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Ⅰ
Ⅰ.目の開かぬ少女
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その丘のふもとにあるサン=サルという村には、百年毎に、花にも並ぶ白い肌の、美しい少女が降り立つという伝説があります。その時、少女は何を持ってくるか、というのは、伝説には語られていません。ただ、降り立つのだ、と……そうとしか。
大国サーディアの侵略戦争が始まってから、いくさに蹂躙された土地ではいかにも敗残兵が山のように誕生しました。彼らは忠実な大国の奴隷たれと、さらに前線に駆り出されるのですが、中には着る物もそのままに、どこかへ落ち延びる者もいました。そんな元兵士たちを、サン=サルという村は受け入れてきましたが、何もこれは大国の進軍が開始されて以来というわけではありません。ここは村でありながら、どの国にも属さない中立を保つ土地柄で、南北に連なる山脈中の、東西を結ぶ交通の要衝地でした。丘の頂には湖があり、そこでは多くの人々が、癒しを求めてひしめき合うほどに名のある憩いの地なのです。昔から、この土地を求めて周囲の国が侵略を繰り返してきた歴史はあるのですが、そのたびに、取られ取り返され、結局は緩衝帯となる場所に位置してまた旅人が往来するようになって、いくさに癒されたい人間が、ここを訪れるというわけなのです。
ですが、そんなことも知らず、間違って山脈を南下しもしくは北上し、街道を行かず獣道を突き進み、何かに導かれてこの地へ来てしまう者もいます。今一人、少年のような風貌の若者が、そのようにしてサン=サルの村を訪れました。漆黒ほどに艶やかな肌の彼は遠い所にある牢獄から抜け出して、着の身着のまま、逃げてきたのです。毛羽立った上衣と下穿きを身につけ、随分といかつい恰好をしています。そして目は鋭く、追われる者の特有の野性味のある暗い空気が、さらにその周囲を包んでいました。彼は谷を進み歩き、沢の水を飲みながら来たので、唐突に街道が目の前に開け、ひどく人いきれのある空気に真正面から触れたので、すっかり面食らいました。ですが、彼を見て、恐れを抱く者は道行く者に誰一人としていませんでした。彼は、よくここに来る人間そのものだったのです。
彼は当惑したままそこに突っ立っていました。
「もし?」
とサン=サルの村人が声を掛けてきました。身なりは貧しくも、すっきりとした綿の胴衣はもてなしに慣れた風に着こなされ、旅人や、逃亡者の目には痛くなく、まるでくすんだ地面の色に溶け込んでいました。
「もしかして街道を越えられてなく、山の道を渡ってきた方ですか?そうだとすれば、まずは湖に行きなされ。そこで埃と泥を落とし、出来立ての茶を飲むのです。お金は掛かりませんから、ぜひそうしなさい」
彼は頷いて、村人の指すままに行こうとしました。
「ところで、名前は何ていうんだい?ああ、名乗りたくない人間もここには来るから、答えなくてもいいけれどね」
彼は少し迷いましたが、囚われた牢獄からはもはや風の噂も届かないほどの距離を歩いてきたはずでしたから、別に名前くらいはいいだろうと考えました。そして、その名前も偽るかどうかと悩みましたが。
「リム」
彼はぼそっと言いました。
「え?」
「リムだ。そう呼んでくれていい」
ハッハと村人は笑って、彼の名前を、二回繰り返しました。
「よっぽど遠くから来たんだね」
リムと名乗った青年は、左右に大小の宿の建つ、丘へと続く大通りを人目も憚らず歩きました。まさに彼のような出で立ちの、いかにも堅気ではない者たちも普通に行き来していたのです。この近辺では珍しい彼の黒肌も目立つことはありませんでした。旅人は薄汚れ、各々が黒い土や誇りを、その肌に張り付かせていたのです。彼は、汚れた裾をまくって、肩で風を切りました。堂々とすることにしたのです。新しい名前を自分で名乗ってしまった彼は、その眼差しを初夏の陽差しを受けて強く輝かせ、肩も喉元も汗に濡らし光らせています。彼の顔は凹凸が激しく、目鼻立ちがすっきりしていました。地元の住民は黄肌の者が多く、顔面は平板でした。宿の入り口で客寄せをする人々は、どうやらこの地に来たばかりらしい者たちを、まずは湖へと誘い、親切に接していました。丘への坂道を上っていくにつれ、香りのある風が頬に当たり、今までの、彼の受けた苦痛に満ちた道程もやまびこのように遠くにこだましていく気がしました。
しかし、坂道の中ごろで、彼は誰かに腕を掴まれました。それは赤毛の長髪の女で、彼に、さっき彼が名乗った名前ではない呼び名で、耳元に囁きました。
「こら、囚人がこんな所にいちゃいけないだろ。お前はどこまでも追いかけられているんだから」
彼女は目立たない黒い外衣に身を包み、人ごみに紛れて彼に呼び掛けていました。リムはぞくりとして、目を剥き怖々と女を見ました。
「黒獣の犠牲者は皆前線に行く決まりだ。お前は生き残ったんだから。おとなしく私について来い?」
そう言うと彼の口元へ一本指を当てて、何も言わず自分に従うように促しました。風が吹いて、彼らの裾を通り過ぎました。……女があっと声を上げた時には、もう、黒肌のリムの姿はどこにも見えなくなりました。
「聞き分けのない子供だな、もう」
と彼女は溜息をついて、鼻腔を膨らませました。そして、辺りの匂いを嗅ぎ分けると、にやりとして、人ごみの中へ隠れました。
誰かがその様子を遠くから見遣り、腕組みをして立っていました。しかしその人間は、はたとどこからかの視線に気がつき、いそいそと、その場を後にしました。
「ハルマ」と書かれた看板の前に、リムは立っていました。赤毛の女から逃げてきた彼は、村のはずれ、小さな丸屋根の宿屋を小川の向かい側に見る、細い小道まで来ていました。ハルマ、とはこちらの方言なのだろうか?と彼は考えを巡らしましたが、何一つ連想できませんでした。あるいは人の名前かもしれません。夕方もしずしずと暗闇を深くし、彼は腹がすいてたまりませんでした。ろくな食べ物はずっと取っていなかったのです。
懐には金目の物はありません。彼は看板の向こうから流れてくる美味しそうな匂いに誘惑されましたが、犯罪者にならないかぎり、その芳しい誘惑者を手に収められません。彼は諦めてそっぽを向きました。
荒々しい声がして、がらんがらんと何かが激しく床を転げ、悲鳴が上がりました。彼は立ち止まりました。耳を澄ますと、若い女の声が、男の乱暴な叫声に遮られ悶絶しました。気づけば彼は小川の小橋を渡り、坂道をすっ飛んで、荒ぶる男たちの影を室内から漏らす黄色い明かりを指して太腿を腫らしました。
「女将!呼子を渡せ!」
「お前の娘がぎゅうぎゅうに伸ばされてるのに見捨てるのかあ?このまま目の前で犯してやってもいいんだぞ!」
どうやら男たちの集団は七、八人と分かりました。全員が食堂にいるようで、二人が若女を押さえつけています。リムはそっと足音を忍ばせ正面口から中に入りました。そのすぐ後にガタンガタンっと椅子なり机なりが蹴飛ばされ、幾人かが食堂の入り口へ移動しましたが、それは訪問者の足音に気付いたからではありませんでした。ハルマの宿の食堂は廊下との間仕切りの上部に壁がなかったので、リムは屈みながら、彼らの視線の死角を辿りつつ壁際に貼り付き近づきました。
「今夜は俺たちが貸し切だ!余計なことはするなよ。あるもので食わせてくれればいいんだ。そう、あるものでな」
げらげらと笑う連中の顔には、邪まな卑猥さが滲み出ていました。すると、彼らの何人かが見張りについた入り口から、冷たい風がよぎりました。その風は連中の親分まで届きました。間仕切りの上部が開け放されているのに、ちゃんと開き戸をぴっちり閉めていないのかとおかしな命令を下そうとした親玉が、そちらへ目を向け
その後ろ側に、黒い肌のリムがいつのまにか立っていることに気づきませんでした。彼は両の腕で親玉の首を絞め、喘ぎ声一つ漏らさず相手を落としました。ならず者たちが一斉にざわつき、異様な雰囲気を醸し出す、この若者をそれぞれが指差し、誰か襲えと無言の命令を出しました。リムはその時、
彼らの前でわずかに目をかすむ細い糸となり
次々と各々に深刻なダメージを与えていきました。打撃あり、目潰しありの猛襲は、彼らの反撃も意味がありませんでした。そうしても細い糸となる彼の体にまったく触れなくて、彼らはすっかり蹴散らされ、あえなく逃げ帰る支度をさせられたのでした。やっと連中が親分を担ぎ、銘々うめきながら大人しく食堂の戸から出て行くと、リムはそれを追いかけず、建物の外の敷地の木門が軋む音を聴いて、ようやくその場に座り込みました。彼はもう動けませんでした。
明くる朝、目を覚ますと随分と居心地のいいベッドに彼は寝せられていました。鳥の囀る声が快く耳に入り、彼は起き上がろうとしました。しかし当然のように起きるのを待っていたかと彼の腹が、ぐうと大きく鳴り響きました。
「おはようございます」
と、昨日はならず者たちにぎゅうぎゅうと伸ばされていた、宿の娘が声を掛け、薄緑の光を通す薄地のカーテンを左右に引きました。
「おはよう」
と、かすれ声で彼が応じました。
「気分はどうですか?私たちの、自慢の床!ですが、何よりもそのお腹を満たさなくては、折角の寝起きも十分じゃないですね」
娘は達者な口調ですたすたと歩きつつ、部屋中の調度類を次々と整えていきました。深く寝入ってしまったリムは気づきませんでしたが、どうも昨夜地震があったらしく、本や写真立てなどがちょっとずつ崩れていたのです。
「こちらに持っていきましょうか。それとも、食堂で取ります?すぐにご用意できますよ」
娘は明るくはきはきとものをしゃべりました。そばかすが頬を染め、可愛らしい唇はまだ十代前半を思わせる幼さを留め、綺麗に纏め上げた金色の髪は後ろに下がり、にこやかに笑いました。その笑顔の口元には八重歯がかすかに覗きます。
リムはしばらく黙っていました。言いようもなく腹はすいているのですが、一宿一飯だけの金銭は持っておらず、昨日のこともあまり覚えていなかったのです。「しょうがないですね」と娘は短く言って、彼の右手を軽く掴みました。
「あまりの空腹だと頭の中も鈍くなっちゃいますから、こちらに持ってきましょう。少し待っていてくださいね。」
彼に有無を言わさず娘は行ってしまいました。リムは快適な枕にふっくらと頭を沈め、濡れた目で思いを巡らすと徐々に昨夜のことを思い出していきました。
用意された食事はほどよく温まっていて、空腹に過ぎた胃に収まり易く、どんどんと喉を通っていきました。リムは夢中で食べました。彼の頭と心は抗い難い食欲についていきませんでした。罪悪感はあれど、かえって肉体が反応して食べていたのです。ただし、その効果は覿面で、
彼の中にある追われる犯罪者としての自責の念は、溶けてしまいました。それだけおなかを覆った満足が、彼の持ち合わせのない財布の中身を、足りない分の宿泊費を、なんとか補いたいという欲求へと変化させたのです。彼はまっすぐに娘を見つめました。誠実さのみが窺えるその眼差しが、彼女を快活に笑わせました。
「いいえぇ、いただいてもらった分は、いいんです。だって、この宿を守ってくれたんですから。でもね、お兄さん……
ここは、サン=サルという自衛の村なんです。戦争が始まれば弾けるようにみんなどこそこへ隠れて逃げますがね、そうでなければ、一介の来客に怖気づくほどのろまな住人じゃありません。何重にも護衛の傘がかかっているんです。だから
あなたがあそこで十分に彼らを痛めつけなくても、私たちは、大事に保護されていたんですよ。それはね、あなたのような勇敢な旅人が、宿泊費の幾割かをそうして払ってくれているからなんです」
娘は指を振って、明るく彼の申し出を断りました。
「で、あなたも村の護衛団の一員になってくれれば、今後も、宿泊代は浮きますよ?ご紹介しましょうか?」
リムは頷こうとしました。ここが、大国サーディアの遥か南で追っ手も諦めて追ってこないのであれば。
「思案していますね。何か事情でもあるんですか?ここは……」
サン=サルの村のあらましを続けて述べようとした娘の口を、眼差しを変え鋭くなった彼の視線が遮りました。そして彼は怯えた大きな目をしました。その時彼の黒い肌が、威圧をもって、人のぬくもりを拒もうとしました。しかしそこには葛藤の色があって、定まらない意思を匂わせました。目は、大きく開けられて、迸る赤色の血線は涙もうっすらと浮かべるほどに、雄弁に彼の来し方をその目は物語っていました。
急に娘は手を叩きました。「こうしましょう!」彼女はばたばたと寝具を煽り、彼に風を送りました。
「こうするんです。あなたは好きなだけここで寝泊りするんです。そして、この宿付きの護衛官になるんです。そうしましょう。ですが適当に私たちの手伝いはしてもらいます。掃除に洗濯、食事の用意に後片付け!勿論、自分のお部屋は自分で片付けなくてはなりませんよ!そうしているうちに
何か考えはまとまってきますから」
娘はそうした結論を言いにばたばたと走って女将の元へ飛んでいきました。
ハルマの宿は、村のはずれ、村の門戸からも遠くに位置した小高い山の麓にあります。ここにいる女将は、前所有者からこの宿を譲り受けていました。女将は娘を連れていましたが、本当の娘かどうかはわかりません。
娘はセラシュと呼ばれました。女将がそう声を掛けているので、リムはそうだと分かりました。名前の意味は知りませんが、その音韻から、美しく入る窓際の風、彼女はそのようだ、と彼は思いました。
彼は思案することは色々とあれど、まずは感謝の意を申し上げたいと、寝床から起き上がりました。すると、か細い声が、女将とセラシュのやり取りのある場所とは違う方向から来ることに、彼は気がつきました。そして、その声が、何とも甘く輝き誘うように響いていて、興味深い耳で彼はそれを聴きました。か細い声は、うたでした。
彼は寝床から足を下ろし、靴を履きました。ぼろぼろのそれは、まだ靴の体面を囲っていました。かろうじて締められる靴紐を締めて、彼は一歩ずつうたのそばに近づいていきました。最も宿の端にある、閉じられた戸の向こうから、それは響きます。彼はそっと扉を開きました。
目を閉じた、顎の尖った娘が、白く艶やかな綿の衣に身を包み、開けてある窓の風に揺られながら、そっと、密かに、声を出していました。誰にも声の届かないように、うたをうたっていたのです。その声を
どうしてか彼は壁の向こうから聞き届け、その思いと想いに惹かれ、ここに来たのです。
「雲のごとく 空飛ぶ少女は 百年来の客人よ
ぼさぼさ髪をなびかせて 髪を洗いに来るのです
白い少女は時の流れ 時の流れに身を任せ
風に流され流されて 水に降り立つ姿とは
水浴みをする姿とは
鳥のごとく 陽のごとく
雷雨のごとく 汗のごとく
光り輝く姿とは そう見ゆ者の幻想なり
輝かぬその姿とは そう見ゆ者の幻想なり
ラララ ラララ ララーラ ラララ
流れ 流れに連れて行き 雲へ 雲へと 消えゆく身は」
口元に留まるほど小さな調べは抑揚も最高潮に達しようという時、少女は戸口の若者に気付きました。しかし、その目は開きません。
「ご免なさい」
そう小さく少女は言いました。
「気づきませんでした。その……あなたは、誰?」
目の開かない少女は奇跡的な声色を持っている、とリムは感じました。その声は決してか細くはありません。さっきのように、誰にも聞かれないように注意して留める声音ではありません。「早い」と彼は思いました。
「こんなにも早く誰かが自分の心の中に、流れてくるのは」
彼の国は、最近になってサーディアの属州となった、北西の内陸の雪深き湿地でした。そこでは鳥や猪などを狩る狩猟が盛んで、人は、その黒肌がしわしわと流れる雪の風紋にコントラストよく映え、墨去る絵のようにその一瞬一瞬が凍結して失くさない造形の中にいました。生きていることがそのまま、豊かな芸術になっていたのです。まるで聖地にいるような彼らは周りから崇められていました。白と黒の、気品ある絵画の中に生きる人々として。
西に進軍していった大国サーディアに、彼らはあっさりと蹂躙されました。大国は「黒印の戦士」と呼ばれる猛烈な力を持つ兵隊で、周囲の国を次々と攻略していくさなかでした。深雪の国に住む彼らの多数は大国に兵に取られました。リムと、ここで名乗った彼は、その中で一人のサーディアの兵士を殺し、仲間たちを逃がしました。その時、英雄は彼でした。若者の中で彼が代表して、彼らの意志を通したのです。しかし
それで散り散りに逃げ出した従軍中だった彼らは、次々と捕まり、皆を逃がした彼は、あろうことか彼ただ一人逃げおおせるために、仲間を突き飛ばしあるいは大国に売るなどして、必死に生き延びようとしました。大国は容赦なく逃亡兵たちを捕らえました。黒印の戦士が、それを可能にしていました。黒印とは、虹鳥の落とし子の魔物「黒獣」が人間に噛み付くと現れるもので、彼らは身体の一部を失うと共に、強大な力を有したのです。腕を失えば、遥かな膂力がもう一つの腕に宿り、耳を食べられれば、圧倒的な聴力が獲得できたのです。
逃亡者たちを捕まえたのは、目の辺りを食いちぎられた者たちでした。彼らは頗る遠くまで届く視力を貰いました。その視力は想像もし難いほどに向上しました。一点を拡大するように見えるだけではなく、視野に映る全体を、草も木も生物も写真に収めるように把握ができたのです。望遠鏡とは訳が違い、その視野という画像を、いかにその中の画像が動こうが、遠かろうが近かろうが明快に一つ一つの物体を区別しながら記憶ができたのです。彼らはこと戦場において必要不可欠な戦力でした。その他にも、異常な能力の者たちがいましたが、その荒ぶる力を戦術として効果的に扱うには敵国の軍勢の動向をよく知る必要があったからです。敵勢を粉砕するためだけではなく、このように、逃げ出す者たちを手際よく捕らえるためにも。
彼はついに捕まりました。彼が仲間たちを逃がしたので、彼一人にその罪は問われました。別に兵力を無駄に削減することはなかったのです。ですが、ここへ黒獣飼いと名乗る者が現れ、自分に彼らの後始末を託すよう軍団長に申し入れました。黒獣飼いとは、黒獣を使役し、人間に襲わせ、黒印の戦士を生み出す外道な役割を担う者たちでした。
リムをはじめ、黒肌の若者たちは、集団で、囚獄で、全員黒獣に噛まれました。黒獣に噛まれると、どうなるか。実は生き残り異様な力に認められる者はわずかでした。黒印の戦士たちの背後には、累々たる屍が横たわっていました。
彼だけが生き残りました。彼だけが、黒肌の重なる夥しい数の屍を掻き分けて、出て行くことができたのです。そして、彼はある一つの能力に目覚めました。体を紐状に伸ばしていかなる攻撃もいなすことができる力です。それまで黒印は、主に人間の体の一部を鍛える効力を有してきたのですが、この時犠牲者に宿ったのは、それとは異なる有意的な変わった力でした。
彼は危うくその力を使うところでした。なぜなら心地良くその体を包むのは、いたいけな眼の閉じた少女の麗しい幸福な声で、どこへでも、その声の風に乗ってゆけそうだったからです。その風に乗って、紐帯となれば、世界中も自由に巡れたでしょう。しかし彼は、今の自分の服装を気にしました。簡素な囚人服はまったく汚らしくよごれた茶色で、ごわごわとした肌触りは締め付けるものに感じ、野生の狼のような、粗野な毛羽立ちは、いかにも彼自身の身の上を表していたからです。彼は、それを恥ずかしく思いました。恥ずかしく思ったのでした。目を閉じた彼女にはそれが見えないのに。
「俺は、リム」
少女の「誰?」という問いかけに、彼はその名前を使いました。
「俺は、囚人だった。ここまで逃げてきたんだ。だから、もうまもなく捕まるだろう」
彼はそう言いました。たしかに追っ手はこの村にやって来て、彼を軍へ戻そうとしたのです。そして遠からず、きっと彼はまた前のように、彼らに捕まってしまうでしょう。独特の力が彼に具わっていても、それでどこまでも逃げることは彼には考えられませんでした。
「そうなんですか」
「ああ。失礼した」
彼は出て行こうとしました。ですがその場に彼を引き止めるものは多く、その全体が、すべて彼の分からないことでした。
彼が出て行かないことに、無論少女は気づいています。彼らはじっと向き合っていました。まるで、閉じた目も開いているように。
「アイさぁん。あ!」
廊下を渡ってきたセラシュが二部屋ほど離れたところから声を掛けましたが、黒い山のような男が開け放した扉の前に立っているのを見て、強く興味をそそられました。
「お兄さん……なぜここに?」
リムは振り返り、何か言い訳しようとしましたが、
「お邪魔でしたかぁ。別にアイさんへの用事は後でもいいので、自分はこれで」
と、エプロンを付けたメイドはそそくさと行ってしまいました。そして
彼は、これ以上、この場にいられなくなりました。
陽の寄る朝場は、かけがえのない噂話をもたらします。夜の間に、まちまちの宿舎では、否が応にも方々の話が聞き届くからです。サン=サルの村で最も東に位置するハルマの宿から、さらに東北に見た街道沿いの村が、どうやら、ならず者たちの集団に関をつくられているということでした。通り抜けるのにわざわざ手間賃を取られるらしいのですが、サン=サルに足を運ぶ旅慣れた冒険者たちは馬鹿なものだと呆れていました。この村には、いったい戦傷者だけが来るのではなく、それから回復した者たちが訪れるのです。この村に恩義のある人々が、彼らの自慢を披露したく戻ってくることもあるのです。腕自慢、のど自慢、腹自慢などが、その芸を披露しに。中には英雄のような働きをした者も、刀剣の踊り手なども戻ってくるのです。そこはあらゆる者にとっての快癒の湖を具えた丘の麓で、出しゃばることなくその慈愛に溢れた力強い腕を四方に揺らしていたのです。いずれ、山賊に支配された村はサン=サルに救われた者たちの猛烈な襲撃を受け、ここに来る人々の足止めたる要素など一切が排除されることを、旅人はよく分かっているのです。
昨日ハルマの宿を訪れた連中は、支配された村の山賊が遣わした先遣隊でした。かの村を新しく支配する素地作りに、一番端っこの旅館を狙ったのです。しかし、たった一人の若者に次々と蹴散らされて追い出されてしまったのでした。黒肌の人間はこの辺りでは珍しい方で、ああ昨日見かけたあの人間かと分かる村人もいました。
「よくしておくれよ」
と、ハルマの女将は井戸を囲む宿仲間たちに頼みました。
「そのまま、疲れて倒れてしまったんだよ。だから、しばらくうちで面倒をみることになってさ。よっぽど遠くから来たんだろうね。でも、綺麗な目をしているって」
女将はセラシュが見た通りのリムの印象を伝えました。
「面倒を見られたがられているって。それで、自分みたいに、ひどく傷つけられたんだろうって、あの子は分かるらしいんだよ。だから、村全体で看なくちゃね。それでなくても、そんな人間が、この場所には集まってくるんだからさ」
