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第1話 強いから大丈夫
冷たい夜気が、わずかに開いた窓の隙間から滑り込んでくる。
王都の喧騒から少し離れたクラウゼ侯爵家の執務室。
分厚いマホガニーの机の上で、私は一人、羽ペンを走らせていた。
カリ、カリ、と羊皮紙を引っ掻く音だけが、静寂な部屋に響く。
机の中央に鎮座しているのは、表紙に複雑な幾何学模様――魔紋が刻まれた分厚い本。
領地の命運を握る信用の心臓、魔導台帳《グラン・レジャー》だ。
この台帳に刻まれた数字と契約が、アルカディア王国における『信用』のすべて。
残高の証明、融資の担保、交易の許可。
そのすべてが、この台帳の魔紋を通して自動的に保証される。
私が管理者印となる指輪をはめた手でページをめくると、魔紋が淡い青色の光を帯びて明滅した。
「……よし。これで、今月分の小麦の卸売り契約は保証を満たしますね」
乾いたインクの匂いを嗅ぎながら、私は小さく息を吐いた。
クラウゼ領の財政は、決して芳しくない。
私が毎日こうして帳尻を合わせ、他領との細かな契約を繋ぎ止めることで、なんとか『豊かな穀倉地帯』という看板を保っているのが実態だった。
バタンッ!
唐突に、執務室の重い扉が乱暴に開かれた。
ビクリと肩を揺らして顔を上げると、そこに立っていたのは私の婚約者。
次期クラウゼ侯爵であるアルベルトだった。
金糸のような美しい髪を少し乱し、彼は息を切らしている。
その甘い顔立ちには、明らかな焦りと、そしてどこか『許されること』を前提とした甘えが浮かんでいた。
「リオナ! 悪い、今夜の夕食会、僕は行けなくなった」
……またですか。
私は羽ペンを置き、静かに彼を見つめた。
今夜は、王都の有力な商人たちを招いた重要な会食のはずだ。
次期領主である彼が不在となれば、私がどれほど頭を下げて回らなければならないか。
「……理由を、お伺いしても?」
努めて平坦な声で尋ねる。
アルベルトは気まずそうに目を逸らし、しかしすぐに、正当な理由を見つけたと言わんばかりに顔を上げた。
「ミレーヌが、ひどい熱を出して泣いているんだ。僕がそばにいないと、不安で息が苦しいって……」
ミレーヌ。
彼の幼馴染であり、男爵令嬢であるその名前を聞いた瞬間。
私の胸の奥で、カチン、と冷たい音がした。
「アルベルト様。今夜の会食は、先月の不作による融資引き上げを待ってもらうための、重要な場です。あなたが不在となれば、クラウゼ領の信用に関わります」
「分かっているさ! でも、ミレーヌは可哀想なんだ。両親を早くに亡くして、僕しか頼る人間がいない。君だって知っているだろ?」
アルベルトは苛立たしげに髪を掻き毟った。
微かに、甘ったるい香水の匂いが漂ってくる。
彼の上着に染み付いた、ミレーヌの好む花の香りだ。
「……記録上は、あなたが同席することになっています。それを直前で覆すことの重みを、ご理解ください」
「だから、君から上手く説明してくれ! 君は有能だし、一人でも堂々としていられる。君は強いから大丈夫だろ?」
強いから、大丈夫。
その言葉が、鋭い刃となって私の喉元に突きつけられた。
彼女は弱いから、守らなければならない。
私は強いから、一人で耐えろと言うのだ。
「頼んだよ、リオナ。後でちゃんと埋め合わせはするから!」
私が返事をするよりも早く、アルベルトは踵を返し、足早に廊下へと消えていった。
パタン、と扉が閉まる音が、酷く虚しく響く。
♦︎♦︎♦︎
取り残された執務室。
私は無表情のまま、再び机に向かい合った。
怒りはない。ただ、ひたすらに冷たい疲労感が全身にまとわりついている。
「……承知しました」
誰もいない部屋に向かって、私は一人、静かに呟いた。
感情を揺らすな。
ただの業務だと思えばいい。
私はクラウゼ領を支えるために、婚約者としてここにいるのだから。
再び台帳に目を落とした瞬間。
ズキリッ!
