんな気さえ、僕らはしていたのだ。しかし、それを伝えるか否かが難しかった。伝えるという余計な介入をしたせいで、未来への道筋が変わってしまうかもしれない。研究学校の素晴らしさを骨髄で知る僕らは、この子からその未来を奪うかもしれないあらゆる介入を、恐怖したのである。だが、
「うむ」
「だな」
 真田さんと荒海さんは身を起こし胡坐をかき、颯太君に正対した。
 想いを等しくする僕らも、お二人に倣った。
 予想外の出来事に颯太君は慌てるも、斜め後ろに座った三枝木さんから「ここが踏ん張りどころよ」と優しく肩を叩かれるや、シャキンと背筋を伸ばした。そんな二人に相好を崩した真田さんが、荒海さん、黛さん、竹中さん、と順々に顔を向けてゆく。その過程で三回、そして最後に北斗へ一回頷いたのち、真田さんは顔を正面に戻した。最初に頷かれた緑川さんが、三人を代表して言った。
「俺と森口、そして一年の梅本は、湖校入学時からの寮生だ。四人を代表し、颯太君に二つ質問したいと思う。いいかい?」
「はい、なんなりとどうぞ!」
 背筋を伸ばし過ぎる余り弓反りになった颯太君へ、緑川さんは厳格さを懸命に装って問うた。
「最寄りの研究学校なら、通学は可能かな」
「いえ、通学不可能です」
「颯太君が俺達を訪ねた目的を、ご家族の方々は知っているかい」
「はい、知っています。皆さんを疲れさせないようくれぐれも注意しなさいときつく言われ、やっと許してもらえました」
 颯太君は二つ目の返答の途中で、元気一杯の嵐丸から失敗をしでかした嵐丸になった。すかさず森口さんが「安心しろ、そんなヤワな鍛え方はしていない」と威勢よく胸を叩くと、颯太君は時間を巻き戻したようにたちまち元気一杯になったので、僕らは笑いを堪えるべく渾身の努力をせねばならなかった。緑川さんが、同じ寮生の後輩に向けるのと同じ眼差しで締めくくった。
「俺達三人は、小学校を卒業するなり親元を離れる経験をしている。颯太君、俺達に何でも話すんだぞ」
 何でも話します、と颯太君ははち切れんばかりに答えたが、背後の出来事を知っていたら同じ返答はできなかったに違いない。三枝木さんが故意に開けたままにしていたドアの向こうで、颯太君の母親がエプロンを顔にあて泣き崩れていたからだ。ホテル等の宿泊所の相殺音壁は極めて優秀だから、自分に数秒遅れて家族五人がドアの向こうに並んで座ったことを、颯太君ただ一人が知らなかったのである。だが現代科学の粋たる相殺音壁といえど、気配を消し去ることはできない。仲の良い家族ならなおさらだ。よって背後の家族の気配を気づかせぬよう、京馬がことさら陽気な声で語り掛けた。
「二年に上がってから寮生になった俺も、何でも答えてやるぜ」
「えっ、途中から寮生になる人もいるんですか!」
「もちろんいるさ。前々から寮に憧れていた俺は、寮に一泊させてもらったらもう、我慢できなくなっちまってさ。コイツらを置き去りにして、京馬様だけが寮生になったんだぜ」
 京馬は左右に座る僕と北斗をヘッドロックし、ガッハッハッと豪快に笑った。それから僕ら三人は、寮だからこそ味わえる楽しさを競い合って話し、颯太君の目を釘付けにした。そして、緑川さんたち三人から微かに漏れ出ていた湿った空気が消えたと判断したのち、寮生活への憧れに双眸を輝かせる颯太君へ、北斗が問いかけた。
「颯太君の家は、信州守護だった小笠原氏と、やはり関係があるのかな」と。

 小笠原という文字を目にすると、大半の日本人は小笠原諸島を連想すると思う。しかし小笠原という地名の起源は山梨にあり、甲斐国巨摩郡小笠原に移住した清和源氏の流れをくむ武家が、小笠原氏を名乗ったのが始まりとされている。小笠原氏は鎌倉時代に甲斐から信濃へ移り、室町時代に信濃守護となった。そして戦国時代、武田信玄によって宗家が滅ぼされるも、名門武家として日本各地に枝分かれしていた小笠原氏は安土桃山時代に再興を果たし、徳川家康の命で徳川家の譜代大名となった。僕の知識はこれが限界であり、それと研究学校入学を結びつける事が僕にはできなかったのだけど、博識な北斗には両者の関連性が観えたのだろう。それは正しかったらしく、「傍流の傍流ですけどね」と前置きしたのち、自分と姉の名前の由来が小笠原氏の歴史にあることを颯太君は話してくれた。
「この宿を始めた曽祖父の家には、空に由来する名前を男子に、海に由来する名前を女子に付ける風習があったそうです。一度滅ぼされた宗家を再興できた一因は、小笠原一族が日本全国に散らばる大族だった事にある。よって男子は広大な空を、女子は母なる海をその名の由来とし、どこまでも自由に広がってゆけ。姉の渚、僕の颯太という名はそれに倣ったと、僕は教えられています」
 この旅館を初代から受け継ぎ、守り育ててきた二代目と三代目にとって、颯太君の今の言葉は万感の想いを生じさせたらしい。ドアの向こうに座る颯太君の祖父と父親は口を一文字に結び、胸にせり上がって来るものを堪えているようだった。それを助けるかの如く渚さんが立ちあがり、僕らのいる板の間へ歩を進める。姉の気配を察知した颯太君は首を巡らそうとするも、それを制するように腰を上げた三枝木さんに頭を撫でられ、首は中途半端な場所で固定された。渚さんはその隙に颯太君の左隣に腰を下ろし、三枝木さんは右隣に座る。年上の女性に頭を撫でられ緊張気味だった颯太君は隣に姉を得て、硬さをみるみるほどいて行った。そんな姉弟に、ふとある推測がよぎる。この子を大空へ羽ばたかせるために最も心を鬼にしたのは、渚さんなのではないか、と。
 それは正しかった。研究学校の方々には失礼にあたるでしょうが御容赦くださいと前置きし、渚さんは明かした。
「私は小学六年生の元旦、研究学校への入学を希望しない正式な文書を、文部科学省へ送りました」と。
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