『公爵令嬢の優雅な復讐』

ラムネ

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第十話:マサラチャイ

王都の朝は、いつもと違う熱気に包まれていた。 それは太陽の熱さではなく、人々の口から口へと伝わる「噂」という名のスパイスがもたらす、ピリリとした刺激的な熱気だった。

市場の露店、酒場のカウンター、井戸端会議。 至る所で、人々は声を潜めつつも、興奮を隠しきれない様子で語り合っている。

「おい、聞いたか? 王家が破産したって話」 「ああ、昨日のバザーの惨状を見ただろう? 王子のパンツまで売りに出されてたって噂だぞ」 「なんでも、ハイゼンベルク公爵家に見捨てられて、今夜食べるパンもないらしい」 「ざまあみろってんだ。俺たちの税金を湯水のように使ってたくせに」

噂は、カルダモンやクローブ、シナモンのように、種類を変え、香りを変え、瞬く間に王都中に拡散していく。 中には尾ひれがついたものもあった。

「隣国の皇太子が、借金のカタに王宮を差し押さえに来たらしいぞ」 「ミナとかいう男爵令嬢、実は魔女で、王子をたぶらかして国を滅ぼそうとしてるんだって」 「いやいや、実はもう王子は夜逃げして、王宮には誰もいないらしい」

真実と嘘が複雑に絡み合い、煮出された濃厚なチャイのように、王都の空気を濃密に染め上げていく。 そして、その「スパイス」を調合し、拡散させているのが誰なのか、賢い市民たちは薄々気づき始めていた。

          ***

ハイゼンベルク公爵邸のサンルーム。 今日もセレスティアは、優雅なティータイムを楽しんでいた。 ただし、今日のテーブルに並んでいるのは、いつもの英国風のスコーンではなく、サモサなどのスパイスの効いた軽食だ。 そしてカップに注がれているのは、ミルクとスパイスで煮出された濃厚なミルクティー、「マサラチャイ」である。

「……ふふっ。素晴らしい拡散力ですわね」

セレスティアは、セバスが持ってきた「王都新聞」の号外を読みながら微笑んだ。 一面トップには、『王家、財政破綻か!? 第二王子、腐ったジャムで食中毒の疑い』というセンセーショナルな見出しが躍っている。

「ゴルドン氏の手腕は見事です。ギルドのネットワークを使えば、情報は風よりも速く駆け巡る」

「ええ。それに、ただ情報を流すだけでなく、適度な『憶測』を交えることで、人々の不安と好奇心を煽る。……まさに、マサラチャイにおけるスパイスの配合のような絶妙なバランスですわ」

セレスティアはチャイを一口飲んだ。 生姜の辛味とシナモンの甘い香り、そしてカルダモンの清涼感が、口の中で複雑なハーモニーを奏でる。 それは、混沌とした今の情勢そのもの味だった。

「さて、セバス。噂という種は蒔きました。次は、それを『事実』として確定させるための水を撒きましょうか」

「銀行の方ですね?」

「ええ。……王家への貸付金利の引き上げを通告します。理由は『信用リスクの増大』。現在の年利5%から、一気に20%……いいえ、法定上限ギリギリの50%まで引き上げて」

セバスが少し驚いたように眉を上げた。

「50%……それは、もはやサラ金……いえ、闇金レベルでは?」

「彼らはすでに『反社会的勢力』のようなものですもの。約束を守らない、嘘をつく、暴力を振るう。……そんな相手に金を貸すリスクを考えれば、50%でも安いくらいですわ」

セレスティアは冷徹に言い放った。 金利とは、時間に対する対価であり、リスクに対する保険料だ。 返済される見込みのない相手に対して、慈悲深い低金利で貸し続ける銀行など、すぐに潰れてしまう。

