幸運

KeiSenyo

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幸運

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 風が筋を立てている。ちょうど煽られない空気の抜け道だ。一匹の虫がその筋の中に入り、悠々と飛行する。羽をどんな向きに合わせても思い通りの道筋を通って自由自在に運ばれていく。
 風は急に方向転換し、虫とは違う意図の方角へ走り出した。勿論、虫はそこから脱出するためにばたばたと慌てて羽を動かす。しかしなかなか抜け出せない。虫は、その意思とは違う風に翻弄されながら行きたかった場所とは異なる場に出てしまう。近道だと思った空の飛行ルートはかえって遠回りになってしまう。虫は、ばたばたと飛び回りながらまた自分を乗せていってくれる風の筋を頼んだ。だが彼の思い通りの道筋を立ててくれる風はどこにもない。虫は、ふむと考えた。意図に合う風が見つからないのならば、自力で飛ぶしかない。その方がきっと早い。だが彼に合わない意図の風は上空でびゅんびゅん唸っていてとてもじゃないが飛んでいけなかった。地面すれすれを飛行すればいいのではないか。そうすると今度は天敵が多い。虫は何かに紛れていけばいいのではと考えた。つまり、やはり、彼の意思にそぐう方角へ連れて行ってくれる天敵ではない大きな動物に、ひっつくのだ。
 彼には言葉がなかった。だが勘というものは働く。これぞという動物は、大柄な河馬で、歩みはひどくのろかったが確実に彼を安全に護衛してくれた。困った時は河馬の口に入ってしまえばいいのだ。こうして守られて、彼は目的の場所まであと一歩のところまできた。長い日にちがかかってしまったがおそらく仲間はまだ待っていてくれるだろう。あとは、彼は自力で飛んでいくことにした。もうすぐだ。
 しかし彼はひどく喉が渇いた。途中、飲み込めるような手ごろな蜜を持った花が見つからなかったのだ。けれど目的地には、彼が欲しい甘い蜜のある花が咲き乱れる園がある。彼は我慢した。喉の奥がひっつきそうになるのを耐えて、天敵から必死で逃れながら、うまく飛行できた。もう少し、もう少し。あとちょっと。その時だった。筋を立てた風が、ふいに彼の前に下りてきた。そして、筋の中に彼を巻き込むと、そのまま空の上に浮上させた。彼はわけもわからず懸命にもがき、元のルートへ戻ろうとした。彼としたことが、途中までその力の恩になっていた空気という異物に、旅を邪魔されたのだ。かわいそうに彼はひどい栄養不足のまま遠くまで飛ばされてしまった。

 そこから物語が始まる。虫は、六足の脚をもち四つの羽を生やした甲殻の持ち主を指していう。それは、人間の付けた分類の種だ。つまり、彼にも六足と四羽があったが滅多にお目にかかれない優雅な色彩と愛らしい表情が具わった希少な動物だった。彼は声こそなかったが自分の意図を伝えるすべを持っていた。よく観察すれば彼の意思は人間の言葉に置き換えられた。もう少し詳しく彼のことを書こう。彼の肌は柔らかく、甲質なのだが見た目は柔軟な皮を被っていた。軟骨が甲羅の周りを覆っているといっていい。だから昆虫特有のきらびやかな光沢はない。色は赤みがかった黄色で、この肌の人種はいる。彼の関節は昆虫に準じたものであったがそんなに一定の動作を繰り返すものではない。ただし、人間に比べてせわしくはある。彼の方が小さいのだから、比べて小さな生き物がどんな時間軸で動いているか、そのままであった。彼はよくしゃべる。言葉はないのだが身振り手振りは本当に豊かに彼の感情を表現する。彼はその動作で風あるいは他の動物を呼んでいるがその意図通りに他の者が動いてくれるということはない。彼は頭がよく、ついつい他の者に力を頼ろうとするが失敗ばかりだ。彼には仲間がいて、花の蜜を巡って各地を旅するが単独行動する者が多い。それだけ好奇心が彼らの一族は豊かである。
 そして、これが重要なことだが、彼らは運が強い。彼らはそれを自慢しない。なぜなら、運という言葉や概念が彼らにはないからである。虫といえば、例えば何を思い浮かべるだろうか?ここまで書いて、もっとも彼に近い生き物は何かと考えてみるが、ふさわしい名前が思い浮かばない。確かに彼らには分類された種の名前が与えられているが、それを使用するのは実は気が引ける。彼らの生活は音楽的で、いかにも愛らしくて、その名前が適当な呼び名だとはとても思えないのだ。「ジュクトール・クス」…多分聞いたことのない分類名のはずだ。分類が目的の名称だから、無機的でやはり呼称とはしたくない。だから、精一杯考えた末で、この名称を彼に与えたいと思う。

妖精霊スピリチュアル・ピクシー

 もしかしたら、紛らわしい呼称かもしれない。確かに彼は「妖精」らしいし雰囲気はそれによく似ている。だが彼は霊的でもある。見えたり見えなかったりするのだ。それは彼の特性でもあるが、まったくゴーストのように霊感が強くなければ見えないたぐいの存在ではない。むしろ、妖精あるいは小人のように身を隠すのがうまい種だといえよう。それでも「霊」と付けたいのは、妖精や小人以上に、敬意がなければ見ることができないからだ。敬意と言う言葉を言い換えるなら、そこに存在すると強く思わなければ、出会えない生き物であるのだ。彼は別に人間に対してああしろこうしろという意図を持たない。だから、人の面前に出てくる必要はないのだから、当然身を隠す。大事なのは、こちらが彼に会いたいと意図を持つことだ。少し、どきどきとすることだろう。どきどきとする印象なのだから、この呼称がふさわしいのではないかと思うのだ。
