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第十九話:ロイヤルミルクティー
断罪の嵐が過ぎ去った翌朝、ハイゼンベルク公爵邸は、まるで深海のような静寂に包まれていた。 鳥のさえずりさえも遠慮がちに聞こえるほど、屋敷全体が深い安息の息を吐いているようだった。
わたくし、セレスティア・フォン・ハイゼンベルクは、自室の鏡の前で、最後の手直しをしていた。 映っているのは、復讐に燃える「鉄の女」でも、計算高い「商会総帥」でもない。 一人の、恋する女性としての自分だった。
今日のドレスは、純白のシルクに金糸の刺繍を施した、トラベルドレスだ。 動きやすさを考慮しつつも、一国の皇太子妃として恥ずかしくない品格を備えている。 首元には、ジークフリートから贈られた大粒のサファイアが、朝陽を浴びて青く輝いていた。
「……終わりましたのね」
独り言が、何もない部屋に吸い込まれる。 長年住み慣れたこの部屋とも、今日でお別れだ。 家具には白いカバーが掛けられ、思い出の品々はすでにトランクに詰め込まれている。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「お嬢様。……ジークフリート殿下がお待ちです」
セバスの声だ。 いつものように冷静で、けれどどこか温かい声。
「ええ、今行きますわ」
わたくしは鏡の中の自分に、一度だけ微笑みかけた。 「よくやったわ、セレスティア」と。 そして、踵を返して部屋を出た。 重厚な扉が閉まる音は、わたくしの過去の扉が閉まる音でもあった。
***
一階のサロンでは、ジークフリートが窓辺に立ち、庭を眺めていた。 彼の背中は広く、頼もしく、そして見ているだけで胸が熱くなるような引力を持っていた。
「……待たせたかしら?」
声をかけると、彼が振り返った。 その瞬間、彼の鋭い瞳がふわりと緩み、甘い光を宿す。 この変化(ギャップ)を見られるのは、世界でわたくしだけだという優越感が、胸の奥をくすぐる。
「いや。……君を待つ時間さえも、私にとっては幸福なひとときだ」
彼は歩み寄り、わたくしの手を取って口づけを落とした。
「美しいよ、セレスティア。……帝国の太陽も、君の前では霞んでしまうだろうな」
「まあ、お上手ですこと。……帝国の社交界で、その口説き文句が通用するか試してみますわ」
「よしてくれ。君以外の女性にこんなことを言ったら、外交問題に発展しかねない」
軽口を叩き合いながら、私たちはソファに腰を下ろした。 テーブルの上には、最後のお茶の用意が整えられていた。
「今日は、わたくしが淹れますわ」
わたくしはポットを手に取った。 今日のお茶は、特別製だ。 アッサムの茶葉を、水を使わず、濃厚なジャージー牛乳だけでじっくりと煮出した「ロイヤルミルクティー」。 仕上げに、蜂蜜をたっぷりと加え、少しだけブランデーを垂らしてある。
カップに注ぐと、とろりとした乳白色の液体から、甘く芳醇な香りが立ち上った。 湯気の中に、キャラメルやバニラのような複雑な香りが混じる。
「……どうぞ」
差し出すと、ジークフリートはカップを両手で包み込むようにして受け取った。
「ありがとう。……これが、この国で飲む最後の一杯か」
「ええ。……苦いお茶も、渋いお茶も、いろいろありましたけれど。……最後は、とびきり甘くしたかったのです」
わたくしも自分のカップを口にした。 温かい液体が、舌の上を滑り落ちていく。 濃厚なミルクのコク。 力強い紅茶の苦味を、優しく包み込む甘さ。 そして、ブランデーの微かなアルコールが、体の芯を熱くする。
「……美味しい」
ジークフリートが、目を閉じて味わうように言った。
「すべての角が取れて、丸く、柔らかく、それでいて芯がある。……まるで、今の君のようだ」
「ふふっ。……以前は『銀の針』と仰いましたのに」
「あれは戦う君だ。……今の君は、戦いを終え、愛に満たされている。……その甘さが、私を狂わせる」
彼はカップを置き、身を乗り出してわたくしの頬に触れた。 その指先は熱く、視線は絡みつくように濃厚だった。
