僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 のちのAI茶会の席で僕は咲耶さんに、良心的な宿泊施設で気絶してはなりません、と叱られた。良心的な宿泊施設は宿泊客の健康をとても気に掛けるため、いらぬ心配をかけてはならないと教えられたのである。自分の未熟さに落ち込むことなら最近やっと慣れてきたが、未熟なせいで人に迷惑をかけてしまった時の気の滅入りに、僕が慣れることなど一生ないのだろう。だが、そんな僕を理解したうえで叱ってくれた咲耶さんの気持ちを無下にするなど、それこそあってはならない。もうしませんと約束した僕に、咲耶さんは心を鬼にする必要のなくなった優しい姉の気配になり、「良いこともあったからいいわ」と微笑んだ。
「眠留の気絶はいつものことなので心配には及びませんって伝えるために現れた私を、皆さん心から歓迎してくださってね。親御さん達とおしゃべりを楽しんでいたら、新忍道部の公式AIの話題になったの。それを耳にした小笠原姉弟が公式AIの美しさを称えたとたん、部員達が騒ぎだしてね。大切な息子さんを極限まで疲れさせた謝罪は本来の姿でしたいという公式AIの願いを私が聞き容れたことを話したら、部員は納得したけど親御さん達は大変恐縮されてしまって。子供達をないがしろにしたと気落ちする親御さん達を見ていられずエイミィに頼んだら、エイミィが人の姿で現れてくれたのよ」
 茶会の話題にそれを取り上げた咲耶さんの意図に気づき、僕と美夜さんとミーサは「良かったね」と声を揃えた。「はい!」 元気よくそう応えたエイミィは、朝露を抱く大輪の花の笑みを浮かべていた。