「それに、この通告はただの金銭的な圧力ではありません。……『王家はもう終わりだ』ということを、数字という客観的な事実で世界に示すための死亡宣告書なのです」

「承知いたしました。直ちに頭取へ指示を出します」

「お願いね。……ああ、それから。このチャイ、少し砂糖を足してくださる? ……王宮の方々が味わっている苦みに比べれば、これでも甘すぎるくらいでしょうけど」

セレスティアは角砂糖を一つ、ポチャンとカップに落とした。 甘い波紋が広がり、スパイスの香りと共に湯気が立ち上る。 それは、王国の終わりの狼煙のようにも見えた。

          ***

一方、王宮。 アルフォンスとミナは、地獄のような朝を迎えていた。

昨夜の「腐ったジャム事件」により、二人は激しい腹痛と嘔吐に襲われ、トイレと寝室を往復する夜を過ごした。 断水中のためトイレは流れず、汚物の臭いが廊下まで漂っている。 体力も気力も削ぎ落とされ、二人は骸骨のようにやつれていた。

「……うぅ……気持ち悪い……」

ミナがソファの上で丸まりながら呻く。 もはや「可愛い」とか「ヒロイン」とか言っている余裕はない。 髪はボサボサ、肌は土気色、目は窪み、完全に生気を失っている。

アルフォンスも同様だった。 胃の中は空っぽなのに、吐き気だけが治まらない。 喉が渇いているのに、水を飲むのが怖い(また腹を下すのではないかという恐怖)。

「……どうして……どうしてこんなことに……」

アルフォンスは、天井のシミを見つめながら呟いた。 数日前までは、何不自由ない生活をしていたはずだ。 なぜ急に、こんな地獄に突き落とされたのか。 セレスティアのせいだ。 そう思うことで精神を保とうとしたが、心の奥底では気づき始めていた。 これは全て、自分が招いたことなのだと。

その時、廊下からバタバタという足音が聞こえた。 誰か来たのか? もしかして、助けが?

ドアが開かれ、入ってきたのは、顔面蒼白の侍医長だった。 彼は王宮に残っている数少ない職員の一人だが、それは忠誠心からではなく、動けない国王の主治医としての責任感からだった。

「で、殿下! 大変です! 国王陛下が……!」

「……父上がどうした?」

アルフォンスは気だるげに体を起こした。 父王は長年病床にあり、政務は全てアルフォンス(実質的にはセレスティア)に任せていた。 今さら父上がどうなろうと、自分の腹痛より重要なこととは思えなかった。

「心労で……倒れられました! 意識不明の重体です!」

「は……?」

「今朝の新聞をご覧になって、ショックを受けられたようで……。『王家破産』の文字を見た瞬間、胸を押さえて……」

侍医長の手には、例の号外が握られていた。

「そ、それで!? 父上は!?」

「非常に危険な状態です。今すぐお越しください! もしかしたら、最期の……」

アルフォンスの中に、電流が走った。 悲しみではない。 恐怖と、そして卑しい打算だ。

もし父上が死んだら? 僕が王になるのか? いや、待てよ。王になれば、王家の全権限が手に入る。 そうすれば、ハイゼンベルク家に命令できるのではないか? 「国王命令」として、支援を強制できるのではないか?

「……行くぞ!」

アルフォンスは腹痛をこらえて立ち上がった。 ミナも、ふらつきながら起き上がる。

「私も行くわ……。王様が死んだら、私が次の王妃様でしょ……?」

二人はゾンビのように廊下を歩き、国王の寝室へと向かった。 それは、肉親の安否を気遣う足取りではなく、落ちているかもしれない権力という名の腐肉を求めるハイエナの行進だった。

          ***

国王の寝室は、死臭に近い薬の匂いと、淀んだ空気に満ちていた。 天蓋付きの巨大なベッドに、一人の老人が横たわっている。 かつては「賢王」と呼ばれた父も、今は骨と皮だけの哀れな姿になり果てていた。