その村に南西から、寄り添うようにやって来た夫婦がいました。身なりのいい白い服装は歩きやすく、ここまでの旅の埃をそんなに付けていません。奥方は左右別々にイヤリングをつけていました。一方は銀色で、一方は金色です。幅広の帽子は軽やかにその頭に座り、初老といえる夫の傍にひたりと寄って若い目を辺りに配っています。彼らはサン=サルの村の長い主道から脇道に逸れて北東へと向かい、その果ての、小川向こうのハルマの宿まで足を運びました。
「疲れましたか?」
「いいやあ」
と、夫は妻に返事しました。
「良い旅だ。ちっともだな」
妻はにこやかに笑い、それでいて心配そうな表情を変えませんでした。彼女は広々とした玄関口から声を掛けて、宿にチェックインを求めました。この地を訪ねる者が、どこかで被った傷痕が、その後もよく毒の如き働きを身体にしているのを取り除くためだとすれば、この夫婦の旦那も、そうでした。なぜなら、彼は荘園を持つ貴族でありながら生活のすべてを趣味につぎ込むほど散財家で、その趣味の向じる先が、ある作家の絵だったのです。しかしその作家は不慮の事故で死んで、ために彼もまた生きている意味などない憂鬱の毒を呑んだのです。彼がその絵描きの絵に殉じる理由は、今は無き遠いふるさと、森林と湖の美しかった鳥の棲む庭、いくさで焼失したある一つの山村のかたちを、子供の頃遊んだ輝かしい日々を、そこに悉く描き込んでいたからでした。彼は一代で財を築いたやり手の商人で、その財で貴族の身分を奪ったのですが、彼が荘園など自分の手で大きくも小さくもする必要のないものを手に入れてから、その生まれ故郷である土地を、帰る間もなく奪われたのです。彼にとってそこは彼の見た著しく汚いものを排した理想郷で、彼にはそこがあるから、その外で様々な辛苦に耐えながら成功ができたのです。
彼の喪失は極めて大きく、彼の手に入れた新しい土地でその模倣園を造ろうともしましたが、その運よく、あるいは悪く、彼の理想郷を描き込んだ絵をギャラリーに見つけたのです。彼はその作家とも会いました。同郷の友は意気投合し、作家は彼のためにふるさとの絵を描くようになりました。芸術を愛する彼は作品とともに様々な芸術家たちも保護するようになったのですが、その中でも無条件に愛されたのが同郷の絵描きだったのです。
その唯一ともいえる支えを失った彼は、同時に他の蒐集した芸術も芸術家たちも、一顧だにしなくなりました。ふるさとを穢され、さらに親友まで亡くしてしまった彼は、まだ若い伴侶にこの旅に連れていかれました。妻は、サリアルという献身な女性でした。
「私の仕事や財産はすべてあの絵への想いを実現するためにあったというのに」
と涙を濡らして、旅に誘った伴侶に彼は訴えていました。
「私に何か新しいものをもたらそうというのかね。それは不可能な話だよ」
事業を成功させ身分までも勝ち取り、もはや「何でもある」かの富裕な領主の暮らしに、生きていることの麗水を掛ける事柄がほとんど唯一つであったことは、本人以外では到底判らぬことでした。人が人間の素晴らしさを分かる機会に、人は何度出会うことができるかというのは、計れない回数かもしれませんが、それがない人は稀で、唯一つだけということも稀でした。彼でさえその機会はいくつもありました。ですが、彼はそれを唯一と勘定したのです。彼の呑んだ憂鬱の毒は、このために生まれたものでした。それはとても我儘な意見で、彼に近しい周りの者の、心を痛めつける効果のあるものでした。彼を旅に誘った若い伴侶は二番目の妻で、彼とは歳が幾つも離れていました。いくつもの鋭い刃が、その若い女性の肌に喰い込むように、彼の知らずうちに彼自身が生み出した懊悩はサリアルという伴侶を痛めつけました。彼女はこのつまらない男をいくらも捨てていくことができたでしょう。ですが、献身さが自分の唯一の取り柄だと、思い込んでいたこの女性には、自分が旦那に奉仕する新しい理由が生まれただけでした。
「じゃあ古いものを訪ねてみましょうよ」
と彼女は言いました。
「新しいものではなく古いものを。昔から変わらないものばかりを見ていくのです。そうしたら、苦しみだって記憶だって、そのままそこにあることが、きっと分かってきますから」
なぜ、その言葉に強く惹かれたか、あるいは旅に出かける力になったのか、それはサリアルの夫セラムの心にははっきりと掛かりませんでした。彼の望みは新しい「望郷の絵」を見ることで、その望みを絶たれたのです。彼は望郷の想いこそ新しくしたかったのです。
しかし彼は妻に促され、古都を訪れるなど、古めかしいもの、古くからあり続けるものを、訪ね歩きました。
すると、次第に自分のこだわりがあり得ぬものだったのではないかと、夫には感じられてきました。彼が旅行で見たものは、そこに暮らす住人が、皆でこだわり続けてきたもの、全員で守ろうとしてきたもの、そして、守ることを伝統としてきたその誇りだったのです。彼らの守り続けてきたものは、彼にとってはどうでもいいものでした。彼は自分の邦こそ大事だったのですから。ですが、彼以外の人間が守り通そうとしてきたものを、はじめて見たもののようにきちんと眺めると、では、自分がこれまで守ってきたものは、一体何だったのだろうかと考え直してみるようになったのです。彼だけが、守り続けてきた、もの。彼は、それ以外に身を委ねることなくここまで生きてきました。
守ろうとするものが、毒を含むなど、なかなかに分かりません。まして、それが自分を助くるなど。
「はいはぁい。あ、二名様ですね。ようこそ、ハルマの宿へ。お部屋へお連れいたします!」
玄関口へ十四歳のセラシュが顔を出し、てきぱきと二人の客の荷物を預かり平たい荷車に載せると、リムとは対面の二つベッドがある部屋に、セラムたちを誘導しました。そちらの部屋は小川をはす向かいに眺められる、開けた眺望で、芳しい草木がよく陽に照り映え、ちらちらと赤い黄色い花が覗くのが可愛らしい庭を窓から眺められました。ところで、この辺りでは虫除けに朝昼と二回煙で庭先を燻すのが習慣で、午後二時ぐらいを回って少しその煙が残っていました。
サリアル婦人はにっこりとしてこの眺めを楽しみました。旦那を深い椅子に落ち着け、自分は、外に出て散歩しに行こうと考えていました。セラムもそれを許可しました。彼女は部屋から直接庭に下りられる階段を下りました。その時、「リムさあん」と、元気のいい宿娘の声が、庭先に掛かりました。婦人はひどく驚いて仰け反りました。なぜなら、彼女はあれほど肌黒い人間を生まれてから初めて見たからです。山のような大きさの黒い人間は、多くの洗濯物を、娘から預かり運んでいく最中で、そのぎょろっとした剥き出した目は彼女にとって怪異を思わせました。
サリアルは慌てて部屋に戻りました。
「黒い人間などと言ってはいけないよ」
と、話を聞いた夫からは咎められました。
「従来高貴な方々だよ。さることから世界中に散らばり、辛酸苦を舐めることになった方々もおられるが。彼らは人間の純粋なかたちを持っている。司祭が多くてね。あと踊り子も。世界の中で最も古い伝承を維持し、同学の友を助けるのを民族の主事としている。非常に奥ゆかしく、勤勉な人々なのだ」
それを聞いて、彼女はただちに自分の偏見を直しました。そして、もう一度庭を見ようと再び旦那から離れ、ひだの多い歩きやすいスカートの裾もからげ、剥き出したふくらはぎも気にせず歩きました。
宿主から仕事を与えられたリムはおとなしく働きました。彼はこの村のホテルマンとしての清潔な服装を渡されていました。といっても、真っ白なカットシャツなどではなく、襟が立っているものの砂の色のように茶色く、目立ちにくい捲り袖の上衣と、いくら汚れてもいい二股の黒ズボンでしたが。大柄な彼の強い力はよほどセラシュの助けになり、ついつい、彼女は他のことも頼みました。数日後に直す予定だった壁板の張替えを、質素な梯子とともに彼に押し付けたのですが、彼は何も言わず、夕刻までにその仕事をやっつけてしまいました。
「できるわぁ、お兄さん」
セラシュははしゃぎ気味に言いました。
「女将さんに言って今夜は奮発した料理、作ってもらうように言っちゃうね!」
もっとも、業者に頼む修理の必要のなくなった分、浮いた修理費があったからですが。彼は、昼食を取っていませんでした。起き抜けに貰った食事で十分身体が動くようになり、何より恩を返さねばという意気を疲労と換えたからです。だから、あの白い服に身を包んだ、アイという名の少女が、ご飯を食堂で取ったのか、それとも廊下の突き当たりのあの部屋で取ったのか、知りません。彼は迷いました。このまま、しばらくもハルマの宿で厄介になることも、今夜の食事を、食堂で取るか自室で取るかも。
「食堂にいらっしゃいよ。一緒に食べましょう」
と誘ったのは女将でした。彼は遠慮する言い訳も立たずおとなしく従いました。そこに、あの少女はいませんでした。セラムとサリアル夫妻も、自室で運ばれる夜の食卓を待ちました。
「リムさんってば、今朝アイさんに声掛けていたんですよ?」
セラシュが各人に食事を運び終わって、食堂の自分の席に着くや否や言いました。
「早速仲良くなった感じですか?」
と、彼女はリムの顔を覗き込みながら言いました。彼は勿論目を逸らしましたが、心中穏やかではありません。
「ふふぅん。ま、いいですけど。私とも仲良くしてくださいよね」
その深夜、行軍を余儀なくされたみじめな敗者がいました。リムによって蹴散らされた、あの集団です。そのうちの一人は、胸のむかつきを抑えられませんでした。彼が最も嫌うのは、自分が、怒りにほだされている時でした。思い通りにならない、思い通りになりそうなのに、挫かれた時。彼は、心頭に発する怒気を沈静する手段を持ちません。山賊の支配下にある拠点の村へと戻りながら、それは近くの仲間を蹴飛ばし、揚句地面に倒れた相手をつかつかとにじり寄り見下すと、唾を飛ばして苛めました。彼の脳裏には毒が浮かびました。文字通りの毒も。あの村へ、流そう。俺に対する仕打ちをよく懲らしめて、苦しむ中、地面に這いつくばったこいつと同じような目に合わせてやる。彼はきびすを返し何かに囚われた者のように目を剥き異常な顔つきになりました。彼を誰も止めませんでした。
その穏やかな眠りは久方もなかったものでした。リムと自分を名乗った彼は、自分が囚人だったことをその間忘れました。確かに、彼の犯した犯罪は不可抗力のものだったといえるでしょう。それならば、今更再び捕らわれるとて、どんな罪が問われるのか。手ずから人を殺したとてそれは、彼の無遠慮な野蛮な動機から行われたのではなかったのです。多くの人間に支持されて、行ったことで。
しかしそれで折角逃げ出した彼と彼らは捕らわれてしまい、彼は、彼だけが黒獣に力を付与されました。一方、毒をもって恨みを晴らそうと決めた、リムに打ち負かされたみじめな敗退者は、彼と同じような経緯でもって、同族に裏切られたことがありました。そのおかげで、彼は、自分以外の何者も信用できなくなりました。ただ、力には、従うべきだと。彼は、小さな村出身で、その中でも一番の力持ちでした。どんな倒木も一人で運ぶことのできるくらい、自慢の怪力がありました。彼の村の周りを盗賊がうろつき、うっとうしく思った彼は独断で見せしめのつもりでそのうちの一人を破壊したのです。しかし
その仲間の盗賊は彼以外の村の人間をすべて買収しました。彼は孤独になりました。彼の言うことを誰も聞かなくなり、揚句、彼は売られ、はじめて人間が自分を裏切ることを知ったのです。それは彼の腕白な力を欲した盗賊の首領の策略だったのですが、仲間内で粋がることの多かった彼は、多分に村人から疎まれてもいたのでした。彼は彼を知らず、その頭の悪さを利用されたのです。しかし彼の腕を買った親分には重宝される戦力となりました。先陣を切って暴力を仕掛けるごろつきとなり、このたびもハルマの宿に押し掛ける一番槍となったのです。……一方で彼は、自分は利用されているのだとほとほと理解できるようになりました。そして、人間は利用し、利用される者に分かれるものだと判りました。彼の中にはまったく癒えることのない怒りが内在し、それはさっきのように盗賊仲間も襲い苛めるような発現となりましたが、それは彼が至ったその結論によるものだと、彼は分かりません。ましてその怒りは、彼を超えて多くのものを滅亡させようともしました。ただ一人彼をやっつけた黒い肌の人間を指すばかりでなく、その他の大勢の人々をも。
しかし彼の思いは実りませんでした。夜更けも過ぎてうっすらと空が明るくなり始めた頃、彼はもうすでにサン=サルの村に戻って、懐にあるとっておきの猛毒を、湖と井戸に放り込もうと躍起になって走っていました。しんとした静かな村道を、異形になって駆けていく男を軒先の犬も吠えませんでした。湖のある丘の上にはやや人がいて、うすあかりにぼんやりとした影になっていましたが、ばたばたと騒がしい足音を立て辺りの沈静を破る彼に、驚きの目を向けました。今や山賊となり善良な民から収奪を快くする者となったその男は、拳大の瓶を襟元から取り出すと、口を開けて、その中の匂いを嗅ぎました。
「どちらにしろここは俺たちの属国になるんだ。覚悟しやがれ」
彼は歪んだ笑いを唇に預け、中身を空けようとしましたが
呆れたように溜息をついた女の細い腕に目を塞がれその瓶をぱっと取られてしまいました。
「軽い執着だな」
と、淡光に黒っぽい赤毛を柔らかく照らした女に彼は小さく小突かれました。
「井戸くらいなら猛毒になるが、ここじゃな。薄まってよくしても腹痛ぐらいにしかならないぞ。子供は死ぬか分からないが、お前の相手は、黒い男だろう。やり直せよ?」
女は呆気に取られて怒りのやり場を失った男にぽいと瓶を投げ返しました。
「こっちに戻らないなら、余計なことはしないくらい、おとなしくしてほしいんだ。だから、どうせならもっと計画してくれないと。あの男を葬るつもりならば」
山賊の男はこの女が憎く思いました。この女はすべてが彼女の思い通りになると、考えていると思ったのです。自分に比べて──まったく自分に比べて、頭が良くて、先を知っているから。
機先を制された彼は引き下がりました。彼の怒りはみじめに破壊されました。それだけで、それだけのことで。彼には意気地がないだけなのです。その意気地をすっかり失ったのは、彼が信用していたはずの、村の仲間たちの裏切りによるのですが。
守ろうとするものが、毒を含むなど、なかなかに分かりません。まして、それが自分を助くるなどは。
「こっちにおいで」
と女将に誘われて、リムは屋根を乗り越えこんもりと茂ったカエデの葉並に隠れた四角い物置を見ました。
「ここにあるんだ」
その扉を開けて、中に入ると、黴臭い匂いが鼻をつき、刀剣の類が飾りよく棚に並べられているのを目の当たりにしました。
「お前さん、踊りを踊るかい?この辺りではね、自衛の手段を兼ねて、剣舞を学ぶ習慣があるんだよ」
リムは首を横に振りました。
「そうかい?残念だね。いや、実は、もうまもなく、祭があるんだよ。踊り手はそれを待っているんだ。だから、当然今は村並みも賑やかなんだがね。好きなの持ってっていいよ!」
彼の国では、リムは木こり用の斧は揮ったことがあっても殺生用の刀など扱ったことがありませんでした。彼は当惑した素振りを見せました。
「ええ?素手でこの宿を守るのかい?そりゃあ無理だ。と言いたいところだけど……使えない武器を使うほど危険なことはないさね。それに、あんたは素手で立派に盗賊を追っ払っちまったんだ。じゃあ、なくてもいいか」
リムは迷いました。なぜなら少なくとも武器があれば、あの追っ手には対抗しうるかもしれないと考えたのです。おそらく故郷からつきまとってきた、赤い髪の女には。そしてその考えが浮かんだ時、自分は、もしかしたら逃げおおせたいという希望を持っているのかもしれないと思いました。思わぬその希望も、彼の迷いに拍車をかけました。女将が武器を勧めてきたのは、彼女が彼に自分の宿を守ってもらうため、その宿賃の代わりにと言ってきたに他なりません。なのに、彼はそうではなく、自分がもっと南に下って、赤毛の女も振り切りたく思った己を自覚したのです。ですが彼は今や黒印の戦士となり、特別な力を持っています。彼は自分の能力が敵を退けるのに多分な効力を持っていることを、よく知りませんでした。身体を紐にしてしまえる力、それは一時逃げるためには使われても、人ごみから目を眩ますのに有効であっても、そっと背後に忍び寄ることにすら役立っても、他人を打ち倒すことに元々関心はなかったために、あの夜確かに拳が唸って小さな宿を乗っ取ったならず者たちをやっつけたにしても、それは本能の闘いで、その時を思い出すことも振り返り学習することもできないのでした。
ふるさとでも彼をずっと支えてきたのは、周りの人間に世話になったのであれば、それに誠実であれという意識でした。恩を恩で返そうとする気持ちでした。彼は善良でした。それに、弱い立場の者には自ずと手を差す、義憤の持ち主でした。しかし
故郷が蹂躙され、大国に兵に取られて以来、彼は状況に翻弄されるべくして翻弄されました。彼は同郷の人々の従軍を咎め、大国の軍曹を殺めることになりました。そして逃げていく最中、仲間のうちの誰かを突き飛ばしており、また敵方の聴聞に同族を売り渡してもいたのです。……あれは予想外の自分ではない者の行為のように、今でも感じられ、何ゆえにあんな行動に出てしまったのか、その整理はついていません。
それどころか、女将に武器を勧められながら彼の脳裏には昨日見た白い綿の上衣を着た少女の姿がずっと掛かり、彼女をもう一度見たいという欲望も胸に貼り付いていたのです。彼のぶ厚い胸をよぎったすべての思いは、しかし純粋な彼の生への欲求でした。彼らしい、葛藤の跡でした。
彼は、女将が言った近々あるという祭が、気になりました。祭が見たい、と思ったのです。祭りまで、ここにいたい、と思ったのです。
彼は、自分が何者か、まだ分からない若者でした。
サーディアという国は三百年の時を刻む、まだ新しい方の新興国でした。その国の興りは北方から来たる知恵ある獣たちを押し返した、火の防衛線と言われる人間の反撃を起としたものでした。魔獣たちによって破壊された国々の跡に、その国はできたのです。そして、その国は南側に住む人類の守護の役目をそれ以来担いました。
ところが、近年になって彼らは東西の隣国を襲うようになりました。黒印の戦士という、破滅的な力を持った人間が現れるようになってから、その力をものとし、戦場に放り込むようになったのです。連戦連勝、負けることのない巨大な戦力は、すっかり海から海に国土を束ね、史上最も巨大な大国となっていました。
彼らのいくさには目的がありました。いざ大陸の東と西をつないだら、仇敵である北の地の者どもを、一挙に滅ぼそうと。ところが彼らはその南に兵士を並べておりました。
「一律の経験をしようじゃないか」
誰かが音頭を取りました。一斉に
近くの者から鬨の声が踊りました。
「それが歴史には足りなかった。我が人類に足りないもの。我こそが我が国を守っているという自覚。それを
一律に経験しようじゃないか」
サーディアの南の国境から火の手が上がりました。それは、ずっと東西に伸び続き、渇いた空を焦がしました。
油断した、と彼は思いました。なぜなら白衣の少女は目を塞いでいましたから、滅多に部屋からは出てこないと思っていたのです。少女はトイレにも行けば、水を求めて出てくることもあるでしょうし、その感覚が許す範囲で、庭も経巡ることができるでしょう。彼は、セラシュの雑事の手伝いをしながら、不意に現れた彼女に心身を止められ、息をするのも忘れてしまいました。
「あら?ああ、アイさん!こっちこっち!」
彼の反応に気づいて少女の存在を知ったセラシュは、彼女を呼びました。目を瞑った彼女は芝草を掻き分け行きましたが、その庭の広さの大体は知っているものの、その日はもっとこの場は広く感じました。風にそよぐ草木の流れ、頭上を行く鳥たちの飛び立ち、小さな虫たちの声、様々なものが、聴覚を通して世界の広がりを伝えてきますが、目を閉じた彼女にとっておおよそ聞けるものだけが、世界と自分とのつながりを距離にしています。ですが、今彼女は、なぜか、今までよりもっと色んな音がこの場に聞こえていました。
「目の、見えない方」
リムのぼそっとした声が、この場では聞いたことのない声が、その世界を広げているのでしょうか。
「い、いい、天気ですね」
硬直した彼の緊張をその腕を撫でればどれほどか確認できたでしょう。しかしそこを触らずともおもしろいほどにそばにいれば分かったでしょう。
「アイさんですよ。ア・イ・さ・ん!正確には、アイラヌって名前なんですよ、お兄さん」
「ア・イ・ラ・ヌ」
「そうです。この辺りに生える白い草と同じなんです。見てください、これです」
セラシュが指差した先には、花の落ちた後のツバキやレンギョウなどの庭木の下に、爪先ほどの高さに生える、いじらしい柔らかい白い葉の植物が生息していました。息をしている風に、丸い葉を、広げたり閉じたりしています。
「こんな風に自分で息をしないと、根も短いですから、水を得られないんですよ。でも、周りの背の高い植物に混ざって、こんなに綺麗に整列している。この草を足で蹴ったりすると罰が当たりますよ。両足を怪我する呪いを受けるんです。実際に、私なんか間違って鎌で両脚切っちゃって、大怪我したんですから。いいですか?絶対に踏んだり蹴ったりしちゃいけませんよ」
セラシュはそれとなく念を押しました。アイにリムが好意を持っていることがはっきり分かったからですが、男性が、こうした言葉遊びに掛けた問い掛けに鈍感だとは分かりません。
「私も昔なら見えましたが、今では見えません。そうですか、この辺りに、アイラヌの草が育っているんですね」
アイは意識を地面に落としました。
「……私が私を間違って蹴っては笑い事になりませんね」
目を瞑ったまま、彼女は、穏やかな笑みを口元にしました。それを見て、リムははっきりと自分が囚人であったこと、今も追われていることを、気にしました。
彼は、この場から逃げ出したく思いました。この場にとてもいられないと思ったのです。しかし
また、なぜだか分からない力が、彼をこの場に押さえつけました。
彼は、何者か。
「あの子は本当の私の子供なのよ」
女将が申し訳なさそうにリムに言いました。リムが、ぼそぼそとした声でアイについて彼女に尋ねた時でした。昼下がりの、仕事が一段落した一服の間に、彼は強い好奇心を胸に思い切って女将を捕まえ質問しました。
「あの子には申し訳なく思っているよ。私の旦那がね、あの子につらく当たったんだ。お陰であの子は目が開かなくなっちまった。実の父親に自分の得意なことを否定されてねぇ。決して目を怪我したんじゃあないんだけど、それと同じことさね。だって、あの子は絵が得意だったんだよ。いっぱい描いてね。そりゃもう、いっぱい。でも、全部、目の前で焼かれて。それであの子は
自分を見失ったんだよ。自分を見失うために、目を閉じたんだよ」
女将は実の娘についてぺらぺらとしゃべりました。ですがそれは彼女のコミュニケーション能力が優れているためでもあり、サン=サルの村が開かれた会話を大事にする雰囲気を持っているからでもありました。リムは息を呑み、ただただそこに突っ立ちました。
