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第十二話:シルバーニードル
ハイゼンベルク領の朝は、王都のそれとは比べ物にならないほどの活気と秩序に満ちていた。 石畳は塵ひとつなく掃き清められ、朝露に濡れた街路樹が瑞々しい緑を輝かせている。 行き交う人々は皆、清潔な服を身にまとい、その表情には労働への意欲と、領主への信頼が満ちていた。
「……素晴らしいな」
豪奢な馬車の窓から、流れる街並みを眺めていたジークフリートが感嘆の声を漏らした。 隣に座るセレスティアは、今日の視察のために動きやすさを重視しつつも、品格を損なわない淡いシルバーグレーのドレスを身に纏っている。
「お褒めいただき光栄ですわ、殿下。……ですが、これはまだ発展の途上です。アークライト帝国との提携が本格化すれば、さらに物流が増え、街は拡張を必要とするでしょう」
「君は貪欲だな。……だが、その貪欲さが心地いい。私の国でも、ここまで徹底された都市計画を見られるのは帝都くらいのものだ」
ジークフリートは彼女に向き直り、その鋭くも温かい瞳で微笑んだ。 今日は、彼からの提案で実現した「合同視察」の日だった。 名目は、両国の貿易拠点となるハイゼンベルク領のインフラ確認。 だが、その実態は、互いの能力と価値観を擦り合わせるための、極めて高度で知的なデートでもあった。
馬車は、領内最大の貿易港へと滑り込んだ。 そこには、無数の帆船が停泊し、クレーンが動き、労働者たちがキビキビと荷物を運んでいる光景が広がっていた。 荷馬車が行き交い、検品係が書類と現物を照らし合わせる声が飛び交う。
「降りようか。……現場の空気こそが、最高の情報源だ」
ジークフリートが先に降り、自然な動作でセレスティアに手を差し伸べた。 その手は大きく、剣ダコがあり、そして温かかった。 アルフォンスのエスコートはいつも形式的で、自分の格好良さを気にするあまり、セレスティアの歩幅を無視することが多かった。だが、ジークフリートの手は、しっかりと彼女を支え、彼女が地面に降り立つその瞬間まで、優しく導いてくれる。
「ありがとうございます、殿下」
「ジークフリートでいい。……ここでは私は、ただの君のパートナーだ」
二人が港を歩き始めると、作業中の労働者たちが手を止め、敬意を込めて道を空けた。 恐れによる服従ではない。 彼らは知っているのだ。自分たちの生活が豊かなのは、この銀髪の令嬢の才覚のおかげであることを。そして、その隣に立つ異国の皇太子が、彼女にふさわしい「本物」の王器を持つ人物であることを、肌で感じ取っているのだ。
「……見たまえ、あの荷揚げシステム。滑車と魔石動力を組み合わせて、重量物の運搬効率を上げているのか?」
ジークフリートが、巨大なコンテナを軽々と持ち上げるクレーンを指差した。
「ええ。ドワーフの技術者たちと共同開発したものです。従来の五倍の速度で荷役が可能ですわ。……初期投資はかかりましたが、半年で回収できました」
「素晴らしい。我が国の軍港でも採用したい技術だ。……あそこの倉庫の配置も計算されているな。風通しを良くして湿気を防ぎつつ、搬出入の動線が重ならないように設計されている」
「お気づきになりましたか? 実は、火災対策として区画ごとに防火壁も設けておりますの」
セレスティアは胸が躍るのを感じた。 説明しなくていい。 アルフォンスならば、「ふーん、すごいね(興味なし)」で終わるか、「金がかかりすぎじゃないか?」と文句を言うところだ。 だが、ジークフリートは一目見ただけで、その意図、工夫、そして背後にあるコスト計算までを瞬時に理解し、的確な評価とさらなる改善案まで返してくる。