 颯太君の「猫将軍さんの将来のお嫁さん」発言で気絶した僕が目覚めるきっかけになったのは、公式AIの本来の姿を初めて目にした部員達の上げた、特大のどよめきだった。といってもその時はどよめきの理由が判らず、ぼんやりまなこで天井を見つめていたのだけど、
「女性を驚かせるな」
 という荒海さんの声を耳にするや、気を失っている間のあらましをなぜか理解できた。身を起こす僕の額から、冷たいタオルがずり落ちる。それを受け止めた渚さんの白魚の指に、信州で過ごした数百年前の記憶がまざまざと蘇り、その折のお姫様が渚さんだと確信した僕は、
「畏れ多いことでございます」
 などと口走り、自分でも笑ってしまった。つられて笑顔を浮かべた鈴蘭の姫君に「渚さんありがとう」と今の名を使うことで、僕は過去から立ち戻り、今現在の出来事に意識を集中した。
 荒海さんは後輩達に「女性を驚かせるな」と命じたが、エイミィは驚いているのではなく、恥ずかしさと緊張で身を硬くしているだけだった。それを知りつつも、驚かせるなという言葉をあえて選んだ荒海さんの優しさに、平常心がみるみる呼び覚まされてゆく。僕は慌てて正座に座り直し、それを行った最後の部員の僕に真田さんは満足げに頷いたのち、エイミィにこれまでの感謝を伝えた。
 それはこの一年間の、新忍道部の歴史だった。エイミィが湖校にやって来た去年の夏からインハイ優勝を果たした今年の夏までの歴史を話すことと、エイミィに感謝を伝えることは、完全に同義だった。エイミィは湖校新忍道部にとって、人とまるで変わらないかけがえのない戦友だったのである。真田さんの言葉にそれを改めて感じ、またこの一年を振り返ることで、新忍道部が大きな節目を迎えようとしていることを痛いほど感じた僕ら後輩は心の湿度を急上昇させてしまったのだけど、そこはさすが最上級生。真田さんと荒海さんは、演技たっぷりの恨みがましい顔を後輩達に向けて、話を締めくくった。
「公式AIの美貌をこれからも拝めるお前達が、羨ましくてならないよ」
「まったくだ。おいテメェら、公式AIが綺麗だからってはしゃぎ過ぎ、女性に迷惑かけるんじゃねえぞ!」
 エイミィという名前を知っている新忍道部員は、僕と北斗と京馬の三人しかいない。それを明かすべきか、それとも知らぬ振りを続けるべきかを悩む僕ら三人の胸の内を、きっと察してくれたのだろう。美貌を褒められ羞恥に頬を染めていたエイミィは、真田さんの語る新忍道部の歴史を聴いていた時の誇り高い表情に戻って、皆へ請うた。
「私がこの姿でいる時は、エイミィとお呼びください。ただそれは滅多になく、今後もこれまでと同じ白光で皆さんとお付き合いしていきたく思います。どうぞよろしくお願いします」
 エイミィはいつも、聞き取りやすい声でとても丁寧に話す。元が接客AIなので丁寧語を活舌良く話すのは当然なのかもしれないが、抑揚や音程や表情にも気を配り、相手とスムーズなコミュニケーションを取ろうとするのは、エイミィの人柄の表れなのだと僕は考えている。その人柄が染みたのか部の皆は、お世話になってきた公式AIがそう望むならそれを叶えてあげたいという顔を、半分だけしていた。なぜ半分かと言うと、そんな魅力的な人柄のエイミィと、しかも自分達と同じ湖校の制服を着ているエイミィとできれば友達になりたいと、皆が願っていたからである。だがエイミィの望みを無視する訳にはいかず、かと言ってこれが最初で最後なんて悲しすぎるといった具合に、二つの想いが二つの表情となって皆の顔に出ていたのだ。
 いや厳密には、もっと複雑なことになっている部員が三人いた。それは言うまでもなく、僕と北斗と京馬だった。僕ら三人はエイミィとの友情を既に築いていて今後もそれを深めてゆくのに、それは僕らだけで皆は違うとなれば、複雑極まる表情になって仕方なかったのである。それに気づいたエイミィは、僕らを助けるための行動が逆の結果を招いたと判断したのだろう。さっきより一層身を硬くし、瞼をギュッと閉じ俯いてしまった。
 しかしそんなエイミィを目にするなり、僕ら三人そろって安堵した。面倒見の良いあの先輩が、これほど追い詰められた表情をしている女の子を放っておくなど、絶対なかったからである。それは皆も同じで、一転して安堵の気配をまとった部員達に「ケッ」というお約束顔を一瞬向けたのち、荒海さんは優しい声で問いかけた。
「なあエイミィ、一昨日の公式練習の休憩中に真田が呼びかけたとき、エイミィはその姿で現れたかったんじゃないか」
「はいそうです、なぜ解ったのですか!」 
 弾けるように顔をあげたエイミィに、僕は心の中でガッツポーズをした。そのつもりだったのだけど、気づくと心の中ではなく実際にしていて、しかも北斗と京馬もガッツポーズをしていたものだから、三人そろって「にぱっ」と笑ってしまった。その三対の耳に、荒海さんの声が届く。
「あのなエイミィ、俺らは戦友なんだよ。戦友が強く願ったことを感じ取り、その協力をしたいと思うことに、理屈なんかねぇんだよ」
 こらえ切れなくなったエイミィを、駆け寄った三枝木さんが支えた。それでもエイミィは顔を両手で覆ったままだったが、三枝木さんが耳元で何かを囁くと、エイミィは顔から手を放し、華やいだ笑顔を見せてくれた。今度は男子部員全員でガッツポーズするも、それに釣られてしまった自分に荒海さんが「ケッ」と不機嫌になる。それがおかし過ぎ、しかし笑うワケにもいかずもだえ苦しんでいると、真田さんが群れのおさとして事を丸く収めてくれた。
「エイミィがどの姿を選ぶかは、エイミィの自由だ。俺達はその意思を尊重する。だが、一つ頼みがある。それはここにいる全員で、記念写真を撮ることだ。エイミィどうだろう、頼まれてくれないだろうか」
「喜んでお受けします。この姿を初めて写真に残すのが、皆さんと一緒の記念写真だなんて、嬉しくてどうにかなってしまいそうです」
 エイミィがそう答えるや豆柴が「カメラを取ってきます」と叫び、部屋から飛び出していった。明るく元気な豆柴に、笑いがドッと起こる。そのノリのままエイミィを最前列中央にして部員達が並び、その両側を親御さんと小笠原家の方々が固め、そして中央最上部に湖校の校章が鎮座ましましたところで、
「お待たせしました、って皆さん早い!」
 カメラと三脚を手に戻ってきた豆柴が驚きの声をあげ、再び笑いが沸き起こった。その機を逃さず、豆柴がカメラをセットしタイマーをかけた五秒後、
「「「はい、チーズ!!」」」
 この楽しい時間を永遠にする魔法の言葉を、僕らは全員で唱えたのだった。

 美味かつ豪華な昼食のお礼を述べ、一足早く帰路につく親御さん達へ挨拶し、荷物を取りに二階の部屋へ向かった。そして三つ続きの和室の隅に並び、このメンバーで泊まった最後の場所へ敬礼して、感謝と別れを告げた。
 心の湿度が限界を超える可能性が最も高いと予想された玄関先では、小笠原姉弟が大活躍した。旅館の子として生きてきた姉弟がその誇りをかけて別れの湿っぽさを払いのけているのだから、僕らが負けるわけにはいかない。素晴らしい接客、消化吸収の良い美味しい料理、磨き上げられた室内と疲労回復効果の高い温泉、そして信州の豊かな自然を、身振り手振りを加えて僕らは面白おかしく話した。そして再会を誓い合ったのち、
 ザッッ
 僕らは敬礼し、バスに乗った。バスのドアが閉まり、車体が旅館から離れる。
 そのとたん、可愛くて堪らなかった豆柴が遠くへ離れていく寂しさに、心がきしんだ。
 鈴蘭の香りに包まれた姫君ともう語らえない悲しみに、心が悲鳴をあげた。
 僕らは座席から立ち上がり、後方へ目をやった。
 颯太君がバスを追いかけていた。
 追い着くことができなくとも、一心にバスを追いかけていた。
 その姿が小さくなり、消える。
 もう耐えなくてよい。
 先輩として手本を示す必要はない。
 真田さんと荒海さんが部を去る気持ちを、心の赴くまま表に出せばいい。
 僕らはそれから、吐くように泣き続けたのだった。

      十四巻、了
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