「父親の方にも言い分はあるわ。彼には彼の好きな絵があった。彼が描いた絵もあった」
女将は丘の上の湖を見ていました。何度も、何度も。この宿に自分が世話になっている間、足しげくなだらかな湖面の湖に通ったのです。そこで彼女は、周りの旅人たちと共に、その水面に映るものを見つめました。
「どれもが、あの子の描いた絵のどれもが、それを、悉く否定するような絵柄だったの。娘の絵は、明るく元気な、開放的な夢を、丸ごと大きく光のように捉えた、とても前向きな絵だった。前を向きすぎるくらいに。一方で旦那の絵はね、暗く重々しくて、人間や世界を否定するような後ろ向きすぎた絵だったのよ。両者は隣り合って並ばなかった。でもね、それは単なる好みの違いよ。芸術ってさ、自分を癒すために見るものがあるんじゃないか。それが、父親にとっては暗いもので、娘にとっては明るいものだっただけ。けれど、娘の絵は、彼の絵の全否定のように、旦那には見えてしまった。娘には、本当はね、父親好みの暗すぎる絵は、彼女の中で、それは単にただ暗いだけの、絶対に克服できるはずの単純なテーマに思えたんだ。
娘は何のために描いていたんだろうと、思い返してみると、それは父親の悩んでいることを克服するためでもあったかと今では思うよ。自分の中でね。でも父親は、それを全部焼いてしまった。彼は彼女の描いたものを、受けつけられなかった。
私は、あの子を守るためもあって、離婚したわ。そしてこうしてここにいるの。先代のハルマさんの宿を継いで、好きなようにやらせてもらってるわ」
リムはその話の衝撃とともに、自分の辿ってきてしまった過去も思い出していました。彼が犯した過ち、彼がいまだに消化していない、彼が為した自分ではないような行動を。彼は突っ立ち黙りこくりましたが、しばらく経って言いました。
「目が開かなくなったのは、お父さんに傷つけられたから……?」
「そうよ。でもお互い様の、ところもあるわ、多分。子供が、親を傷つけることも、よくあるから。はぁ、私がよくやってればねぇ。よくやってれば、こんなことにはならなかったと思うよ。でも……」
女将は濡れた目で遠くを見つめました。
「ままならない人生が、いけないこととは思わないよ。むしろ、違った充実を与えてくれるものだとも思う。私は、あの子を連れて、冒険をしたけれど、そこでこの宿に出会ったし、その少し前には、セラシュにも会ったし。セラシュ……あの子の方が、もっと立場はひどいと思うわ。みなしご奴隷だったからねぇ」
女将は手を打ち、話を切りました。
「いけないことを大分言ったわ。あなたはまだ客々の立場、あなたの方が、ここに来て癒される人間の人。私たちのことをあなたが負う必要はなかったもの。私たちはもうここで生活をしているけれど、あなたは違う」
だからといって、手伝いの手加減はしないけれど。だから、こんなこと話すんだけどね、と女将は言いました。
サリアル夫妻は一日中その日は部屋にいました。旦那のセラムが調子を崩し、夫人のサリアルもどうにも外出する気が起きなかったのです。しかし、静かに小川の見える庭先を眺めるだけでも、ゆったりとした時間が、遠く置き去りにした多忙な生活も愛でて違ったものにしてくれるようで、つまらなくなく、豊かな静けさに身を委ねていました。サリアル夫人は貴族の出生でした。よく学問を修めた(といっても留学したことはなく、貴族の子女たちを教育する目的の学業を修学した)彼女は、知的な奥方でしたが、その知性は社交のためにあり、人間関係をほどよく温めるためにありました。彼らは領主の仕事を息子共に任せ、大陸の南西にある国から身の危険もある国外への旅路に出ていましたが、健脚と、道中盗人にも会わぬ運を持っていました。両者とも頑健でしたが、ここに来て、ようやく靴紐が緩むように、旦那の方がまず最初に心身共に休息を求めたのでした。
「まだ有名な丘の上の湖は見ていないわね」
夫人が夫に語りかけました。
「行くなら一緒がいいわ。あなたの体調が戻ってからでも」
「ああ」
長い眠りから覚めたように、セラムははっきりした意識を瞳に乗せました。
「すまなかったなあ。色々と」
「どうして?」
「お前には謝ってこなかった気がしてなあ。折角だから、この場を借りて謝っておきたい」
「どうして?」
二回目の「どうして?」には笑いが含まれました。彼女としては献身がすべてで、自分の感情などどうでもいいところがありました。
「そうだなあ。前の奥さんとはこうした旅行なんてしなかったし。私は仕事と趣味にかかりっきりだったし。随分と苦労させてきたことは分かっていたけど、それを言葉でも掬い取ることはしてこなかったんだ。私は彼女にすまないと思っていた」
にわかに、サリアルの拳が固められました。
「お前のおかげで、私は今、穏やかな心地でいる。自分の趣味も、距離を置いていられる。だから」
「あの人のために謝るのはやめてください」
鞭打つような声音の響きで、夫人は言いました。
「彼女とまとめて謝るようなことはしないでください。そんなつもりは私にはありませんから」
セラムは驚いて身を起こし、その目を覗きながら言ったのではない態度を改め、初めて強い口調を利いた彼女を正面に置きました。夫人は唇を噛んでいます。
静かな時が流れます。
その晩、夫妻は食堂へ出掛けました。はじめ、夫が自分は部屋の外で食べようと言い出し、その気の利かせ方に対し、妻は咎める形で旦那についていったのです。さり気なく見た彼らの様子に、女将は自分が出すべき料理をより質素なものにしようと考えました。前菜も、主食も、全部この辺りで採れた地元のものを使って二人に提供したのです。そのシンプルな味付けは、彼らがこれまで食べたものの中にはなく、複雑でない味は、それが語るものを多くせずにただ二人の舌を楽しませ、料理をしっかりと味わう余裕をもたらせました。この野菜の味は何、この果物の固さは意外、そのスープの舌触りは、この魚と小麦パンの相性は……おのずと浮かんだ疑問は、ほとんど、その二人が共有できる思いで、なおさら二人が会話しなければ互いに持ち合うことができませんでした。
しかし彼らは黙っていました。黙っていながら会話していました。どうして互いに一言、何か発してくれないか、互いに、相手に依存し合いながら。
彼らは端っこに座る黒い肌の青年にも興味を持っていました。リムと共に、この後の後片付けもしなくてはならない少女セラシュが、ぐちゃぐちゃとあらゆるものを一緒にして口の中に頬張っている様子も。
「何かおっしゃってくださいよ」
いつも、この場合折れるのは、甘えられる方です。
「さっきのこと、気にしているんですか?」
ふふっと旦那は笑いました。
「いや」
振り子が揺られ、その真下には鼠がちゅうちゅうとうろついています。掛けられているのは歯車の付いた芯で、歯車は別の歯車とつながり、それは時計ではなく、目盛りを回る針につながっています。重い錘には落書きがされて、平べったい側面に愛らしい花柄の意匠が施されています。
「面白いもんだろ。適切に油を差せば、結構十分に揺れたままになるんだよ。こんなもの、ここらの人は好きらしくてね。これが時を刻むらしい」
女将は台所の壁に据えられた縦長の箱の中の、一メートルはある長さの銅製の紐の先端に括られた錘を、じっと眺めるリムに話しました。
「私は油の跳ね具合とか、野菜の煮込んだ加減をみて長さを決めるけどね。調理場にこんなのあっても邪魔じゃないか。でも、鼠よけになったり、子供たちを遊ばせとくには、いいものだ」
「……俺の家にもあります。ただし、それは魔除けの意味がありました」
「へえ」
「だから玄関口とかにあって。入ってきた魔物を騙して、後ろ向きにして返してしまう呪いが込められているんです。ああ」
リムは首を固く縮めました。
「はあ。もう帰れない場所です」
「そうなの?」
リムはその後もしばらく振り子を眺めました。
その翌朝、彼は女将について村の真ん中で開かれる市場にやってきました。
「いつもなら、あっちから運んでもらうんだが、君がいるからね。運賃を安くしてもらおう」
というわけで、荷役用に駆り出されたのですが、ハルマの宿に来てから、彼は一度も村道へも出ませんでした。あの赤毛の不気味な女がここらにはいるはずですし、もう一度彼女に捕まれば、今度は逃げられるものではないと考えていたのです。
彼は辺りに目を配せながら、恐る恐る歩いていきました。その様子に女将も気づいていますが、何も言いません。しかし、そんな慎重に彼は歩いていたのですが、女将の方が、彼よりはるかにゆっくりと進んでいました。彼は前に出てしまいましたが、どこへ行けばいいのか分かりませんから、慌てて女将の後ろに回り込むように姿を隠しました。ですが、それにしても歩調が遅過ぎます。
「なぜ、こんなにゆっくり歩くんですか?」
たまらずに彼は訊きました。
「ああ、私は、ゆっくり歩くようにしているんだよ。そうしないとね、右足が痛んでね。このくらいの調子だと痛くないからね。ごめんね、君の、歩く調子に合わないか」
リムは首を振りました。そして、宿主の右足をそれとなく見遣りました。足を引きずっているようには見えませんが、それでも、昨日の話を思い出して、この年配の女性を襲った思いがけない数々の事を、振り返りました。当然、話の中にあったことだけではないだろうと、これまでの歩みの中にあった出来事を、その右足に想像してみたのです。
「昨日の話だけどさ。君、帰りたいの?」
彼が昨日を思い出していたのを知ってか知らずか、女将が尋ねました。
「自分の家にさ。帰れないと言っていたけれど」
女将は軽い口調で尋ねました。リムは黙っていました。不意に自分を振り返らされた彼は、考え深くするだけで、少なからず自分と女将を重ねていたことにも気づきました。大変な、環境の変化を余儀なくされた、互いを。
「どんな事情か知らないけれど、時間が経って、ようやく帰れるようになることもあるんだよ。今では無理という場合でもね。それまで、うーん、ゆっくりすればいいさ。ゆっくりできる事情があれば。そうだね、私の歩く速さについていければ」
女将はうきうきとした口調で言いました。なぜそんな話をするのだろう、とリムは女将の様子を窺いました。
「昨日言ったじゃないか。私たちの事情を。私は離婚したがね、ところが、向こうはそう思ってなくて、私のこと、ずっと待っていると言うんだ。お前しかいないって。ふふっありがたいことに、こんな私を大分大事に思ってくれる人もいたもんだ。でも、私はあの子の治癒の方が大事だと思って、家を離れた。思い切って。それでここにいるんだけど。
私はいつか彼の家へ帰ろうと思う。そのためにね、そのためなんだけど……ゆっくり歩かざるをえないんだ。
時間は誰のためにもあるもんだ。誰かのためだけにあるもんじゃなくて。周りをきちんと尊重できれば、時間のうまい使い方も判ってくる。誰かに割くものではなくて、自分のためにも、相手のためにも使える調子ってものがちゃんとある。
ちょっと話しすぎたね。説教臭かったかい?君にもちゃんと、そうした自分の時間の使い方が分かれば、今は戻れない場所も、きっと、戻ることができるようになるさ」
リムは頷きました。
彼は、生まれてこの方自分が弱い者の立場だとは思いませんでした。なぜなら、欠点らしい欠点を、自分に見つけたことがないのです。今、彼が誰よりも弱い立場にあることを、彼は分かりませんでした。
誰もが弱さを持っている近くには、彼はいましたが。
誰もがその強さを持っている傍にも。
ちりり、ちりりと村の方々で爽やかな鈴の音がします。盛夏の祭が近くなって、いよいよという雰囲気を盛り上げるために、店先で、あるいは店の奥で、風に揺れる銅鈴を吊るして付けるのです。ちりり、ちりり。その音は決して人々の会話を阻害せず、むしろ、その互いの意思疎通を促すように、風の流れを彼らに教えているのでした。
「ああ、聞いているよ。君は確か、リム君だ」
女将が入った八百屋の店主がのっけから彼に随分と近づき言いました。
「本当だ。随分と黒いね。あはは。でも気にしないで、ここには、べらぼうに白い肌の人間も来るんだから」
「炭のような黒さだね。たくましいわあ」
店主の奥方も目をきらきらさせて彼をまじまじと眺めました。
「これじゃあどんな盗人も近寄り難いね。力が漲っているもの」
「そうだ。君が撃退した連中は復讐を誓っているかもしれないが、それは厄介なことだとも思い知ってるだろうね」
リムはこの賑やかな雰囲気に、この近さに、懐かしいものを覚えました。まだサーディアに蹂躙されていない彼のふるさとは、雪深くも夜も煌々と灯りを付く集落で、行き来する商人はたくさんの荷物を抱え、夜遅くまで商談をするのでした。六日に一度訪れる忙しい市は、誰もが、友人みたく親しくなるのでした。そこでは拍子木を叩いたりして、客の呼び込みも行っていたのです。
女将はてきぱきと必要な食材を貰い、金を払って出ようとしました。ところがリムと同じほど黒い肌の三人が、急に現れ、軒先に押し掛け彼らを押し留めました。
「本当だ」
「別れた同士が、こんな所に……」
しかし、彼ほど背丈はなく、ずんぐりと太っていました。
「失礼。我々は昨日ここに来たばかりのものでな。我々と同じような肌の人間がいると知って、興味あって訪ねたんだ。よろしければ、少しいいか?」
女将とリムは顔を見合わせました。
「まずこれを運ばなくちゃ……」
と、リムは風呂敷にまとめられた野菜を指差して言いました。
三人は女将とリムの後についていきました。リムと同じように三人は静謐で、煩わしさを感じない無駄がない動きをしました。しかし、その歩調は力強く、どれほど幾多の山道を経てきたか分かる、どっしりとした歩き方でした。女将たちが戻ってくるのを、遠くから、宿の庭先に出ているセラムとサリアル夫妻が見留めました。
「あら、あの子とおんなじ顔の人たちが、三人も」
「ふむ」
「彼が呼んだかしら?」
セラムが顎鬚をさすりながら言いました。
「種族が違うよ。見ろ、彼はひときわ背が高いだろう。先祖伝来の土地を守る黒肌の人々は、雪国の風景に映え手足長く、精霊の言葉を良く聴くために長い耳を持つ、神聖さを抱く民族だと私は聞いている。しかしとあることで、別れた支族は、皆背を低くして道端の草木を食べるようになったらしい。まあこれは伝説的な物語だが、主流から分かれた支族は、自分たちが持つ伝承と同じ言い伝えを保持する民族間を渡り歩き、言い伝えの中に残されている謎を、解き明かそうとしていると聞いている」
「へえ。浪漫溢れる種族なのね」
「だが問題を起こす輩もいてね、他の同じ言い伝えを守っている民族を、襲って危害を加える者もいるという。所謂謎の共有というものは、繊細な問題を生み出すのだ。その謎こそ、秘匿すべき神秘だからね。お互いに持ち合う態度が異なれば、同志を欲する側としては、危害を与えたくなるのさ」
「じゃあ、彼らは?」
サリアルが指差しました。
「さあ。どっちかな」
三人の男たちは食堂の机にどっしりと鞄を置きました。その中は紙束でがさがさとしており、平行形に崩れました。
「コーヒーをもらおうかな。いや、良質な茶葉があれば、そちらを頼みたい」
「はいはい」
女将は彼らの言うなりに求めたものを出しました。リムは食材の入った袋を台所に届けると、まっすぐ彼らのところに戻ってきて、対面に座りました。
「よく見ると成年に達していないではないか。名は何と言う?」
リムは困りました。今使っている名前は偽名で、追って来る者を撹乱させる意図があったのです。ですが正直に話しました。
「リムと言います。ですが、本当の名前ではありません。色々と理由があって」
「リム、か……ああ、我らの仲間でもそう名乗る者がいるよ。そうだな、伝承の古い名を借りているからな。断らなくていいよ」
「そうですか」
「リム君、君はサルドエスの出だな。我々も訪れたことがあるよ。古い町だ、都と言ってもいい、ある時代では最も盛んな土地だったからな。その鼻の高さ、頬骨、厚い唇。いい踊り手になる」
「自分は踊りを習ったことがないです。それに、今はサーディアの支配下にあるんです。自分を含め仲間たちはほとんど戦争のための兵士に取り立てられました」
「そうだったのか」
「我らの受難はここに頂点を迎えたのかもしれないな。ふるさとも亡くすとは」
「かの大国の勢は抑え切れぬ。だったらその勢に伺いを立てるのもやぶさかではない。受難とはいえ、元から始まった運命だ」
真ん中の人物が細いキセルをくゆらせました。
「リムとはかつて我らが町が襲われて、他の場所に移らざるをえなくなった際に移り住んだ仮初めの集落地のことだ。不思議なことにその名は我らの民族以外でも使われることがあるな。君は、我らのことを知っているだろう」
「はい。よく故郷にも来ていましたし。『旦那方』のことは」
「うむ。どうかな?ここで働いているようだが、その名から、借り宿なんだろう、ここは。我々と一緒に来ないか」
「えっ」
リムは息が詰まりました。
「いつまでもここにいる理由があるなら話は別だが」
リムは気軽には答えられませんでした。まだこのハルマの宿に世話してもらった恩に報いていないという思いもあったし、戦争で、彼が自分の仲間たちを裏切った思いがけぬ出来事で負った、心の傷も癒されていません。それに、そうでなくとも、彼らの申し出に対して真っ先に心に浮かんだのは、白い服の人、目の閉じた、アイラヌという少女でした。
「すぐに答えられなければ、また、日を改めて。我々はしばらくここに逗留するからな」
それから、リムと彼の町サルドエスの近況について、もっと詳しいことを聞くと、三人は満足して帰っていきました。リムはほっとしました。向こうの申し出通り、彼らについていくことはあまり想像ができなかったからです。しかし、断る理由もそんなにないものでしたが、『旦那方』は、自分とはかなり容姿も違っていて、故郷を訪れていた彼らの考えることも、色を変えるように自分たちとは異なっていました。だから、友人としては快く振舞えても、一緒に行くとなると、高い壁を感じたのです。三人が去ってしばらく、彼は真面目な顔つきで、椅子に座り切り、考え込みました。ですが考えがまとまらず、女将に何か手伝うことはないか、訊きに行きました。
考え深い顔のままの彼に、女将は笑顔を見せました。「気の済むまでだってここにいていいんだよ」彼女は言いました。
「私だって、そうなんだからね」
それから彼の顔つきが変わった気がします。セラシュなどは、彼が何かを決意したように感じ、まだ未成年でありつつもその真っ直ぐな青年らしい眼差しを、自分にはないものとして尊敬を抱きました。しかし彼女は訊きませんでした。リムと仕事をしていて、まったく手伝いっぷりのいい彼にはずっとここにいてほしいとも思いますが、彼の態度は、いつまでもここにいることを許すような素振りではなかったのです。気づかぬうちに、自分を罰するような、そんな威圧が時折、彼から漏れることがあり、その度に息苦しくなります。彼は、ここで働くことをよしとしていないのです。彼は三日ほどあの少女には会いませんでした。アイも出掛けることはあったみたいですが、交錯しなかったのです。
ですが彼は、会わずとも彼女の声を聞いていました。あの、心地の良い声は、部屋から漏れて、どこにいても彼は聴くことができるようでした。聞こえてくるのはうたでした。
「雲のごとく 空飛ぶ少女は 百年来の客人よ
ぼさぼさ髪をなびかせて 髪を洗いに来るのです
白い少女は時の流れ 時の流れに身を任せ
風に流され流されて 水に降り立つ姿とは……」
彼は、彼女のうたを聴く中で、どうしてあの声に心を惹かれるか、その声の主が彼女だからか、それともそのうたをうたっているからか、分からなくなりました。
それに、どうして少女がそのうただけをうたっているのかも、知りません。
「ああ、アイさんのうた!お祭で歌われるんですよ。みんなでね。十歳の後半の乙女たちは、あれを覚えるんです。ここのサン=サルという村では、百年毎に、美しい白い肌の女の子が空から降り立って、何か持ってくるという伝説があるんです」
セラシュがそう説明してくれました。リムは目を丸くしました。
「どうしたんですか?そんなに珍しいお祭?」
彼は首を振りました。そうではなかったのです。
はじめ、女将がここに来たばかりの時は、傍らにセラシュだけをつれていました。自分の娘は別の所に預けていました。彼女は老齢のハルマ氏から現宿を譲り受け、身を落ち着けられるようになって、自分の娘を呼んだのです。ですがあまりにひっそりと呼んだので、村人の中には、アイラヌの存在を知らぬ者もいました。
女将はこっそりとアイラヌに二年毎に歌われるそのうたを教えました。勿論、この村の指導者を呼んでです。アイラヌは、父親との一件があってから母親とも口を利かぬ期間があったので、それほど母親は彼女の扱いを慎重に慎重を重ねることにしたのです。
こうしたことも、セラシュから話を聞いて、リムはますます沈思しました。彼にはその歌詞の中、少女が何を持ってくるのか、知っていたのです。『旦那方』の追い求める謎は、セラムが彼らについて知っていたように、伝承の中にあるはっきりと分からない事を対象にしていました。その伝承は、彼の町サルドエスにも伝わっていました。その中に、アイラヌがうたう、白い少女の伝説があったのです。
彼はそれを思い出し、ふるさとでの日々を含めた彼の来し方が、今までの記憶が、育ちが、失敗が、罪悪が、まとめて逆流し噴出しました。彼は気が遠くなりました。
祭の日が近づいてきます。
「実にのんびりしたなあ」
セラムが椅子の上で身体を張って伸びをして、気持ちよく声を出しました。
「さすがに名のある憩い地だった。湖も素晴らしかった」
「ええ」
夫の体調も元に戻り、二人はようやく丘の上の湖に訪ねました。そこで、他の訪問者たちと同じく、彼らは水面に映されている景色に魅入られました。どこまでも続く山並みを、その山肌に連なる深い色の木々を、水面は映し、空を、雲を追っていくと、真下に自分たちの姿がありました。並んで立つ、二人の姿を、湖面はその背景とともにしっかりと照り返し、彼らを、細部までそのままを輪郭もくっきりと捉え、きちんとした一枚の絵に収めているようでした。
「どうだろう。私たちは、この旅を、ここで終えてもいいんじゃないか」
セラムが言いました。サリアルが顔を上げました。彼女はほつれたスカートの裾を繕っているさなかでした。
「戻るんですか?」
「ああ。もう一仕事、しなければならないしなあ。私の集めた、絵の処分と、彼らに財産をどう分与するか、私が決めないと」
えっとサリアルは喉を突かれでもしたかのように息を締めました。
「あんなに一生懸命に蒐集したじゃないですか」
「あれは誰のためでもないよ。私にとって癒しになるものがただふるさとにしかないのだと自分は考えていたが、君との旅行で、そうではなかったことを十分に気づいた。あれを自分のために集めたとて、誰が受け継ぐだろうか。私のみが癒されたとて、その私は誰かを癒すだろうか?そうしたことを、考えていたよ。