言葉のキャッチボールが、これほどまでに楽しく、ストレスがないとは。 それはまるで、熟練の音楽家同士が即興でセッションをしているような、知的な快楽だった。
「君の領地管理能力は、一国の宰相を凌駕している。……いや、今の王国の惨状を見れば、君一人で国を支えていたことがよく分かる」
ジークフリートは、積み上げられた木箱に手を触れながら言った。
「支えきれませんでしたわ。……柱が腐っていては、どんなに補強しても無駄でしたから」
「ふっ、違いない。……だが、君という宝石が瓦礫の下敷きにならなくて本当によかった」
彼は不意にセレスティアの方を向き、その銀髪を一房、指で掬った。 至近距離で見つめられる、鷲のような瞳。 そこには、政治家としての冷徹さではなく、一人の男としての熱情が宿っていた。
「……場所を変えようか。君に見せたいものがある」
***
案内されたのは、港を見下ろす丘の上に建つ、隠れ家的な高級茶館だった。 ハイゼンベルク家の迎賓館としても使われるその場所は、喧騒から離れ、静寂と絶景を独占できる特別な空間だ。
通された個室は、東洋風のしつらえで、竹細工の家具や、美しい磁器が飾られていた。 窓からは、キラキラと輝く海と、彼らが作り上げた繁栄の街が一望できる。
「どうぞ、お座りください」
今日はセバスではなく、ジークフリートが自ら上座をセレスティアに勧めた。
「レディファーストだ。……それに、今日の茶のホストは私だからな」
彼は慣れた手つきで、茶器を温め始めた。 その所作は流れるように美しく、武人とは思えないほど繊細だ。
「殿下が、お茶を?」
「ああ。戦場や執務の合間に、自ら淹れるのが私の趣味でね。……心を整えるには、茶と剣が一番だ」
彼が取り出したのは、白磁の茶筒。 蓋を開けると、ふわりと上品な香りが漂った。 中に入っていたのは、針のように真っ直ぐで、銀色の産毛に覆われた美しい茶葉だった。
「これは……『シルバーニードル(白毫銀針)』?」
セレスティアが驚きの声を上げる。 中国茶の中でも最高峰に位置する白茶。 新芽のみを使い、揉まずに自然乾燥させることで作られる、極めてシンプルかつ奥深いお茶だ。 その名の通り、銀色の針のような見た目は、高貴で、どこか近寄りがたいほどの美しさを持っている。
「よく知っているな。さすがだ」
ジークフリートは微笑み、ガラスのポットに茶葉を入れた。 熱湯ではなく、少し冷ましたお湯を静かに注ぐ。 茶葉がゆっくりと湯の中で舞い上がり、まるで水中花のように縦に立ち並んでいく。
「この茶は、他の茶のように色濃く主張しない。……見てごらん」
抽出された水色(すいしょく)は、限りなく透明に近い、淡い杏色(アプリコットカラー)。 見た目はただのお湯のようにも見える。
ジークフリートはカップに注ぎ、セレスティアの前に置いた。
「どうぞ。……君に捧げる一杯だ」
セレスティアはカップを手に取った。 香りは、ほのかで控えめ。 干し草のような、あるいは雨上がりの森のような、自然で優しい香り。 口に含むと、驚くほど繊細な甘みが広がった。 砂糖の甘さではない。茶葉そのものが持つ、生命力のような甘みだ。 渋みは一切なく、絹のように滑らかに喉を通り過ぎていく。
「……美味しい。……心が、洗われるようですわ」
「シルバーニードルは、最も加工が少ない茶だ。だからこそ、素材の良し悪しが全て出る。誤魔化しが利かない」
ジークフリートも自分の一杯を口にし、静かに言った。
「強烈な発酵や焙煎で個性を主張する茶もいいが……私はこの茶が好きだ。凛としていて、媚びず、本質的な強さと甘さを持っている」
彼はカップ越しに、セレスティアを見つめた。
「まるで、君のようだ」
「え……?」
セレスティアの心臓が、トクンと跳ねた。 彼女は「鉄の女」「冷徹な令嬢」と呼ばれることが多かった。 アルフォンスからは「可愛げがない」と罵られた。 自分でも、感情を表に出さず、常に完璧であろうと武装している自覚があった。