「セレスティア。……帝国に行けば、今までとは違う苦労もあるだろう。古い慣習や、私の命を狙う政敵もいる。……それでも、来てくれるか?」
「愚問ですわ」
わたくしは、彼の手のひらに自分の手を重ねた。
「わたくしは、あなたの『共犯者』ですもの。……地獄の果てまで、いいえ、天国の頂(いただき)まで、お供いたしますわ」
「愛している」
「わたくしもです。ジークフリート様」
二人の唇が重なった。 ロイヤルミルクティーの甘い味がした。 それは、ただの砂糖の甘さではない。 長い冬を越え、苦難を乗り越え、ようやく手に入れた春の日差しのような、魂を溶かす甘さだった。
「……ご馳走様でした」
唇を離し、ジークフリートが悪戯っぽく笑った。
「お茶の話か、それとも……?」
「両方だ」
わたくしたちは笑い合った。 もう、言葉はいらない。 互いの鼓動が、同じリズムで未来を刻んでいるのが分かるから。
***
屋敷の外に出ると、そこには壮観な光景が広がっていた。 ハイゼンベルク家の私兵団と、アークライト帝国の黒鷲騎士団が整列し、二つの旗が風になびいている。 そして、その周りには、数え切れないほどの領民たちが集まっていた。
「セレスティア様ー! 万歳ー!」 「今までありがとうございましたー!」 「帝国に行ってもお元気でー!」
花束を持った子供たち、涙を流す老婆、帽子を振る男たち。 彼らの声は、悲しみではなく、感謝と祝福に満ちていた。 わたくしがこの領地で積み上げてきたものが、決して無駄ではなかったことを証明する、最高の「評価」だ。
「……皆」
わたくしは胸が詰まりそうになった。 商売として、利益のために統治してきたつもりだった。 けれど、そこには確かな「絆」という対価が生まれていたのだ。
「行きましょう。……彼らの笑顔を、最高の思い出にして」
ジークフリートのエスコートで、わたくしは馬車に乗り込んだ。 白塗りの車体に、金色の装飾が施された、おとぎ話に出てくるような馬車だ。 かつてミナが夢見ていたものが、今、現実としてわたくしを包んでいる。 皮肉なものだ。 夢を見るだけの者には手に入らず、現実と戦った者にのみ、夢のような結末が与えられるのだから。
「出発!」
御者の掛け声と共に、馬車が動き出した。 蹄の音が、石畳を軽やかに叩く。 わたくしは窓から身を乗り出し、手を振った。
「行ってらっしゃいませー!」 「お幸せにー!」
歓声の波の中を、馬車は進んでいく。 ハイゼンベルク領を抜け、王都へと続く街道へ。 そこは、わたくしの過去が眠る場所への、最後の行進ルートでもあった。
***
馬車は、王都の大通りに入った。 ここもまた、黒山の人だかりだった。 かつてアルフォンスの馬車が通るたびに石を投げようとしていた市民たちが、今は花吹雪を撒いている。
「すごい熱気だな」
ジークフリートが窓の外を見て言った。
「彼らは期待しているのだ。……新しい時代と、それを導く女神に」
「女神だなんて。……わたくしはただの、計算高い商売人ですわ」
「その商売人が、国を救った。……結果が全てだ」
馬車はゆっくりと進み、やがて巨大な廃墟の前で速度を緩めた。 旧王宮。 かつてわたくしが青春を捧げ、心血を注いで管理していた場所。 そして、アルフォンスとミナが破滅を迎えた場所。
門扉は固く閉ざされ、鎖が巻かれている。 庭木は伸び放題で、白い壁は汚れ、窓ガラスの多くが割れたままだ。 まるで、巨大な墓標のように静まり返っている。
「……止めて」
わたくしは小さく命じた。 馬車が止まる。 静寂が訪れた。
わたくしは窓を開け、その廃墟を見上げた。 脳裏に、様々な記憶が蘇る。
初めてアルフォンスに会った日のこと。 彼のために夜遅くまで書類と格闘した日々。 サンルームでのお茶会。 そして、あの断罪の夜会。
辛いこと、苦しいこと、理不尽なことばかりだった。 でも、それが今のわたくしを作った。 あの泥沼があったからこそ、わたくしは蓮の花のように咲くことができた。 あの未熟な王子がいたからこそ、わたくしは本物の王器を見抜く目を持てた。
「……」
わたくしは、持っていた扇子を開いた。 そして、廃墟に向かって、静かに、優雅に、一礼した。
「さようなら、わたくしの愛した……そして管理した国」