あの子が歌っていたろう。白い少女は時の流れ、時の流れに身を任せ。風に流され流されて、水に降り立つ姿とは。水浴みをする姿とは……。すっかり覚えてしまったよ。毎日聴くものだから。本当、綺麗な声で歌っているね。そうなんだ。私も、流れに流される人間だった。そして湖を目撃した。
あの場所に立って、湖の中を覗くと、そこには自分の姿があった。綺麗なものだった。あんなに綺麗に、自分の姿が映るとは知らなかった」
そしてセラムは、隣にいる女性もまた綺麗だなと思っていました。この女性に感謝しなければと、今さらながらにその時強く感じたのです。彼は、自分の理想を追いかけて、それに十分に人生を賭けて、失って、それなのに自分の姿は醜く、みじめに、絶望しているように見せなかった湖面の鏡が、あらゆることを許してくれているように思いました。
「君のおかげだよ。この旅に連れ出した、あなたのおかげ。
夕方の夜空に何を思うだろう。もう一度、この素晴らしい一日が巡るように?それとも、明日こそ変革の時を迎えたくて、何か誓いを立てるだろうか。私はそうしたことはしなかった。ただただふるさとの絵の中に心を沈めていたかった。でも
きっとあの丘に集う人間は、次の日のことを考えるだろう。どうすればいいか、自分自身に訊くだろう。そうしたことを私はしなかった。今やっと、できるようになった」
「リム君、アイを連れてきてくれないかい?」
女将は部屋中の窓を磨いているリムに声を掛けました。
彼は首を傾げました。
「今ね、合唱の先生に連れられて、丘の上に行っているんだよ。そこで歌うからね。慣れさせているのさ。だから、ひとっ走り、してさ」
セラシュは……と彼は言いかけました。いいえ、指示には、従うまでですが。セラシュは朝から見かけていませんでした。女将も何も言っていませんでしたが、実は、昨晩から調子が悪くて寝込んでいました。その寝込みも、我慢ならなくなるほど悪くなり、深夜に医者がやって来て、色々と薬を処方されていました。リムは気づきませんでしたが、廊下を歩いたセラム氏はその唸り声を聞いて、心配になり女将に尋ねていました。
「お客様にご心配をお掛けしてすみませんね」
そう言って女将は謝りましたが、セラムは心痛な面持ちでいました。唸り方がただならぬものに思えたのと、普段は明るい少女のあの賑やかさと比べて、女将自身も、憂鬱さを浮かべる表情をしていたからです。
「あら、顔に出ていますか。いやだわ、そんなんじゃ。少し、いいですか?あの子は元々奴隷だったんです。みなしごを集める孤児院で、相当の扱いを受けていたようでね、時々、ですが、もしくは定期的に、苦しまざるをえなくなるんですよ。あの子のお腹は相当に弱い。私が連れ出した最初のうちは、どんな食べ物も受けつけなくなるくらい、ひどかった」
あの子の寿命は実は短い、と、医者からは言われていることを、女将は言いませんでした。
「私があの孤児院を買えるくらいお金持ちだったら良かったんですけどね。私は、あの子だけを連れ出すことしかできなくて、かえって、それが彼女を苦しくさせることにもなっています。自分だけが、連れ出されたってね。もしセラムさんが金銭にご余裕があれば、あの施設を買い取っていただきたいものです。なんて、打算は言いません。
あの子の明るさは真なるもので、決して、私に対して、もしくは、置いてきた同僚たちに対して、すまなかったという思いがあっての振る舞いではありませんから、あの子の苦しみも、本当なんです」
セラムはよく分かる気がしました。彼がセラシュを気にかける理由は、その明るさに一片も曇りがなかったこと、なのに、まるで体中に翳りを満ち満ちて唸った声の、激痛の迸りが、こちらに届いたからでした。
「ここってそういう人たちが多いんですよ。住人もそうだし、訪れる人も。だから、皆集まるんですね。ここに。サン=サルという村に。
あの子を気に掛けてくださって、ありがとうございますね」
セラムはその場を辞しましたが、まだ、訊き足りないことがありました。そうだとすれば、女将自身も、歌を歌っている少女も、あの黒い青年さえそうなのだとすれば、この村は、特別だとしかいえません。
古くから、剣同士が交錯し、血で血を洗い、凄まじい戦場となっているこの地では、いくさがない時、いくさに手負った人々が、その傷口を湖の水で洗い続け、
普通ならいくさ場となったのなら血生臭いもので、多くの亡霊なども徘徊するものですが
ここでは違うのです。ここでは互いに闘いを許し同郷の思いすらある多くの人間が、再び戦いを始めたとて、また集い、思いを同じくするのです。つまらない民族紛争などここにはなく、土地が、土地たる所以を人間に伝えているのです。ここに来れば、癒される。ここに来れば、傷は洗われる。
何度壊滅しても、ここに来れば、復興する。
そんな特別な土地柄が不思議な力を持ったとしても驚きません。ここに来れば、人間は復活するのだという経験をするのですから。
セラムは大きく息を吸いました。
「そうだとしても、それを為すのは人ならば」
彼は考えました。
「それを確認するんだ」
そしてほっとしました。
どうして争いごとはなくならないのか。
恨みは繰り返されるのか。
そして言葉は言葉を返し、
憎しみは憎しみを繰り返し、
強固にここは我が物だと訴え、
故郷を追われたみじめさは久しく残り、
同化は許さず、誇りを求め、
強さを求め、弱さを挫き、
認められることを欲し、
いなくなった者たちには記憶も失くし、
ただ我があるものと、
世界に祈る。
多分、世界は血で血を洗う戦場地。
一人も皆も、同じこと。
ならば。どうしてここに生きているのか。
どうしてここで苦しむのか。
どうしてここで笑うのか。
どうしてここで言葉を交わすのか。
大事なもの。それは手元にあり、
決して空高く手の届かないところにはなく、
神に祈れど、
神に拳を振り上げることも、
なぜ祈りを聞き届けないと疑うことも、
忘れ、一途に幸福を望む。
我らの祖先。我ら自身が
目の当たりにする景色とは。
リムは初めて丘を登りました。初めてサン=サルにある湖を目の当たりにしました。近しい山並みを背に受けたもの言わぬ湖を。それを自分の背にして振り返れば、南側に広がる展望は、遥か遠くに山脈を望み、広大な沃野が自らを空け、カラスたちが飛び交っています。しかしギャアギャアとうるさくはなく、美しい声で、品良く啼いています。湖にまた目を移し、眼下に覘く鏡のような水面には、小舟が渡り、静寂が薄く波紋を広げています。人々は岸辺に思い思いに佇み、静かに縁の内側を覗いています。
そこは誰でも受け入れる姿の湖でした。何もなく、ただ静かで、四季折々の草木が生え、自然にそこに群生しています。雲は、豊かに湖面に映え、地上の姿を映している水は
何も語らず
ただ我々を映していたのです。
リムは呆然と水面に浮かぶ自分の姿を見下ろしました。足下から五十センチほど離れたところにあるそれは、ただ、己を見返して、
強く、何事か為すべき彼自身を映し返しました。
彼は今分かりました。なぜあの少女のうたごえに惹きつけられるのか。彼はアイを探しました。すると
恰幅のいい女性の隣に、あの白い木綿の上衣を着て、こちらを見て、立っているのを見つけました。
その途端
彼は体がまるごとあちらに引きつけられる気がしました。それは道理ではありません。理屈ではありません。
何もありません。湖はそれをただ反射していました。生涯に一つだけ経験する抗い難い幸福の証。それを
彼は見つけたのです。
どうしてこんなことが起きるのでしょうか。この世界で。彼は
まるで許しを得るような姿で
彼女に近づきました。
「アイさん」
彼は言いました。
「女将さんが呼んでいるよ」
彼にはアイの目が開いているように見えました。
「行きましょう」
アイは返事しました。
二人は連れ立って歩きました。しかし触れ合ってはいません。リムは彼女の呼吸が近くに感じて、どきどきとしました。隣を歩くだけで、気持ちが上ずり、何か、遠くに叫びたくなってくるようです。そんな連れ合いも長くなく、ものの十五分ほどで、ハルマの宿に帰ってきました。
「ただいま」
「あっ!」
と叫んだのは、起きたばかりのセラシュでした。
「お帰りなさい。あら、お二人一緒だったんですね。どこへ行かれたんですか?」
リムはその質問に答えられませんでした。
強く、今までより相手を思うことになったリムは、どこかでうたわれるアイの歌声ですら、ものすごく傍に感じるようになりました。彼はたくさんの仕事をしました。村人の間でも受け入れられる存在になり、彼は頼りにされました。
祭が近づいてきます。しかし、出来事はその祭の前に起きました。
初夏も過ぎ、暑さも増していくさなか、蝉などが鳴き声を大きくし、その賑やかさは山の中では、山ごと揺するものでした。しかし人里では、着々と準備が進められる祭の日まで、人々のうきうきした気分は、彼らの音声や厚さには負けないものでした。
一万人が集うこの里の旅籠は満杯で、アイがいるために静寂を要するハルマ宿は、まだ少々の空き部屋もありましたが、セラム夫妻のほかに二組が泊まっていました。
リムは客室から従業員部屋に部屋を替えていました。三畳ほどの狭い一室は、慣れ親しんだ故郷の家にも似て居心地がよく、考え深くなるのにも適切でした。彼は考えていました。どのようにして、これから、人々のために、生活をしていくか。
きっと笑う。
自分を見つけ出す鏡とは。
彼の元に、三人の黒い肌の同郷の友が来ました。彼は仕事の手を休め、女将に断って、彼らの話を聞きました。
「我々はな、もう行こうとしている。君からの返事を待ちたかったが、そうも言っていられなくなった。君はちっとも我々を訪ねてきてくれなかったが、それは、我々と共に行くという意思はないと受け取っていいのか?」
リムは頷きました。
「そうか。それは残念だ。ここにいるのかい?」
リムは頷きませんでした。
「……どうして何も言わない?ああ、ふるさとへ帰るんだな。それがいい」
「あなた方は、湖をご覧になりましたか?」
リムが訊きました。
「ああ。立派な広さだったなあ。心が落ち着くよ。しかし、ここを訪れる人々はよくあの岸辺に立って下を覗くな。何かあるんだろうか、とは思ったよ」
「湖面を見ていない?」
「見たよ。覗き込んではいないがね」
「ああ、そうですか」
リムの目の中の光が急に強くなりました。
「私たちの伝承の謎には、白い服の少女がある時湖に降り立ち、そこで何かを携え空に帰っていくという物語がありますね。同様に、鏡のように美しい泉に男が座り、水の中を覗き込むと、やはり何かを貰って、その場を離れていく。彼らは、一体何を頂いたのか」
「ああ、そうだ。そのような謎がある」
「古い話に欠けたもの。それを探り出さんと、あなた方は私たちから離れ旅に出た。同学の友たれとして、世界中を巡り歩いた。ここにも、同じような伝説が語られていることを知っていますか?」
「ああ、知っているとも。だからこの地を訪れたのだ。しかしその答えはなく、調べる人間もいなかった。
だからもうこれ以上この場にいることはかなわないと、我々は判断した」
「湖面は覗かれましたか?」
「いや。繰り返すな、同じことを」
「そうですか」
ついに三人の一人が痺れを切らしました。
「君は何を知っている?」
「その謎を」
「言ってごらん」
「記憶です」
しんとした沈黙の時間が、四人の間を流れました。
「なぜ」
「なぜその答えが記憶なのだ」
「もしかしたら、この答えは、人によって違うのかもしれません。だから、自分はあなたたちに湖を覗いたか、訊いたんです。自分の家のあるサルドエスにも、近くに泉があります。水のまったく立たない、鏡のような表面に、映されるのは表側の世界です。あの湖も、とても静かな湖面に、反映されるのは自分の顔です。
自分はそこに自分の記憶が映されているのだと感じました」
彼らは溜息をつき、ふふふと笑いました。
「どうしてそうなる」
「人によって違う答えなど答えではないわ。謎は解けたものと思い込んだな。しょうがない。君はまだ成年に達していないのだからね」
彼らは呆れてこれ以上ものも言えず、すっかり興を削がれた面持ちで、適当な挨拶をしてリムの前から離れていきました。
「じっと聞いていたよ」
一人残された、黒肌の青年に、後ろから女将が声をかけました。そして
静かに後ろから抱き締めました。
「君は偉いね」
「なぜです?」
「自分が見つけた答えが答えだからよ」
リムはぶるりと身を震わせました。
統合。
目の開かないアイの存在は村の周知となり、彼女が歌い手として登壇するのだと分かって、人々はその準備を始めました。乙女の誰もが歌い手となれば、花道が、自宅からあの丘上の湖へと用意されて、祭りの前日、その間をしずしずと歩いていくのです。予行練習が試されました。その歩行と、合唱と。アイは目が見えませんから道を覚えるしかないのですが、周りの人々が、道を空けて誘導しますから迷うことはありません。
予行が終わった次の日、アイは一人で丘に向かいました。付き添いはいません。しかし、人々にどこへ行きたいと言いながら、うまく誘導されていきました。彼女は湖の岸の端に立ちました。周りの人間が落っこちないか冷や冷やしながらその様子を見ていました。
彼女は目を開けようとしました。必死になって、隙間から、どうにかして外の様子を見ようとしました。ですができませんでした。暗い世界。ただ瞼の向こう側から日差しが当たっているのが分かり、光の温度はよく分かります。
湖が彼女の姿を反射しています。
もしリムの言う通りそこに降りた少女が持ってくるのが記憶ならば。いいえ。
彼女が目を開けようとした時闘っているのはおのずとその記憶なら。
彼女は見ないことをやめようとしたのです。はっきりと、自分が見えなくなった理由を理解していたのです。母親の温かい配慮の中にいながら、セラシュの元気いっぱいの声掛けを聞き安堵しながら。草木の匂いを胸いっぱいまで吸い込むことができる場所で。覚えられたうたの旋律と詩に何か励まされつつ。
目を開くのは自分自身に他なりません。それができるのは。
しかしそれを邪魔するのも自分自身です。自分の中にある記憶です。
人は支えられているものとどこかで分かれば。
ずっと自分が闘ってきたものがあるとすれば。
闘ってこれたのは。
「アイさん」
直立不動の姿勢を保つアイを呼んだのはリムでした。
「女将さんが、呼んでるよ」
アイは背中を丸くしました。肩をうち震わせ、
振り返りました。
優しく、手が肩に添えられました。指先を触られ
髪を撫でられ
「行こう」と言われました。
「この人は誰?」と思いました。
「この人は誰?」と二度思いました。
彼女は目を開けようとしました。しかしまだ開くことはできませんでした。
アイが目を開けようとしていたことを、リムは感じていました。でも、無理に開くことはないと思いました。あれだけの
涙を
その隙間から漏らしているのであれば。リムは彼女の苦しさを想像することしかできませんでした。彼女の母親から目が開けられなくなった原因は聞いていても、どうすればいいか皆目見当がつきません。でも、彼女はなぜ、目を開こうとしたのだろう。あの湖の前で。
自分の姿を見るために?
十分に癒されたと思ったために?
彼女は多分、開かずになったその原因を、十分理解しているだろうと彼には思われました。父親との確執があったからとて、見るまいとしたのは渾身を注いでできた絵を、燃やされたから。自分からの愛情を、受け手が拒んだから。だとすれば、見るまいとしたのは、いえ、二度と目を開けて見ることができなくなったのは。その悔しい結果、受け付け難い、結末ならば。
彼には想像することしかできません。でも、
もし、もしも、目が開いて、あの湖で自分の姿を見られたならば。
自分のように、何をするべきか、分かるだろう。
あの湖面の鏡が卑しい自分を映すはずはなかった。欲望に駆られて仲間を突き飛ばしたり、敵国に仲間を売った、自分の浅ましい心情を、卑しくそこに映すことはしなかった。
自分が仲間に要求されて大国の兵士を殺害したことも、仕方のなかったことだと映し出さなかった。
あれはやはりはっきりと自分の仕業だったと、この手でその人間を殺したのだと。それはやむをえない事情だったかもしれない。浅薄な私情もあったかもしれないが
結局皆捕まえられて、その後の収監された場所で、わけのわからない獣に喰われ、ほとんど皆殺しにされたあの結果を、もたらしたのが。
自分の行動だったことを
自分の行動だったことを、
彼は身に納まる思いで、それを確認したのでした。
記憶。
それを確かめるだけだろう。それを確かめるだけなのだ。なら、そのために、あんなに泣いて頑張らなくてはならないのなら、別に、開けなくていい。
いいえ、複雑なことはなく、
ただ、
泣いている相手に、彼が、そっと手を差し出しただけでした。
風が吹きました。息を吸おうとしてぷかぷかと葉を揺らすアイラヌの草が、同じ名の少女の足元で、頭を揃えています。じっと草は彼女を見上げています。同じ名を持つ同士、どうして、慰め合えないか、と。
君は頑張ったよ、と言ってあげたくても。
口もない草は、その姿を見られずして、そのメッセージを届けられません。
アイはもうすぐ自分の目は開かれると思っていました。本当は、自分の意志で、開きたくても。でももう目を閉ざす必要は、自分にはないと感じたためでした。どれほどあの瞬間が目玉にこびりついていても。克服し難い傷口がまだ、塞がれてなかったとしても。
アイは優しく腰の丈ほどある草藪のツバキを触りました。葉の果肉が、柔らかく、自分の指を弾きます。
「痛っ」
そして、棘ある茎に触れました。この瞬間、彼女は、思わず目が開けられることを希望しました。
しかし、目は開きませんでした。
また涙が滲み出ました。どうしても彼女は自分の目を上下に元通りに
開きたかったのです。
自分の意志で。
その日の月夜もまた彼女は庭に出て、同じように、ツバキを触り棘を刺しました。
「痛いっ」
という反応も予定調和で、それで目が開くことはありませんでした。ですが、その晩空は美しく、満天の星たちが、大地に光よ届けと明かりを寄越します。
「綺麗な星だね」
アイの背後から、誰かが声を掛けました。アイはびくりとして、動けなくなりました。
サリアル夫人が、白い丈長のスカートを揺らして、背後から、アイに近づきました。
「お昼もここに来ていたね」
夫人は横に並びました。二人は背丈がちょうど同じくらいで、顔つきもどこか似ていました。顎が尖ってて、前髪を分けていて、後ろ髪をさらさらと落として。
「お祭の日、あなた、うたうんでしょ?」
アイから返事はありません。
「楽しみにしているから」
サリアルは、できるだけ優しく、優しく、言いました。他意はなく、純粋に、あなたの歌声が聴きたいという目的で。彼女は密かにリムと女将の間で交わされたアイについての話を聞いています。だから、その目の開かない理由も、今、多分その目を開けようとしていることも、分かっていました。彼女はお節介でした。いつもそうでした。
「ごめんなさい。プレッシャーに感じた?」
慌て気味に彼女は滅裂に言いました。自分から声を掛けておいて、相手との間に居たたまれなくなりました。身体も近いように感じ、少し離れようともしました。
「いいえ」
と夫人はやっと少女からの回答を貰いました。アイは相手が分かりました。いつも少し離れた部屋で、旦那と丁々発止のやり取りをよくする、賑やかな御夫人だと。サリアルの声はよく通るのです。
「お祭の日までいらっしゃるんですね」
「ええ、勿論。楽しみにしているわ」
「そうですか」
「あなたは?楽しみにしている?」
アイは黙ったまま、しばらく考え込んでしまいました。夫人は彼女の顔を遠慮なく覗き込みました。瞑られた両眼の表情は豊かです。
「楽しみにしたいです」
「そうなんだ」
搾り出したようなアイの答えに、サリアルは即座に返しました。
「ごめんね、邪魔して。集中したいこともあったでしょうし、私はこれでお部屋に戻るわ。それじゃ!」
そそくさといなくなった夫人に一人取り残されたアイは、たった独りの空間を持て余すことになりました。それだけ、サリアルの言葉は、彼女の頭の中を目まぐるしく駆け巡り、彼女に考えさせたからです。彼女は布団に帰りました。
そこで、誰かに頭を撫でられながら、子守唄でも聴かされている夢を見ました。
翌朝、目を覚ました時、自分は目が開いているんじゃないかとアイは思いました。ですが瞼の裏に映る外気の光は、直接瞳には届かず、彼女は気が沈みました。アイは閉じたままの瞼を上から押さえ、眼球をくにくにと弄りました。
窓から風が入り、彼女の目の蓋に、それが触りました。アイは手を目から逸らしました。
「あの人は誰だろう?」
そんな疑問が浮かびました。自分を湖岸から呼び出した人、二度も私に呼びかけた人。あの人は誰だろう。
浄化。
穢れはなくならず意味を持つ。
祭まであと二日……。その日に。
世界中が礼をしました。
誰かが腕組みをして立っています。その誰かは黒い衣を着て、胸を風に曝け出しています。怖い感じの佇まいに、あらゆる動物が遠巻きにしています。その視線は遥か北方にありました。
「おい」
門口の掃除を終え、ごみを片付けようとするリムに、女が声を掛けてきました。蕾立った花道が、さわさわと揺れています。
彼が振り向くとそこには赤毛の女がいました。彼は驚く振りもなくじっとそこに佇みました。
「観念したか」
女はそう言いながら彼に近づいてきます。
「お前のことを迎えに来た。一緒においで。悪くはしないから」
リムは首を振りました。
「行けない」
「お前は罪人だ。その罪の償いをしなくてはならない。公務妨害、裏切り、煽動、そして殺人の罪を、その体でもって」
「俺は行かない」
赤毛の女はふうっと息を吐きました。
「分かっている。お前は自分の道を見つけた。お前の行動を監視していた。お前はこの宿の娘に惚れている」
リムは黙っていました。
「しかしお前は守る者のために暴れるかもしれない。その力を抗じるために、存分に。お前を連れて行く方法はいくらでもあるのだ。我々の思い通りにすることも。しかし時間が、許さない」
女は残念そうにかぶりを振りました。
「私の、願いを、伝えよう。お前は、大人しく、していること。決して、対抗しようと、しないこと。大事なものを、守ること」
リムは、赤毛の女の言っていることが理解できなくて、女の様子をもっと観察しようとしました。女は暗い目を開いているようでした。しかし、その目は開いていないようにも見えます。閉じているように。
「そうすればいい。一律の経験をすること、その風雨に、逆らって波立つことがなければ。水は逆らわなければどこにいるのか分からない。同じ水なのだから」
「あんたは俺を見逃してくれるのか」
リムが訊きました。女は腰に手を当てました。
「大丈夫だ。お前はあの流れに逆らわない」
そして、煙のようにいなくなりました。