 さて思いがけない風に飛ばされて、妖精霊はどうしたか…ある青年の前に彼は落ちてきたが、初め、青年は何が落ちてきたか分からなかった。きらきらとしたものが眼前を掠めたが目で追うことはしなかった。彼は用事の途中だったから気にかけなかった。その時、ききいっと音を立てて自動車が止まった。信号に急ブレーキを掛けたのだが、それで青年はそちらに顔を向けた。すると、さっき落ちてきたきらきらしたものが何か生き物らしいということに気がついた。珍しい生物か、彼は確かめようとしたが、その生物は目の前からふっと消えた。消えたように見えたが妖精霊は、体の表面を保護色にしてコンクリートの地面に紛れたのだ。まるでカメレオンのようだと青年は思ったがちっともカメレオンらしくない虫のいで立ちに興味をそそられた。虫は、顔を上げて青年を見た。青年と目と目があった。妖精霊の目は瞳があって、比較的顔の正面にある。くりっとした目玉で、その眼相からどんな感情なのか窺える。妖精霊は困ったことになったという顔つきをしていた。青年は、コンクリートに紛れてすっかり灰色になっている虫の切ない顔相に迷子の子供のような表情を見て、立ち止まった。青年はひざを折ってしゃがんだ。虫は、青年から目を離さず、相手の出方を窺っていた。
「どうした?腹が減ったのか」
 青年は虫に呼びかけた。虫は、慌てたようにじたばたして、色を変え、目をくるくるさせて、青年を指差した。指…性格には六本足の一本を指した。
「俺?俺か。トマス=ヘンデルというが。お前は?」
 言葉を持たない妖精霊は返事をしようとして動かぬ顎を右に左に傾けた。彼に口はない。口は、ストローだから。だがどうやら耳はある。人間とはまったく異なる構造の耳だが、少なくとも人の声は聞き分けられるもののようだ。
 声は持たないが仲間と識別する呼称はあるようだ。そして、さらに人間の言葉は聞き分けられ理解できる。いや、彼らはどんな言葉も理解し思考することができた。彼らと交流して初めて分かることだが「妖精霊」と名付けた理由もそこにある。トマスは虫が何を言いたいか彼を見てじっくりと観察した。妖精霊は身振り手振りで説明しようとする…自分には名前があること。喉が渇いてもう限界だということ。もし甘い蜜の花のある場所を知っていたら教えてほしいということ。だがトマスには彼の言っていることの半分しか分からない。飢えているらしいことは分かるが何を食べたいのか?青年は虫のいで立ちをよく見た…その細い、顎の先からはストローのようなものが出るのか?蝶のように?青年は思ったことをそのまま虫に伝えた。すると、虫はうんうんと頷く。じゃあ、ハチミツはどうだ?食べられるか?虫は、少し考えてとにかく頷いた。青年は虫を連れて家に戻ることにした。あ、と青年はさっきの用事を思い出したが、別に後回しにしてもいい事だったので気にせず引き返した。
 帰宅すると青年―トマスは、早速蜂蜜を取り出し、皿に乗せて虫に供じた。虫は、おいしそうに食べたが、人がいるとどうやら気が散るようで、ちらちらとトマスを窺いながらの食事だった。トマスは、こんな珍しい生き物がいるということが不思議で、写真を撮ろうと思い立ったが残念ながら機材がなかった。虫は、こんなにも腹をすかせていたのだから群れからはぐれてしまって、道に迷ったのだろう。仕方ない。この虫をちょっと調べてみよう。…彼はパソコンを取り出し、ぱちぱちとキーを打った。それらしいインターネットの図鑑を、繰ってみる。虫に似た生き物はいる。しかしどれもちょっとずつ違う。はて、これは図鑑に載っている生物なのだろうか…?トマスは、大学に向かうことを思い立つが、なんだか虫が嫌がりそうなのでそれはやめにした。早く群れに戻りたいものだろう…トマスはそう相手に訊いてみると、虫はこくんこくんと首を振った。
「じゃあ、どこに行けばいい?」
 虫は、また身振り手振りを始めたが、ほとんど分からない。しかし、風に乗って飛行してきたこと、その道中にアクシデントがあって、すっかり参ってしまったことなどはなんとなく理解できた。具体的なことは何一つ明らかではないがこちらに懸命に訴えている態度から、その旅程の大変さは慮られたのである。彼は、方角を指差した。おそらくあちらへ行きたいのだろうが、どれほど離れた場所へ行きたいかは窺い知れない。とにかく、トマスは自動車で行ける限りの所まで虫を連れて行くことにした。ところでさっきのトマス青年の用事というものはペットを飼うことだった。しかし彼はどんな生き物を飼うか迷いながらとにかくペットショップへ向かうか、それとも道端の猫でも拾い上げるかどうかと考えていた。彼はペットは虫でもいいかなどと不謹慎なことを頭に描いた。それは勿論虫には言わなかったが小さな生物を飼育してみることも、童心に返るようでいいものだろうと思った。トマスは車に乗り込み悠然と自宅を出た。まさか、これからとんでもない冒険に繰り出そうとは、考えてもみないことだった。