「父上……」

アルフォンスが枕元に立つ。 国王の呼吸は浅く、ヒューヒューという音が漏れている。 目は閉じられ、意識はないようだ。

「陛下……聞こえますか、陛下……」

侍医長が必死に呼びかけるが、反応はない。

「……もう、ダメなのか?」

「……脈が弱まっています。魔力による生命維持も、魔石が尽きたため限界です」

魔石が尽きた。 ここにも、セレスティアの「制裁」の影響が及んでいた。 生命維持装置を動かすための高純度魔石は、全てハイゼンベルク商会からの納入品だったのだ。

「父上! しっかりしてください! まだ死なないでください!」

アルフォンスは国王の体を揺すった。 愛情からではない。 今死なれたら、責任を全部自分が負わされることになるからだ。 まだ「王」という盾が必要なのだ。

「うぅ……ん……」

揺すられたショックか、国王が微かに目を開けた。 濁った瞳が、ぼんやりとアルフォンスを捉える。

「……ア……アル……フォンス……か……」

「はい! 私です! 父上、なんとかしてください! セレスティアが! ハイゼンベルク家が、王家を潰そうとしているんです! 命令を! 奴らを捕らえろと命令を出してください!」

アルフォンスは死にかけの父に縋り付いて叫んだ。 国王の視線が、ゆっくりとアルフォンスの背後にいるミナへ、そしてボロボロのアルフォンスへと移る。

「……お前……は……」

国王の唇が震える。

「……愚か……者……」

「え?」

「セレスティア嬢……を……手放す……など……。王家の……終わり……だ……」

国王の目から、一筋の涙が流れた。 彼は全てを悟っていたのだ。 自分の息子がどれほど無能で、セレスティアという支柱がいかに重要であったかを。 その支柱を自ら叩き折った瞬間に、王国の命運も尽きたことを。