リムは冷たいものを感じました。女は何かを、予告しに来たのです。それは明らかでした。なのに、彼にはそれ以上の、彼女が知らせに来たもの以上の、邪まな予感を覚えたのです。彼女の言った、あの流れとは何か。彼は何かを見逃した気がしました。
きっと、黒獣の害によって目覚めた力が、大国にとって敵意となるようなことを慎むように言われたのだろう。あるいは、この力でもって無闇に活躍をして、目立つことがないようにとか。彼の想像はここまででした。だとしても
この力でもって守れるものは何かあるのでしょうか。彼にはそれは、何もないと分かっています。その闘いを守ることはできるかもしれませんが。各人の。アイや、女将や、自分自身が挑んでいる闘いを。皆が現在、必死で、対峙している、取り組みを。それらを壊すようなものに対しては。
「逃げろ」と何かが言っています。逃げろ、逃げろと。
ですがその声に応えるものを彼は持っていませんでした。
「畜生」
と、拠点にしていた村を襲われ追い出されて、サン=サルの村に毒を撒こうとした男は毒づきました。祭の日がいよいよと近づいて、高揚した気分そのままに、ここに集まってきたサン=サルの村に世話になった人々が、ついに盗賊共を攻撃したのです。特別組織立っていない彼らは散り散りになりながら逃げました。彼らに村を奪われた人々は、方々の集落や彼らにしか分からない避難地に逃げ糊口を凌ぎ、サン=サルの支援を待ち続けていましたが、ここに反撃を果たしたのです。
それは朝方でした。リムが赤毛の女とやり取りをしている間に、復讐は行われ、村人たちの怒りは力ずくで盗賊たちを懲らしめました。盗賊は毒を井戸に入れようとしました。そんな身の程を知らない者は、あっけなく殺されました。慈悲の猶予もなく。
血が流れ、ゆるやかに地面を下り、土を穢しました。逃げた男は、毒づきながらも、我が身を哀れみました。なんでこんな目に遭うんだろう、と。ちっとも世の中はうまくいかない、と。世界中を呪いながら、彼は、走りに走りました。
誰も彼にはついて来ず、彼は、一人きり山を北に向かいました。尾根道を通り、谷筋を渡り、小川に身を浸し、蛙を捕まえ、芝に足を取られながら。彼は自分が水だと気に入りませんでした。ただ流されるだけの水だと。彼は何者かでありたいと思っていました。誰かに認められる自分でありたいと思っていました。誰かを恐れさせたかったのです。世界をひれ伏せたかったのです。何に怒るか分からないまま、彼の怒りは、ただ頂点に達し、相手を欲しました。ぶつけられる相手を。しかし彼としては、世界中を呪うより他はありませんでした。その怒りは空を向いていたからです。すっからかんの、空しい空を。
彼は山頂に辿り着きました。そこで、目ぼしい輩はいないか、今すぐに襲える相手はいないかと、目を皿にして街道を行く旅人を物色しました。その向こうに
遥けき空の下に
彼を見下ろす空の下に
黒い煙が細い影を伸ばしているのに気づきませんでした。
勝利に酔った人々は大声を上げて凱旋し、そのまま祭を始めてもいいほど村は熱狂に包まれました。騒がしい夜、ほとんど花道の蕾はほころび始め、いよいよ、迎えうる前夜祭と続く歓びの宴と、そして合唱の舞台を想像しうる、祭より二日前の特別な晩でした。
「リム君。すまないけど、また、アイを連れてきてくれる?」
それは、三度目の頼み事でした。
少し前、夕飯を食べてから、アイは自分の部屋を出て、キッチンでお皿を洗っている女将に、また湖へ向かうことを告げていました。その時に、
「私、やっと目を開けたいと思う」
と言っていました。女将は黙っていましたが、彼女は、告げることだけを告げて丘の上に向かいました。女将はただ皿洗いを続けましたが、口元は緩み、いよいよか、と思いました。
「ここに来て癒されない人はいないもの。私を含めて。ここに来てよかった。それぞれが、それぞれの時間を使って、焦らず、遅れもせず、変わっていくことのできるこの村へ」
彼女は桶の水を空けて、その飛沫をぴんと指先から弾きました。
アイはセラシュにも同じことを告げていました。そして、
「ありがとうね」
と、付け加えました。セラシュは胸がいっぱいになり、そのことを、リムにも伝えようとしましたが、ちょっと考えてやめていました。
彼女らのわくわくする気分は、リムには伝えられませんでした。なぜなら、この感慨は、アイと付き合ってきた歳月が長い者だけが、味わえた、大きな出来事だったからです。ですが、彼がやって来たことも、彼もまた治されていったことも、この気分には混じり合っています。それは自分たちが、自分たちもまた、ここに来て、治されていったことにも、拠っています。本当の力強い力が、人の、源から湧き上がってくるこの地は、単に、荒れてもなお耕され、建物が建てられ、蹂躙された人間が立ち上がる土地性が、あるいは闘いをぶつけ合った者同士が湖を覗き込んで、鏡に映った自分の芯を顧みることのできる、偉大なる治療の場が、そこにあったからこその、たゆまず積み重ねられ醸成された、特別な、特別な空間だったのでしょうか。いいえ、セラム氏が言った通り、ここに来る人間が、そうした力強さを持っていたために、それが、露わになった場所なのです。
人の場。それが、土地が土地たる所以を伝えてくるのです。
それがどうしてこの世だと言えなくないのでしょう。
リムは歩きました。賑やかな界隈を、人々に親しい声を、掛けられながら。そして
咲きほころぶ蕾の花道が悠然と続く丘への道路をものしずかに
天の星々もきらやかに瞬くのを見上げず
ただアイの背中を見つけようとして
その心の導くままにまっすぐに
アイはいました。アイは振り返りました。しかし、まだ、その目は開いていません。
「あなたは誰?」
と言いました。
「確か、初めて会った時に、自分は囚人だと、言っていませんでしたか」
「ああ」
リムは漏れるように答えました。
「名前は?」
「……セイハル」
「やっぱり」
彼女は微笑みました。
「聞いた名前と違ってる」
風が吹き過ぎていきました。
「まだ捕まらないんですか」
「捕まった方がいいですか?」
アイはかすかに顎を引き、風を聴きました。
「いいえ」
「生憎、解放されました。自分は裁かれることがなくなりました。
裁かれた方が、いいですか?」
アイの言葉と彼の声が同時だったために、彼には「いいえ」の答えが聞けませんでした。
「いいえ」
「自分は、裁かれた方がいいと思っています。色々な罪を、自分は犯したから」
また、声が重なります。
彼は沈黙しました。次の言葉を言うのが怖かったからです。しかし用意しているのはその言葉しかなく、その言葉は、彼の口から出て行くのをじっと待っています。
彼は
アイラヌの目の閉じられたあらましを聞いていました。その感情にも理解を示しました。無理に開ける必要はないと思いました。
彼女は目を開いていました。そして、彼の目は涙が溜められていました。
「いいえ」
「あなたが好きです」
その声は、同時でした。
「だから、裁かれたい」
暗い中、その暗闇にも紛れるような、黒さのはずなのに、肌は艶やかに輝いていて、目は白く、可愛らしく、何かに溢れていて直視できず
でも直視しなければならず
アイは全身を伝わる波立ちに軽く呻きました 何年かの
自ら閉じた皮膚の裏に見た顔は
さざなむ体に乗せられた
自分の顔を
その目の中に捉えて
「じゃあ、その、裁きの中で」
アイは言いました。
「私たちと、一緒に、暮らしていけるの……?」
「どうでしょう」
リムは、うつむきながら、軽く、答えました。自分にはそれを望む権利はないと、どれだけ願っても、それはできなくなることを彼は目の前にしています。苦しさ。本当の苦しさが、告白と同時に彼を襲いました。
彼はそれを捨て置けませんでした。湖の中で見た、自分の姿を、それが本物だと見るならば、それは変わらずにここにあるもので、それは今も向こうから見た湖の水面に
映し出されているのです。
希望。
絶望。
そして、深い愛が。
リムは顔を上げました。もっとそばにアイの開かれた両目があります。開かれたといっても
彼には初めて会った時からそれは閉じられていなかったのですが
「セイハルさん」
セイハルは彼女の瞳の中に、自分の姿を見つけました。怯えて、恐れて、怖がっている卑小な自分の姿を。でも
湖面に反射して見た通りの自分の姿を
「私、嬉しい」
彼女は彼の手を取りました。
「一緒に、暮らしましょう」
熱気が彼らの肌に届きました。それは山の向こうから吹き下ろされてくるものでした。なんだろうとあちらを見上げた人々は、かすかに、空が焦げていることを知りました。サーディアの南進が始まったのです。
大国サーディアの侵略戦争が始まってから、いくさに蹂躙された土地ではいかにも敗残兵が山のように誕生しました。彼らは忠実な大国の奴隷たれと、さらに前線に駆り出されるのですが、中には着る物もそのままに、どこかへ落ち延びる者もいました。そんな元兵士たちを、サン=サルという村は受け入れてきましたが、何もこれは大国の進軍が開始されて以来というわけではありません。ここは村でありながら、どの国にも属さない中立を保つ土地柄で、南北に連なる山脈中の、東西を結ぶ交通の要衝地でした。丘の頂には湖があり、そこでは多くの人々が、癒しを求めてひしめき合うほどに名のある憩いの地なのです。昔から、この土地を求めて周囲の国が侵略を繰り返してきた歴史はあるのですが、そのたびに、取られ取り返され、結局は緩衝帯となる場所に位置してまた旅人が往来するようになって、いくさに癒されたい人間が、ここを訪れるというわけなのです。
ですが、そんなことも知らず、間違って山脈を南下しもしくは北上し、街道を行かず獣道を突き進み、何かに導かれてこの地へ来てしまう者もいます。今一人、少年のような風貌の若者が、そのようにしてサン=サルの村を訪れました。漆黒ほどに艶やかな肌の彼は遠い所にある牢獄から抜け出して、着の身着のまま、逃げてきたのです。毛羽立った上衣と下穿きを身につけ、随分といかつい恰好をしています。そして目は鋭く、追われる者の特有の野性味のある暗い空気が、さらにその周囲を包んでいました。彼は谷を進み歩き、沢の水を飲みながら来たので、唐突に街道が目の前に開け、ひどく人いきれのある空気に真正面から触れたので、すっかり面食らいました。ですが、彼を見て、恐れを抱く者は道行く者に誰一人としていませんでした。彼は、よくここに来る人間そのものだったのです。
彼は当惑したままそこに突っ立っていました。
「もし?」
とサン=サルの村人が声を掛けてきました。身なりは貧しくも、すっきりとした綿の胴衣はもてなしに慣れた風に着こなされ、旅人や、逃亡者の目には痛くなく、まるでくすんだ地面の色に溶け込んでいました。
「もしかして街道を越えられてなく、山の道を渡ってきた方ですか?そうだとすれば、まずは湖に行きなされ。そこで埃と泥を落とし、出来立ての茶を飲むのです。お金は掛かりませんから、ぜひそうしなさい」
彼は頷いて、村人の指すままに行こうとしました。
「ところで、名前は何ていうんだい?ああ、名乗りたくない人間もここには来るから、答えなくてもいいけれどね」
彼は少し迷いましたが、囚われた牢獄からはもはや風の噂も届かないほどの距離を歩いてきたはずでしたから、別に名前くらいはいいだろうと考えました。そして、その名前も偽るかどうかと悩みましたが。
「リム」
彼はぼそっと言いました。
「え?」
「リムだ。そう呼んでくれていい」
ハッハと村人は笑って、彼の名前を、二回繰り返しました。
「よっぽど遠くから来たんだね」
リムと名乗った青年は、左右に大小の宿の建つ、丘へと続く大通りを人目も憚らず歩きました。まさに彼のような出で立ちの、いかにも堅気ではない者たちも普通に行き来していたのです。この近辺では珍しい彼の黒肌も目立つことはありませんでした。旅人は薄汚れ、各々が黒い土や誇りを、その肌に張り付かせていたのです。彼は、汚れた裾をまくって、肩で風を切りました。堂々とすることにしたのです。新しい名前を自分で名乗ってしまった彼は、その眼差しを初夏の陽差しを受けて強く輝かせ、肩も喉元も汗に濡らし光らせています。彼の顔は凹凸が激しく、目鼻立ちがすっきりしていました。地元の住民は黄肌の者が多く、顔面は平板でした。宿の入り口で客寄せをする人々は、どうやらこの地に来たばかりらしい者たちを、まずは湖へと誘い、親切に接していました。丘への坂道を上っていくにつれ、香りのある風が頬に当たり、今までの、彼の受けた苦痛に満ちた道程もやまびこのように遠くにこだましていく気がしました。
しかし、坂道の中ごろで、彼は誰かに腕を掴まれました。それは赤毛の長髪の女で、彼に、さっき彼が名乗った名前ではない呼び名で、耳元に囁きました。
「こら、囚人がこんな所にいちゃいけないだろ。お前はどこまでも追いかけられているんだから」
彼女は目立たない黒い外衣に身を包み、人ごみに紛れて彼に呼び掛けていました。リムはぞくりとして、目を剥き怖々と女を見ました。
「黒獣の犠牲者は皆前線に行く決まりだ。お前は生き残ったんだから。おとなしく私について来い?」
そう言うと彼の口元へ一本指を当てて、何も言わず自分に従うように促しました。風が吹いて、彼らの裾を通り過ぎました。……女があっと声を上げた時には、もう、黒肌のリムの姿はどこにも見えなくなりました。
「聞き分けのない子供だな、もう」
と彼女は溜息をついて、鼻腔を膨らませました。そして、辺りの匂いを嗅ぎ分けると、にやりとして、人ごみの中へ隠れました。
誰かがその様子を遠くから見遣り、腕組みをして立っていました。しかしその人間は、はたとどこからかの視線に気がつき、いそいそと、その場を後にしました。
「ハルマ」と書かれた看板の前に、リムは立っていました。赤毛の女から逃げてきた彼は、村のはずれ、小さな丸屋根の宿屋を小川の向かい側に見る、細い小道まで来ていました。ハルマ、とはこちらの方言なのだろうか?と彼は考えを巡らしましたが、何一つ連想できませんでした。あるいは人の名前かもしれません。夕方もしずしずと暗闇を深くし、彼は腹がすいてたまりませんでした。ろくな食べ物はずっと取っていなかったのです。
懐には金目の物はありません。彼は看板の向こうから流れてくる美味しそうな匂いに誘惑されましたが、犯罪者にならないかぎり、その芳しい誘惑者を手に収められません。彼は諦めてそっぽを向きました。
荒々しい声がして、がらんがらんと何かが激しく床を転げ、悲鳴が上がりました。彼は立ち止まりました。耳を澄ますと、若い女の声が、男の乱暴な叫声に遮られ悶絶しました。気づけば彼は小川の小橋を渡り、坂道をすっ飛んで、荒ぶる男たちの影を室内から漏らす黄色い明かりを指して太腿を腫らしました。
「女将!呼子を渡せ!」
「お前の娘がぎゅうぎゅうに伸ばされてるのに見捨てるのかあ?このまま目の前で犯してやってもいいんだぞ!」
どうやら男たちの集団は七、八人と分かりました。全員が食堂にいるようで、二人が若女を押さえつけています。リムはそっと足音を忍ばせ正面口から中に入りました。そのすぐ後にガタンガタンっと椅子なり机なりが蹴飛ばされ、幾人かが食堂の入り口へ移動しましたが、それは訪問者の足音に気付いたからではありませんでした。ハルマの宿の食堂は廊下との間仕切りの上部に壁がなかったので、リムは屈みながら、彼らの視線の死角を辿りつつ壁際に貼り付き近づきました。
「今夜は俺たちが貸し切だ!余計なことはするなよ。あるもので食わせてくれればいいんだ。そう、あるものでな」
げらげらと笑う連中の顔には、邪まな卑猥さが滲み出ていました。すると、彼らの何人かが見張りについた入り口から、冷たい風がよぎりました。その風は連中の親分まで届きました。間仕切りの上部が開け放されているのに、ちゃんと開き戸をぴっちり閉めていないのかとおかしな命令を下そうとした親玉が、そちらへ目を向け
その後ろ側に、黒い肌のリムがいつのまにか立っていることに気づきませんでした。彼は両の腕で親玉の首を絞め、喘ぎ声一つ漏らさず相手を落としました。ならず者たちが一斉にざわつき、異様な雰囲気を醸し出す、この若者をそれぞれが指差し、誰か襲えと無言の命令を出しました。リムはその時、
彼らの前でわずかに目をかすむ細い糸となり
次々と各々に深刻なダメージを与えていきました。打撃あり、目潰しありの猛襲は、彼らの反撃も意味がありませんでした。そうしても細い糸となる彼の体にまったく触れなくて、彼らはすっかり蹴散らされ、あえなく逃げ帰る支度をさせられたのでした。やっと連中が親分を担ぎ、銘々うめきながら大人しく食堂の戸から出て行くと、リムはそれを追いかけず、建物の外の敷地の木門が軋む音を聴いて、ようやくその場に座り込みました。彼はもう動けませんでした。
明くる朝、目を覚ますと随分と居心地のいいベッドに彼は寝せられていました。鳥の囀る声が快く耳に入り、彼は起き上がろうとしました。しかし当然のように起きるのを待っていたかと彼の腹が、ぐうと大きく鳴り響きました。
「おはようございます」
と、昨日はならず者たちにぎゅうぎゅうと伸ばされていた、宿の娘が声を掛け、薄緑の光を通す薄地のカーテンを左右に引きました。
「おはよう」
と、かすれ声で彼が応じました。
「気分はどうですか?私たちの、自慢の床!ですが、何よりもそのお腹を満たさなくては、折角の寝起きも十分じゃないですね」
娘は達者な口調ですたすたと歩きつつ、部屋中の調度類を次々と整えていきました。深く寝入ってしまったリムは気づきませんでしたが、どうも昨夜地震があったらしく、本や写真立てなどがちょっとずつ崩れていたのです。
「こちらに持っていきましょうか。それとも、食堂で取ります?すぐにご用意できますよ」
娘は明るくはきはきとものをしゃべりました。そばかすが頬を染め、可愛らしい唇はまだ十代前半を思わせる幼さを留め、綺麗に纏め上げた金色の髪は後ろに下がり、にこやかに笑いました。その笑顔の口元には八重歯がかすかに覗きます。
リムはしばらく黙っていました。言いようもなく腹はすいているのですが、一宿一飯だけの金銭は持っておらず、昨日のこともあまり覚えていなかったのです。「しょうがないですね」と娘は短く言って、彼の右手を軽く掴みました。
「あまりの空腹だと頭の中も鈍くなっちゃいますから、こちらに持ってきましょう。少し待っていてくださいね。」
彼に有無を言わさず娘は行ってしまいました。リムは快適な枕にふっくらと頭を沈め、濡れた目で思いを巡らすと徐々に昨夜のことを思い出していきました。
用意された食事はほどよく温まっていて、空腹に過ぎた胃に収まり易く、どんどんと喉を通っていきました。リムは夢中で食べました。彼の頭と心は抗い難い食欲についていきませんでした。罪悪感はあれど、かえって肉体が反応して食べていたのです。ただし、その効果は覿面で、
彼の中にある追われる犯罪者としての自責の念は、溶けてしまいました。それだけおなかを覆った満足が、彼の持ち合わせのない財布の中身を、足りない分の宿泊費を、なんとか補いたいという欲求へと変化させたのです。彼はまっすぐに娘を見つめました。誠実さのみが窺えるその眼差しが、彼女を快活に笑わせました。
「いいえぇ、いただいてもらった分は、いいんです。だって、この宿を守ってくれたんですから。でもね、お兄さん……
ここは、サン=サルという自衛の村なんです。戦争が始まれば弾けるようにみんなどこそこへ隠れて逃げますがね、そうでなければ、一介の来客に怖気づくほどのろまな住人じゃありません。何重にも護衛の傘がかかっているんです。だから
あなたがあそこで十分に彼らを痛めつけなくても、私たちは、大事に保護されていたんですよ。それはね、あなたのような勇敢な旅人が、宿泊費の幾割かをそうして払ってくれているからなんです」
娘は指を振って、明るく彼の申し出を断りました。
「で、あなたも村の護衛団の一員になってくれれば、今後も、宿泊代は浮きますよ?ご紹介しましょうか?」
リムは頷こうとしました。ここが、大国サーディアの遥か南で追っ手も諦めて追ってこないのであれば。
「思案していますね。何か事情でもあるんですか?ここは……」
サン=サルの村のあらましを続けて述べようとした娘の口を、眼差しを変え鋭くなった彼の視線が遮りました。そして彼は怯えた大きな目をしました。その時彼の黒い肌が、威圧をもって、人のぬくもりを拒もうとしました。しかしそこには葛藤の色があって、定まらない意思を匂わせました。目は、大きく開けられて、迸る赤色の血線は涙もうっすらと浮かべるほどに、雄弁に彼の来し方をその目は物語っていました。
急に娘は手を叩きました。「こうしましょう!」彼女はばたばたと寝具を煽り、彼に風を送りました。
「こうするんです。あなたは好きなだけここで寝泊りするんです。そして、この宿付きの護衛官になるんです。そうしましょう。ですが適当に私たちの手伝いはしてもらいます。掃除に洗濯、食事の用意に後片付け!勿論、自分のお部屋は自分で片付けなくてはなりませんよ!そうしているうちに
何か考えはまとまってきますから」
娘はそうした結論を言いにばたばたと走って女将の元へ飛んでいきました。
ハルマの宿は、村のはずれ、村の門戸からも遠くに位置した小高い山の麓にあります。ここにいる女将は、前所有者からこの宿を譲り受けていました。女将は娘を連れていましたが、本当の娘かどうかはわかりません。
娘はセラシュと呼ばれました。女将がそう声を掛けているので、リムはそうだと分かりました。名前の意味は知りませんが、その音韻から、美しく入る窓際の風、彼女はそのようだ、と彼は思いました。
彼は思案することは色々とあれど、まずは感謝の意を申し上げたいと、寝床から起き上がりました。すると、か細い声が、女将とセラシュのやり取りのある場所とは違う方向から来ることに、彼は気がつきました。そして、その声が、何とも甘く輝き誘うように響いていて、興味深い耳で彼はそれを聴きました。か細い声は、うたでした。
彼は寝床から足を下ろし、靴を履きました。ぼろぼろのそれは、まだ靴の体面を囲っていました。かろうじて締められる靴紐を締めて、彼は一歩ずつうたのそばに近づいていきました。最も宿の端にある、閉じられた戸の向こうから、それは響きます。彼はそっと扉を開きました。
目を閉じた、顎の尖った娘が、白く艶やかな綿の衣に身を包み、開けてある窓の風に揺られながら、そっと、密かに、声を出していました。誰にも声の届かないように、うたをうたっていたのです。その声を
どうしてか彼は壁の向こうから聞き届け、その思いと想いに惹かれ、ここに来たのです。
「雲のごとく 空飛ぶ少女は 百年来の客人よ
ぼさぼさ髪をなびかせて 髪を洗いに来るのです
白い少女は時の流れ 時の流れに身を任せ
風に流され流されて 水に降り立つ姿とは
水浴みをする姿とは
鳥のごとく 陽のごとく
雷雨のごとく 汗のごとく
光り輝く姿とは そう見ゆ者の幻想なり
輝かぬその姿とは そう見ゆ者の幻想なり
ラララ ラララ ララーラ ラララ
流れ 流れに連れて行き 雲へ 雲へと 消えゆく身は」
口元に留まるほど小さな調べは抑揚も最高潮に達しようという時、少女は戸口の若者に気付きました。しかし、その目は開きません。