「銀色の針。……美しく、鋭く、そして気高い。君はいつも背筋を伸ばし、弱音を吐かず、完璧であろうとしている」
ジークフリートの声が、甘く低く響く。
「だが、この茶のように……その内側には、誰よりも繊細で、豊かな甘みを秘めていることを、私は知っている」
「……殿下、それは買い被りですわ。わたくしは、ただの計算高い女で……」
「計算高い女が、元婚約者の国の借金を何年も肩代わりし続けるか?」
ジークフリートの指摘に、セレスティアは言葉を失った。
「君は、情が深い。深すぎるほどに。……だからこそ、裏切られた時の傷も深かったはずだ。アルフォンスのような愚か者には、君という『白毫銀針』の繊細な味わいは理解できなかっただろう。彼には、砂糖をたっぷり入れた泥水がお似合いだ」
セレスティアは視線を落とした。 扇子を持ってくるのを忘れたことを後悔した。 顔が熱い。 この人の前では、どんな仮面も役に立たない。 心の奥底まで見透かされ、そして肯定されている。
「セレスティア」
ジークフリートが、テーブル越しに彼女の手を握った。
「私は、君の強さも、有能さも愛している。……だが、それ以上に、君が一人で抱え込んできた孤独や、その下にある優しさを愛しく思う」
「……っ」
「もう、一人で戦わなくていい。計算も、駆け引きも、私に任せればいい。……君はただ、私の隣で、その美しい銀髪をなびかせて笑っていてくれればいいんだ」
それは、セレスティアが長年求めていた言葉だったかもしれない。 「頑張れ」でも「頼りにしている」でもなく、「休んでいい」「そのままでいい」という、絶対的な肯定。
彼女の目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。 それは、シルバーニードルの水色のように透き通った、美しい涙だった。
「……殿下。……ジークフリート様」
セレスティアは彼の手を握り返した。 その手は震えていたが、力強かった。
「わたくしは……わたくしはずっと、誰かに背中を預けることが怖かったのです。寄りかかれば、共倒れになると思っていましたから」
アルフォンスという、あまりにも脆い柱を支え続けてきた彼女にとって、信頼とは「リスク」と同義だった。
「ですが……あなたなら。あなたとなら、どんな嵐の中でも、共に立ち続けられる気がします」
「ああ。私は倒れない。君が隣にいる限り、世界を敵に回しても勝ち続けるさ」
ジークフリートは立ち上がり、テーブルを回って彼女のそばに来た。 そして、彼女を優しく抱き寄せた。 日向の匂いと、微かなシルバーニードルの香りが彼から漂う。
「……契約更新だ、セレスティア」
耳元で囁かれる言葉。
「貿易パートナーとしてではない。……生涯のパートナーとして、私の隣にいてほしい」
セレスティアは、彼の胸に顔を埋めた。 そこは、王宮のどのソファよりも温かく、頑丈で、安心できる場所だった。
「……はい。……喜んで、お受けいたします」
「条件は?」
「……毎日、このお茶を淹れてくださること。……それと」
彼女は顔を上げ、濡れた瞳で彼を見つめた。 初めて見せる、少女のような無防備な表情。
「……これからは、『計算』抜きで、わたくしを愛してくださいませ」
ジークフリートは満足げに笑い、彼女の唇に口づけを落とした。 それは、甘くて、温かくて、そして永遠の誓いの味がした。
窓の外では、海風が二人の未来を祝福するように吹き抜けていく。 シルバーニードルの茶柱が、ポットの中で一本、静かに立っていた。 それは「吉兆」。 二人の物語が、ここから本当の意味で始まることを告げていた。
***
その日の夕暮れ。 視察を終えた二人は、港の桟橋を歩いていた。 夕日が海を黄金色に染め、カモメの声が響く。