「ち、違います! あいつが悪女なんです! 僕を騙していたんです!」

「……黙れ……」

国王が最後の力を振り絞った。

「……継承権……剥奪……」

「は……?」

「お前に……王位は……譲らぬ……。国を……滅ぼす……気か……」

国王の手が、サイドテーブルの上の書類――遺言書の下書き――を掴もうとして、空を切った。

「がっ……はっ……」

「父上!? 父上!!」

ピーーーー。

魔導心拍計の音が、一本の線になったことを告げる電子音に変わった。 国王の手が、力なくベッドに落ちる。

「……崩御なされました」

侍医長が静かに告げ、深く頭を下げた。

アルフォンスは凍りついた。 死んだ。 父が死んだ。 しかも、最期に「継承権剥奪」と言い残して。

「嘘だ……嘘だろ……?」

「嘘よ! 聞こえなかったわ! 何も言ってないわよ!」

ミナが叫んだ。

「王様は死んだのよ! ってことは、アルフォンス様が王様じゃない! 私が王妃様じゃない! やったぁ! これで国のお金は全部私たちのものよ!」

ミナは狂ったように笑い出し、国王の遺体から指輪や王冠を剥ぎ取ろうとした。

「これ! これ売ればお金になるわ! ジャムより高く売れるわ!」

「やめろミナ! 不敬だぞ!」

「何よ! 死んだらただの肉の塊じゃない! 生きてる私たちが大事なのよ!」

その醜い争いが繰り広げられている最中、部屋の扉が開かれた。 入ってきたのは、黒いスーツを着た銀行員たちだった。 ハイゼンベルク中央銀行の紋章をつけている。

「……お取り込み中、失礼いたします」

先頭の男が、感情のない声で言った。

「国王陛下の崩御、心よりお悔やみ申し上げます。……つきましては、債務の相続についてお話しさせていただきます」

「さ、債務……?」

アルフォンスが振り返る。

「はい。国王陛下名義の借入金、総額金貨3億枚。……これらは全て、第一相続人であるアルフォンス殿下に引き継がれます」

「さ、3億……!?」

「さらに、本日付で当行の規定が改定され、王家に対する適用金利が年50%に引き上げられました」

「ご、50%!?」

「はい。これにより、毎月の利払いだけで金貨1200万枚が必要となります。……初回のお支払いは明日です」

銀行員は、分厚い請求書をアルフォンスに突きつけた。

「払えなければ?」

「担保権の行使となります。王宮、直轄領、そして王家に伝わる全ての財産を差し押さえさせていただきます。……ああ、それから」

銀行員は、ミナが握りしめていた王冠を指差した。

「その王冠も、すでに担保に入っております。勝手に持ち出せば、横領罪で告訴しますよ」

「ひっ……!」

ミナが慌てて王冠を取り落とす。 ゴロン、と重たい音がして、王冠が床を転がった。 それは、かつての王権の象徴が、ただの金属塊に成り下がった瞬間だった。

「明日正午までに、お支払いがない場合は、強制執行部隊が参ります。……それでは」

銀行員たちは一礼し、嵐のように去っていった。 残されたのは、冷たくなった国王の遺体と、3億枚の借金を背負った新しい「王(仮)」とその婚約者だけ。

「……終わった」

アルフォンスは膝から崩れ落ちた。 王になれば権力が手に入ると思っていた。 だが、手に入ったのは莫大な借金と、絶望だけだった。

「やだ……やだやだやだ!」

ミナが床を叩いて泣き叫ぶ。

「借金なんて知らない! 私は王妃になって贅沢するの! なんでよ! なんでこんなことになるのよぉ!」

彼女の悲鳴が、マサラチャイのスパイスのように、アルフォンスの神経を逆撫でする。 痛い。 お腹も痛いが、心がもっと痛い。 現実という名の激辛スパイスが、彼の未熟な精神を焼き尽くしていく。

「……セレスティア……」

彼は再び、その名前を呼んだ。 今度は怒りではなく、完全なる敗北と、許しを請う気持ちで。

「助けてくれ……もう、何でもするから……」

しかし、その声が届くことはない。 彼女は今頃、優雅にチャイを飲みながら、次の手を打っているのだから。

          ***

翌日の正午。 王宮の正門前に、ハイゼンベルク銀行の執行官と、武装した警備隊(帝国兵も混じっている)が到着した。

「時間だ。執行を開始する」

冷徹な号令と共に、彼らは王宮になだれ込んだ。 抵抗する者は誰もいない。 アルフォンスとミナは、国王の寝室の隅で抱き合って震えていた。

「あ……あ……」

執行官たちが、部屋にある金目のものを次々と運び出していく。 絵画、彫刻、燭台、そして国王が寝ていたベッドのシーツまで。

「待って! 私の宝石箱! それだけは!」

ミナが叫んで飛びつこうとしたが、警備兵に軽くあしらわれた。

「これも差し押さえ対象です」

「泥棒! 人殺し! 私の青春を返してよぉ!」

ミナの叫びも虚しく、彼女の私物は全て没収された。 アルフォンスは、ただ呆然とそれを見ていることしかできなかった。 自分の人生そのものが、解体され、運び出されていく。

やがて、部屋には遺体が安置されたベッド(マットレスだけ残された)と、二人が着ているボロボロの服だけが残った。

「……当面の生活費として、法で定められた最低限の現金は置いておきます」

執行官が、銅貨数枚が入った袋をポイと投げた。 チャリン、と寂しい音がする。

「王宮からの退去期限は、一週間後です。それまでに次の住処を見つけてください。……もっとも、今のあなた方に部屋を貸す大家がいればの話ですが」

執行官たちは去っていった。 広い寝室に、風が吹き抜ける。 窓ガラスが割れているため、外の熱気と砂埃が入ってくる。

「……アルフォンス様」

ミナが銅貨の袋を拾い上げ、虚ろな目で言った。

「これじゃ……ジャムも買えないわ」

「……そうだな」

アルフォンスは力なく笑った。 乾いた、絶望の笑いだった。

「マサラチャイが飲みたいな……」

ふと、彼は思った。 あのスパイスの効いた、温かくて甘いお茶。 それを飲めば、この悪寒のような震えも止まる気がした。 だが、今の彼には、泥水がお似合いなのだ。

王都には、「王家破産」「国王崩御」のニュースと共に、新しい噂が流れ始めていた。 『ハイゼンベルク公爵令嬢が、新しい国の指導者になるらしい』 『隣国の皇太子との婚約も近いとか』 『救世主だ、女神だ』

その噂は、絶望に沈む王宮の二人には、何よりも辛く、苦いスパイスとなった。 物語は、いよいよ終盤へ。 香りは、過去の記憶を呼び覚ます「ジャスミンティー」へと移り変わる。
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