「っ……!」
こめかみを、鋭い痛みが貫いた。
同時に、目の奥が熱を持ち、視界がぐにゃりと歪む。
痛みに耐えかねて、私は机の端を強く握りしめた。
呼吸が浅くなり、吐き気が込み上げてくる。
これが、私の持つ固有能力『真帳視』の代償。
台帳の真実の姿――隠された数字や改竄の痕跡を視ることができる力は、こうして私の精神と肉体を確実に削っていく。
「少し、目が回ります……大丈夫です」
誰に言い訳するでもなく、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
震える指先で、自分の唇の端を無理やり引き上げる。
完璧な、貴族令嬢の微笑み。
誰も見ていない密室で、私は笑いながら、魔導台帳のページをめくり続けた。
冷たい青い光が、私の歪んだ笑顔を無機質に照らし出していた。
引き裂かれそうな頭痛に耐えながら。
来週に迫った『祝宴』の準備でも、きっとまたあの幼馴染が割り込んでくるのだろうと、私は冷めきった頭の片隅で予測していた。
王都の喧騒から少し離れたクラウゼ侯爵家の執務室。
分厚いマホガニーの机の上で、私は一人、羽ペンを走らせていた。
カリ、カリ、と羊皮紙を引っ掻く音だけが、静寂な部屋に響く。
机の中央に鎮座しているのは、表紙に複雑な幾何学模様――魔紋が刻まれた分厚い本。
領地の命運を握る信用の心臓、魔導台帳《グラン・レジャー》だ。
この台帳に刻まれた数字と契約が、アルカディア王国における『信用』のすべて。
残高の証明、融資の担保、交易の許可。
そのすべてが、この台帳の魔紋を通して自動的に保証される。
私が管理者印となる指輪をはめた手でページをめくると、魔紋が淡い青色の光を帯びて明滅した。
「……よし。これで、今月分の小麦の卸売り契約は保証を満たしますね」
乾いたインクの匂いを嗅ぎながら、私は小さく息を吐いた。
クラウゼ領の財政は、決して芳しくない。
私が毎日こうして帳尻を合わせ、他領との細かな契約を繋ぎ止めることで、なんとか『豊かな穀倉地帯』という看板を保っているのが実態だった。
バタンッ!
唐突に、執務室の重い扉が乱暴に開かれた。
ビクリと肩を揺らして顔を上げると、そこに立っていたのは私の婚約者。
次期クラウゼ侯爵であるアルベルトだった。
金糸のような美しい髪を少し乱し、彼は息を切らしている。
その甘い顔立ちには、明らかな焦りと、そしてどこか『許されること』を前提とした甘えが浮かんでいた。
「リオナ! 悪い、今夜の夕食会、僕は行けなくなった」
……またですか。
私は羽ペンを置き、静かに彼を見つめた。
今夜は、王都の有力な商人たちを招いた重要な会食のはずだ。
次期領主である彼が不在となれば、私がどれほど頭を下げて回らなければならないか。
「……理由を、お伺いしても?」
努めて平坦な声で尋ねる。
アルベルトは気まずそうに目を逸らし、しかしすぐに、正当な理由を見つけたと言わんばかりに顔を上げた。
「ミレーヌが、ひどい熱を出して泣いているんだ。僕がそばにいないと、不安で息が苦しいって……」
ミレーヌ。
彼の幼馴染であり、男爵令嬢であるその名前を聞いた瞬間。
私の胸の奥で、カチン、と冷たい音がした。
「アルベルト様。今夜の会食は、先月の不作による融資引き上げを待ってもらうための、重要な場です。あなたが不在となれば、クラウゼ領の信用に関わります」
「分かっているさ! でも、ミレーヌは可哀想なんだ。両親を早くに亡くして、僕しか頼る人間がいない。君だって知っているだろ?」
アルベルトは苛立たしげに髪を掻き毟った。
微かに、甘ったるい香水の匂いが漂ってくる。
彼の上着に染み付いた、ミレーヌの好む花の香りだ。
「……記録上は、あなたが同席することになっています。それを直前で覆すことの重みを、ご理解ください」
「だから、君から上手く説明してくれ! 君は有能だし、一人でも堂々としていられる。君は強いから大丈夫だろ?」
強いから、大丈夫。
その言葉が、鋭い刃となって私の喉元に突きつけられた。
彼女は弱いから、守らなければならない。
私は強いから、一人で耐えろと言うのだ。
「頼んだよ、リオナ。後でちゃんと埋め合わせはするから!」
私が返事をするよりも早く、アルベルトは踵を返し、足早に廊下へと消えていった。
パタン、と扉が閉まる音が、酷く虚しく響く。
♦︎♦︎♦︎
取り残された執務室。
私は無表情のまま、再び机に向かい合った。
怒りはない。ただ、ひたすらに冷たい疲労感が全身にまとわりついている。
「……承知しました」
誰もいない部屋に向かって、私は一人、静かに呟いた。
感情を揺らすな。
ただの業務だと思えばいい。
私はクラウゼ領を支えるために、婚約者としてここにいるのだから。
再び台帳に目を落とした瞬間。
ズキリッ!
「っ……!」
こめかみを、鋭い痛みが貫いた。
同時に、目の奥が熱を持ち、視界がぐにゃりと歪む。
痛みに耐えかねて、私は机の端を強く握りしめた。
呼吸が浅くなり、吐き気が込み上げてくる。
これが、私の持つ固有能力『真帳視』の代償。
台帳の真実の姿――隠された数字や改竄の痕跡を視ることができる力は、こうして私の精神と肉体を確実に削っていく。
「少し、目が回ります……大丈夫です」
誰に言い訳するでもなく、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
震える指先で、自分の唇の端を無理やり引き上げる。
完璧な、貴族令嬢の微笑み。
誰も見ていない密室で、私は笑いながら、魔導台帳のページをめくり続けた。
冷たい青い光が、私の歪んだ笑顔を無機質に照らし出していた。
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