「……それで、王宮の様子はどうなっている?」
完全に「仕事モード」に戻ったわけではないが、ジークフリートがふと尋ねた。 彼の手は、しっかりとセレスティアの腰を抱いている。
「銀行からの報告では、昨日、強制執行が完了したそうです。……先代国王陛下の葬儀も、事務的に済ませました」
セレスティアの声には、もう迷いも湿っぽさもない。
「アルフォンス殿下とミナ様は、立ち退きを命じられ、現在は行方不明……いえ、王都の貧民街あたりを彷徨っているという目撃情報があります」
「ふん。自業自得だな。……だが、彼らはまだ『完全に』終わってはいない」
ジークフリートの目が鋭く光った。
「彼らはまだ、自分たちが被害者だと思っている。そして、いつか逆転できるという甘い幻想を捨てきれていないはずだ。……特に、あの男爵令嬢は」
「ええ。ミナ様の執着心と、現実逃避の能力は驚嘆に値しますわ」
「来週の夜会……王家主催の最後の(といっても名ばかりの)舞踏会が予定されていたな?」
「はい。中止の通達を出そうかと思いましたが……アルフォンス殿下が、最後のあがきで『開催する』と言い張っているとか。会場費も払えないのに」
「面白い。……ならば、その舞台を使って、引導を渡してやろう」
ジークフリートはニヤリと笑った。
「我々も参加しよう。……そして、彼らの幻想を、公衆の面前で木っ端微塵に粉砕するのだ。それが、彼らにできる最後の『教育』だろう」
「ふふっ。悪趣味ですわね、ジークフリート様」
「君ほどではないさ、私の愛しい共犯者殿」
二人は笑い合った。 その笑顔は美しく、そして背筋が凍るほどに冷酷だった。 最強のカップルが誕生した今、アルフォンスたちに残された運命は、破滅へのカウントダウンのみ。
***
一方、その頃。 王都の下町、路地裏のゴミ捨て場近く。
「……ううっ……寒い……」
ボロボロの毛布(というかただの布切れ)にくるまり、アルフォンスは震えていた。 隣には、ミナがいる。 彼女は、どこからか拾ってきた新聞紙を読んでいた。
「……ねえ、見てよこれ」
ミナが指差したのは、社交界のゴシップ欄だ。 『ハイゼンベルク公爵令嬢とアークライト皇太子、港で熱烈デート! 結婚秒読みか?』
「……ちくしょう……ちくしょう……!」
ミナは新聞紙を引き裂いた。
「私が……私がそこに入るはずだったのに! あの銀色の女が、私の場所を奪ったのよ!」
「……もういいよ、ミナ。僕たちはもう……」
「よくない! 諦めないでよ! あんた王子でしょ!?」
ミナはアルフォンスの胸倉を掴んで揺さぶった。
「来週よ! 来週の夜会! あれがラストチャンスよ!」
「夜会? 王宮は差し押さえられたんだぞ。どこでやるんだ」
「場所なんてどこでもいいわよ! 広場でも、公園でも! そこで私たちが『真実の愛』を叫べば、きっとみんな感動して、味方になってくれるはずよ!」
ミナの目は、完全に常軌を逸していた。 彼女の脳内では、まだ自分は悲劇のヒロインであり、最後には大逆転して幸せになれるというシナリオが書き換えられていないのだ。
「……ドレスは?」
「作るわよ! この新聞紙と、そこのゴミ袋で! 私のセンスなら、最高にアバンギャルドなドレスができるわ!」
「……そうか。頑張ってくれ」
アルフォンスは、止める気力もなかった。 もうどうにでもなれ。 最後にもう一度だけ、華やかな場所(たとえそれが妄想の中だとしても)に立てるなら、それでいい。
彼は泥にまみれた手で、空の胃袋を押さえた。 口の中に残るジャスミンの記憶は、下水の臭いにかき消され、もう二度と思い出せそうになかった。
「見てなさい、セレスティア……。私が主役の座を取り返してやるんだから……」