 突然のことだが、世界が白黒と灰色に支配されてしまった。それまで、トマスは自動車を走らせてぶどう畑の真ん中を突っ切っているはずだった。甘酸っぱい香りが漂うこの界隈は青年の好きなドライブコースだった。虫を連れて行くというへんてこなドライブだったが、彼は車が好きだったから問題ではなかった。まったく突然だった。彼は、もちろん自分の感覚が変になってしまったのだと思ったが、不思議と、隣の座席にちょこんとしている虫だけが色鮮やかで、輝いている。甘酸っぱい匂いの発信者たちは無論一斉に濃い灰色に沈み、道路と畑とで色の差異はない。危ない、と青年は思った。道を踏み外す恐れ、対向車との正面衝突の恐れがあった。しかし、隣からはふんふんと楽しげなハミングが聞こえてくる。ハミング…そう、虫は声を出していた。虫の顎には口があった。トマスはあっけに取られた。まるで妖精のような美しい羽を広げた美人の人間がそこにいたからだ。トマスは、車を止めて食い入るように虫を見つめた。虫は、にこやかに彼に笑いかけ、どうしたのと問いたげな仕草をした。
「この道を真っ直ぐでいいのか」
 彼は尋ねた。口があるなら、答えられるだろうと半ば慌てた質疑だった。
「いいよー。でもねえ」
 虫はその体躯通りの高い声を出した。
「ちょっと遠いところにあるんだ。僕の行きたい場所は!」
「君の名前は?何というんだ?」
「さっき答えたじゃない。ムシロ、ムシロっていうんだって」
「ムシロ…?それは女性名か?男性名か?」
「どっちでもいいよ。僕たちに性別はないからね」
 一連の質問を終えて、トマスは大きく息を吐き出した。夢を見ているのか?自分の頬をつねってみる。
「あれ、行かないの?ここまでで、付き添いはおしまい?」
「い、いいや」
 青年はどぎまぎした。またドライブを続ける。灰色の道路を慎重に運転していく。
「なあ、今俺、視界がおかしくなっているんだが。一切が白黒になっているんだ」
「へえ。どうして?」
「君を座席に乗せて、運転していたら、初めてこうなったんだが。君を乗せていることが原因なのではないかと思うんだ」
「ふーん…あ、そうか!」
 ムシロは機嫌よくふんふんとハミングしながら彼に答える。
「きっと、トマスは昔悪いことをしていたんだね!そういう生き物は、僕に会うと、そんなことが起こるっていうよ。良心の呵責というのか。あれあれ、どんなことをしていたのかなあ?」
 トマスはぎくりとして、また自動車を止めた。
「君はそういう存在なのか。まるで天使様だな」
「天使様?ああ、人間が信仰している…そんなものじゃないよ。だって、他の生き物にはそんなものいないから。けれど、うーん、いたっていいのか。他の動物たちにも」
 トマス青年がペットを飼いたいと考えた理由はムシロから言われたことがあるからであった。トマスはたいそう、性格が悪く、人に意地悪することが好きだった。中には自殺寸前まで追い込んだ相手もいる。彼は人に嫌われ、ずるがしこく、人を騙すことに精を出す人間だった。そんな自分が彼は嫌で嫌でたまらなかった。彼は二つに分離した心を持っていた。彼は動物になら心が開けるのではと思い、ペットを飼うことを思い立ったのだった。
「動物にはいてほしくないな。天使様は」
 彼はふいにそんなことを口にした。
「どうして?」
「俺にかかりっきりになってほしいからだよ。確かに俺はひどいことをしてきた!だから、罰というものがあれば、即刻俺に下して、今までのことを全部水に流してほしいんだ」
「へえ」
 自動車はゆっくりと動き、彼のまなこに灰色に映る道路を静かに走っていく。そうすると、次第に彼の体が柔らかく、温かくなっていき、不思議とリラックスした気持ちになって、気持ちよく運転している状態になった。隣でまだ楽しげなハミングを続けているムシロの声をBGMにして、彼はどこまでも行ける心地になった。さて、彼の仕事は職人である。木工の見習いをしている。彼の性格からしたら決して似合う職業ではなかった。何しろ職人は我慢強く、長く続ける必要があるからだ。彼はふわふわした気分屋で、今までいくつもの仕事場を転々としていた。だから、この職業も、そんなに長続きするはずがなかった。彼もそれは分かっている。だからたまたま気が向いた稼ぎ場で、折角だから色々と勉強しようという気になっていた。青年は知らぬ間に謙虚になっており、その態度は仲間から好意的に捉えられていた。が、トマスはそれに気がつかない。嫌われ者が板についていた。そう、板についていた傾向だったから、彼はなおさら謙虚になっていたのだった。
 彼は天使様がムシロという虫に化けて出てきたのだと思った…その解釈が正しいように思えた。ムシロはずっと歌っていて、何もトマスに指図しなかった。本当にこのまま真っ直ぐ走っていていいのだろうか。彼は、信号待ちの時に隣の座席を向き尋ねようとした。すると、急に世界が翳り出し、真っ暗になった。ムシロの歌は依然聞こえるが、信号が分からずアクセルも踏むに踏めず、後ろからパンパンと煽る警笛音にトマスは焦った。「ムシロ!ムシロ!」彼は呼んだ。
「目の前が真っ暗だ!どうしたらいいんだ?」
 だが返事はない。彼は構わず車を走らせることにした。そして、適当なところでブレーキを踏み、片側に止めればいいと判断したのだ。彼は慎重にアクセルを踏んだ…すると、何か音が反響してきて、今度は彼の耳いっぱいが塞がれてしまった。彼はわけがわからなくなった。目を防がれ、耳も聞こえなくなってどうしてこんな目に遭うのかとうんざりした。だがとにかくアクセルは踏めた。思い通りに自分の身体は動かすことができる。…彼は、信号から脱出し、安全な場所で車を停めることに成功した。彼は、息も絶え絶えに喘いだ…世界は、彼に対してまったく優しくないものになっているのだった。これも天使様の仕業だろうか?何かの罰を受けているのだろうか?