声に出すと、不思議なほど心が軽くなった。 未練はない。 ただ、一つの大きなプロジェクトを完了した時のような、清々しい達成感だけがあった。
「ありがとう。……わたくしを強くしてくれて」
それは、アルフォンスへの、そしてかつての自分への、最後の手向けだった。
「……行くか?」
ジークフリートが、優しく肩を抱いた。
「ええ。参りましょう。……未来へ」
わたくしは扇子を閉じた。 パチン。 その乾いた音が、過去との決別を告げるピリオドとなった。
馬車が再び動き出す。 廃墟は後ろへと遠ざかり、やがて街並みの中に消えていった。 前方には、国境へと続く道が、真っ直ぐに伸びている。 その先には、アークライト帝国という、広大で、刺激的で、そして無限の可能性を秘めた新しい舞台が待っている。
***
国境の峠に差し掛かった頃、日は西に傾き始めていた。 夕焼けが空を染め、世界を茜色と金色に塗り替えていく。
馬車の中は、二人きりの密室。 ロイヤルミルクティーの入った魔法瓶(ハイゼンベルク商会の新製品だ)を開け、再びカップに注ぐ。 時間は経っているが、魔法のおかげでまだ熱々だ。
「……ねえ、ジークフリート様」
わたくしは、揺れる馬車の中で彼の肩に頭を預けた。
「ん?」
「帝国に行ったら、まず何がしたいですか?」
「そうだな……。まずは結婚式だ。世界中の要人を招いて、盛大にやろう。君の美しさを、全世界に見せつけてやりたい」
「あら、それは大変。ドレスの準備を急ぎませんと」
「その次は……新婚旅行だな。南の島はどうだ? 仕事も、しがらみも忘れて、ただ二人だけで過ごすんだ」
「素敵ですわ。……でも、わたくしのことですから、現地の特産品を見つけたら、つい商談を始めてしまうかもしれません」
「ははは! 君らしいな。……まあいい。君が商談をしている間、私は君の水着姿を独り占めして楽しむとしよう」
「まあ! 殿下ったら!」
わたくしは彼の胸を軽く叩いた。 彼はわたくしの手を取り、指の一本一本にキスをした。
「……そして、いつか」
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
「子供ができたら……君のような、賢くて美しい娘が欲しいな」
「……男の子かもしれませんわよ? あなたのように、強くて優しい」
「どちらでもいい。……君との子供なら、きっと世界一幸せな子になる」
子供。 家族。 かつてアルフォンスとの未来を想像した時には、義務感しか湧かなかった言葉。 でも今は、その言葉の響きだけで、胸が温かくなり、涙が出そうになる。
「ええ。……きっと、素晴らしい家族になりますわ」
わたくしは、お腹に手を当てた。 まだそこには何もないけれど、いつか宿る新しい命への愛おしさが、予感として芽生えていた。
「……愛しています、セレスティア」
「わたくしも、愛しています。ジークフリート」
二人は再びキスをした。 夕日が窓から差し込み、二人を黄金のシルエットにする。 濃厚で、甘く、そしてとろけるような時間。
ロイヤルミルクティーの湯気が、ハートの形を描いて消えていく。 それは、ハッピーエンドの幕引きにふさわしい、甘い魔法だった。
***
馬車は峠を越えた。 眼下には、アークライト帝国の広大な平野が広がっている。 無数の灯りが瞬き、巨大な帝都が星の海のように輝いている。
「見ろ、セレスティア。あれが私たちの国だ」
「……綺麗」
わたくしは息を呑んだ。 王国の何倍もの規模。 あそこで、わたくしの新しい戦いが、そして新しい商売が始まる。
「さあ、行こう。……伝説の始まりだ」
ジークフリートが宣言する。 わたくしは微笑み、彼の手を強く握り返した。
「ええ。……最高の物語を、紡ぎましょう」
馬車は光の中へと駆け下りていく。 かつて「公爵令嬢」だった少女は、今、「皇太子妃」、そして未来の「女帝」として、新しい一歩を踏み出した。
復讐は終わった。 しかし、彼女の人生(ビジネス)は、まだ始まったばかりだ。 これからは、誰かを蹴落とすためではなく、愛する人と共に高みを目指すために、その才覚を振るうのだ。
背後には、過去という名の夜が沈み。 前方には、未来という名の朝が待っている。