「ご免なさい」
そう小さく少女は言いました。
「気づきませんでした。その……あなたは、誰?」
目の開かない少女は奇跡的な声色を持っている、とリムは感じました。その声は決してか細くはありません。さっきのように、誰にも聞かれないように注意して留める声音ではありません。「早い」と彼は思いました。
「こんなにも早く誰かが自分の心の中に、流れてくるのは」
彼の国は、最近になってサーディアの属州となった、北西の内陸の雪深き湿地でした。そこでは鳥や猪などを狩る狩猟が盛んで、人は、その黒肌がしわしわと流れる雪の風紋にコントラストよく映え、墨去る絵のようにその一瞬一瞬が凍結して失くさない造形の中にいました。生きていることがそのまま、豊かな芸術になっていたのです。まるで聖地にいるような彼らは周りから崇められていました。白と黒の、気品ある絵画の中に生きる人々として。
西に進軍していった大国サーディアに、彼らはあっさりと蹂躙されました。大国は「黒印の戦士」と呼ばれる猛烈な力を持つ兵隊で、周囲の国を次々と攻略していくさなかでした。深雪の国に住む彼らの多数は大国に兵に取られました。リムと、ここで名乗った彼は、その中で一人のサーディアの兵士を殺し、仲間たちを逃がしました。その時、英雄は彼でした。若者の中で彼が代表して、彼らの意志を通したのです。しかし
それで散り散りに逃げ出した従軍中だった彼らは、次々と捕まり、皆を逃がした彼は、あろうことか彼ただ一人逃げおおせるために、仲間を突き飛ばしあるいは大国に売るなどして、必死に生き延びようとしました。大国は容赦なく逃亡兵たちを捕らえました。黒印の戦士が、それを可能にしていました。黒印とは、虹鳥の落とし子の魔物「黒獣」が人間に噛み付くと現れるもので、彼らは身体の一部を失うと共に、強大な力を有したのです。腕を失えば、遥かな膂力がもう一つの腕に宿り、耳を食べられれば、圧倒的な聴力が獲得できたのです。
逃亡者たちを捕まえたのは、目の辺りを食いちぎられた者たちでした。彼らは頗る遠くまで届く視力を貰いました。その視力は想像もし難いほどに向上しました。一点を拡大するように見えるだけではなく、視野に映る全体を、草も木も生物も写真に収めるように把握ができたのです。望遠鏡とは訳が違い、その視野という画像を、いかにその中の画像が動こうが、遠かろうが近かろうが明快に一つ一つの物体を区別しながら記憶ができたのです。彼らはこと戦場において必要不可欠な戦力でした。その他にも、異常な能力の者たちがいましたが、その荒ぶる力を戦術として効果的に扱うには敵国の軍勢の動向をよく知る必要があったからです。敵勢を粉砕するためだけではなく、このように、逃げ出す者たちを手際よく捕らえるためにも。
彼はついに捕まりました。彼が仲間たちを逃がしたので、彼一人にその罪は問われました。別に兵力を無駄に削減することはなかったのです。ですが、ここへ黒獣飼いと名乗る者が現れ、自分に彼らの後始末を託すよう軍団長に申し入れました。黒獣飼いとは、黒獣を使役し、人間に襲わせ、黒印の戦士を生み出す外道な役割を担う者たちでした。
リムをはじめ、黒肌の若者たちは、集団で、囚獄で、全員黒獣に噛まれました。黒獣に噛まれると、どうなるか。実は生き残り異様な力に認められる者はわずかでした。黒印の戦士たちの背後には、累々たる屍が横たわっていました。
彼だけが生き残りました。彼だけが、黒肌の重なる夥しい数の屍を掻き分けて、出て行くことができたのです。そして、彼はある一つの能力に目覚めました。体を紐状に伸ばしていかなる攻撃もいなすことができる力です。それまで黒印は、主に人間の体の一部を鍛える効力を有してきたのですが、この時犠牲者に宿ったのは、それとは異なる有意的な変わった力でした。
彼は危うくその力を使うところでした。なぜなら心地良くその体を包むのは、いたいけな眼の閉じた少女の麗しい幸福な声で、どこへでも、その声の風に乗ってゆけそうだったからです。その風に乗って、紐帯となれば、世界中も自由に巡れたでしょう。しかし彼は、今の自分の服装を気にしました。簡素な囚人服はまったく汚らしくよごれた茶色で、ごわごわとした肌触りは締め付けるものに感じ、野生の狼のような、粗野な毛羽立ちは、いかにも彼自身の身の上を表していたからです。彼は、それを恥ずかしく思いました。恥ずかしく思ったのでした。目を閉じた彼女にはそれが見えないのに。
「俺は、リム」
少女の「誰?」という問いかけに、彼はその名前を使いました。
「俺は、囚人だった。ここまで逃げてきたんだ。だから、もうまもなく捕まるだろう」
彼はそう言いました。たしかに追っ手はこの村にやって来て、彼を軍へ戻そうとしたのです。そして遠からず、きっと彼はまた前のように、彼らに捕まってしまうでしょう。独特の力が彼に具わっていても、それでどこまでも逃げることは彼には考えられませんでした。
「そうなんですか」
「ああ。失礼した」
彼は出て行こうとしました。ですがその場に彼を引き止めるものは多く、その全体が、すべて彼の分からないことでした。
彼が出て行かないことに、無論少女は気づいています。彼らはじっと向き合っていました。まるで、閉じた目も開いているように。
「アイさぁん。あ!」
廊下を渡ってきたセラシュが二部屋ほど離れたところから声を掛けましたが、黒い山のような男が開け放した扉の前に立っているのを見て、強く興味をそそられました。
「お兄さん……なぜここに?」
リムは振り返り、何か言い訳しようとしましたが、
「お邪魔でしたかぁ。別にアイさんへの用事は後でもいいので、自分はこれで」
と、エプロンを付けたメイドはそそくさと行ってしまいました。そして
彼は、これ以上、この場にいられなくなりました。
陽の寄る朝場は、かけがえのない噂話をもたらします。夜の間に、まちまちの宿舎では、否が応にも方々の話が聞き届くからです。サン=サルの村で最も東に位置するハルマの宿から、さらに東北に見た街道沿いの村が、どうやら、ならず者たちの集団に関をつくられているということでした。通り抜けるのにわざわざ手間賃を取られるらしいのですが、サン=サルに足を運ぶ旅慣れた冒険者たちは馬鹿なものだと呆れていました。この村には、いったい戦傷者だけが来るのではなく、それから回復した者たちが訪れるのです。この村に恩義のある人々が、彼らの自慢を披露したく戻ってくることもあるのです。腕自慢、のど自慢、腹自慢などが、その芸を披露しに。中には英雄のような働きをした者も、刀剣の踊り手なども戻ってくるのです。そこはあらゆる者にとっての快癒の湖を具えた丘の麓で、出しゃばることなくその慈愛に溢れた力強い腕を四方に揺らしていたのです。いずれ、山賊に支配された村はサン=サルに救われた者たちの猛烈な襲撃を受け、ここに来る人々の足止めたる要素など一切が排除されることを、旅人はよく分かっているのです。
昨日ハルマの宿を訪れた連中は、支配された村の山賊が遣わした先遣隊でした。かの村を新しく支配する素地作りに、一番端っこの旅館を狙ったのです。しかし、たった一人の若者に次々と蹴散らされて追い出されてしまったのでした。黒肌の人間はこの辺りでは珍しい方で、ああ昨日見かけたあの人間かと分かる村人もいました。
「よくしておくれよ」
と、ハルマの女将は井戸を囲む宿仲間たちに頼みました。
「そのまま、疲れて倒れてしまったんだよ。だから、しばらくうちで面倒をみることになってさ。よっぽど遠くから来たんだろうね。でも、綺麗な目をしているって」
女将はセラシュが見た通りのリムの印象を伝えました。
「面倒を見られたがられているって。それで、自分みたいに、ひどく傷つけられたんだろうって、あの子は分かるらしいんだよ。だから、村全体で看なくちゃね。それでなくても、そんな人間が、この場所には集まってくるんだからさ」
その村に南西から、寄り添うようにやって来た夫婦がいました。身なりのいい白い服装は歩きやすく、ここまでの旅の埃をそんなに付けていません。奥方は左右別々にイヤリングをつけていました。一方は銀色で、一方は金色です。幅広の帽子は軽やかにその頭に座り、初老といえる夫の傍にひたりと寄って若い目を辺りに配っています。彼らはサン=サルの村の長い主道から脇道に逸れて北東へと向かい、その果ての、小川向こうのハルマの宿まで足を運びました。
「疲れましたか?」
「いいやあ」
と、夫は妻に返事しました。
「良い旅だ。ちっともだな」
妻はにこやかに笑い、それでいて心配そうな表情を変えませんでした。彼女は広々とした玄関口から声を掛けて、宿にチェックインを求めました。この地を訪ねる者が、どこかで被った傷痕が、その後もよく毒の如き働きを身体にしているのを取り除くためだとすれば、この夫婦の旦那も、そうでした。なぜなら、彼は荘園を持つ貴族でありながら生活のすべてを趣味につぎ込むほど散財家で、その趣味の向じる先が、ある作家の絵だったのです。しかしその作家は不慮の事故で死んで、ために彼もまた生きている意味などない憂鬱の毒を呑んだのです。彼がその絵描きの絵に殉じる理由は、今は無き遠いふるさと、森林と湖の美しかった鳥の棲む庭、いくさで焼失したある一つの山村のかたちを、子供の頃遊んだ輝かしい日々を、そこに悉く描き込んでいたからでした。彼は一代で財を築いたやり手の商人で、その財で貴族の身分を奪ったのですが、彼が荘園など自分の手で大きくも小さくもする必要のないものを手に入れてから、その生まれ故郷である土地を、帰る間もなく奪われたのです。彼にとってそこは彼の見た著しく汚いものを排した理想郷で、彼にはそこがあるから、その外で様々な辛苦に耐えながら成功ができたのです。
彼の喪失は極めて大きく、彼の手に入れた新しい土地でその模倣園を造ろうともしましたが、その運よく、あるいは悪く、彼の理想郷を描き込んだ絵をギャラリーに見つけたのです。彼はその作家とも会いました。同郷の友は意気投合し、作家は彼のためにふるさとの絵を描くようになりました。芸術を愛する彼は作品とともに様々な芸術家たちも保護するようになったのですが、その中でも無条件に愛されたのが同郷の絵描きだったのです。
その唯一ともいえる支えを失った彼は、同時に他の蒐集した芸術も芸術家たちも、一顧だにしなくなりました。ふるさとを穢され、さらに親友まで亡くしてしまった彼は、まだ若い伴侶にこの旅に連れていかれました。妻は、サリアルという献身な女性でした。
「私の仕事や財産はすべてあの絵への想いを実現するためにあったというのに」
と涙を濡らして、旅に誘った伴侶に彼は訴えていました。
「私に何か新しいものをもたらそうというのかね。それは不可能な話だよ」
事業を成功させ身分までも勝ち取り、もはや「何でもある」かの富裕な領主の暮らしに、生きていることの麗水を掛ける事柄がほとんど唯一つであったことは、本人以外では到底判らぬことでした。人が人間の素晴らしさを分かる機会に、人は何度出会うことができるかというのは、計れない回数かもしれませんが、それがない人は稀で、唯一つだけということも稀でした。彼でさえその機会はいくつもありました。ですが、彼はそれを唯一と勘定したのです。彼の呑んだ憂鬱の毒は、このために生まれたものでした。それはとても我儘な意見で、彼に近しい周りの者の、心を痛めつける効果のあるものでした。彼を旅に誘った若い伴侶は二番目の妻で、彼とは歳が幾つも離れていました。いくつもの鋭い刃が、その若い女性の肌に喰い込むように、彼の知らずうちに彼自身が生み出した懊悩はサリアルという伴侶を痛めつけました。彼女はこのつまらない男をいくらも捨てていくことができたでしょう。ですが、献身さが自分の唯一の取り柄だと、思い込んでいたこの女性には、自分が旦那に奉仕する新しい理由が生まれただけでした。
「じゃあ古いものを訪ねてみましょうよ」
と彼女は言いました。
「新しいものではなく古いものを。昔から変わらないものばかりを見ていくのです。そうしたら、苦しみだって記憶だって、そのままそこにあることが、きっと分かってきますから」
なぜ、その言葉に強く惹かれたか、あるいは旅に出かける力になったのか、それはサリアルの夫セラムの心にははっきりと掛かりませんでした。彼の望みは新しい「望郷の絵」を見ることで、その望みを絶たれたのです。彼は望郷の想いこそ新しくしたかったのです。
しかし彼は妻に促され、古都を訪れるなど、古めかしいもの、古くからあり続けるものを、訪ね歩きました。
すると、次第に自分のこだわりがあり得ぬものだったのではないかと、夫には感じられてきました。彼が旅行で見たものは、そこに暮らす住人が、皆でこだわり続けてきたもの、全員で守ろうとしてきたもの、そして、守ることを伝統としてきたその誇りだったのです。彼らの守り続けてきたものは、彼にとってはどうでもいいものでした。彼は自分の邦こそ大事だったのですから。ですが、彼以外の人間が守り通そうとしてきたものを、はじめて見たもののようにきちんと眺めると、では、自分がこれまで守ってきたものは、一体何だったのだろうかと考え直してみるようになったのです。彼だけが、守り続けてきた、もの。彼は、それ以外に身を委ねることなくここまで生きてきました。
守ろうとするものが、毒を含むなど、なかなかに分かりません。まして、それが自分を助くるなど。
「はいはぁい。あ、二名様ですね。ようこそ、ハルマの宿へ。お部屋へお連れいたします!」
玄関口へ十四歳のセラシュが顔を出し、てきぱきと二人の客の荷物を預かり平たい荷車に載せると、リムとは対面の二つベッドがある部屋に、セラムたちを誘導しました。そちらの部屋は小川をはす向かいに眺められる、開けた眺望で、芳しい草木がよく陽に照り映え、ちらちらと赤い黄色い花が覗くのが可愛らしい庭を窓から眺められました。ところで、この辺りでは虫除けに朝昼と二回煙で庭先を燻すのが習慣で、午後二時ぐらいを回って少しその煙が残っていました。
サリアル婦人はにっこりとしてこの眺めを楽しみました。旦那を深い椅子に落ち着け、自分は、外に出て散歩しに行こうと考えていました。セラムもそれを許可しました。彼女は部屋から直接庭に下りられる階段を下りました。その時、「リムさあん」と、元気のいい宿娘の声が、庭先に掛かりました。婦人はひどく驚いて仰け反りました。なぜなら、彼女はあれほど肌黒い人間を生まれてから初めて見たからです。山のような大きさの黒い人間は、多くの洗濯物を、娘から預かり運んでいく最中で、そのぎょろっとした剥き出した目は彼女にとって怪異を思わせました。
サリアルは慌てて部屋に戻りました。
「黒い人間などと言ってはいけないよ」
と、話を聞いた夫からは咎められました。
「従来高貴な方々だよ。さることから世界中に散らばり、辛酸苦を舐めることになった方々もおられるが。彼らは人間の純粋なかたちを持っている。司祭が多くてね。あと踊り子も。世界の中で最も古い伝承を維持し、同学の友を助けるのを民族の主事としている。非常に奥ゆかしく、勤勉な人々なのだ」
それを聞いて、彼女はただちに自分の偏見を直しました。そして、もう一度庭を見ようと再び旦那から離れ、ひだの多い歩きやすいスカートの裾もからげ、剥き出したふくらはぎも気にせず歩きました。
宿主から仕事を与えられたリムはおとなしく働きました。彼はこの村のホテルマンとしての清潔な服装を渡されていました。といっても、真っ白なカットシャツなどではなく、襟が立っているものの砂の色のように茶色く、目立ちにくい捲り袖の上衣と、いくら汚れてもいい二股の黒ズボンでしたが。大柄な彼の強い力はよほどセラシュの助けになり、ついつい、彼女は他のことも頼みました。数日後に直す予定だった壁板の張替えを、質素な梯子とともに彼に押し付けたのですが、彼は何も言わず、夕刻までにその仕事をやっつけてしまいました。
「できるわぁ、お兄さん」
セラシュははしゃぎ気味に言いました。
「女将さんに言って今夜は奮発した料理、作ってもらうように言っちゃうね!」
もっとも、業者に頼む修理の必要のなくなった分、浮いた修理費があったからですが。彼は、昼食を取っていませんでした。起き抜けに貰った食事で十分身体が動くようになり、何より恩を返さねばという意気を疲労と換えたからです。だから、あの白い服に身を包んだ、アイという名の少女が、ご飯を食堂で取ったのか、それとも廊下の突き当たりのあの部屋で取ったのか、知りません。彼は迷いました。このまま、しばらくもハルマの宿で厄介になることも、今夜の食事を、食堂で取るか自室で取るかも。
「食堂にいらっしゃいよ。一緒に食べましょう」
と誘ったのは女将でした。彼は遠慮する言い訳も立たずおとなしく従いました。そこに、あの少女はいませんでした。セラムとサリアル夫妻も、自室で運ばれる夜の食卓を待ちました。
「リムさんってば、今朝アイさんに声掛けていたんですよ?」
セラシュが各人に食事を運び終わって、食堂の自分の席に着くや否や言いました。
「早速仲良くなった感じですか?」
と、彼女はリムの顔を覗き込みながら言いました。彼は勿論目を逸らしましたが、心中穏やかではありません。
「ふふぅん。ま、いいですけど。私とも仲良くしてくださいよね」
その深夜、行軍を余儀なくされたみじめな敗者がいました。リムによって蹴散らされた、あの集団です。そのうちの一人は、胸のむかつきを抑えられませんでした。彼が最も嫌うのは、自分が、怒りにほだされている時でした。思い通りにならない、思い通りになりそうなのに、挫かれた時。彼は、心頭に発する怒気を沈静する手段を持ちません。山賊の支配下にある拠点の村へと戻りながら、それは近くの仲間を蹴飛ばし、揚句地面に倒れた相手をつかつかとにじり寄り見下すと、唾を飛ばして苛めました。彼の脳裏には毒が浮かびました。文字通りの毒も。あの村へ、流そう。俺に対する仕打ちをよく懲らしめて、苦しむ中、地面に這いつくばったこいつと同じような目に合わせてやる。彼はきびすを返し何かに囚われた者のように目を剥き異常な顔つきになりました。彼を誰も止めませんでした。
その穏やかな眠りは久方もなかったものでした。リムと自分を名乗った彼は、自分が囚人だったことをその間忘れました。確かに、彼の犯した犯罪は不可抗力のものだったといえるでしょう。それならば、今更再び捕らわれるとて、どんな罪が問われるのか。手ずから人を殺したとてそれは、彼の無遠慮な野蛮な動機から行われたのではなかったのです。多くの人間に支持されて、行ったことで。
しかしそれで折角逃げ出した彼と彼らは捕らわれてしまい、彼は、彼だけが黒獣に力を付与されました。一方、毒をもって恨みを晴らそうと決めた、リムに打ち負かされたみじめな敗退者は、彼と同じような経緯でもって、同族に裏切られたことがありました。そのおかげで、彼は、自分以外の何者も信用できなくなりました。ただ、力には、従うべきだと。彼は、小さな村出身で、その中でも一番の力持ちでした。どんな倒木も一人で運ぶことのできるくらい、自慢の怪力がありました。彼の村の周りを盗賊がうろつき、うっとうしく思った彼は独断で見せしめのつもりでそのうちの一人を破壊したのです。しかし
その仲間の盗賊は彼以外の村の人間をすべて買収しました。彼は孤独になりました。彼の言うことを誰も聞かなくなり、揚句、彼は売られ、はじめて人間が自分を裏切ることを知ったのです。それは彼の腕白な力を欲した盗賊の首領の策略だったのですが、仲間内で粋がることの多かった彼は、多分に村人から疎まれてもいたのでした。彼は彼を知らず、その頭の悪さを利用されたのです。しかし彼の腕を買った親分には重宝される戦力となりました。先陣を切って暴力を仕掛けるごろつきとなり、このたびもハルマの宿に押し掛ける一番槍となったのです。……一方で彼は、自分は利用されているのだとほとほと理解できるようになりました。そして、人間は利用し、利用される者に分かれるものだと判りました。彼の中にはまったく癒えることのない怒りが内在し、それはさっきのように盗賊仲間も襲い苛めるような発現となりましたが、それは彼が至ったその結論によるものだと、彼は分かりません。ましてその怒りは、彼を超えて多くのものを滅亡させようともしました。ただ一人彼をやっつけた黒い肌の人間を指すばかりでなく、その他の大勢の人々をも。
しかし彼の思いは実りませんでした。夜更けも過ぎてうっすらと空が明るくなり始めた頃、彼はもうすでにサン=サルの村に戻って、懐にあるとっておきの猛毒を、湖と井戸に放り込もうと躍起になって走っていました。しんとした静かな村道を、異形になって駆けていく男を軒先の犬も吠えませんでした。湖のある丘の上にはやや人がいて、うすあかりにぼんやりとした影になっていましたが、ばたばたと騒がしい足音を立て辺りの沈静を破る彼に、驚きの目を向けました。今や山賊となり善良な民から収奪を快くする者となったその男は、拳大の瓶を襟元から取り出すと、口を開けて、その中の匂いを嗅ぎました。
「どちらにしろここは俺たちの属国になるんだ。覚悟しやがれ」
彼は歪んだ笑いを唇に預け、中身を空けようとしましたが
呆れたように溜息をついた女の細い腕に目を塞がれその瓶をぱっと取られてしまいました。
「軽い執着だな」
と、淡光に黒っぽい赤毛を柔らかく照らした女に彼は小さく小突かれました。
「井戸くらいなら猛毒になるが、ここじゃな。薄まってよくしても腹痛ぐらいにしかならないぞ。子供は死ぬか分からないが、お前の相手は、黒い男だろう。やり直せよ?」
女は呆気に取られて怒りのやり場を失った男にぽいと瓶を投げ返しました。
「こっちに戻らないなら、余計なことはしないくらい、おとなしくしてほしいんだ。だから、どうせならもっと計画してくれないと。あの男を葬るつもりならば」
山賊の男はこの女が憎く思いました。この女はすべてが彼女の思い通りになると、考えていると思ったのです。自分に比べて──まったく自分に比べて、頭が良くて、先を知っているから。
機先を制された彼は引き下がりました。彼の怒りはみじめに破壊されました。それだけで、それだけのことで。彼には意気地がないだけなのです。その意気地をすっかり失ったのは、彼が信用していたはずの、村の仲間たちの裏切りによるのですが。
守ろうとするものが、毒を含むなど、なかなかに分かりません。まして、それが自分を助くるなどは。
「こっちにおいで」
と女将に誘われて、リムは屋根を乗り越えこんもりと茂ったカエデの葉並に隠れた四角い物置を見ました。
「ここにあるんだ」
その扉を開けて、中に入ると、黴臭い匂いが鼻をつき、刀剣の類が飾りよく棚に並べられているのを目の当たりにしました。
「お前さん、踊りを踊るかい?この辺りではね、自衛の手段を兼ねて、剣舞を学ぶ習慣があるんだよ」
リムは首を横に振りました。
「そうかい?残念だね。いや、実は、もうまもなく、祭があるんだよ。踊り手はそれを待っているんだ。だから、当然今は村並みも賑やかなんだがね。好きなの持ってっていいよ!」