 どれくらいその状態が続いたのだろう…青年は疲弊し、ずっとこのままなら死んだ方がいいとさえ思い出した。しかしそんなに長時間、彼は思いがけない状態に苦しんだのではない。何か優しい風が、彼の顔に当たるようになり、不思議とそちらの感覚に意識が惹き付けられるようになり、盲目状態も聾状態も関しないまったく平然とした心理になった。風が顔面に当たり、自分の息も助けてくれている。吸おうと意識しなくても吸い、吐くと考えなくても吐くことができた。いいや、それは本当に不可思議な感覚であった。呼吸など、水中にでもいるのでなければ気を使わないはずなのだから。トマスは盲聾の変化に遭い確かに溺れる者の心地だったかもしれないが、呼吸を意識するほどではなかった。しかし、今は、意識せざるをえない。何しろ向かい風が、それを助けているのだから。
 彼は落ち着いた。もう大丈夫だと思った。すると、盲状態が回復し、つんぼから戻り、世界も白黒だったものが色を復活した。彼は驚いた。まるで、それは本当に世界が目の前にひらけた心地だったからだ。







 さてこのムシロという名の虫は一体どんな生物なのかというところから話さなければいけない。外見は、どんな昆虫にも似ていないが、人語を解し、その他の言葉もほとんど理解できる。彼らはしゃべれないが、身振り手振りでなんとなく意思を伝えられる…というのが、まず第一印象というべきだ。しかし、そんな生物ではなかった。彼らの持つ独特の能力はなんというか…その…語りにくい。非常に説明がしにくい。ムシロはトマス青年に対して確かにある能力を使った。その間、青年は虫と話をしているように錯覚した。これは錯覚なのだ。元通りの視界に戻った彼の隣の座席には口のない虫がちょこんと座っていた。それから、彼はいくつかの質問を虫にしてみたが、声などは聞こえない。虫は、前のように身振り手振りで質問に答えたがやはりそれでは内容の半分も分からなかった。
 トマス青年は、もしまた目の前が塞がれるようなことがあったら、とてもじゃないが車は運転し続けられないと訴えた。虫はしゅんとして、なるべく力は使わないようにしようと考えたらしいが、言葉は伝わらないのだからそれは約束にはならなかった。青年は再びドライブを開始した。不思議な体験はしたものの気分は害していない。またさっきのようになってしまってはたまらないがムシロを降ろしたり引き返したりする理由にまでは至らない。彼の車はブドウ畑を抜けて、市街地を遠く離れて山裾まで来た。さてこのまま山間を突っ切ることになるのだろうか…?虫は、そうしてほしいと訴える。だがいよいよ峠の狭い切羽に登ろうとする時、虫が、変な音を出した。きいい、きいいと、軋むような音だ。どこから出ているのだろう。トマスは車を路肩に止めて、ちょっと隣を窺った。すると、虫はさっき見た美人の人間に姿を変えていた。虫に目を留めると、音はやんだ。もしかしたら…この姿になる時、さっきの音がしたのか?いや、だが、今彼の目には世界は色がついていたし、耳を塞ぐほどの音の洪水もない。しかし涙が止まらなくなっている。いつのまに流れ出したのか、彼の目から、次々と大粒の涙が零れ始めた。やめてくれ。やめてくれ。そう彼は思ったが止められない。またこの変な虫の仕業かと思い、彼は、車を停車していたことにほっと安心した。こんなに泣きながら運転などとてもできない。しかしなぜ泣く必要がある…?