ロイヤルミルクティーの甘い余韻を唇に残したまま、物語の第一部は、ここで静かに、そして優雅に幕を下ろす。
わたくし、セレスティア・フォン・ハイゼンベルクは、自室の鏡の前で、最後の手直しをしていた。 映っているのは、復讐に燃える「鉄の女」でも、計算高い「商会総帥」でもない。 一人の、恋する女性としての自分だった。
今日のドレスは、純白のシルクに金糸の刺繍を施した、トラベルドレスだ。 動きやすさを考慮しつつも、一国の皇太子妃として恥ずかしくない品格を備えている。 首元には、ジークフリートから贈られた大粒のサファイアが、朝陽を浴びて青く輝いていた。
「……終わりましたのね」
独り言が、何もない部屋に吸い込まれる。 長年住み慣れたこの部屋とも、今日でお別れだ。 家具には白いカバーが掛けられ、思い出の品々はすでにトランクに詰め込まれている。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「お嬢様。……ジークフリート殿下がお待ちです」
セバスの声だ。 いつものように冷静で、けれどどこか温かい声。
「ええ、今行きますわ」
わたくしは鏡の中の自分に、一度だけ微笑みかけた。 「よくやったわ、セレスティア」と。 そして、踵を返して部屋を出た。 重厚な扉が閉まる音は、わたくしの過去の扉が閉まる音でもあった。
***
一階のサロンでは、ジークフリートが窓辺に立ち、庭を眺めていた。 彼の背中は広く、頼もしく、そして見ているだけで胸が熱くなるような引力を持っていた。
「……待たせたかしら?」
声をかけると、彼が振り返った。 その瞬間、彼の鋭い瞳がふわりと緩み、甘い光を宿す。 この変化(ギャップ)を見られるのは、世界でわたくしだけだという優越感が、胸の奥をくすぐる。
「いや。……君を待つ時間さえも、私にとっては幸福なひとときだ」
彼は歩み寄り、わたくしの手を取って口づけを落とした。
「美しいよ、セレスティア。……帝国の太陽も、君の前では霞んでしまうだろうな」
「まあ、お上手ですこと。……帝国の社交界で、その口説き文句が通用するか試してみますわ」
「よしてくれ。君以外の女性にこんなことを言ったら、外交問題に発展しかねない」
軽口を叩き合いながら、私たちはソファに腰を下ろした。 テーブルの上には、最後のお茶の用意が整えられていた。
「今日は、わたくしが淹れますわ」
わたくしはポットを手に取った。 今日のお茶は、特別製だ。 アッサムの茶葉を、水を使わず、濃厚なジャージー牛乳だけでじっくりと煮出した「ロイヤルミルクティー」。 仕上げに、蜂蜜をたっぷりと加え、少しだけブランデーを垂らしてある。
カップに注ぐと、とろりとした乳白色の液体から、甘く芳醇な香りが立ち上った。 湯気の中に、キャラメルやバニラのような複雑な香りが混じる。
「……どうぞ」
差し出すと、ジークフリートはカップを両手で包み込むようにして受け取った。
「ありがとう。……これが、この国で飲む最後の一杯か」
「ええ。……苦いお茶も、渋いお茶も、いろいろありましたけれど。……最後は、とびきり甘くしたかったのです」
わたくしも自分のカップを口にした。 温かい液体が、舌の上を滑り落ちていく。 濃厚なミルクのコク。 力強い紅茶の苦味を、優しく包み込む甘さ。 そして、ブランデーの微かなアルコールが、体の芯を熱くする。
「……美味しい」
ジークフリートが、目を閉じて味わうように言った。
「すべての角が取れて、丸く、柔らかく、それでいて芯がある。……まるで、今の君のようだ」
「ふふっ。……以前は『銀の針』と仰いましたのに」
「あれは戦う君だ。……今の君は、戦いを終え、愛に満たされている。……その甘さが、私を狂わせる」
彼はカップを置き、身を乗り出してわたくしの頬に触れた。 その指先は熱く、視線は絡みつくように濃厚だった。
「セレスティア。……帝国に行けば、今までとは違う苦労もあるだろう。古い慣習や、私の命を狙う政敵もいる。……それでも、来てくれるか?」
「愚問ですわ」
わたくしは、彼の手のひらに自分の手を重ねた。
「わたくしは、あなたの『共犯者』ですもの。……地獄の果てまで、いいえ、天国の頂(いただき)まで、お供いたしますわ」