彼の国では、リムは木こり用の斧は揮ったことがあっても殺生用の刀など扱ったことがありませんでした。彼は当惑した素振りを見せました。
「ええ?素手でこの宿を守るのかい?そりゃあ無理だ。と言いたいところだけど……使えない武器を使うほど危険なことはないさね。それに、あんたは素手で立派に盗賊を追っ払っちまったんだ。じゃあ、なくてもいいか」
リムは迷いました。なぜなら少なくとも武器があれば、あの追っ手には対抗しうるかもしれないと考えたのです。おそらく故郷からつきまとってきた、赤い髪の女には。そしてその考えが浮かんだ時、自分は、もしかしたら逃げおおせたいという希望を持っているのかもしれないと思いました。思わぬその希望も、彼の迷いに拍車をかけました。女将が武器を勧めてきたのは、彼女が彼に自分の宿を守ってもらうため、その宿賃の代わりにと言ってきたに他なりません。なのに、彼はそうではなく、自分がもっと南に下って、赤毛の女も振り切りたく思った己を自覚したのです。ですが彼は今や黒印の戦士となり、特別な力を持っています。彼は自分の能力が敵を退けるのに多分な効力を持っていることを、よく知りませんでした。身体を紐にしてしまえる力、それは一時逃げるためには使われても、人ごみから目を眩ますのに有効であっても、そっと背後に忍び寄ることにすら役立っても、他人を打ち倒すことに元々関心はなかったために、あの夜確かに拳が唸って小さな宿を乗っ取ったならず者たちをやっつけたにしても、それは本能の闘いで、その時を思い出すことも振り返り学習することもできないのでした。
ふるさとでも彼をずっと支えてきたのは、周りの人間に世話になったのであれば、それに誠実であれという意識でした。恩を恩で返そうとする気持ちでした。彼は善良でした。それに、弱い立場の者には自ずと手を差す、義憤の持ち主でした。しかし
故郷が蹂躙され、大国に兵に取られて以来、彼は状況に翻弄されるべくして翻弄されました。彼は同郷の人々の従軍を咎め、大国の軍曹を殺めることになりました。そして逃げていく最中、仲間のうちの誰かを突き飛ばしており、また敵方の聴聞に同族を売り渡してもいたのです。……あれは予想外の自分ではない者の行為のように、今でも感じられ、何ゆえにあんな行動に出てしまったのか、その整理はついていません。
それどころか、女将に武器を勧められながら彼の脳裏には昨日見た白い綿の上衣を着た少女の姿がずっと掛かり、彼女をもう一度見たいという欲望も胸に貼り付いていたのです。彼のぶ厚い胸をよぎったすべての思いは、しかし純粋な彼の生への欲求でした。彼らしい、葛藤の跡でした。
彼は、女将が言った近々あるという祭が、気になりました。祭が見たい、と思ったのです。祭りまで、ここにいたい、と思ったのです。
彼は、自分が何者か、まだ分からない若者でした。
サーディアという国は三百年の時を刻む、まだ新しい方の新興国でした。その国の興りは北方から来たる知恵ある獣たちを押し返した、火の防衛線と言われる人間の反撃を起としたものでした。魔獣たちによって破壊された国々の跡に、その国はできたのです。そして、その国は南側に住む人類の守護の役目をそれ以来担いました。
ところが、近年になって彼らは東西の隣国を襲うようになりました。黒印の戦士という、破滅的な力を持った人間が現れるようになってから、その力をものとし、戦場に放り込むようになったのです。連戦連勝、負けることのない巨大な戦力は、すっかり海から海に国土を束ね、史上最も巨大な大国となっていました。
彼らのいくさには目的がありました。いざ大陸の東と西をつないだら、仇敵である北の地の者どもを、一挙に滅ぼそうと。ところが彼らはその南に兵士を並べておりました。
「一律の経験をしようじゃないか」
誰かが音頭を取りました。一斉に
近くの者から鬨の声が踊りました。
「それが歴史には足りなかった。我が人類に足りないもの。我こそが我が国を守っているという自覚。それを
一律に経験しようじゃないか」
サーディアの南の国境から火の手が上がりました。それは、ずっと東西に伸び続き、渇いた空を焦がしました。
油断した、と彼は思いました。なぜなら白衣の少女は目を塞いでいましたから、滅多に部屋からは出てこないと思っていたのです。少女はトイレにも行けば、水を求めて出てくることもあるでしょうし、その感覚が許す範囲で、庭も経巡ることができるでしょう。彼は、セラシュの雑事の手伝いをしながら、不意に現れた彼女に心身を止められ、息をするのも忘れてしまいました。
「あら?ああ、アイさん!こっちこっち!」
彼の反応に気づいて少女の存在を知ったセラシュは、彼女を呼びました。目を瞑った彼女は芝草を掻き分け行きましたが、その庭の広さの大体は知っているものの、その日はもっとこの場は広く感じました。風にそよぐ草木の流れ、頭上を行く鳥たちの飛び立ち、小さな虫たちの声、様々なものが、聴覚を通して世界の広がりを伝えてきますが、目を閉じた彼女にとっておおよそ聞けるものだけが、世界と自分とのつながりを距離にしています。ですが、今彼女は、なぜか、今までよりもっと色んな音がこの場に聞こえていました。
「目の、見えない方」
リムのぼそっとした声が、この場では聞いたことのない声が、その世界を広げているのでしょうか。
「い、いい、天気ですね」
硬直した彼の緊張をその腕を撫でればどれほどか確認できたでしょう。しかしそこを触らずともおもしろいほどにそばにいれば分かったでしょう。
「アイさんですよ。ア・イ・さ・ん!正確には、アイラヌって名前なんですよ、お兄さん」
「ア・イ・ラ・ヌ」
「そうです。この辺りに生える白い草と同じなんです。見てください、これです」
セラシュが指差した先には、花の落ちた後のツバキやレンギョウなどの庭木の下に、爪先ほどの高さに生える、いじらしい柔らかい白い葉の植物が生息していました。息をしている風に、丸い葉を、広げたり閉じたりしています。
「こんな風に自分で息をしないと、根も短いですから、水を得られないんですよ。でも、周りの背の高い植物に混ざって、こんなに綺麗に整列している。この草を足で蹴ったりすると罰が当たりますよ。両足を怪我する呪いを受けるんです。実際に、私なんか間違って鎌で両脚切っちゃって、大怪我したんですから。いいですか?絶対に踏んだり蹴ったりしちゃいけませんよ」
セラシュはそれとなく念を押しました。アイにリムが好意を持っていることがはっきり分かったからですが、男性が、こうした言葉遊びに掛けた問い掛けに鈍感だとは分かりません。
「私も昔なら見えましたが、今では見えません。そうですか、この辺りに、アイラヌの草が育っているんですね」
アイは意識を地面に落としました。
「……私が私を間違って蹴っては笑い事になりませんね」
目を瞑ったまま、彼女は、穏やかな笑みを口元にしました。それを見て、リムははっきりと自分が囚人であったこと、今も追われていることを、気にしました。
彼は、この場から逃げ出したく思いました。この場にとてもいられないと思ったのです。しかし
また、なぜだか分からない力が、彼をこの場に押さえつけました。
彼は、何者か。
「あの子は本当の私の子供なのよ」
女将が申し訳なさそうにリムに言いました。リムが、ぼそぼそとした声でアイについて彼女に尋ねた時でした。昼下がりの、仕事が一段落した一服の間に、彼は強い好奇心を胸に思い切って女将を捕まえ質問しました。
「あの子には申し訳なく思っているよ。私の旦那がね、あの子につらく当たったんだ。お陰であの子は目が開かなくなっちまった。実の父親に自分の得意なことを否定されてねぇ。決して目を怪我したんじゃあないんだけど、それと同じことさね。だって、あの子は絵が得意だったんだよ。いっぱい描いてね。そりゃもう、いっぱい。でも、全部、目の前で焼かれて。それであの子は
自分を見失ったんだよ。自分を見失うために、目を閉じたんだよ」
女将は実の娘についてぺらぺらとしゃべりました。ですがそれは彼女のコミュニケーション能力が優れているためでもあり、サン=サルの村が開かれた会話を大事にする雰囲気を持っているからでもありました。リムは息を呑み、ただただそこに突っ立ちました。
「父親の方にも言い分はあるわ。彼には彼の好きな絵があった。彼が描いた絵もあった」
女将は丘の上の湖を見ていました。何度も、何度も。この宿に自分が世話になっている間、足しげくなだらかな湖面の湖に通ったのです。そこで彼女は、周りの旅人たちと共に、その水面に映るものを見つめました。
「どれもが、あの子の描いた絵のどれもが、それを、悉く否定するような絵柄だったの。娘の絵は、明るく元気な、開放的な夢を、丸ごと大きく光のように捉えた、とても前向きな絵だった。前を向きすぎるくらいに。一方で旦那の絵はね、暗く重々しくて、人間や世界を否定するような後ろ向きすぎた絵だったのよ。両者は隣り合って並ばなかった。でもね、それは単なる好みの違いよ。芸術ってさ、自分を癒すために見るものがあるんじゃないか。それが、父親にとっては暗いもので、娘にとっては明るいものだっただけ。けれど、娘の絵は、彼の絵の全否定のように、旦那には見えてしまった。娘には、本当はね、父親好みの暗すぎる絵は、彼女の中で、それは単にただ暗いだけの、絶対に克服できるはずの単純なテーマに思えたんだ。
娘は何のために描いていたんだろうと、思い返してみると、それは父親の悩んでいることを克服するためでもあったかと今では思うよ。自分の中でね。でも父親は、それを全部焼いてしまった。彼は彼女の描いたものを、受けつけられなかった。
私は、あの子を守るためもあって、離婚したわ。そしてこうしてここにいるの。先代のハルマさんの宿を継いで、好きなようにやらせてもらってるわ」
リムはその話の衝撃とともに、自分の辿ってきてしまった過去も思い出していました。彼が犯した過ち、彼がいまだに消化していない、彼が為した自分ではないような行動を。彼は突っ立ち黙りこくりましたが、しばらく経って言いました。
「目が開かなくなったのは、お父さんに傷つけられたから……?」
「そうよ。でもお互い様の、ところもあるわ、多分。子供が、親を傷つけることも、よくあるから。はぁ、私がよくやってればねぇ。よくやってれば、こんなことにはならなかったと思うよ。でも……」
女将は濡れた目で遠くを見つめました。
「ままならない人生が、いけないこととは思わないよ。むしろ、違った充実を与えてくれるものだとも思う。私は、あの子を連れて、冒険をしたけれど、そこでこの宿に出会ったし、その少し前には、セラシュにも会ったし。セラシュ……あの子の方が、もっと立場はひどいと思うわ。みなしご奴隷だったからねぇ」
女将は手を打ち、話を切りました。
「いけないことを大分言ったわ。あなたはまだ客々の立場、あなたの方が、ここに来て癒される人間の人。私たちのことをあなたが負う必要はなかったもの。私たちはもうここで生活をしているけれど、あなたは違う」
だからといって、手伝いの手加減はしないけれど。だから、こんなこと話すんだけどね、と女将は言いました。
サリアル夫妻は一日中その日は部屋にいました。旦那のセラムが調子を崩し、夫人のサリアルもどうにも外出する気が起きなかったのです。しかし、静かに小川の見える庭先を眺めるだけでも、ゆったりとした時間が、遠く置き去りにした多忙な生活も愛でて違ったものにしてくれるようで、つまらなくなく、豊かな静けさに身を委ねていました。サリアル夫人は貴族の出生でした。よく学問を修めた(といっても留学したことはなく、貴族の子女たちを教育する目的の学業を修学した)彼女は、知的な奥方でしたが、その知性は社交のためにあり、人間関係をほどよく温めるためにありました。彼らは領主の仕事を息子共に任せ、大陸の南西にある国から身の危険もある国外への旅路に出ていましたが、健脚と、道中盗人にも会わぬ運を持っていました。両者とも頑健でしたが、ここに来て、ようやく靴紐が緩むように、旦那の方がまず最初に心身共に休息を求めたのでした。
「まだ有名な丘の上の湖は見ていないわね」
夫人が夫に語りかけました。
「行くなら一緒がいいわ。あなたの体調が戻ってからでも」
「ああ」
長い眠りから覚めたように、セラムははっきりした意識を瞳に乗せました。
「すまなかったなあ。色々と」
「どうして?」
「お前には謝ってこなかった気がしてなあ。折角だから、この場を借りて謝っておきたい」
「どうして?」
二回目の「どうして?」には笑いが含まれました。彼女としては献身がすべてで、自分の感情などどうでもいいところがありました。
「そうだなあ。前の奥さんとはこうした旅行なんてしなかったし。私は仕事と趣味にかかりっきりだったし。随分と苦労させてきたことは分かっていたけど、それを言葉でも掬い取ることはしてこなかったんだ。私は彼女にすまないと思っていた」
にわかに、サリアルの拳が固められました。
「お前のおかげで、私は今、穏やかな心地でいる。自分の趣味も、距離を置いていられる。だから」
「あの人のために謝るのはやめてください」
鞭打つような声音の響きで、夫人は言いました。
「彼女とまとめて謝るようなことはしないでください。そんなつもりは私にはありませんから」
セラムは驚いて身を起こし、その目を覗きながら言ったのではない態度を改め、初めて強い口調を利いた彼女を正面に置きました。夫人は唇を噛んでいます。
静かな時が流れます。
その晩、夫妻は食堂へ出掛けました。はじめ、夫が自分は部屋の外で食べようと言い出し、その気の利かせ方に対し、妻は咎める形で旦那についていったのです。さり気なく見た彼らの様子に、女将は自分が出すべき料理をより質素なものにしようと考えました。前菜も、主食も、全部この辺りで採れた地元のものを使って二人に提供したのです。そのシンプルな味付けは、彼らがこれまで食べたものの中にはなく、複雑でない味は、それが語るものを多くせずにただ二人の舌を楽しませ、料理をしっかりと味わう余裕をもたらせました。この野菜の味は何、この果物の固さは意外、そのスープの舌触りは、この魚と小麦パンの相性は……おのずと浮かんだ疑問は、ほとんど、その二人が共有できる思いで、なおさら二人が会話しなければ互いに持ち合うことができませんでした。
しかし彼らは黙っていました。黙っていながら会話していました。どうして互いに一言、何か発してくれないか、互いに、相手に依存し合いながら。
彼らは端っこに座る黒い肌の青年にも興味を持っていました。リムと共に、この後の後片付けもしなくてはならない少女セラシュが、ぐちゃぐちゃとあらゆるものを一緒にして口の中に頬張っている様子も。
「何かおっしゃってくださいよ」
いつも、この場合折れるのは、甘えられる方です。
「さっきのこと、気にしているんですか?」
ふふっと旦那は笑いました。
「いや」
振り子が揺られ、その真下には鼠がちゅうちゅうとうろついています。掛けられているのは歯車の付いた芯で、歯車は別の歯車とつながり、それは時計ではなく、目盛りを回る針につながっています。重い錘には落書きがされて、平べったい側面に愛らしい花柄の意匠が施されています。
「面白いもんだろ。適切に油を差せば、結構十分に揺れたままになるんだよ。こんなもの、ここらの人は好きらしくてね。これが時を刻むらしい」
女将は台所の壁に据えられた縦長の箱の中の、一メートルはある長さの銅製の紐の先端に括られた錘を、じっと眺めるリムに話しました。
「私は油の跳ね具合とか、野菜の煮込んだ加減をみて長さを決めるけどね。調理場にこんなのあっても邪魔じゃないか。でも、鼠よけになったり、子供たちを遊ばせとくには、いいものだ」
「……俺の家にもあります。ただし、それは魔除けの意味がありました」
「へえ」
「だから玄関口とかにあって。入ってきた魔物を騙して、後ろ向きにして返してしまう呪いが込められているんです。ああ」
リムは首を固く縮めました。
「はあ。もう帰れない場所です」
「そうなの?」
リムはその後もしばらく振り子を眺めました。
その翌朝、彼は女将について村の真ん中で開かれる市場にやってきました。
「いつもなら、あっちから運んでもらうんだが、君がいるからね。運賃を安くしてもらおう」
というわけで、荷役用に駆り出されたのですが、ハルマの宿に来てから、彼は一度も村道へも出ませんでした。あの赤毛の不気味な女がここらにはいるはずですし、もう一度彼女に捕まれば、今度は逃げられるものではないと考えていたのです。
彼は辺りに目を配せながら、恐る恐る歩いていきました。その様子に女将も気づいていますが、何も言いません。しかし、そんな慎重に彼は歩いていたのですが、女将の方が、彼よりはるかにゆっくりと進んでいました。彼は前に出てしまいましたが、どこへ行けばいいのか分かりませんから、慌てて女将の後ろに回り込むように姿を隠しました。ですが、それにしても歩調が遅過ぎます。
「なぜ、こんなにゆっくり歩くんですか?」
たまらずに彼は訊きました。
「ああ、私は、ゆっくり歩くようにしているんだよ。そうしないとね、右足が痛んでね。このくらいの調子だと痛くないからね。ごめんね、君の、歩く調子に合わないか」
リムは首を振りました。そして、宿主の右足をそれとなく見遣りました。足を引きずっているようには見えませんが、それでも、昨日の話を思い出して、この年配の女性を襲った思いがけない数々の事を、振り返りました。当然、話の中にあったことだけではないだろうと、これまでの歩みの中にあった出来事を、その右足に想像してみたのです。
「昨日の話だけどさ。君、帰りたいの?」
彼が昨日を思い出していたのを知ってか知らずか、女将が尋ねました。
「自分の家にさ。帰れないと言っていたけれど」
女将は軽い口調で尋ねました。リムは黙っていました。不意に自分を振り返らされた彼は、考え深くするだけで、少なからず自分と女将を重ねていたことにも気づきました。大変な、環境の変化を余儀なくされた、互いを。
「どんな事情か知らないけれど、時間が経って、ようやく帰れるようになることもあるんだよ。今では無理という場合でもね。それまで、うーん、ゆっくりすればいいさ。ゆっくりできる事情があれば。そうだね、私の歩く速さについていければ」
女将はうきうきとした口調で言いました。なぜそんな話をするのだろう、とリムは女将の様子を窺いました。
「昨日言ったじゃないか。私たちの事情を。私は離婚したがね、ところが、向こうはそう思ってなくて、私のこと、ずっと待っていると言うんだ。お前しかいないって。ふふっありがたいことに、こんな私を大分大事に思ってくれる人もいたもんだ。でも、私はあの子の治癒の方が大事だと思って、家を離れた。思い切って。それでここにいるんだけど。
私はいつか彼の家へ帰ろうと思う。そのためにね、そのためなんだけど……ゆっくり歩かざるをえないんだ。
時間は誰のためにもあるもんだ。誰かのためだけにあるもんじゃなくて。周りをきちんと尊重できれば、時間のうまい使い方も判ってくる。誰かに割くものではなくて、自分のためにも、相手のためにも使える調子ってものがちゃんとある。
ちょっと話しすぎたね。説教臭かったかい?君にもちゃんと、そうした自分の時間の使い方が分かれば、今は戻れない場所も、きっと、戻ることができるようになるさ」
リムは頷きました。
彼は、生まれてこの方自分が弱い者の立場だとは思いませんでした。なぜなら、欠点らしい欠点を、自分に見つけたことがないのです。今、彼が誰よりも弱い立場にあることを、彼は分かりませんでした。
誰もが弱さを持っている近くには、彼はいましたが。
誰もがその強さを持っている傍にも。
ちりり、ちりりと村の方々で爽やかな鈴の音がします。盛夏の祭が近くなって、いよいよという雰囲気を盛り上げるために、店先で、あるいは店の奥で、風に揺れる銅鈴を吊るして付けるのです。ちりり、ちりり。その音は決して人々の会話を阻害せず、むしろ、その互いの意思疎通を促すように、風の流れを彼らに教えているのでした。
「ああ、聞いているよ。君は確か、リム君だ」
女将が入った八百屋の店主がのっけから彼に随分と近づき言いました。
「本当だ。随分と黒いね。あはは。でも気にしないで、ここには、べらぼうに白い肌の人間も来るんだから」
「炭のような黒さだね。たくましいわあ」
店主の奥方も目をきらきらさせて彼をまじまじと眺めました。
「これじゃあどんな盗人も近寄り難いね。力が漲っているもの」
「そうだ。君が撃退した連中は復讐を誓っているかもしれないが、それは厄介なことだとも思い知ってるだろうね」
リムはこの賑やかな雰囲気に、この近さに、懐かしいものを覚えました。まだサーディアに蹂躙されていない彼のふるさとは、雪深くも夜も煌々と灯りを付く集落で、行き来する商人はたくさんの荷物を抱え、夜遅くまで商談をするのでした。六日に一度訪れる忙しい市は、誰もが、友人みたく親しくなるのでした。そこでは拍子木を叩いたりして、客の呼び込みも行っていたのです。
女将はてきぱきと必要な食材を貰い、金を払って出ようとしました。ところがリムと同じほど黒い肌の三人が、急に現れ、軒先に押し掛け彼らを押し留めました。
「本当だ」
「別れた同士が、こんな所に……」
しかし、彼ほど背丈はなく、ずんぐりと太っていました。
「失礼。我々は昨日ここに来たばかりのものでな。我々と同じような肌の人間がいると知って、興味あって訪ねたんだ。よろしければ、少しいいか?」
女将とリムは顔を見合わせました。
「まずこれを運ばなくちゃ……」
と、リムは風呂敷にまとめられた野菜を指差して言いました。
三人は女将とリムの後についていきました。リムと同じように三人は静謐で、煩わしさを感じない無駄がない動きをしました。しかし、その歩調は力強く、どれほど幾多の山道を経てきたか分かる、どっしりとした歩き方でした。女将たちが戻ってくるのを、遠くから、宿の庭先に出ているセラムとサリアル夫妻が見留めました。
「あら、あの子とおんなじ顔の人たちが、三人も」
「ふむ」
「彼が呼んだかしら?」
セラムが顎鬚をさすりながら言いました。
「種族が違うよ。見ろ、彼はひときわ背が高いだろう。先祖伝来の土地を守る黒肌の人々は、雪国の風景に映え手足長く、精霊の言葉を良く聴くために長い耳を持つ、神聖さを抱く民族だと私は聞いている。しかしとあることで、別れた支族は、皆背を低くして道端の草木を食べるようになったらしい。まあこれは伝説的な物語だが、主流から分かれた支族は、自分たちが持つ伝承と同じ言い伝えを保持する民族間を渡り歩き、言い伝えの中に残されている謎を、解き明かそうとしていると聞いている」
「へえ。浪漫溢れる種族なのね」
「だが問題を起こす輩もいてね、他の同じ言い伝えを守っている民族を、襲って危害を加える者もいるという。所謂謎の共有というものは、繊細な問題を生み出すのだ。その謎こそ、秘匿すべき神秘だからね。お互いに持ち合う態度が異なれば、同志を欲する側としては、危害を与えたくなるのさ」
「じゃあ、彼らは?」
サリアルが指差しました。
「さあ。どっちかな」
三人の男たちは食堂の机にどっしりと鞄を置きました。その中は紙束でがさがさとしており、平行形に崩れました。
