僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

文字の大きさ
上 下
673 / 934
十八章

8

しおりを挟む
 もちろんウチの神社は電子決済を受け付けている。神事の代金からお賽銭に至るまで、電子マネーで手軽に払ってくれて全然かまわない。それでも、新札を入れた熨斗袋を用意するお年寄りの気持ちが、僕にはわかる気がする。銀行へ足を運び、事情を説明して現金を新札で受け取り、家名を直筆した豪華な熨斗袋に新札を入れ、辞を低くして差し出さずにはいられないお年寄りの胸中が、何となくわかる気がするのだ。僕とは比較にならぬほどそれを直に感じているはずの祖父母はお札になるべく触れず、具体的には枚数を数えさえせず、大切に保管しそれらを銀行へ年に数度持ってゆく。詳しくは知らないが、現代日本の紙幣は大切に扱っていれば、簡単な処置を施すだけで手の切れるような新札に戻せるのだそうだ。かねをただの数字と捉えるなら、それは国家にとって無駄な支出になるのだろう。だが、手間をかけるからこそ感謝を示せるという想いを、我が国固有の文化として捉えている日本国政府は、簡単な処置で新品に戻せる紙幣を発行し続けている。量子AIの登場により断行された大規模な省庁再編に伴い日本銀行も無くなったため、日本信券と呼ばれるようになったこの国の紙幣は今、信と心が同じ発音であることと和紙が世界中に広まっていることから、和心紙わしんしという愛称で外国人に知られていた。
 という、神社で生まれ育った僕の長年の経験からすると、おじいさんが突き出した封筒に入っているのは十万円札より一回り小振りの一万円札で、枚数は百枚といったところだろう。正確な年齢は判らないがおじいさんは二十世紀終盤に生まれたと思われ、西暦2000年から2060年までの六十年間で物価が二倍に上昇したことを考慮すると、「何かあった時のための現金」としてお年寄りが箪笥に仕舞っておく金額として百万円は妥当なのかもしれない。しかし、孫の初デートに祖父があげるお小遣いとしては、まったくもって妥当ではない。おじいさんはこの金額を、十四年分のお年玉やお小遣いの合計と発言しており、その気持ちのみなら血のつながらない僕としては感涙ものなのだけど、それはあくまで気持ちに限った事。僕は正座のままおじいさんに向き直り、居住まいを正し峻厳な顔を作り、気持ちだけを受け取る旨を伝えようとした。が、
「あなた、調子に乗るんじゃありません!」
 おばあさんが凛とした声を放った。その語気の強さに一瞬怯むも、
「言うたじゃろう、これは男の孫が欲しかった儂の十四年分の気持ちじゃ!」
 おじいさんは徹底抗戦を示した。それを受けピクンと頬を引き攣らせたおばあさんに、大変なことになったと僕はオロオロしたのだけど、「眠留くん大丈夫、安心して見てて」と輝夜さんが僕の手に両手をそっと添えたので、黙って見ている他なかった。そんな僕と輝夜さんをよそに二人のバトルは、いやおばあさんの一方的な攻撃は、加速し続けて行った。
「ふん、なにが十四年分ですか。あなたがその封筒を用意したのは今年の二月、輝夜の誕生日の数日後ではないですか」
「むっ、それはそうだが、しかし・・・」
「はいはい、十四年分の想いがそこに詰まっているというあなたの主張をすべて否定するつもりはありません。私は高校入学以来ず~~っと、あなたと一緒にいましたからね。でも、眠留さんにマフラーをプレゼントされた輝夜の喜びように、あなたがライバル心を抱いていたのは事実ですよね」 
「ライバル心など持っていない。輝夜の喜ぶ様子が儂は純粋に・・・」
「あら、こそこそ隠れてあのマフラーの値段を熱心に調べていたのを、私が知らないとでも思っているのですか?」
「なっ、なんだと・・・」
「調べるのを止めたと思ったら、何かあった時のために現金を用意しておこうだなんて急にあなたは言い出して。そしてあのマフラーの五倍の金額を銀行から下ろしてきましたよね、しかも手の切れるような新札で」
「むっ、むう・・・」
「私はそれを責めているのではありません。ただ、彼氏はおろか男友達すらいなかった葉月が結婚すると突然言い出した時の悔しさを、非常識な額のお小遣いを眠留さんに突き付けることで晴らすのは、筋違いだと言いたいのです」
「いや、葉月は無関係・・・」
「あなたは光彦さんに初めて対面した時と同じ眼差しを、マフラーに一瞬だけ向けました。それがなければ、マフラーの値段を調べているのを、私は気づかなかったかもしれません。まったくあなたは昔から、私に隠れてこそこそするのが得意でしたからね」
「こそこそだなんて・・・」
「あなた、高校三年間のバレンタインチョコの総数とラブレターの総数、ここで発表して欲しいのかしら」
「なっ! すまん、すまなかったこのとおりだ!!」
 おじいさんは正座し謝罪した。でもおばあさんはよほど腹に据えかねていたのか、チョコやラブレターをこっそり受け取っていた場所のトップスリーを、言葉の矢の如くおじいさんへ放ってゆく。おじいさんは正座から土下座に切り替え平謝りに謝り、そんな夫の姿に大きな大きな溜息をついたのち、おばあさんは僕と輝夜さんに向き直った。そして葉月さんの子供時代と、光彦さんを初めて連れて来たときのことを、簡単に話してくれた。
「葉月は赤ちゃんの頃から、男の子となぜか縁がなくてね。新生児検診や乳幼児検診で仲良くなるのは、いつも必ず女の子。男の子が嫌いということは決してなく、幼稚園のお遊戯会や運動会では男の子と普通に手を繋いでいるのに、友達はみんな女の子。小学校でそれはもっと顕著になり、そして私が入退院を繰り返すようになると、顕著を通り越して決定的になったの。入院する母親に代わり家事をしたことが、同年齢の男の子への興味を完全に消してしまったのではないかと、私は自分を責め続けていたわ」
 男親と女親は子供へ異なる想いを持つことが多いと、知識として知っているつもりだった。だがそれは今までの多くのことと同様、ただの「つもり」でしかなかったと思い知らされた。なぜなら僕は葉月さんの話を、
 ――おじいさんに聴いただけ
 でしかないのに、おばあさんからも聴く必要性を微塵も感じていなかったのである。それが間違いだったのは、現時点で既に明白だった。入院する母親に代わり家事を一生懸命する葉月さんを、おじいさんはこれ以上ないほど誇らしげに語っていたが、同じ内容をおばあさんは、自責と共に語ったのだ。己の未熟さを痛感した僕は、耳と脳に生命力を集め聴力と記憶力を二倍にし、おばあさんの一言一句を心に刻んでいった。
「健康になった私は、葉月の夢を全力で応援して、葉月に償うつもりでした。なのにあの子は薙刀も生物の勉強も、友達づきあいも家事も、すべてを完璧にこなしてしまうの。そんな一人娘がこの人は誇らしくて仕方なかったようだけど、私は危惧を捨てられなかった。母親にすら隙を見せないこの子に、隙を見せられる男性が現れたら、この子はそれを恋と認識するのではないか。頑張ることを苦にし過ぎないこの子は、その男性との恋に困難が待ち受けていても、それを結婚の支障と捉えないのではないか。清らかな心と明晰な頭脳を持つこの子は、バカな男に引っかかることは無いだろう。その代わり、道ならぬ恋に身を焦がしてしまうのではないかと、私は案じていたのね」
しおりを挟む

処理中です...