僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

文字の大きさ
上 下
676 / 934
十八章

11

しおりを挟む
 この見解は当たっていたのだろう。慢心について全てを打ち明けたのち、お二人が真っ先に尋ねたのは、猫将軍家で過ごした母の様子だった。それなら僕も、楽しい気持ちで話せる。夫婦仲は良く、舅と姑とも仲が良く、強固な絆を結んだ友人もすぐそばに複数いて、心身共に健康だった。母の顔を唯一曇らせたのは僕の運動音痴だったが、僕は気を失っている最中にこんな夢を見ており、その夢によると、母は生前中に僕の運動音痴と折り合いを付けていたようだ。もちろんこれはただの夢なのですけど・・・・と頭を掻いたところで僕はやっと、夢の話をしている自分に気づいた。去年の闇油戦で二日間気を失っている最中にあの夢を見た時は、胸の中に一生しまっておこうと思ったはずなのに、僕はおじいさんとおばあさんへ、楽しい想い出の一つとしてそれを自然に語っていたのである。呆然とする僕に、おばあさんが武蔵野姫の眼差しで言った。
「それはたぶん、眠留さんのお母様が、望まれたことなのでしょうね」
 頭の中心に声がはっきり響いた。
 ――まったくこの子は、あれから何年も経つのに、まだ母さんの手を煩わせて
 四年と九カ月振りに聞いたその声に僕は畳に突っ伏し、吐くように泣いたのだった。

