忘却の橋

KeiSenyo

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忘却の橋

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 忘却の橋、という名前の橋脚があった。人はその橋を越えると何でも忘れられるということだった。希望の事を忘れられる。例えば、別れた恋人の事や、大きな事故に遭った事、とてつもない哀しい事や、暴力を揮われた事である。橋脚の先は深い霧に、包まれている。そして、さらに先には四つ辻があり、真ん中に立って、今来た道を忘れずに戻ってくればいいのだという。忘れずに来た道を戻る、というのが確実に希望の事柄を忘却できる絶対条件なり。
 ある男が、自分がストーカーになってしまうのがつらいというので、この忘却の橋に挑戦した。彼は、深い霧の中で間違いなく元来た道を帰ったと思った。しかしどこかで勘違いをし、彼は橋へは戻らず森の奥へ迷い込んでしまった。そこで、彼は延々と恋しい人の幻影を追いかけて死ぬまで苦しんだ。こんな不幸なこともあるが、大抵は同じ道を引き返し、無事に望んだ事を忘却していった。
 だが、勿論彼らは幸福になるためにそうしたのだが、ある不幸を忘れるため、その不幸に連なる他の記憶も、無論忘れた。それは、彼らも覚悟の上だったが、彼ら自身も思わぬ事を忘れてしまうこともあった。彼らの中には、自分の名前を忘却してしまった者もいた。また、自分の家を知らない状態になることもあった。忘却には本当に覚悟が、そして忘れることの自覚が必要であった。また、もう一つ問題なのは、彼らは不幸を忘却したのだから不幸であったことも同時に頭の中から追い出していた。つまり、なぜ自分がこんな場所にいるのか、橋から戻って、誰もが分からなくなるのだった。
 さらに、彼らの中には折角忘れてしまった事柄を記憶の彼方から呼び出す者もいた。それは無意識に行ったことであるが、彼らだけが忘れてしまっているだけで、他の人間は忘れていないからだということである。忘却の橋が実行できるのは、記憶のどこかにその記憶をしまい込むだけで、完全に消すことはかなわなかったのである。忘却の橋、という名前は実は違っていた。不幸から遠ざかる橋、と言うべきだった。そして、あの四つ辻で迷ってしまった者は自身の不幸に、絡め取られてしまうのだった。
 こう考えると、不幸であるということは自分の気の持ちような気がしてくる。そう感じる時は真に不幸なのだろうが、だからといって幸福ではないなどと、言えることもないのだ。しかし、そんな風に考えることもできないだろう。何しろこんな所まで来てしまうほど彼らは追い詰められているのだから。彼らは不幸だったことを忘れるだけで、本当に幸せになれるだろうか。不幸である、という感情は、耐えられぬものであろうが、不幸を忘れてしまうことの犠牲はものすごく大きいものだ。そう言う私は…実を言えば…何度か、この忘却の橋を渡っているらしかった。そう他の人間は言うのだ。そう言う人間は、皆私の知らない者たちなのだが。私は独りぼっちだった。無論、何度も橋を行き交えば、そうなるのだ。私は、どれだけの不幸を忘れて、犠牲を払ったことだろうか。私の中には平板な意識があるだけで、誰にも同情せず、何にも煩わず、不可思議な夢の空間を漂っているように現実を感じていた。私はもう不幸を感じなくなっていた。勿論、同じように、幸福も感じない。不幸を忘れることは幸福も忘れることになるのかもしれない。少なくとも、そのような感情の起伏を私は霧の向こう側に置いてきていたのだ。私は、不幸でないが幸福でもない…私は、生きていていいのだろうか…。
 眠りから覚めて、目を開けると、誰か見知らぬ人間が私の顔に被さり、うつうつと泣いていた。私はそれが誰だか分からないから、逃げるように、目を逸らした。私を見て泣いてほしくなどなかった。私はまた不幸をもらいたくなかった。私が、どれだけ不幸と感じた事を忘却したか知らないが、煩わしいのは一切否定した。こうしていれば安心だ。
 私は耳にうるさい音を感じた。機関車の走音くらいに激しく震動する音だ。私はこれを否定したくて、投げやりに拳を振るったが、それが誰かの顔に当たった。誰かはわっと泣き出してしまった。私は謝る気も起きずただ茫然とその様子を見ていた。誰かは口を動かし、はっきりと何か言ったようだが、私は耳にうるさい騒音以外に、何も聞かなかった。そうか、忘却の果てには、人間の言葉さえ知らなくなるのか!その時、私は初めて慄然とした。今自分の置かれている状況が、やっと解った気がした。私の目に涙が浮かんだ。温かい涙だった。私はわけの分からない言葉を叫んだ。無論、人間の言葉を忘れてしまったのだから、何を言っても意味不明のはずだった。
 私は、自分が赤ん坊に戻ってしまったのだと気づいた。私は、何もかも忘れてしまって、ついにそこまで自分を引き返してしまったのだ。ああ、こんな自分を、誰が世話してくれるのだろうか!泣く涙はとめどなかった。
 すると、その瞬間、あらゆることが私の脳の中に蘇ってきた。私が、不幸だと思った事、その一切が還ってきた。私は、自分が愚かだと悟った。私は、おそらく人生で初めて、幸福を覚えた。生きていることのすべてが…言葉も感情も含めて私が煩わしいと判断した物事の全部が…この身にあることの、温かさとは!ああ、なんということだろう。あの橋が、もし記憶を完全に消してしまうものだったならば!それは人間から人間であることを剥奪してしまうことになるのだった。見事に不幸は人の一部なのだ。
 そして人は不幸を必ず克服できるものにする、というのは、この時私の中に生まれた信念だった。忘れることのできない不幸とは…私自身のありとあらゆる記憶だから。人間の温かみがあれば、それは絶対に我が物にすることができる。本当になんということだろう。私は、こうしてここにいるだけで、十分だった。
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