「愛している」
「わたくしもです。ジークフリート様」
二人の唇が重なった。 ロイヤルミルクティーの甘い味がした。 それは、ただの砂糖の甘さではない。 長い冬を越え、苦難を乗り越え、ようやく手に入れた春の日差しのような、魂を溶かす甘さだった。
「……ご馳走様でした」
唇を離し、ジークフリートが悪戯っぽく笑った。
「お茶の話か、それとも……?」
「両方だ」
わたくしたちは笑い合った。 もう、言葉はいらない。 互いの鼓動が、同じリズムで未来を刻んでいるのが分かるから。
***
屋敷の外に出ると、そこには壮観な光景が広がっていた。 ハイゼンベルク家の私兵団と、アークライト帝国の黒鷲騎士団が整列し、二つの旗が風になびいている。 そして、その周りには、数え切れないほどの領民たちが集まっていた。
「セレスティア様ー! 万歳ー!」 「今までありがとうございましたー!」 「帝国に行ってもお元気でー!」
花束を持った子供たち、涙を流す老婆、帽子を振る男たち。 彼らの声は、悲しみではなく、感謝と祝福に満ちていた。 わたくしがこの領地で積み上げてきたものが、決して無駄ではなかったことを証明する、最高の「評価」だ。
「……皆」
わたくしは胸が詰まりそうになった。 商売として、利益のために統治してきたつもりだった。 けれど、そこには確かな「絆」という対価が生まれていたのだ。
「行きましょう。……彼らの笑顔を、最高の思い出にして」
ジークフリートのエスコートで、わたくしは馬車に乗り込んだ。 白塗りの車体に、金色の装飾が施された、おとぎ話に出てくるような馬車だ。 かつてミナが夢見ていたものが、今、現実としてわたくしを包んでいる。 皮肉なものだ。 夢を見るだけの者には手に入らず、現実と戦った者にのみ、夢のような結末が与えられるのだから。
「出発!」
御者の掛け声と共に、馬車が動き出した。 蹄の音が、石畳を軽やかに叩く。 わたくしは窓から身を乗り出し、手を振った。
「行ってらっしゃいませー!」 「お幸せにー!」
歓声の波の中を、馬車は進んでいく。 ハイゼンベルク領を抜け、王都へと続く街道へ。 そこは、わたくしの過去が眠る場所への、最後の行進ルートでもあった。
***
馬車は、王都の大通りに入った。 ここもまた、黒山の人だかりだった。 かつてアルフォンスの馬車が通るたびに石を投げようとしていた市民たちが、今は花吹雪を撒いている。
「すごい熱気だな」
ジークフリートが窓の外を見て言った。
「彼らは期待しているのだ。……新しい時代と、それを導く女神に」
「女神だなんて。……わたくしはただの、計算高い商売人ですわ」
「その商売人が、国を救った。……結果が全てだ」
馬車はゆっくりと進み、やがて巨大な廃墟の前で速度を緩めた。 旧王宮。 かつてわたくしが青春を捧げ、心血を注いで管理していた場所。 そして、アルフォンスとミナが破滅を迎えた場所。
門扉は固く閉ざされ、鎖が巻かれている。 庭木は伸び放題で、白い壁は汚れ、窓ガラスの多くが割れたままだ。 まるで、巨大な墓標のように静まり返っている。
「……止めて」
わたくしは小さく命じた。 馬車が止まる。 静寂が訪れた。
わたくしは窓を開け、その廃墟を見上げた。 脳裏に、様々な記憶が蘇る。
初めてアルフォンスに会った日のこと。 彼のために夜遅くまで書類と格闘した日々。 サンルームでのお茶会。 そして、あの断罪の夜会。
辛いこと、苦しいこと、理不尽なことばかりだった。 でも、それが今のわたくしを作った。 あの泥沼があったからこそ、わたくしは蓮の花のように咲くことができた。 あの未熟な王子がいたからこそ、わたくしは本物の王器を見抜く目を持てた。
「……」
わたくしは、持っていた扇子を開いた。 そして、廃墟に向かって、静かに、優雅に、一礼した。
「さようなら、わたくしの愛した……そして管理した国」
声に出すと、不思議なほど心が軽くなった。 未練はない。 ただ、一つの大きなプロジェクトを完了した時のような、清々しい達成感だけがあった。
「ありがとう。……わたくしを強くしてくれて」
それは、アルフォンスへの、そしてかつての自分への、最後の手向けだった。
