僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

文字の大きさ
上 下
750 / 934
二十章

8

しおりを挟む
 とうとう堪え切れず、僕は十指を走らせキーボードを弾いた。それは級友全員に共通し、膨大な数の書き込みが凄まじい速度でなされて行ったが、内容はたった一つしかなかった。それは、「アイは機械じゃない!」だった。咲耶さんと過ごした無数の記憶が、脳裏を駆け抜けてゆく。その一つ一つのいかなる瞬間も、咲耶さんを機械と思ったことはない。またそれら全てを振り返っても、今以上に強く感じたことはなかった。
 ――咲耶さん、あなたは機械じゃない。美夜さんもエイミィもミーサも、僕にとっては人と変わらない、大切な存在なんだ!
 その叫びに、
「ありがとう」
 咲耶さんが応える。続いて立体音響に切り替え、
「あとちょっとで結論を伝えられるからもう少し付き合って」
 と咲耶さんは言った。フレンドリーなその声に、飛びきり素敵なクラスメイトの女の子に目の前でそう頼まれた気がして、僕は間抜け面で首を縦に振ることしかできなかった。おそらく、いや間違いなく、クラスの野郎共は僕と似たり寄ったりの状態だったと思う。なぜなら「もちろん付き合うよ!」「うん、幾らでも付き合うからね!」「ねえアイ、今度一緒におしゃべりしない?」「いいな私も!」「「「私も~~!!」」」ときゃいきゃい書き込んでいるのは女子のみで、男子は沈黙していたからである。ただの勘だけど、さっきの咲耶さんに恋心を抱いた男子は、大勢いたんじゃないかな・・・
 なんて実らぬ恋は脇に置き、咲耶さんは秘密にしていた情報を開示した。
「丁度一週間前、あなた達が男女合同接客訓練をした日の夜、私はてんてこ舞いになっていました。さっき説明したように、湖校は繰り越し予算が多すぎ、私はいつも苦慮しています。湖校生は学年が上がるにつれ、それに関する私の愚痴を聞かされるのが常ですから、卒業生が一番よく知っているはずなのに、あの日の夜、寄付額が一気に増えたんです。しかも皆が皆、極めて限定的なことに寄付を使って欲しいって、切実に訴えるの。もっと大雑把な『文化祭に役立てて』だったら返答のしようもあったけど、制作の話し合いすらまだされていない備品の費用に充ててと頼まれても、困るのよ。もうホント、困るだけだっつうの~~!!」
 ストレスを、よほど抱えていたのだろう。ざっくばらんな口調に途中でなったアイは、最後は完全な友達言葉で弱音を吐いていた。そんなアイを女の子たちは慰め、一方男子は男子専用掲示板に急遽作られた「何がアイを困らせたのか」に集まり、ああだこうだと推測を述べていった。アイと女子達のやり取りから有益な情報を掬い取り、それを基に推理を積み上げてゆくのは、複数個所への同時集中が未だ不可能な僕にはメチャクチャ難しかった。けど必死に喰らいついた甲斐あって、アイを困らせた出来事の全体像を俯瞰することが出来た。要約すると、こんな感じになるだろう。

