僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十三章

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「お兄ちゃん、猛さん、頑張れ~~!」
 美鈴がノリノリで僕らを応援してくれた。テンション爆上げになった僕らは競い合って演技し、それを面白がった祖父が「ゴールまで残り30メートル、さあ勝つのはどちらだ!」なんて発破をかけたものだから、僕と猛は演技を忘れて自転車を漕ぎまくった。いや幾ら頑張ってもいわゆるエア漕ぎだから、前に進んだりはしないんだけどね。だが、
「・・・ん?」
 あることに気づいた僕は脚を動かすのを止め、自分の骨盤へ目をやった。ノリの良い猛が、自転車に跨っている演技をしっかり続けつつ漕ぐことだけを止めて、「どうした眠留」とこちらに顔を向ける。それを視界の隅に捉えるも、僕は骨盤を見つめながら答えた。
「立ち漕ぎ時の骨盤の動きは独特で、あまりしたこと無いなって、ふと思ったんだよ」
 ハンドルを握っているように両手を空中に浮かせ、ついでに左足も浮かせて右足一本で器用に立っている猛が、立ち漕ぎを再開する。その数秒後、
「うむ、確かにない。高速ストライド走法のデンデン太鼓運動とは異なる、縦の動きを骨盤はしているな」
 猛はそう分析した。その分析に、超絶重要な閃きを得られそうなのにどうしても得られないという苦悶が僕を襲った。という僕の状況に共同研究者の猛はとても慣れており、かつそれを乗り越えた先に新たな研究分野を発見したことがこれまで多数あったため、猛は焦らず慌てず僕の苦悶に付き合ってくれた。そして遂に、猛がこの疑問を口ずさむ。
「ん? 骨盤に縦運動をさせる筋肉は、そもそもどれなんだ?」
 記憶を探るも、該当筋肉を二人とも思い出せない。よって案を出し合った結果、床に寝転び足の裏を壁に当て、骨盤の縦運動だけで壁を押すという方法を僕らは採用した。壁際へすぐ移動し、二人並んで横になりそれを実行してみる。それは、想像以上の難敵だった。骨盤の縦運動だけで壁を押すことはできても、それを成す筋肉の特定は不可能だったのだ。ならばそれを続けることで筋肉を疲労させ、その疲労を基に部位を特定するしかない。僕らはそれを行うも、腰回りは確実に疲れているのにどこが疲れているかを感じられず、これはもう攣るまでやるしかないと覚悟を決めた時、
「内転筋じゃないか?」
 猛が呟いた。一理ある、と僕は思った。脚を閉じる際に使う内転筋は大腿骨の内側と骨盤下部を繋げる筋肉だから、使い方によっては骨盤を押し下げる力を生み出せるのかもしれない。だがなぜ太腿の内側だけでなく、腰全体に疲労を感じているのか。しかも僕はどちらかと言うと脚よりも腰が、特に脇腹の内部が疲れていたのである。それを説明した僕の脳裏に、閃きが走った。
「内転筋が骨盤を下げているとして、その時の拮抗筋きっこうきんはどれになるのかな?」
「どわっ、骨盤周りのインナーマッスル図は思い出せるのに、名称を思い出せない!」
「骨盤上部と肋骨を繋ぐ、脇腹の内側にあるインナーマッスルが、あったよね!」
「あったあった、く~~思い出せね~~!!」
 壁を押すのを止めればいいのに何故かそれをし続け、筋疲労に顔を歪める僕らの耳に、
「お兄ちゃん、猛さん、インナーマッスル図を天井側に映すね」
 美鈴の声が届いた。礼を言うより早く図が映され、そのとたん僕らは声を揃えた。
「「腰方形筋ようほうけいきん!!」」
 その直後、食事をしながら研究を続ける提案が美鈴によって出され、それもそうだという事になり僕らはテーブルに戻った。貴子さんは「そんな事できるのかい?」と首を傾げていたけど、僕と猛が食事と研究をいとも容易く両立させる様子に目を丸くしていた。すかさず美鈴が研究学校のパワーランチについて説明し、
「お兄ちゃんと猛さんは一年時に同じ委員になってパワーランチを沢山こなしていたから、特にへっちゃらみたいね」
 そう付け加えると、貴子さんは丸くしていた目を細め、嬉しげに頷いていた。それは食後も変わらず、猛が「夕食を頂いたのですから後片付けを手伝います」と申し出ても、いいからいいからと猛を椅子に座らせ、お茶とお菓子を用意し僕らの前に置いてくれた。その優しさに猛はたぶん、故郷を思い出したのだと思う。とても嬉しそうに食器を洗う貴子さんの後ろ姿を、猛は研究の合間に、遠い瞳で幾度も見つめていた。
 という事もあったので研究に熱が入り、夕食を食べ終わって三十分と経たず、腰を押し下げる筋肉の仕組みを僕らは解明した。結論を言うと、腰にその動きをさせる専用の筋肉を人は持っていなかった。複数の筋肉を複雑に用いることで、人はそれを成していたのである。骨盤をシーソーに譬えたら解りやすいだろう。
 シーソーの右端を地面に押し下げる最も単純な方法は、右端と地面を繋ぐ筋肉を設け、それを収縮させることだ。けれども人の体に、それをする専用の筋肉はない。なら、どうすれば良いのか? 人体はそれを、
 ――天井を作る
 ことで解決した。シーソーの上に強固な天井を作り、シーソーの左端と天井を繋ぐ筋肉を設ける。そしてその筋肉を収縮させ、シーソーの左端を引き上げることで、右端を地面へ押し下げるという方法を人体は採用したのだ。
 しかしこの説明では、天井とシーソーを繋ぐ筋肉を、つまり腰方形筋を、骨盤を押し下げる専用筋肉と誤解してしまうだろう。実際はもっと複雑と言うほかなく、左側の腰方形筋を収縮させる際、人は左側の腸腰筋と内転筋も同時に収縮させ、シーソーの左端を上へ引っ張り上げていた。腰方形筋だけでは力が足らず、より強力な腸腰筋と内転筋も動員する必要があったのだ。腸腰筋は三種類のインナーマッスルの総称、内転筋は恥骨も含む四種類のインナーマッスルの総称だから、人はなんと八種類ものインナーマッスルを使い、腰を下へ押し下げていたのである。
 もちろんインナーマッスルだけではなく、腹直筋や大殿筋等も複雑に収縮させていた。また左側を収縮させれば右側は拮抗筋として伸長するので、骨盤周りの筋肉をまさしく総動員して、人はそれを行っていたのだ。
 ただ夕食後に判明したのはここまでで、以降は持ち越しとなった。僕がプレゼン大会の準備に追われている間も暇な猛は研究を継続し、興味深い推測を次々打ち立てていった。その一つに、
 ――猛は内転筋が疲労し、僕は腰方形筋肉が疲労した
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