「なあ、一体俺に、何をした?」
 いきなりムシロは彼の目を開けて、涙を流すままになっているまなこに向かって真剣な眼差しを投げた。一方の目玉に大きく映された虫の美貌は彼の状態のまま、涙を流すべくほどだった。えっと彼は思った。俺は、この虫の美貌が素敵だから、今泣いていたのか…?すると、涙が止まった。それは嬉しいことだった。しっかりと歪んだ形のではない姿の美貌を、目に置くことができたから。彼は顔を赤らめた。虫に惚れるなんてことはないがそれでも惚れ込むほどの美がそこにあるのだ。そして、その状態は長く続いた。虫は、元の姿になかなか戻らなかった。彼は、お腹がすいたなと思った。ムシロ用に持ってきた蜂蜜をそっと小皿に乗せて、虫の前に持っていき、自分は適当なドライブ・スルーで買い込んだパンを齧った。虫はおいしそうに食べた。食べ方は、ちろちろと舌先で舐めるものだった。最後まで皿を舐め取って、虫は満腹したように腹を撫でて、ご馳走さまと言った。トマスは、どういたしましてと答えた。
「なあ、あと何マイルくらい行けば、ムシロの目的地に着くんだ?」
「ふうん。そうだな。百か、百五十と答えればいいかな」
「なんだいそれは。はっきりとしないな」
 さてこの虫は一体どんな生物なのか…少なくとも人間より歴史は古いと考えられる。彼らの骨は、我々の先祖より深い地層で発見されている。どうも我々ほど知能が発達しているようだが、無論彼らの先祖は虫なのだから、どのような進化の過程で出てきたのか非常に興味深くはある。彼らは一体、トマス青年が見たように変化の術を持っているのだろうか?彼らに尋ねてみると、いいやあれは、自分たちが彼の思うように変化するのだ、と答えた。彼らによると、体の表面を覆う軟骨は、カメレオンのように色を変えられるだけでなく、形状も変えられるというのだ。だから、例えば冒頭、河馬に護衛してもらった時などは、河馬の皮膚にでもなってしまえばよかった。河馬が彼らを守り易いものに変えられればよかった。きっと、トマス青年の場合は隣の座席に座っていて欲しいものにでもなったのであろうと。
 こうしたことをいかなる能力と呼べばいいか、本当に困る。また、彼らは動物に幻想的な光景を見せる。相手は人間だけではない。河馬にも、他の虫にも、風にも彼らは独特の景色を見せるというのだ。それはどういうことか。多分、妖精霊たちはその肉体以外にも及ぶ精神のからだともいうものを持っているのではないか。なぜなら、トマス青年の場合は彼がしてほしい姿になったというが、どうしてその姿になるべきだと決められたのか。別段彼らは相手がなってほしいものをきちんと感知して変身しているのではない…おのずとそのように変化するのだという。そして、その変化には幻想風景の追加も現れる。トマス青年は、色が白黒になったり眼前が真っ暗になったり、また聴覚の様子も変えられた。彼の要求がそうしたのだと妖精霊たちはいう。ではどうしてその要求が、彼らを通して実現されたのか。彼らはその自覚がないが、どうも媒質を持っているようだと考えられた。つまり、精神的な場を形成するような、エーテル体とでもいうべき見えないからだを…しかし、これは想像に過ぎないが。箱庭というものは、その作り手の深層心理を見せてくれる代物だというが、まさにそれのように。だがそうではないかもしれない。なにしろ、彼らはその力のために天敵に襲われることがあるのだ。その相手とは、あらゆる動物の子供だった。
 子供にとって彼らは都合のいい姿にならなかった。つまり、虫らしい虫に、生物らしい生物に、あるべきものらしいあるべきものに。子供たちには彼らの様子は歪んで見えたのだ。彼らはいなくていいものだった。そのために、一度子供らのテリトリーに侵入すると、彼らの精神的なからだが反応するのだろう、いなくていいものに変えられてしまう。虫たちは動けなくなってしまう。彼らは他のものに反応する生物である…その反応の仕方が特殊で、トマス青年も、この虫に翻弄されている気分になってきた。







 トマス青年は、ひどく疲れていた。だから、再び路肩に駐車せざるをえなくなった。峠はそれほど長くなく、もう少し行けば適当な駐車場とレストランがあるが、たまらず山の中で休みを取ったのは、明らかにムシロといて異常な体験をしたからである。しかし彼は決して不快ではなかった…それに、どうやら満足感もあった。疲弊した満足感というべきか。それは、何かを成し遂げた感覚と同じものだろうか。勝利の酔いなどとは違うが、異常だった体験そのものが、何か豊穣な熟成を遂げるというか、満腹の後の眠気のような、一日の終わりに得るべき疲れだった。彼はぐっすりと眠った。…その間、実は車が勝手に運転をし始めた。それもムシロの仕業なのだろうか。虫は全然ハンドルにもアクセルにも触れていないが、もし精神体と呼べるものがあるなら、勝手な発進はそのせいだろう。車はどんどんスピードを上げていき、最高時速まで到達した。勿論、ちゃんとコントロールされた上でだ。これも青年の望んだことだろうか。いいや違った。これは、車の望んだことだった。…つまり、自動車にも精神があるということだ。無論、我々には分からないがこれも妖精霊たちによる説明だ。トマス青年の車は一度最高時速を出してみたかった…それは、持ち主が運転しているのであれば叶わぬ願いだった。今、車の目には(目というものがあればだが)美しくその車窓に映された景色はゆったりとスローモーションである。そのエンジンの回転数に関わらず時間が遅延して過ぎていた。もっとこの最高時速を体感したいという思いだろうか。虫は彼の乗る車と同化していた。彼はフロントガラスの曇りになっていた。
