幼馴染最優先の婚約者に愛想が尽きたので、笑って家出しました ― 笑顔で去っただけなのに、なぜ泣いているのですか

ラムネ

文字の大きさ
5 / 40

第5話 指輪より重いもの

冷たい銀の感触が、左手の薬指を締め付けている。

朝の光が差し込む執務室で、私は自分の手を見つめていた。
薬指に嵌められた指輪の中央には、クラウゼ家の家紋を模した蒼いサファイアが埋め込まれ、その周囲を複雑な魔紋が取り囲んでいる。

婚約指輪。
一般的には愛と誓いの証とされる美しい装飾品だが、この領地においては別の意味を持つ。

魔導台帳《グラン・レジャー》を開き、契約を保証し、領地の資金を動かすための『鍵』。
すなわち、管理者印だ。

この指輪を通して私の魔力を台帳に読み込ませることで、初めてクラウゼ領の信用保証は機能する。
もし指輪の所有者が変われば、正規の手続きである『引継ぎ儀式』を行わない限り、台帳は新しい管理者を拒絶し、すべての信用保証が凍結される仕組みになっていた。

「リオナ、またそんな書類ばかり見ているのか?」

不意に、能天気な声が執務室に響いた。
顔を上げると、アルベルトが扉の枠によりかかり、呆れたような顔で私を見ている。
彼から漂うのは、昨夜の酒の匂いと、微かな甘い香水。

「……おはようございます、アルベルト様。来週に迫った祝宴の予算案を最終確認しておりました」

「ああ、あれか。適当にやっておいてくれ。僕は数字を見ると頭が痛くなるんだ」

アルベルトは肩をすくめ、無造作に私の机に近づいてきた。
彼は魔導台帳の横に置かれた予算書をちらりと見たが、すぐに興味を失ったように目を逸らす。

「台帳の管理も、全部君に任せるよ。君は几帳面だし、そういう裏方の作業が得意だろ?」

裏方の作業。
その言葉が、私の胸の奥で冷たく響いた。

彼にとって、領地の命運を握る台帳管理は、ただの退屈な事務作業に過ぎないのだ。
この指輪の重みも、引継ぎ儀式の重要性も、彼は何一つ理解していない。

「アルベルト様。魔導台帳の管理者印は、現在私が預かっております。ですが、本来は次期領主であるあなたが持つべきものです。いずれは正式な権限移譲が必要になりますが」

私が淡々と告げると、アルベルトは面倒くさそうに手を振った。

「結婚してからでいいさ。どうせ君がずっとやってくれるんだし、わざわざ面倒な手続きなんて必要ないだろ?」

「……規程上、監査院の立会いのもと『引継ぎ儀式』を行わなければ、権限は不完全なまま移譲されません。もし正規の手続きを経ずに他者が台帳に触れれば、信用保証は著しく低下します」

「だから、君がやればいいって言ってるじゃないか。君は強いし、頼りになる。僕にはミレーヌを支えるという大事な役目があるんだから」

まただ。
また、その言葉。

私は膝の上で、きつく拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。

「……承知しました」

私はそれ以上何も言わず、ただ深く頭を下げた。

彼は知らないのだ。
私がこの指輪を外した瞬間、クラウゼ領がどうなるかを。

来週の祝宴。
そこで彼は、きっとまた私を裏切る。
その予感が、冷たい確信となって私の心を覆い尽くしていた。

♦︎♦︎♦︎

アルベルトが鼻歌を歌いながら部屋を出ていくのを見送り、私は再び台帳に目を落とした。

指先で、分厚い表紙の魔紋をそっと撫でる。
冷たい革の感触が、私の熱を持った指先から体温を奪っていく。

引継ぎ儀式がないと、権限は移らない。
その事実だけが、今の私にとって唯一の武器だった。

あなたにおすすめの小説

夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた

今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。 レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。 不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。 レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。 それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し…… ※短め

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

平凡令嬢は婚約者を完璧な妹に譲ることにした

カレイ
恋愛
 「平凡なお前ではなくカレンが姉だったらどんなに良かったか」  それが両親の口癖でした。  ええ、ええ、確かに私は容姿も学力も裁縫もダンスも全て人並み程度のただの凡人です。体は弱いが何でも器用にこなす美しい妹と比べるとその差は歴然。  ただ少しばかり先に生まれただけなのに、王太子の婚約者にもなってしまうし。彼も妹の方が良かったといつも嘆いております。  ですから私決めました!  王太子の婚約者という席を妹に譲ることを。  

「あなたは強いから大丈夫よね」、無自覚に人生を奪う姉

恋せよ恋
恋愛
「セリーヌは強いから、一人でも大丈夫よね?」 婚約破棄され「可哀想なヒロイン」となった姉カトリーヌ。 無自覚で優しい姉を気遣う両親と『私の』婚約者クロード。 私の世界は反転した。 十歳から五年間、努力で守ってきた「次期後継者」の座も。 自分に誂えた「ドレス」も……。「婚約者」さえも……。 両親は微笑んで言う。 「姉様が傷ついているの強いお前が譲ってあげなさい」と。 泣いて縋れば誰かが助けてくれると思っているお姉様。 あとはお一人で頑張ってくださいませ。 私は、私を必要としてくれる場所へ――。 家族と婚約者を見限った、妹・セリーヌの物語。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

フランチェスカ王女の婿取り

わらびもち
恋愛
王女フランチェスカは近い将来、臣籍降下し女公爵となることが決まっている。 その婿として選ばれたのがヨーク公爵家子息のセレスタン。だがこの男、よりにもよってフランチェスカの侍女と不貞を働き、結婚後もその関係を続けようとする屑だった。 あることがきっかけでセレスタンの悍ましい計画を知ったフランチェスカは、不出来な婚約者と自分を裏切った侍女に鉄槌を下すべく動き出す……。

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

妹さんが婚約者の私より大切なのですね

はまみ
恋愛
私の婚約者、オリオン子爵令息様は、 妹のフローラ様をとても大切にされているの。 家族と仲の良いオリオン様は、きっととてもお優しいのだわ。 でも彼は、妹君のことばかり… この頃、ずっとお会いできていないの。 ☆お気に入りやエール、♥など、ありがとうございます!励みになります! ※本作品をAIの学習教材として使用することを禁じます。 ※無断著作物利用禁止

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。