ミナの怨嗟の声が、路地裏の闇に吸い込まれていった。 シルバーニードルのような高貴な光とは無縁の、ドブネズミたちの夜が更けていく。
次話、「バタフライピー(青から紫へ変わる情勢)」。 ついに直接対決の時が来る。
「……素晴らしいな」
豪奢な馬車の窓から、流れる街並みを眺めていたジークフリートが感嘆の声を漏らした。 隣に座るセレスティアは、今日の視察のために動きやすさを重視しつつも、品格を損なわない淡いシルバーグレーのドレスを身に纏っている。
「お褒めいただき光栄ですわ、殿下。……ですが、これはまだ発展の途上です。アークライト帝国との提携が本格化すれば、さらに物流が増え、街は拡張を必要とするでしょう」
「君は貪欲だな。……だが、その貪欲さが心地いい。私の国でも、ここまで徹底された都市計画を見られるのは帝都くらいのものだ」
ジークフリートは彼女に向き直り、その鋭くも温かい瞳で微笑んだ。 今日は、彼からの提案で実現した「合同視察」の日だった。 名目は、両国の貿易拠点となるハイゼンベルク領のインフラ確認。 だが、その実態は、互いの能力と価値観を擦り合わせるための、極めて高度で知的なデートでもあった。
馬車は、領内最大の貿易港へと滑り込んだ。 そこには、無数の帆船が停泊し、クレーンが動き、労働者たちがキビキビと荷物を運んでいる光景が広がっていた。 荷馬車が行き交い、検品係が書類と現物を照らし合わせる声が飛び交う。
「降りようか。……現場の空気こそが、最高の情報源だ」
ジークフリートが先に降り、自然な動作でセレスティアに手を差し伸べた。 その手は大きく、剣ダコがあり、そして温かかった。 アルフォンスのエスコートはいつも形式的で、自分の格好良さを気にするあまり、セレスティアの歩幅を無視することが多かった。だが、ジークフリートの手は、しっかりと彼女を支え、彼女が地面に降り立つその瞬間まで、優しく導いてくれる。
「ありがとうございます、殿下」
「ジークフリートでいい。……ここでは私は、ただの君のパートナーだ」
二人が港を歩き始めると、作業中の労働者たちが手を止め、敬意を込めて道を空けた。 恐れによる服従ではない。 彼らは知っているのだ。自分たちの生活が豊かなのは、この銀髪の令嬢の才覚のおかげであることを。そして、その隣に立つ異国の皇太子が、彼女にふさわしい「本物」の王器を持つ人物であることを、肌で感じ取っているのだ。
「……見たまえ、あの荷揚げシステム。滑車と魔石動力を組み合わせて、重量物の運搬効率を上げているのか?」
ジークフリートが、巨大なコンテナを軽々と持ち上げるクレーンを指差した。
「ええ。ドワーフの技術者たちと共同開発したものです。従来の五倍の速度で荷役が可能ですわ。……初期投資はかかりましたが、半年で回収できました」
「素晴らしい。我が国の軍港でも採用したい技術だ。……あそこの倉庫の配置も計算されているな。風通しを良くして湿気を防ぎつつ、搬出入の動線が重ならないように設計されている」
「お気づきになりましたか? 実は、火災対策として区画ごとに防火壁も設けておりますの」
セレスティアは胸が躍るのを感じた。 説明しなくていい。 アルフォンスならば、「ふーん、すごいね(興味なし)」で終わるか、「金がかかりすぎじゃないか?」と文句を言うところだ。 だが、ジークフリートは一目見ただけで、その意図、工夫、そして背後にあるコスト計算までを瞬時に理解し、的確な評価とさらなる改善案まで返してくる。
言葉のキャッチボールが、これほどまでに楽しく、ストレスがないとは。 それはまるで、熟練の音楽家同士が即興でセッションをしているような、知的な快楽だった。
「君の領地管理能力は、一国の宰相を凌駕している。……いや、今の王国の惨状を見れば、君一人で国を支えていたことがよく分かる」
ジークフリートは、積み上げられた木箱に手を触れながら言った。
