現代淑女のエスケープ

乙太郎

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現代淑女のエスケープ

宙ぶらりん

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がちゃり。

「はい、なんでしょう…」
「え、えぇ。こんばんは。橙崎トウサキさん。
今日はその…欠席の連絡が無かったじゃない?
本当は明日お渡ししても良かったんだけど
何となくね?直接渡しに来たのよ。」

アタシの担任の多那田タナダ先生だ。
美人、スタイル良し、人付き合いがいい。
週末はちょっとセクシーなスポーツウェアのテニス部顧問。
生徒、教師共に好かれている人気若手女教師。

「その…ね?話には聞いてます。
お父様がお亡くなりになって
お母様は病気がちになってしまわれたとか。」

わざわざそんな事言いに来たの?先生?

「ええ、まぁ…」
「だから、ね?
全然、イレギュラーなこともあるでしょうし
休む分には気兼ねなくそうしてもらっていいのよ?
ただ…その時は一つ連絡欲しいかな。
コチラにも、あなた方を支援する用意は有りますから。」

前言撤回。ほんっとうにサイテーの気分。

「はぁ…そうですか。」
「それでその…お母様はいらっしゃる?
学校にはまだいらっしゃってないみたいだから
一度、挨拶をしておきたいと思って。」

…マズい。

「…会いたいんですか?母に。」
「ええ、そうさせてもらえる?」
「社畜体質の夫を過労死で失ったために
ショックの余り精神障害を患って。
死んだ人間の料理を作ったり
突然発狂して当たり散らしたり
かと思えば唐突に泣いてアタシに謝り出す。
ーーー、そんな母に本当に会いたいんですか?」

不意に顔を殴りつけるような
悪意のあるセリフを咄嗟に叩きつける。
途端。
不浄なものを目の当たりにした忌避感で
みるみるうちに社交儀礼で取り繕った
慎ましい表情が歪んでいく。

「あ、あの…そ、そんなつもりじゃなかったのよ!
本当に…御免なさい…!」

…コレだ。
哀れみの視線。
同情、慈善行為。
全部、全部蚊帳の外のヤツらに過ぎない。
傍観者の引け腰を後ろから蹴り飛ばして
澱んだ渦の中に放り込んでやれば
決まって同じ反応を示して見せる。
そうして、口を揃えてこういうのだ。
「部外者が、図々しくして御免なさい。」
この件から身を引くので
この関係は無かったことでお願いします。

「そうよね…そう、よね?
資料だけお渡しして失礼します。じゃあコレ。」

目の前に突き出された書類を受け取る。

鼻腔を拭うような香りの
真っ白なコピー用紙。
見慣れたインクジェットの
少し滲んだ黒い文字。
それと染まっていく、あか。アカ。赤。

ーーー、赤?

多那田先生の表情を伺う。
震え。
突如現れた鮮血の紋様への驚きか
鬱屈した生徒に対する怯えのソレか。

「なんなの?その…手のひら。」

元々持ち合わせたものであるかのように
パックリ開いて脈打っている。
当然か。アタシが生きてんだから。

「紙で切っちゃったみた、ーーー」
「訳ないでしょ…失礼。」

あぁ。押し入っていく。
もう、止められない…

ぎいいぃ

「ーーー、は?」

トタンと尻餅、飛び退いて。
水面の溺れた羽虫みたいに暴れている。

「あ?あ、あ、あ、あ?は?
なん…え?なん、なんでなんで?」

あられもない担任教師の
狼藉を他所目にどうでもいいこと。
この場合、アタシはどうなるんだろう?

「たっ…そ、そう。そう?
そうよ。けっ、けっけっけっケイサツ?
警察、警察。とりあえず警察。」

ニワトリみたいに繰り返している。
でも、ソレはさせられない。

血の付着した物騒な鋭利物。
鞘から既に抜いてあるので
取っ手を掴んで持ち上げただけで
あっという間に立派な現行犯。

「やめて。」

「警察、ケイ…は?
え?いやいや橙崎さん…
警察。通報。110番!
あったり前でしょ!警察が正解…」

「やめてっ!」

一歩詰め寄る。
それだけでスマホを両手から落として
壁際まで後退りしていった。

「…やらなきゃいけない事があったんです。
その為に、今日一日お出かけしてたんですから。」
「もうなん…あぁ…」

ヒステリックを起こして半泣きでいる先生。

転がっている椅子を直す。
立ち上がる娘
落ち続ける母。
ちょびっとあった身長差を
縄の弛み分補正して。
親子二人並んで向き合う。

っう………!

少し前進して腰に左手を回す。
空いた右手でもってピンと張ったソレを。

「んぅ…!ぐっ…!はぁ…!」

上手く力が…伝わらない…

ぷらん。ぷらん。

縄掴んでギリギリ引いたなら
そりゃあ切れ味悪くたって
いつかは切断できるだろう。

「なんでなんで…なんで切れてくれないのっ!」

でも当然のように。
この地球には等しく重力が働いているわけで。
そんな粗末な切り方をした時には
いったい、いったい、
誰が落ちていく母さんを
抱き止めてあげられるのだろう?

ふと、もう一人。
隅っこで美形の顔を顰めながら
泣きじゃくっている部外者が。

「アタシが…アタシがやらなきゃ…」

なに?
アレに手伝ってくれなんて言うつもりなの?

「そこで、黙って見てろ…!」

鋭利な刃物を幾つも持ちかえる。

「ダメ。ダメ。ダメ。ダメッ…!
アレも、コレもっ、全部…!」

せっかく…一日ずうっと歩き尽くして…
あんなふうに時間潰したから?
とっとと通報するべきだった?
アタシは結局…
この家でだった母さんを
ほったらかしていただけだったの?

「うそ…ウソウソウソ…!」

ゴルフバックひっくり返してぺたんとハの字。

「そんなの…そんなのって…ぅぐ…」

からんからん。

「へ…?」

あれは…なに…?

鬱屈した感情に満ちたこの空間では
一際存在感を放つ華美な鋭利物。
指先から手首ほどのヤイバが
その意匠に宿った神聖さを反射して輝く。
柄には、修道服の女のスタチュー。

買った覚えも
見た覚えもない。

導かれたように。
絶望で溺れかけた少女の目の前に
一振りのナイフが転がり堕ちた。
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