 青年の車は、峠を越えひと町を越え、次の山の坂道に差し掛かった時、ふとこれ以上の速度は出ないことに気がついた。確かに最高時速は出せたが、彼が見る世界の景色はこれ以上にならなかった。自動車はゆっくりと速度を下げていき、停車した。丁度その時、青年が起きた。トマスは周りの景色が変わっていることに驚いたが、何かムシロがしたのだろうとすぐ合点した。彼の車は、疲れたようにぷしゅうと音を出して、眠ろうとした。まったく停車したところは、簡易宿泊所のある、広々とした駐車場であった。
「今ひと眠りしたところだが、折角だから泊まっていくか」
 明日も休日だし、とトマスは車をそのままに、宿に入っていった。ムシロは元の虫の姿に戻っていて、おとなしく彼についていった。宿の入り口で、彼は青ざめた。そこに手斧を持った従業員が立ち塞がっている…だけならいいのだが、明らかにトマスに対して怒りを念頭に置いているからだった。彼は罵声を浴びせられ、そこにじっとしてろと命令され、今にもその手斧で頭を叩き割られようとした。彼は無様な恰好で、手斧に対して、両手を上げて対抗した。彼がいたずらをした相手がその従業員だった…これまで青年がしでかしてきた悪行の中でもかなりひどいものの犠牲者だった。彼は集団的いじめをその相手に仕掛けた。仲間内のいじめに飽き足らず、学校ぐるみの凄惨な仲間はずれを実行した。彼は相手を嫌われ者にこしらえ、その反応を愉しんだ。それがまだ義務教育の範囲でだったから相手も逃げ出せずいつまでも彼の支配下に置かれた。やがて、トマスの目論見が世に出て今度はトマスが嫌われるようになると、その相手は自殺未遂を起こした。耐えて耐えて耐え忍んでいたのが、やっと表に現れて、それがひどくマイナスを志向したからだ。つっかい棒をはずされてしまった悲哀が渦巻いたのである。だが世間は相手を救わなかった。その従業員のこれまでのいきさつは分からない。しかし、それが一挙に噴出し、彼を襲い掛からせたのである。
 その時、時間が停止した。いや、トマスと、従業員の間だけ時が止まった。二人は、各々思考が働き、頭の中は流れが停止していなかったが、身体はそのまま、つらい恰好の維持を求められた。その間、トマスはなぜ自分がこのように相手に襲われるのか、その自覚を迫られた。相手は、どうしてトマスを殺そうとするのか、その反省を求められた。両者とも確実に自分を自覚し、それぞれの行動の結果を予測した。トマスは相手に頭を叩き潰されるだろうし、相手はそれで胸の中がすっきりするだろう。しかし、それぞれの予測を終えてもまだ体は動き出さなかった。もっとそのままの姿勢を求められた。彼らは互いを見つめ合うままだった。一方は怒りに呑まれ、一方は恐怖に慄く、それぞれの感情のままだった。しかしお互いの頭の中の表情はもう違う。両方とも互いを哀れむ感情が生じ出した。トマスは、相手の中にある怒りを、自分がこしらえたものだとしても、そのせいで相手の人生がこれからめちゃくちゃになってしまうことが忍びなくなった。彼は、自分のことも嫌いだったから、昔の自分の所業に対して、いくらか反省する気持ちがすでにあったからだ。彼は相手にすまないと思った…しかし、その相手はどうだったか。従業員は勿論収まりのつかない憎悪はまだ燻っていたが、このまま斧を振り下ろしても、何にもならないことも分かっていた。むなしく彼の頭を叩き割る未来が想像された。その手の主は、他ならぬ自分であることが、どうにも耐えられなくなってきた。しかし、ずっといまだ体勢は維持されている…いや、少しずつ、不思議な金縛りは解け出していた。両方とも、まず左の腕が動作可能となった。左腕だけでは、その体勢は変えられなかった。表情も、攻守の展開も、まだ矯正できない。次に、片足が動いた。しかし、それでももう片方の足は動かないから、やはり互いの距離も変えられない。彼らは、次に動けるようになるのはどの箇所かと待った。だが大分経っても、動けるのは片側の腕と足だった。両者はここにきて自分が間違っていることをしたと理解した。深い深い理解が、両者の目と目の間で働き、両者は、互いにゆっくりと今目を合わせる相手との同じ空気を、吸い始めた。同一の感情を、合わせ始めた。
 それでも、手斧は振られるだろう。それでも、頭は割られるだろう。それでもいいと、両者は思い始めた。そして、始めて二人は全身が動き出せた。勿論、襲い掛かる手斧はそのまま振り下ろされ、防御する側の腕はむなしく宙を彷徨ったが、また、時が止まり、
 本当に、二人の間だけの時間が停まり、周りの人間が、彼らを引き離した。
 何かが彼らに向かって、頭を下げた。それは、トマスが彼の人生に一番必要だと思った、天使かもしれない。彼には、実際翼の生えた美しい人の姿を見た。しかし、それは後から考えれば、ムシロの、変化した姿かもしれない。彼にとって欲した天使を見て、トマスは何を思ったか?やはり、自分にはそういうものがいたのだと考えたか?否、彼は、ひどく恥ずかしくなった。自分が、天使様などの目汚しにいてはならないとさえ思った。彼は自分を罰を受けるに当然だと考えていたが、罰などくれるべきではないと思った。それは、あまりに欲求が過ぎていたからである。