「支えきれませんでしたわ。……柱が腐っていては、どんなに補強しても無駄でしたから」
「ふっ、違いない。……だが、君という宝石が瓦礫の下敷きにならなくて本当によかった」
彼は不意にセレスティアの方を向き、その銀髪を一房、指で掬った。 至近距離で見つめられる、鷲のような瞳。 そこには、政治家としての冷徹さではなく、一人の男としての熱情が宿っていた。
「……場所を変えようか。君に見せたいものがある」
***
案内されたのは、港を見下ろす丘の上に建つ、隠れ家的な高級茶館だった。 ハイゼンベルク家の迎賓館としても使われるその場所は、喧騒から離れ、静寂と絶景を独占できる特別な空間だ。
通された個室は、東洋風のしつらえで、竹細工の家具や、美しい磁器が飾られていた。 窓からは、キラキラと輝く海と、彼らが作り上げた繁栄の街が一望できる。
「どうぞ、お座りください」
今日はセバスではなく、ジークフリートが自ら上座をセレスティアに勧めた。
「レディファーストだ。……それに、今日の茶のホストは私だからな」
彼は慣れた手つきで、茶器を温め始めた。 その所作は流れるように美しく、武人とは思えないほど繊細だ。
「殿下が、お茶を?」
「ああ。戦場や執務の合間に、自ら淹れるのが私の趣味でね。……心を整えるには、茶と剣が一番だ」
彼が取り出したのは、白磁の茶筒。 蓋を開けると、ふわりと上品な香りが漂った。 中に入っていたのは、針のように真っ直ぐで、銀色の産毛に覆われた美しい茶葉だった。
「これは……『シルバーニードル(白毫銀針)』?」
セレスティアが驚きの声を上げる。 中国茶の中でも最高峰に位置する白茶。 新芽のみを使い、揉まずに自然乾燥させることで作られる、極めてシンプルかつ奥深いお茶だ。 その名の通り、銀色の針のような見た目は、高貴で、どこか近寄りがたいほどの美しさを持っている。
「よく知っているな。さすがだ」
ジークフリートは微笑み、ガラスのポットに茶葉を入れた。 熱湯ではなく、少し冷ましたお湯を静かに注ぐ。 茶葉がゆっくりと湯の中で舞い上がり、まるで水中花のように縦に立ち並んでいく。
「この茶は、他の茶のように色濃く主張しない。……見てごらん」
抽出された水色(すいしょく)は、限りなく透明に近い、淡い杏色(アプリコットカラー)。 見た目はただのお湯のようにも見える。
ジークフリートはカップに注ぎ、セレスティアの前に置いた。
「どうぞ。……君に捧げる一杯だ」
セレスティアはカップを手に取った。 香りは、ほのかで控えめ。 干し草のような、あるいは雨上がりの森のような、自然で優しい香り。 口に含むと、驚くほど繊細な甘みが広がった。 砂糖の甘さではない。茶葉そのものが持つ、生命力のような甘みだ。 渋みは一切なく、絹のように滑らかに喉を通り過ぎていく。
「……美味しい。……心が、洗われるようですわ」
「シルバーニードルは、最も加工が少ない茶だ。だからこそ、素材の良し悪しが全て出る。誤魔化しが利かない」
ジークフリートも自分の一杯を口にし、静かに言った。
「強烈な発酵や焙煎で個性を主張する茶もいいが……私はこの茶が好きだ。凛としていて、媚びず、本質的な強さと甘さを持っている」
彼はカップ越しに、セレスティアを見つめた。
「まるで、君のようだ」
「え……?」
セレスティアの心臓が、トクンと跳ねた。 彼女は「鉄の女」「冷徹な令嬢」と呼ばれることが多かった。 アルフォンスからは「可愛げがない」と罵られた。 自分でも、感情を表に出さず、常に完璧であろうと武装している自覚があった。
「銀色の針。……美しく、鋭く、そして気高い。君はいつも背筋を伸ばし、弱音を吐かず、完璧であろうとしている」
ジークフリートの声が、甘く低く響く。