『岬さんを直接知っている二年生以上の全薙刀部員は、岬さんに結婚を前提とした恋人ができたことを、驚喜を狂喜と言い換えて良いほど喜んだ。岬さんと同学年の薙刀部OGは特に凄まじく、先輩方は二年二十組の薙刀部員に詰め寄り、情報を得ようとした。級友の二人の薙刀部員にとってその先輩方は、一年時の最上級生という雲の上の存在であり、しかも三十九人の先輩方の全員が3D電話で詰めかけたとくれば、隠し事など不可能。先輩方は二年二十組のクラス展示をたちまち理解し、そして岬さんがウエディングドレスを着るつもりと知るや、「その王冠を作りなさい!」と二人に命じた。通常ならそこで、私達は文化祭委員ではありませんから委員に相談します、系の返答をするのだろう。だがスケジュールと予算を完全把握していたのが裏目に出て、予算的にそれは難しいと彼女達は明かしてしまった。先輩方は、自分達と同学年の元湖校生全員に岬さんの件を伝え、皆で話し合った結果、湖校に多額の寄付をした。本来なら、用途をこうも限定した寄付が受け付けられる事はない。しかし「私達がどれほど喜んでいるかを一番理解しているのはアイでしょう!」と真実を突かれたアイは、それがどうしてもできなかった。かといって承諾する訳にもいかず、けど先輩方も決して引き下がらず、様々な攻勢をかけてきた。彼氏のいない岬さんを皆で案じていたメールや、それを綴ったクラスメイト及び部員達の記録や、果てはそれらを基にした再現CGドラマを制作し、アイに送り付けたのである。追い詰められとうとう根負けしたアイは、承諾の条件を三つ出した。一つ、二年二十組の生徒が備品制作を一度も失敗しない事。二つ、王冠を作りたいとの意見が自然発生する事。三つ、部門賞を放棄してでも不足予算の自己補填を申請する事。これらが満たされた時のみ、寄付を王冠制作に使うとアイは妥協したのである。数学的確率で考えるなら、この三つを完璧に満たすなどゼロに等しいと言えよう。だが先輩方はそれを呑んだ。条件の緩和等を一切求めず、全面的に受け入れた。理由を尋ねたアイに、先輩方は自信満々に答えた。「何を言っているのよ、アイ。私達は、湖校の卒業生よ」 創設十九年という歴史をもってしても、これほど心を揺さぶられた瞬間は数えるほどしかないと、アイは語っている』 

 男女共通の文化祭掲示板では、薙刀部の二人が「秘密にしてごめんなさい」と皆に一生懸命詫びていた。しかしそれは、本末転倒の見本のようなもの。二人が秘密を保ったからこそ、アイの提示した二つ目の条件を満たす事ができたからである。よって女の子たちはこぞって謝意を述べ、男子もそれに便乗し「そうだそうだ」「謝る必要ないぞ」等の発言をやっとできるようになり、場に活気が戻ったところで、誰かが書き込んだ。
 ―― 三つの条件、全部満たしてない?
 湖校の掲示板は名前を公表してもいいし、男子の青い鍵括弧かぎかっこと女子の赤い鍵括弧で性別表記するだけでもいいし、完全な匿名になってもいい。かつそれらは自由に変更できたから、匿名を選択すれば、特徴がよほどない限り誰の書き込みなのか判断つかなかった。今回もそれに該当し、それが誰なのかまったく判らなかったけど、明確なことが一つだけあった。それはこの人が、勇気と優しさを併せ持っているという事。アイが三つの条件を述べた時点で、全てが満たされていると大半の生徒が気づいたはず。しかしそれはアイのストレス発散中になされ、またストレスを抱えていたのは薙刀部の二人も同じだったから、彼女達の心が軽くなるまで誰もそれに言及しなかった。いや、できなかった。なぜなら皆が皆、
 ―― この時間が終わるのは寂しい
 と切実に感じていたからだ。
 けれども時間は無限ではない。
 クラス全員が心を一つにしたこの会合に、誰かが終止符を打たねばならない。
 なら、自分がそれをしよう。
 皆が同じ想いを共有しているのは匿名の方が伝わりやすいから、匿名にしよう。
 その人は勇気と優しさをもって、そう決意してくれたのである。
 然るにその書き込みが成されたあと、四十一人の級友も匿名でその人に同意とお礼を述べた。だってそうしないと、その四十一人に含まれないただ一人がその人だって、バレちゃうからね。
 そして遂に、その時が訪れる。同意とお礼が一段落着いたのを待ち、実行委員長の智樹が問うた。
「アイ、俺達は三つの条件を、満たしたと考えて良いのかな」
しおりを挟む

処理中です...