僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十三章

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 ただ、嬉しい事もあった。それは石段の骨盤運動が、
 ―― 足腰の速筋生成
 を促した可能性が極めて高いことだった。あまり走らない子供だったにもかかわらず、僕の足腰の速筋比率は異様なほど高い。小学校低学年時に行っていた坂道の上り下りは速筋生成を促す運動ではなく、そこに「速筋比率は遺伝に左右されやすい」と「母は110メートルハードルの全国的選手だった」という要素が加わるのだから、足腰の速筋比率の高さは母の遺伝と僕はずっと考えてきた。それは、間違いではないと思う。しかしそれだけではなかった事が、今回の研究で判明したのである。
 幼少期の僕は、「石段の昇降に体力を使い切ってしまい走ることを嫌がった」という日々を過ごしていた。それは「短時間で筋肉に大負荷を掛けその後たっぷり休ませる日々」に等しく、そしてこれは速筋生成を促す長期訓練であることが医学的に証明されている。つまり、
『母から受け継いだ速筋比率の高い体を、神社の大石段が幼少期に効率よく鍛えてくれたお陰で、今の僕の足腰がある』
 という可能性が極めて高いことが、今回の研究で判明したのだ。それだけでも嬉しくてならなかったのに、「神社の大石段が効率よく鍛えてくれた」の箇所がなぜかとても気になった僕と猛はそれを軸に研究を進めることで、新走法に繋がるかもしれないこの仮説にたどり着くことが出来たのである。

  骨盤に縦の動きを加えたら、
  高速ストライド走法は
  もっと速くなるのではないか?

 通常の走法は、骨盤を固定することを基本にしている。それに対して高速ストライド走法は、骨盤に横回転を加える。固定するより回転させる方が複雑なため初期は速度が落ちても、回転に慣れるだけで速度は僅かに増し、そして回転に必要な筋肉と神経を育てたら速度は明らかに増すことを、僕と猛は実証していた。ならばそれに、縦の動きを加えたらどうなるのか? より複雑化するため初期は速度が落ちても、縦運動に必要な筋肉と神経を獲得すれば速度は増すのではないか? との仮説を、僕と猛は立てたのである。
 早速シミュレーションしたところ、問題を複数発見した。最大の問題は、
 ――素質
 だった。非常に高い素質を有していない限り、縦運動に必要な筋肉を得るまでの時間が長すぎたのである。ただこの素質の有無は、スポーツのみならず多種多様な分野に該当する事柄だった事もあり、ひとまず脇に置くこととした。
 次に大きな問題は、疲労だった。これは試合等の本番はもちろん、練習にも付きまとった。必要な筋肉を得るべく鍛錬しても、疲労が大きすぎて限界をすぐ迎えてしまうのだ。訓練が長期間に及ぶ主理由はそれであり、しかも長期間の努力が実り筋肉を得たとしても、本番で使えるのは一度きりだった。予選や準決勝では、封印するしかなかったのである。ただこれも、陸上競技だけでなく多種多様なスポーツに該当したため、僕と猛は脇に置くことにした。しかし三つ目の問題はそうもいかなかった。骨盤に縦運動をさせる新高速ストライド走法が有用なのは、なんと短距離走にほぼ限られていたのだ。
 高速ストライド走法が得意なのは直線であって、曲線ではさほど効果を発揮しない。そして陸上競技の公式トラックにおける直線部分は、曲線部分より短い。あまり知られていないが、直線部分を2とするなら、曲線部分は3と考えて良い。そう直線部分は曲線部分の、三分の二しかないのだ。しかしそれでも、猛の専門とする中距離走では、高速ストライド走法の有用性が実証されていた。勝敗を大きく左右するラストスパートは最大の見せ場でもあるから、陸上連盟はその部分を直線とするよう決めていて、そしてそれが高速ストライド走法に有利だったのである。骨盤に横回転を加えることは疲労を招いても、疲労が比較的軽微だった事もあり、猛はラストスパートの切り札として高速ストライド走法を磨いていた。
 しかし骨盤に縦運動を加えると、中距離走における有用性はほぼ消えた。疲労が大きすぎ、ラストスパートの直線を最後まで走れなくなるのだ。必要な筋肉を得るための訓練期間の長さも障害となった。最後のインハイまでの三年半を費やしても当該筋肉を得られる確率は低く、対してその時間を高速ストライド走法の訓練に使えば、ラストスパートにおける破格の加速を高確率で得られるとシミュレーションは語っていた。インハイではなく二十代半ばのオリンピック出場を最終目標にすると素質の比重が激増し、そして猛は骨盤の縦運動において、要求される素質を満たしていなかった。仮に僕と同じく、石段を幼少期から登っていれば素質を満たせていた可能性が高かったことは、猛をかつて見たこと無いほど落胆させた。だが、そこは猛。
「よし、覚悟を決めた。俺はこのまま、従来の高速ストライド走法を鍛え続ける」
 猛は胸を張り、そう宣言したのである。何かを得るためには何かを捨てなければならないと解っていても、僕は猛に言葉を掛けることができなかった。そんな僕の背中を、猛は勢いよく叩いた。
「世界の頂点に近づけば近づくほど素質の比重が増えるのは、全分野に共通することだ。そして俺は自分の研究分野に関しては、頂点に立つ素質を有していることを確信している。俺はこの人生で、必ずそれを成し遂げる。だから眠留も100メートル走のタイムをどんどん縮めて、運動音痴は克服可能だってことを、世に知らしめてくれ」
「猛に負けてられないもんな、僕も絶対それを成し遂げてみせるよ」
 僕は丸まった背中を伸ばし、握った拳を猛に突き出した。猛も僕に拳を突き出した。それを阿吽の呼吸で触れさせ、
 コンッ
 心地よい音を周囲に響かせる。その音につくづく思った。「湖校入学時の四月も同じことをしたけど、ニカッと笑う猛は、あの頃より格段に男っぽくなったな。いやマジで、僕も負けていられないなあ」と。
 
 それが、二月上旬の話。
 それからの二か月間を、骨盤の上下運動を意識しつつ僕は過ごした。石段は言うに及ばず学校の階段でもそれをしたし、翔刀術の自主練に組み込んでいる坂道ダッシュも骨盤を上下させて行った。部活でももちろん行い、またそれは貴重な気づきをもたらしてくれた。新忍道で骨盤を上下させる場面はほぼ無く、そしてこの運動を必須とする場面に至っては、なんと皆無だったのだ。よって僕らは視点を変え、この運動を必須とする競技を探してみた。結果は、驚くべきものだった。骨盤の上下運動を必須にしているのは、走り幅跳びや競歩などの、ごく限られた競技のみだったのである。
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