「だが、この茶のように……その内側には、誰よりも繊細で、豊かな甘みを秘めていることを、私は知っている」
「……殿下、それは買い被りですわ。わたくしは、ただの計算高い女で……」
「計算高い女が、元婚約者の国の借金を何年も肩代わりし続けるか?」
ジークフリートの指摘に、セレスティアは言葉を失った。
「君は、情が深い。深すぎるほどに。……だからこそ、裏切られた時の傷も深かったはずだ。アルフォンスのような愚か者には、君という『白毫銀針』の繊細な味わいは理解できなかっただろう。彼には、砂糖をたっぷり入れた泥水がお似合いだ」
セレスティアは視線を落とした。 扇子を持ってくるのを忘れたことを後悔した。 顔が熱い。 この人の前では、どんな仮面も役に立たない。 心の奥底まで見透かされ、そして肯定されている。
「セレスティア」
ジークフリートが、テーブル越しに彼女の手を握った。
「私は、君の強さも、有能さも愛している。……だが、それ以上に、君が一人で抱え込んできた孤独や、その下にある優しさを愛しく思う」
「……っ」
「もう、一人で戦わなくていい。計算も、駆け引きも、私に任せればいい。……君はただ、私の隣で、その美しい銀髪をなびかせて笑っていてくれればいいんだ」
それは、セレスティアが長年求めていた言葉だったかもしれない。 「頑張れ」でも「頼りにしている」でもなく、「休んでいい」「そのままでいい」という、絶対的な肯定。
彼女の目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。 それは、シルバーニードルの水色のように透き通った、美しい涙だった。
「……殿下。……ジークフリート様」
セレスティアは彼の手を握り返した。 その手は震えていたが、力強かった。
「わたくしは……わたくしはずっと、誰かに背中を預けることが怖かったのです。寄りかかれば、共倒れになると思っていましたから」
アルフォンスという、あまりにも脆い柱を支え続けてきた彼女にとって、信頼とは「リスク」と同義だった。
「ですが……あなたなら。あなたとなら、どんな嵐の中でも、共に立ち続けられる気がします」
「ああ。私は倒れない。君が隣にいる限り、世界を敵に回しても勝ち続けるさ」
ジークフリートは立ち上がり、テーブルを回って彼女のそばに来た。 そして、彼女を優しく抱き寄せた。 日向の匂いと、微かなシルバーニードルの香りが彼から漂う。
「……契約更新だ、セレスティア」
耳元で囁かれる言葉。
「貿易パートナーとしてではない。……生涯のパートナーとして、私の隣にいてほしい」
セレスティアは、彼の胸に顔を埋めた。 そこは、王宮のどのソファよりも温かく、頑丈で、安心できる場所だった。
「……はい。……喜んで、お受けいたします」
「条件は?」
「……毎日、このお茶を淹れてくださること。……それと」
彼女は顔を上げ、濡れた瞳で彼を見つめた。 初めて見せる、少女のような無防備な表情。
「……これからは、『計算』抜きで、わたくしを愛してくださいませ」
ジークフリートは満足げに笑い、彼女の唇に口づけを落とした。 それは、甘くて、温かくて、そして永遠の誓いの味がした。
窓の外では、海風が二人の未来を祝福するように吹き抜けていく。 シルバーニードルの茶柱が、ポットの中で一本、静かに立っていた。 それは「吉兆」。 二人の物語が、ここから本当の意味で始まることを告げていた。
***
その日の夕暮れ。 視察を終えた二人は、港の桟橋を歩いていた。 夕日が海を黄金色に染め、カモメの声が響く。
「……それで、王宮の様子はどうなっている?」
完全に「仕事モード」に戻ったわけではないが、ジークフリートがふと尋ねた。 彼の手は、しっかりとセレスティアの腰を抱いている。
「銀行からの報告では、昨日、強制執行が完了したそうです。……先代国王陛下の葬儀も、事務的に済ませました」