 後に聞いたところによると、僕があの夢について語りだしたとき、輝夜さんは目蓋を少し持ち上げ、次いでおじいさんとおばあさんへ視線を向け、顔を横に小さく振って見せたと言う。心の深い場所で繋がっている三人にとってそれは言葉と何ら変わらず、これは孫娘も初めて聞く話なのだとお二人は即座に理解したそうだ。それがおばあさんの「お母様が望まれた」にどうつながったかは、本人にもよく解らないそうなので掘り下げる事はなかったが、輝夜さんの祖母なのだから超感覚を持っていても不思議はないのだろう。お釈迦様の誕生説話も、母親の祖母が非の打ちどころのない素晴らしい娘として描写されるところから、始まっているしね。
 などと脱線してしまったが、僕が脳内で呟いたお釈迦様の箇所以外は、おじいさんが教えてくれた事だ。それだけでも恐縮必至なのに、おじいさんは眉間に皺をよせ全身を硬くして話したため、不興を買ったのではないかと僕は気が気じゃなかった。いや改めて振り返ると、不興を100%買ったとしか考えられなかった。去年の四月、増長した僕は輝夜さんを無視し、そのせいで輝夜さんは命の危機にさらされたのに、そんな自分を棚に上げ末吉の慢心を滔々と語り、そのあげく畳に突っ伏し大泣きしたとくれば、同じ男として呆れられて当然。おじいさんが台所へ駆けて行き、塩の入った壺を小脇に抱えて戻って来て、その塩を投げつけつつ「出ていけ!」と罵っても甘んじて受けねばならないのだと、僕は胸中秘かに覚悟していた。が、
「眠留すまない、儂こそ慢心していた。許してくれ」
 おじいさんは座布団から降り、深々と腰を折ったのである。真意は解らずとも僕は咄嗟におじいさんの横へ駆け寄り、どうか頭を上げてくださいと懇願した。けどおじいさんは頑として聞かず、下を向いたまま早口でまくし立てた。
「一人娘をあのような形で嫁がせた儂は自分を不幸だと思っていたが、葉月は生きている。連絡を取れば元気な姿を見て、お父さんも体に気を付けてねと優しい声を聴くことができる。なのに儂は、自分を不幸だと思っていた。小学三年生で突如母を亡くした眠留が目の前にいるのに、儂は自分のことばかり考えていた。眠留にも眠留のお母様にも、儂は顔向けできない。眠留、本当にすまなかった」
 正直言うと、連絡を取れば元気な姿を見て優しい声を聴くことができるの個所で、泣きたかった。この四年と九か月、僕はそれを願い続けてきた。叶わないと知りつつも、それを願わない日は一日たりとも無かった。小学二年生だった美鈴は僕よりもっとそうだったろうと思うと、畳に突っ伏すことが魅力的に感じられてならなかった。それが僕の、正直な気持ちだったのである。
 けど僕はそれを押し留めた。おばあさんの「お母様が望まれたのでしょう」が、心に蘇ったからだ。
 僕は、僕の願いを叶えられない。
 でも、母の願いは叶えられる。
 泣いてばかりの日々を送ってほしくないという母の願いなら、叶える事ができる。
 ならば僕は全力で、それをするのだ。
 僕はおじいさんに顔を上げてもらい、本心を明かした。
「おじいさんがそれを慢心と考えるなら、それはそうなのかもしれません。自分の心は自分にしか分かりませんから、おじいさんの胸中を一方的に否定することはしません。ですから僕も、本心を明かします。たとえおじいさんが慢心していたとしても、僕はそれを不快に感じません。娘を案じるおじいさんと、父親の健康を願う葉月さんが、楽しく連絡を取り合っているなら、それは僕にとって、ただただ喜ばしい事だからです」
 僕は前々から思っていた。
 他者の胸中は解らずとも、人は他者の代わりに、泣いたり笑ったりできるのではないかと。
 泣くに泣けない人の代わりに、笑うに笑えない人の代わりに、自分が二人分泣いたり笑ったりすることが人には可能なのではないかと、僕は常々思っていたのだ。
 そしてそれを今、かつてないほど強く僕は感じていた。なぜって、
「まったく年を取ると、涙もろくなっていかん」
 などと盛んに言い訳しつつ、おじいさんが僕の分まで泣いて笑ってくれていたからである。ならば僕も我慢する必要などない。僕は泣き笑いの表情になり、するとおじいさんは負けてなるものかと笑い声を高め、受けて立ちますとばかりに僕も中二病笑いを爆発させたので、居間は賑やかを通り越し少々煩い状態になってしまった。
 けど僕らは心配してなかった。この場には、優しさと賢さを兼ね備えた女性が二人もいたからである。馬鹿笑いする僕に、輝夜さんの銀鈴の声が届いた。
「眠留くん、私も去年の四月の眠留くんを、不快だなって全然思ってないよ。安心してね」
 僕は身も蓋もなく照れまくった。そんな僕が羨ましかったのか、おじいさんは期待を込めた眼差しを隣へ向けた。僕と輝夜さんはクスリと笑い、おじいさんとは異なる期待の眼差しを同じ人物へ向ける。その人が任せなさいと頷いたのは、おじいさんではなく、僕と輝夜さんの方だった。
「あなた、私も不快だなって思ってないから安心してね。たとえあなたが同級生の野球部員と、手書きのラブレターとメールのラブレターを区別するか否かについて掴み合いの喧嘩をしていたとしても・・・・」
「ああ儂は、なんてバカだったんだ~~」
 おじいさんは頭を抱えて項垂れた。だがそれは、この場で最もしてはならない事だった。頭を抱えるその様は、お会いしたのが今日で二度目にすぎない僕ですら、演技と確信できるものだったからだ。そんな演技をすることで話を遮った夫にかける慈悲はないとばかりに、おばあさんは顔の皮一枚で笑う戦慄すべき笑顔を浮かべて、チョコレート事件と双璧を成すラブレター事件をサクサク明かして行った。
「メールのラブレターを通算獲得ラブレターに加えるならこの人は二位、加えないなら一位だったから、この人は決して引かなくてね。野球部の部室の外まで言い合いが聞こえてきて、それを後輩が耳にして、私に教えてくれたの。後輩は電話越しに、私を心底案じてくれたわ。『いつもの事ですが、野球部がまたやらかしたと、一晩で学校中に知れ渡ると思います。先輩、負けないでくださいね』 それはまさしく、いつものことでね。三日後、他校生のラブレターメールを0.1ポイント、同校生のラブレターメールを0.5ポイント、直筆手紙は同校他校の区別なく1ポイントにすることで話がまとまったそうだぞと、三度目の続報で知った時の私の気持ちといったら・・・」
しおりを挟む

処理中です...