 彼には分かっていた。自分が、どうにもできないことこそ他の者に願うことを。彼は自分の性格を矯正したいと思っていたが、もうそれもどうでもよくなっていた。大したことではないのだ。嫌われ者でも、構わないと思い始めた。それが自分のことであれば…親や、恋人ならたまらないだろうが。大切な人が、嫌われていたらもちろん嫌だったが。彼は、天使がこの世界にいて良かったと思った…願うことが、できるからだ。どんなに邪まな願望でも、その相手がいるから、抱くことができる。そんなことを、彼は彼に襲い掛かった従業員から引き離される時、考えた。彼は、泣き出した。感動したのだ。ムシロがその姿を変えた天使を見て、彼の願望の一部が満たされて。不思議な満足が、心に広がり、彼は疲れ果て、ベッドに倒れ込むとぐっすりと眠り出した。







 翌朝、青年は何かを思い出せなかった。何なのか分からないが、何かを忘れていることだけ、知っていた。さて彼はムシロを連れて行くのである。虫が目的にしている花畑へと、車を運転していく。虫はどこへ行ったか。彼は探した。昨夜のことは覚えていない。ベッドに到着し早々に寝込んだものだから、蜂蜜を虫にあげていない、もしかしたら、自分のことなど放っておいて花園に向かったのだろうかと彼は思った。まあその方がいい。トマスは宿で朝食を取り、顔を洗って、車に乗ろうとした。
 すると、彼の自動車が勝手にドアを閉めて、彼を中に閉じ込めた。青年は何事かと思ったが、もはや車は虫と同化して、早速ドライブを始めんとしていた。トマスは慌ててハンドルを握った。しかし、アクセルを踏んでいないのに勝手に車が動き出した。彼は面食らった。すると、隣の座席から聞き覚えのある節が聞こえてきた。姿は見えないが、ムシロの声である。
「お前か?お前が何かしているのか?」
 だとすれば、どうしようもない。トマスはブレーキも踏まず車の行くままにした。仮にそうして事故に遭っても、まあ昨日の襲撃が成功する以上に悲惨でもない。彼は、昨日の事が未然に防がれたのは虫のお陰だと分かっていた。虫の力が、相手にも及んだことはあの深い理解で知ることができた。折角の付き合いだ。虫のするままにしてみようじゃないか!一方、妖精霊に自分の願望を発揮されている自動車は、ご機嫌だった。最高速度はもう出したから、今度の希望は、主のいないドライブだった。車は自分の好きなように速度を出した…勿論、事故は決して起こさない。つまらない不注意でせっかくの自由な走りを台無しにはしたくない。車にとって快適な走行は、持ち主にとっても快適だった。トマスはまだ天使がそばにいるようだと思った…別に、彼の願望が叶えられているわけではないが。
 昼までに、彼らは相当な距離を進んだが、まだ虫の目的地には着いてなかった。トマスは、そろそろ自宅に帰る頃合を測り出した。このまま虫についていっても構わなくはない…彼は今の職場の雰囲気を気に入っていたのだ。壊すとすれば、自分だが、自分が介入しない限り、今の仕事環境を変えたりはしたくなかった。
 彼は幸運が自分の元に訪れているとは考えなかった。それは、もっとも自分から離れた場所にあるものだろうと思っていて、いかにそうしたものから、離れるべきかを探った。彼は具体的なものに救いを求めなかったのだ…天使ならばいざしらず。彼は現在の幸運を手放したくなかった。勿論、そう彼が考えたのではない。トマスは、見えないムシロを前に現状を説明した。その言葉は、彼の持ち物である車も窺っていた。突然、車は停止して、その思考を閉ざした。ムシロは同化する相手を逸して、元の姿に戻った。口のない、身振り手振りの、虫の姿に。
「ここまでなんだ。ムシロを連れて行くことができるのは。だが大分運んでやれただろう?予備の蜂蜜もくれるから、ほら!」
 トマスは小瓶に分けた虫の好物を小さなポシェットに入れてやり、ムシロに渡した。
「ここでお別れだ」
 虫は、じっと二つの眼で青年を見つめた。その眼は、何をか言うものではなく、ただじっと、青年の様子を窺うものだった。青年は、これまでの不思議な出来事を思い出し、この虫はまた何かを用意してくれるのかと思った。だがそんな必要はなかった。虫は、ぷいと彼から目を離すと、もらったポシェットを肩に付け、羽を閃かせて空を飛んだ。トマスはせいせいした気分になって、虫に、心の中で感謝した。さて、と彼は車に戻り、エンジンを掛けたが、上手く回らない。まだ虫の魔法が効いているのかと、彼はボンネットの内側やタイヤや内装の隅々まで見てみたが、異常はなかった。彼は仕方なく車のコールセンターに電話を掛け、駆けつけてもらった。やって来た職員は、ぞっとした目を彼に向けた。目元に楔を打ち込んだ、どこにもいないようなやくざ者が、ボンネットに倒れ掛かってこちらを向いているのだった。「すみませんが、電話をいただいたのは…」と、職員が訊いてみると、トマスらしい得体の知れない人間は、わけの分からない人語を吐いた。職員は怯えて彼に近づけなかった。一方トマスは、どうしてコールセンターの人間はこちらに近寄らないのか、まったく分からない。