セレスティアの声には、もう迷いも湿っぽさもない。
「アルフォンス殿下とミナ様は、立ち退きを命じられ、現在は行方不明……いえ、王都の貧民街あたりを彷徨っているという目撃情報があります」
「ふん。自業自得だな。……だが、彼らはまだ『完全に』終わってはいない」
ジークフリートの目が鋭く光った。
「彼らはまだ、自分たちが被害者だと思っている。そして、いつか逆転できるという甘い幻想を捨てきれていないはずだ。……特に、あの男爵令嬢は」
「ええ。ミナ様の執着心と、現実逃避の能力は驚嘆に値しますわ」
「来週の夜会……王家主催の最後の(といっても名ばかりの)舞踏会が予定されていたな?」
「はい。中止の通達を出そうかと思いましたが……アルフォンス殿下が、最後のあがきで『開催する』と言い張っているとか。会場費も払えないのに」
「面白い。……ならば、その舞台を使って、引導を渡してやろう」
ジークフリートはニヤリと笑った。
「我々も参加しよう。……そして、彼らの幻想を、公衆の面前で木っ端微塵に粉砕するのだ。それが、彼らにできる最後の『教育』だろう」
「ふふっ。悪趣味ですわね、ジークフリート様」
「君ほどではないさ、私の愛しい共犯者殿」
二人は笑い合った。 その笑顔は美しく、そして背筋が凍るほどに冷酷だった。 最強のカップルが誕生した今、アルフォンスたちに残された運命は、破滅へのカウントダウンのみ。
***
一方、その頃。 王都の下町、路地裏のゴミ捨て場近く。
「……ううっ……寒い……」
ボロボロの毛布(というかただの布切れ)にくるまり、アルフォンスは震えていた。 隣には、ミナがいる。 彼女は、どこからか拾ってきた新聞紙を読んでいた。
「……ねえ、見てよこれ」
ミナが指差したのは、社交界のゴシップ欄だ。 『ハイゼンベルク公爵令嬢とアークライト皇太子、港で熱烈デート! 結婚秒読みか?』
「……ちくしょう……ちくしょう……!」
ミナは新聞紙を引き裂いた。
「私が……私がそこに入るはずだったのに! あの銀色の女が、私の場所を奪ったのよ!」
「……もういいよ、ミナ。僕たちはもう……」
「よくない! 諦めないでよ! あんた王子でしょ!?」
ミナはアルフォンスの胸倉を掴んで揺さぶった。
「来週よ! 来週の夜会! あれがラストチャンスよ!」
「夜会? 王宮は差し押さえられたんだぞ。どこでやるんだ」
「場所なんてどこでもいいわよ! 広場でも、公園でも! そこで私たちが『真実の愛』を叫べば、きっとみんな感動して、味方になってくれるはずよ!」
ミナの目は、完全に常軌を逸していた。 彼女の脳内では、まだ自分は悲劇のヒロインであり、最後には大逆転して幸せになれるというシナリオが書き換えられていないのだ。
「……ドレスは?」
「作るわよ! この新聞紙と、そこのゴミ袋で! 私のセンスなら、最高にアバンギャルドなドレスができるわ!」
「……そうか。頑張ってくれ」
アルフォンスは、止める気力もなかった。 もうどうにでもなれ。 最後にもう一度だけ、華やかな場所(たとえそれが妄想の中だとしても)に立てるなら、それでいい。
彼は泥にまみれた手で、空の胃袋を押さえた。 口の中に残るジャスミンの記憶は、下水の臭いにかき消され、もう二度と思い出せそうになかった。
「見てなさい、セレスティア……。私が主役の座を取り返してやるんだから……」
ミナの怨嗟の声が、路地裏の闇に吸い込まれていった。 シルバーニードルのような高貴な光とは無縁の、ドブネズミたちの夜が更けていく。
次話、「バタフライピー(青から紫へ変わる情勢)」。 ついに直接対決の時が来る。
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