「……行くか?」
ジークフリートが、優しく肩を抱いた。
「ええ。参りましょう。……未来へ」
わたくしは扇子を閉じた。 パチン。 その乾いた音が、過去との決別を告げるピリオドとなった。
馬車が再び動き出す。 廃墟は後ろへと遠ざかり、やがて街並みの中に消えていった。 前方には、国境へと続く道が、真っ直ぐに伸びている。 その先には、アークライト帝国という、広大で、刺激的で、そして無限の可能性を秘めた新しい舞台が待っている。
***
国境の峠に差し掛かった頃、日は西に傾き始めていた。 夕焼けが空を染め、世界を茜色と金色に塗り替えていく。
馬車の中は、二人きりの密室。 ロイヤルミルクティーの入った魔法瓶(ハイゼンベルク商会の新製品だ)を開け、再びカップに注ぐ。 時間は経っているが、魔法のおかげでまだ熱々だ。
「……ねえ、ジークフリート様」
わたくしは、揺れる馬車の中で彼の肩に頭を預けた。
「ん?」
「帝国に行ったら、まず何がしたいですか?」
「そうだな……。まずは結婚式だ。世界中の要人を招いて、盛大にやろう。君の美しさを、全世界に見せつけてやりたい」
「あら、それは大変。ドレスの準備を急ぎませんと」
「その次は……新婚旅行だな。南の島はどうだ? 仕事も、しがらみも忘れて、ただ二人だけで過ごすんだ」
「素敵ですわ。……でも、わたくしのことですから、現地の特産品を見つけたら、つい商談を始めてしまうかもしれません」
「ははは! 君らしいな。……まあいい。君が商談をしている間、私は君の水着姿を独り占めして楽しむとしよう」
「まあ! 殿下ったら!」
わたくしは彼の胸を軽く叩いた。 彼はわたくしの手を取り、指の一本一本にキスをした。
「……そして、いつか」
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
「子供ができたら……君のような、賢くて美しい娘が欲しいな」
「……男の子かもしれませんわよ? あなたのように、強くて優しい」
「どちらでもいい。……君との子供なら、きっと世界一幸せな子になる」
子供。 家族。 かつてアルフォンスとの未来を想像した時には、義務感しか湧かなかった言葉。 でも今は、その言葉の響きだけで、胸が温かくなり、涙が出そうになる。
「ええ。……きっと、素晴らしい家族になりますわ」
わたくしは、お腹に手を当てた。 まだそこには何もないけれど、いつか宿る新しい命への愛おしさが、予感として芽生えていた。
「……愛しています、セレスティア」
「わたくしも、愛しています。ジークフリート」
二人は再びキスをした。 夕日が窓から差し込み、二人を黄金のシルエットにする。 濃厚で、甘く、そしてとろけるような時間。
ロイヤルミルクティーの湯気が、ハートの形を描いて消えていく。 それは、ハッピーエンドの幕引きにふさわしい、甘い魔法だった。
***
馬車は峠を越えた。 眼下には、アークライト帝国の広大な平野が広がっている。 無数の灯りが瞬き、巨大な帝都が星の海のように輝いている。
「見ろ、セレスティア。あれが私たちの国だ」
「……綺麗」
わたくしは息を呑んだ。 王国の何倍もの規模。 あそこで、わたくしの新しい戦いが、そして新しい商売が始まる。
「さあ、行こう。……伝説の始まりだ」
ジークフリートが宣言する。 わたくしは微笑み、彼の手を強く握り返した。
「ええ。……最高の物語を、紡ぎましょう」
馬車は光の中へと駆け下りていく。 かつて「公爵令嬢」だった少女は、今、「皇太子妃」、そして未来の「女帝」として、新しい一歩を踏み出した。
復讐は終わった。 しかし、彼女の人生(ビジネス)は、まだ始まったばかりだ。 これからは、誰かを蹴落とすためではなく、愛する人と共に高みを目指すために、その才覚を振るうのだ。
背後には、過去という名の夜が沈み。 前方には、未来という名の朝が待っている。
ロイヤルミルクティーの甘い余韻を唇に残したまま、物語の第一部は、ここで静かに、そして優雅に幕を下ろす。
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