 彼が向こうに近づくと、向こうは離れた。彼が、元の場所へ戻ると、それだけお互いの距離が空いた。そして、コールセンターの人間は彼の目の前からいなくなった。彼は悪態をつき、何が起こったんだと、口汚く罵った。彼は今思い通りの嫌われ者になっていることに気がつかなかった。人から嫌われても構わないと思うその姿に変わっていた。彼は通り過ぎる誰にも助けを求めたが、彼の要求に応える人間はいなかった。彼はどうにも動かない車を罵声と暴力で必死に叩いたがどうにもならない。そのまま、夜を迎えた…彼は、疲れて眠った。その眠りは浅いものだった。はかはかと切なく、何度も気味の悪い夢を見た。そのどれもが印象に残り、今見た夢はどんな意味を持っているのだろうと考えながら、うつらうつらと眠ると、また別の印象深いおどろおどろしい夢を見た。彼はこれを繰り返した。朝になると、彼は自分が人間とは別のものになっているのではないかと感じた。車のガラスを鏡にしてみると、彼の顔は、力強く、精気に溢れていた。それまで見たことがないほどの元気と自信が窺えた。彼は自分の顔を触った…すると、ガラスの影に、あの虫が映った。それまで、虫は彼の顔面のピアスになっていたのだ。
「ムシロ」
 虫は豊かに笑った。もうトマスは虫が魔法使いであることに疑いを持たなかった。まあ天使でもいい。とにかく自分にひどい経験をもたらしている。ひどく味の悪いが、特別に涙腺の緩む感じの、かたちの分からない感動を、もたらしている。
 それが幸運だといえば、彼はもう少し虫の正体が理解できたかもしれない。幸運とは向こうからやって来るものではない。自分に引き寄せるものだからだ。さらに、幸運とは運命とも言い換えることができる…どうにもできない、ある種の邂逅なのだ。
 つまり、彼はもっとこうした経験をしたということだ。トマスは、その度に、自分がまるで性格ごと入れ違ったかのような感じを受けた。一つ一つの体験は強烈だったが、深い意味は体中を浸透し、彼に日常の食事とは別の食べ物を与えた。彼はよく笑うようになった。そして、人とよく話すようになった。彼の自分に対する嫌悪感や人に対して意地悪くしてしまう傾向は徐々に快方に向かった。彼は恋人をつくり大切にした。しかし結婚まで行かず、内縁の子供を授かり大事に育てた。彼は両肩に乗るある不安をずっと感じていた。それは、ムシロと出会って初めて感じた、どうしても対峙しなければならない深い事柄である。彼は何かに急かされている気分になっていた…急いで急いで、それと対峙しなければならない焦りだった。彼は宗教に援助を求めた。時が来れば、何事もそれは現れるというのは、彼の好ましい助言ではなかった。彼は子育てをしながら、それを待った…虫は、その間に、彼の前から姿を消した。虫の天敵である子供が誕生したからというのではない。虫は、他のものに引き寄せられる性質を持っているのだから、青年以外に、引き寄せられたというだけである。勿論、トマス青年以前は、甘い蜜の薫る植物に引き寄せられていたのである。もっとも、彼らの大部分は始め植物なり自然に身を寄せているものらしい。風の気まぐれで彼はルートを失い、偶然にもトマスと会ったわけだが、ずっと彼らの本性を発揮しているにすぎなかった。しかし、風はなぜ妖精霊に人間と出会わせたか…妖精霊が風にもその力を発揮していたとすれば、それは風の意志だったといえるが、そうではなく、むしろ虫自身の意志を風が反映したのである。虫は風にも幻影を見せるが、風はそれで遊ぶ。虫のやっていることが、風にはお見通しなのだ。
 だから、ひょっとすると、彼らは風から誕生したのかもしれない。







 さて、この稿では私が名前を付けた「妖精霊」について書き記すのであったが私はトマス=ヘンデルの息子である。私の父は本人も考えもしなかったことに精力を使い切らざるをえなかった。彼は若くして死んだ。その原因は、ムシロにもたらされた対峙心であったが、虫がいなくなってから、彼は、さる墓地の墓主となった。土地の権利が彼に代わっただけだが、彼はやらなければならないことに、祈りと祭事を選んだ。彼は司祭見習いとなり、本業の他に、そちらにも心血を砕くことになった。彼は精力的に活動した…何がそこまで彼をかき立てたか分からないが、彼はよく、自分には深い理由があるのだとしゃべっていた。それは詳しく話そうとすると、うまく語れないのだという。ただ、深い、それだけが分かるとのこと。私は「ジュクトール・クス」なる分類名の虫の研究からそれに迫りたいと願っていた。本人の、いかなる願望から虫はその欲求を拾い上げ、彼に見せたか、それこそが私自身の本当の研究である。だから、この稿は私の父への愛の告白である。ちなみに、私は「ジュクトール・クス」に実際に会い、彼らと会話を交わす研究を続けてこれに成功し、本稿にその成果を表しているが、父親のように彼らの不可思議な能力は私には効果しなかった。何度も彼らにお願いしたが、彼らも、自分たちがその能力をいつ使うかどのように使われるか分からないのだという返事だった。彼らと、父には本当に何があったのだろう。どんな相性が存在し、父に決定的な人生の選択肢を選ばせた、彼らの力に私はどうしても触れたいし、触れたことから、父の激しい衝動に迫りたい。妖精霊は、いつでも私を歓迎してくれて、父のことだけではないおかしな話をしてくれるので、まだまだ、ここに書き足りないことはある。ああ、もしかしたら、もうすでに私に彼らのマジックが掛かっているかもしれないことに思い当たった。彼らと出会っていることだ。それこそ、本当に私が望んでいることであれば、その実現は、間違いなく彼らの支援がある。しかし、支援だけではない、深い理解があることもまた事実だ。私がここにいること。それは、
 確実に、私の父親から、そして私自身から、それらの間に横たわる愛から、来ているものだから。
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