「コーヒーをもらおうかな。いや、良質な茶葉があれば、そちらを頼みたい」
「はいはい」
女将は彼らの言うなりに求めたものを出しました。リムは食材の入った袋を台所に届けると、まっすぐ彼らのところに戻ってきて、対面に座りました。
「よく見ると成年に達していないではないか。名は何と言う?」
リムは困りました。今使っている名前は偽名で、追って来る者を撹乱させる意図があったのです。ですが正直に話しました。
「リムと言います。ですが、本当の名前ではありません。色々と理由があって」
「リム、か……ああ、我らの仲間でもそう名乗る者がいるよ。そうだな、伝承の古い名を借りているからな。断らなくていいよ」
「そうですか」
「リム君、君はサルドエスの出だな。我々も訪れたことがあるよ。古い町だ、都と言ってもいい、ある時代では最も盛んな土地だったからな。その鼻の高さ、頬骨、厚い唇。いい踊り手になる」
「自分は踊りを習ったことがないです。それに、今はサーディアの支配下にあるんです。自分を含め仲間たちはほとんど戦争のための兵士に取り立てられました」
「そうだったのか」
「我らの受難はここに頂点を迎えたのかもしれないな。ふるさとも亡くすとは」
「かの大国の勢は抑え切れぬ。だったらその勢に伺いを立てるのもやぶさかではない。受難とはいえ、元から始まった運命だ」
真ん中の人物が細いキセルをくゆらせました。
「リムとはかつて我らが町が襲われて、他の場所に移らざるをえなくなった際に移り住んだ仮初めの集落地のことだ。不思議なことにその名は我らの民族以外でも使われることがあるな。君は、我らのことを知っているだろう」
「はい。よく故郷にも来ていましたし。『旦那方』のことは」
「うむ。どうかな?ここで働いているようだが、その名から、借り宿なんだろう、ここは。我々と一緒に来ないか」
「えっ」
リムは息が詰まりました。
「いつまでもここにいる理由があるなら話は別だが」
リムは気軽には答えられませんでした。まだこのハルマの宿に世話してもらった恩に報いていないという思いもあったし、戦争で、彼が自分の仲間たちを裏切った思いがけぬ出来事で負った、心の傷も癒されていません。それに、そうでなくとも、彼らの申し出に対して真っ先に心に浮かんだのは、白い服の人、目の閉じた、アイラヌという少女でした。
「すぐに答えられなければ、また、日を改めて。我々はしばらくここに逗留するからな」
それから、リムと彼の町サルドエスの近況について、もっと詳しいことを聞くと、三人は満足して帰っていきました。リムはほっとしました。向こうの申し出通り、彼らについていくことはあまり想像ができなかったからです。しかし、断る理由もそんなにないものでしたが、『旦那方』は、自分とはかなり容姿も違っていて、故郷を訪れていた彼らの考えることも、色を変えるように自分たちとは異なっていました。だから、友人としては快く振舞えても、一緒に行くとなると、高い壁を感じたのです。三人が去ってしばらく、彼は真面目な顔つきで、椅子に座り切り、考え込みました。ですが考えがまとまらず、女将に何か手伝うことはないか、訊きに行きました。
考え深い顔のままの彼に、女将は笑顔を見せました。「気の済むまでだってここにいていいんだよ」彼女は言いました。
「私だって、そうなんだからね」
それから彼の顔つきが変わった気がします。セラシュなどは、彼が何かを決意したように感じ、まだ未成年でありつつもその真っ直ぐな青年らしい眼差しを、自分にはないものとして尊敬を抱きました。しかし彼女は訊きませんでした。リムと仕事をしていて、まったく手伝いっぷりのいい彼にはずっとここにいてほしいとも思いますが、彼の態度は、いつまでもここにいることを許すような素振りではなかったのです。気づかぬうちに、自分を罰するような、そんな威圧が時折、彼から漏れることがあり、その度に息苦しくなります。彼は、ここで働くことをよしとしていないのです。彼は三日ほどあの少女には会いませんでした。アイも出掛けることはあったみたいですが、交錯しなかったのです。
ですが彼は、会わずとも彼女の声を聞いていました。あの、心地の良い声は、部屋から漏れて、どこにいても彼は聴くことができるようでした。聞こえてくるのはうたでした。
「雲のごとく 空飛ぶ少女は 百年来の客人よ
ぼさぼさ髪をなびかせて 髪を洗いに来るのです
白い少女は時の流れ 時の流れに身を任せ
風に流され流されて 水に降り立つ姿とは……」
彼は、彼女のうたを聴く中で、どうしてあの声に心を惹かれるか、その声の主が彼女だからか、それともそのうたをうたっているからか、分からなくなりました。
それに、どうして少女がそのうただけをうたっているのかも、知りません。
「ああ、アイさんのうた!お祭で歌われるんですよ。みんなでね。十歳の後半の乙女たちは、あれを覚えるんです。ここのサン=サルという村では、百年毎に、美しい白い肌の女の子が空から降り立って、何か持ってくるという伝説があるんです」
セラシュがそう説明してくれました。リムは目を丸くしました。
「どうしたんですか?そんなに珍しいお祭?」
彼は首を振りました。そうではなかったのです。
はじめ、女将がここに来たばかりの時は、傍らにセラシュだけをつれていました。自分の娘は別の所に預けていました。彼女は老齢のハルマ氏から現宿を譲り受け、身を落ち着けられるようになって、自分の娘を呼んだのです。ですがあまりにひっそりと呼んだので、村人の中には、アイラヌの存在を知らぬ者もいました。
女将はこっそりとアイラヌに二年毎に歌われるそのうたを教えました。勿論、この村の指導者を呼んでです。アイラヌは、父親との一件があってから母親とも口を利かぬ期間があったので、それほど母親は彼女の扱いを慎重に慎重を重ねることにしたのです。
こうしたことも、セラシュから話を聞いて、リムはますます沈思しました。彼にはその歌詞の中、少女が何を持ってくるのか、知っていたのです。『旦那方』の追い求める謎は、セラムが彼らについて知っていたように、伝承の中にあるはっきりと分からない事を対象にしていました。その伝承は、彼の町サルドエスにも伝わっていました。その中に、アイラヌがうたう、白い少女の伝説があったのです。
彼はそれを思い出し、ふるさとでの日々を含めた彼の来し方が、今までの記憶が、育ちが、失敗が、罪悪が、まとめて逆流し噴出しました。彼は気が遠くなりました。
祭の日が近づいてきます。
「実にのんびりしたなあ」
セラムが椅子の上で身体を張って伸びをして、気持ちよく声を出しました。
「さすがに名のある憩い地だった。湖も素晴らしかった」
「ええ」
夫の体調も元に戻り、二人はようやく丘の上の湖に訪ねました。そこで、他の訪問者たちと同じく、彼らは水面に映されている景色に魅入られました。どこまでも続く山並みを、その山肌に連なる深い色の木々を、水面は映し、空を、雲を追っていくと、真下に自分たちの姿がありました。並んで立つ、二人の姿を、湖面はその背景とともにしっかりと照り返し、彼らを、細部までそのままを輪郭もくっきりと捉え、きちんとした一枚の絵に収めているようでした。
「どうだろう。私たちは、この旅を、ここで終えてもいいんじゃないか」
セラムが言いました。サリアルが顔を上げました。彼女はほつれたスカートの裾を繕っているさなかでした。
「戻るんですか?」
「ああ。もう一仕事、しなければならないしなあ。私の集めた、絵の処分と、彼らに財産をどう分与するか、私が決めないと」
えっとサリアルは喉を突かれでもしたかのように息を締めました。
「あんなに一生懸命に蒐集したじゃないですか」
「あれは誰のためでもないよ。私にとって癒しになるものがただふるさとにしかないのだと自分は考えていたが、君との旅行で、そうではなかったことを十分に気づいた。あれを自分のために集めたとて、誰が受け継ぐだろうか。私のみが癒されたとて、その私は誰かを癒すだろうか?そうしたことを、考えていたよ。
あの子が歌っていたろう。白い少女は時の流れ、時の流れに身を任せ。風に流され流されて、水に降り立つ姿とは。水浴みをする姿とは……。すっかり覚えてしまったよ。毎日聴くものだから。本当、綺麗な声で歌っているね。そうなんだ。私も、流れに流される人間だった。そして湖を目撃した。
あの場所に立って、湖の中を覗くと、そこには自分の姿があった。綺麗なものだった。あんなに綺麗に、自分の姿が映るとは知らなかった」
そしてセラムは、隣にいる女性もまた綺麗だなと思っていました。この女性に感謝しなければと、今さらながらにその時強く感じたのです。彼は、自分の理想を追いかけて、それに十分に人生を賭けて、失って、それなのに自分の姿は醜く、みじめに、絶望しているように見せなかった湖面の鏡が、あらゆることを許してくれているように思いました。
「君のおかげだよ。この旅に連れ出した、あなたのおかげ。
夕方の夜空に何を思うだろう。もう一度、この素晴らしい一日が巡るように?それとも、明日こそ変革の時を迎えたくて、何か誓いを立てるだろうか。私はそうしたことはしなかった。ただただふるさとの絵の中に心を沈めていたかった。でも
きっとあの丘に集う人間は、次の日のことを考えるだろう。どうすればいいか、自分自身に訊くだろう。そうしたことを私はしなかった。今やっと、できるようになった」
「リム君、アイを連れてきてくれないかい?」
女将は部屋中の窓を磨いているリムに声を掛けました。
彼は首を傾げました。
「今ね、合唱の先生に連れられて、丘の上に行っているんだよ。そこで歌うからね。慣れさせているのさ。だから、ひとっ走り、してさ」
セラシュは……と彼は言いかけました。いいえ、指示には、従うまでですが。セラシュは朝から見かけていませんでした。女将も何も言っていませんでしたが、実は、昨晩から調子が悪くて寝込んでいました。その寝込みも、我慢ならなくなるほど悪くなり、深夜に医者がやって来て、色々と薬を処方されていました。リムは気づきませんでしたが、廊下を歩いたセラム氏はその唸り声を聞いて、心配になり女将に尋ねていました。
「お客様にご心配をお掛けしてすみませんね」
そう言って女将は謝りましたが、セラムは心痛な面持ちでいました。唸り方がただならぬものに思えたのと、普段は明るい少女のあの賑やかさと比べて、女将自身も、憂鬱さを浮かべる表情をしていたからです。
「あら、顔に出ていますか。いやだわ、そんなんじゃ。少し、いいですか?あの子は元々奴隷だったんです。みなしごを集める孤児院で、相当の扱いを受けていたようでね、時々、ですが、もしくは定期的に、苦しまざるをえなくなるんですよ。あの子のお腹は相当に弱い。私が連れ出した最初のうちは、どんな食べ物も受けつけなくなるくらい、ひどかった」
あの子の寿命は実は短い、と、医者からは言われていることを、女将は言いませんでした。
「私があの孤児院を買えるくらいお金持ちだったら良かったんですけどね。私は、あの子だけを連れ出すことしかできなくて、かえって、それが彼女を苦しくさせることにもなっています。自分だけが、連れ出されたってね。もしセラムさんが金銭にご余裕があれば、あの施設を買い取っていただきたいものです。なんて、打算は言いません。
あの子の明るさは真なるもので、決して、私に対して、もしくは、置いてきた同僚たちに対して、すまなかったという思いがあっての振る舞いではありませんから、あの子の苦しみも、本当なんです」
セラムはよく分かる気がしました。彼がセラシュを気にかける理由は、その明るさに一片も曇りがなかったこと、なのに、まるで体中に翳りを満ち満ちて唸った声の、激痛の迸りが、こちらに届いたからでした。
「ここってそういう人たちが多いんですよ。住人もそうだし、訪れる人も。だから、皆集まるんですね。ここに。サン=サルという村に。
あの子を気に掛けてくださって、ありがとうございますね」
セラムはその場を辞しましたが、まだ、訊き足りないことがありました。そうだとすれば、女将自身も、歌を歌っている少女も、あの黒い青年さえそうなのだとすれば、この村は、特別だとしかいえません。
古くから、剣同士が交錯し、血で血を洗い、凄まじい戦場となっているこの地では、いくさがない時、いくさに手負った人々が、その傷口を湖の水で洗い続け、
普通ならいくさ場となったのなら血生臭いもので、多くの亡霊なども徘徊するものですが
ここでは違うのです。ここでは互いに闘いを許し同郷の思いすらある多くの人間が、再び戦いを始めたとて、また集い、思いを同じくするのです。つまらない民族紛争などここにはなく、土地が、土地たる所以を人間に伝えているのです。ここに来れば、癒される。ここに来れば、傷は洗われる。
何度壊滅しても、ここに来れば、復興する。
そんな特別な土地柄が不思議な力を持ったとしても驚きません。ここに来れば、人間は復活するのだという経験をするのですから。
セラムは大きく息を吸いました。
「そうだとしても、それを為すのは人ならば」
彼は考えました。
「それを確認するんだ」
そしてほっとしました。
どうして争いごとはなくならないのか。
恨みは繰り返されるのか。
そして言葉は言葉を返し、
憎しみは憎しみを繰り返し、
強固にここは我が物だと訴え、
故郷を追われたみじめさは久しく残り、
同化は許さず、誇りを求め、
強さを求め、弱さを挫き、
認められることを欲し、
いなくなった者たちには記憶も失くし、
ただ我があるものと、
世界に祈る。
多分、世界は血で血を洗う戦場地。
一人も皆も、同じこと。
ならば。どうしてここに生きているのか。
どうしてここで苦しむのか。
どうしてここで笑うのか。
どうしてここで言葉を交わすのか。
大事なもの。それは手元にあり、
決して空高く手の届かないところにはなく、
神に祈れど、
神に拳を振り上げることも、
なぜ祈りを聞き届けないと疑うことも、
忘れ、一途に幸福を望む。
我らの祖先。我ら自身が
目の当たりにする景色とは。
リムは初めて丘を登りました。初めてサン=サルにある湖を目の当たりにしました。近しい山並みを背に受けたもの言わぬ湖を。それを自分の背にして振り返れば、南側に広がる展望は、遥か遠くに山脈を望み、広大な沃野が自らを空け、カラスたちが飛び交っています。しかしギャアギャアとうるさくはなく、美しい声で、品良く啼いています。湖にまた目を移し、眼下に覘く鏡のような水面には、小舟が渡り、静寂が薄く波紋を広げています。人々は岸辺に思い思いに佇み、静かに縁の内側を覗いています。
そこは誰でも受け入れる姿の湖でした。何もなく、ただ静かで、四季折々の草木が生え、自然にそこに群生しています。雲は、豊かに湖面に映え、地上の姿を映している水は
何も語らず
ただ我々を映していたのです。
リムは呆然と水面に浮かぶ自分の姿を見下ろしました。足下から五十センチほど離れたところにあるそれは、ただ、己を見返して、
強く、何事か為すべき彼自身を映し返しました。
彼は今分かりました。なぜあの少女のうたごえに惹きつけられるのか。彼はアイを探しました。すると
恰幅のいい女性の隣に、あの白い木綿の上衣を着て、こちらを見て、立っているのを見つけました。
その途端
彼は体がまるごとあちらに引きつけられる気がしました。それは道理ではありません。理屈ではありません。
何もありません。湖はそれをただ反射していました。生涯に一つだけ経験する抗い難い幸福の証。それを
彼は見つけたのです。
どうしてこんなことが起きるのでしょうか。この世界で。彼は
まるで許しを得るような姿で
彼女に近づきました。
「アイさん」
彼は言いました。
「女将さんが呼んでいるよ」
彼にはアイの目が開いているように見えました。
「行きましょう」
アイは返事しました。
二人は連れ立って歩きました。しかし触れ合ってはいません。リムは彼女の呼吸が近くに感じて、どきどきとしました。隣を歩くだけで、気持ちが上ずり、何か、遠くに叫びたくなってくるようです。そんな連れ合いも長くなく、ものの十五分ほどで、ハルマの宿に帰ってきました。
「ただいま」
「あっ!」
と叫んだのは、起きたばかりのセラシュでした。
「お帰りなさい。あら、お二人一緒だったんですね。どこへ行かれたんですか?」
リムはその質問に答えられませんでした。
強く、今までより相手を思うことになったリムは、どこかでうたわれるアイの歌声ですら、ものすごく傍に感じるようになりました。彼はたくさんの仕事をしました。村人の間でも受け入れられる存在になり、彼は頼りにされました。
祭が近づいてきます。しかし、出来事はその祭の前に起きました。
初夏も過ぎ、暑さも増していくさなか、蝉などが鳴き声を大きくし、その賑やかさは山の中では、山ごと揺するものでした。しかし人里では、着々と準備が進められる祭の日まで、人々のうきうきした気分は、彼らの音声や厚さには負けないものでした。
一万人が集うこの里の旅籠は満杯で、アイがいるために静寂を要するハルマ宿は、まだ少々の空き部屋もありましたが、セラム夫妻のほかに二組が泊まっていました。
リムは客室から従業員部屋に部屋を替えていました。三畳ほどの狭い一室は、慣れ親しんだ故郷の家にも似て居心地がよく、考え深くなるのにも適切でした。彼は考えていました。どのようにして、これから、人々のために、生活をしていくか。
きっと笑う。
自分を見つけ出す鏡とは。
彼の元に、三人の黒い肌の同郷の友が来ました。彼は仕事の手を休め、女将に断って、彼らの話を聞きました。
「我々はな、もう行こうとしている。君からの返事を待ちたかったが、そうも言っていられなくなった。君はちっとも我々を訪ねてきてくれなかったが、それは、我々と共に行くという意思はないと受け取っていいのか?」
リムは頷きました。
「そうか。それは残念だ。ここにいるのかい?」
リムは頷きませんでした。
「……どうして何も言わない?ああ、ふるさとへ帰るんだな。それがいい」
「あなた方は、湖をご覧になりましたか?」
リムが訊きました。
「ああ。立派な広さだったなあ。心が落ち着くよ。しかし、ここを訪れる人々はよくあの岸辺に立って下を覗くな。何かあるんだろうか、とは思ったよ」
「湖面を見ていない?」
「見たよ。覗き込んではいないがね」
「ああ、そうですか」
リムの目の中の光が急に強くなりました。
「私たちの伝承の謎には、白い服の少女がある時湖に降り立ち、そこで何かを携え空に帰っていくという物語がありますね。同様に、鏡のように美しい泉に男が座り、水の中を覗き込むと、やはり何かを貰って、その場を離れていく。彼らは、一体何を頂いたのか」
「ああ、そうだ。そのような謎がある」
「古い話に欠けたもの。それを探り出さんと、あなた方は私たちから離れ旅に出た。同学の友たれとして、世界中を巡り歩いた。ここにも、同じような伝説が語られていることを知っていますか?」
「ああ、知っているとも。だからこの地を訪れたのだ。しかしその答えはなく、調べる人間もいなかった。
だからもうこれ以上この場にいることはかなわないと、我々は判断した」
「湖面は覗かれましたか?」
「いや。繰り返すな、同じことを」
「そうですか」
ついに三人の一人が痺れを切らしました。
「君は何を知っている?」
「その謎を」
「言ってごらん」
「記憶です」
しんとした沈黙の時間が、四人の間を流れました。
「なぜ」
「なぜその答えが記憶なのだ」
「もしかしたら、この答えは、人によって違うのかもしれません。だから、自分はあなたたちに湖を覗いたか、訊いたんです。自分の家のあるサルドエスにも、近くに泉があります。水のまったく立たない、鏡のような表面に、映されるのは表側の世界です。あの湖も、とても静かな湖面に、反映されるのは自分の顔です。
自分はそこに自分の記憶が映されているのだと感じました」
彼らは溜息をつき、ふふふと笑いました。
「どうしてそうなる」
「人によって違う答えなど答えではないわ。謎は解けたものと思い込んだな。しょうがない。君はまだ成年に達していないのだからね」
彼らは呆れてこれ以上ものも言えず、すっかり興を削がれた面持ちで、適当な挨拶をしてリムの前から離れていきました。
「じっと聞いていたよ」
一人残された、黒肌の青年に、後ろから女将が声をかけました。そして
静かに後ろから抱き締めました。
「君は偉いね」
「なぜです?」
「自分が見つけた答えが答えだからよ」
リムはぶるりと身を震わせました。
統合。
目の開かないアイの存在は村の周知となり、彼女が歌い手として登壇するのだと分かって、人々はその準備を始めました。乙女の誰もが歌い手となれば、花道が、自宅からあの丘上の湖へと用意されて、祭りの前日、その間をしずしずと歩いていくのです。予行練習が試されました。その歩行と、合唱と。アイは目が見えませんから道を覚えるしかないのですが、周りの人々が、道を空けて誘導しますから迷うことはありません。
予行が終わった次の日、アイは一人で丘に向かいました。付き添いはいません。しかし、人々にどこへ行きたいと言いながら、うまく誘導されていきました。彼女は湖の岸の端に立ちました。周りの人間が落っこちないか冷や冷やしながらその様子を見ていました。
彼女は目を開けようとしました。必死になって、隙間から、どうにかして外の様子を見ようとしました。ですができませんでした。暗い世界。ただ瞼の向こう側から日差しが当たっているのが分かり、光の温度はよく分かります。
湖が彼女の姿を反射しています。
もしリムの言う通りそこに降りた少女が持ってくるのが記憶ならば。いいえ。
彼女が目を開けようとした時闘っているのはおのずとその記憶なら。
彼女は見ないことをやめようとしたのです。はっきりと、自分が見えなくなった理由を理解していたのです。母親の温かい配慮の中にいながら、セラシュの元気いっぱいの声掛けを聞き安堵しながら。草木の匂いを胸いっぱいまで吸い込むことができる場所で。覚えられたうたの旋律と詩に何か励まされつつ。
目を開くのは自分自身に他なりません。それができるのは。
しかしそれを邪魔するのも自分自身です。自分の中にある記憶です。
人は支えられているものとどこかで分かれば。
ずっと自分が闘ってきたものがあるとすれば。
闘ってこれたのは。
「アイさん」
直立不動の姿勢を保つアイを呼んだのはリムでした。
「女将さんが、呼んでるよ」
アイは背中を丸くしました。肩をうち震わせ、
振り返りました。
優しく、手が肩に添えられました。指先を触られ
髪を撫でられ
「行こう」と言われました。
「この人は誰?」と思いました。
「この人は誰?」と二度思いました。
彼女は目を開けようとしました。しかしまだ開くことはできませんでした。
アイが目を開けようとしていたことを、リムは感じていました。でも、無理に開くことはないと思いました。あれだけの
涙を
その隙間から漏らしているのであれば。リムは彼女の苦しさを想像することしかできませんでした。彼女の母親から目が開けられなくなった原因は聞いていても、どうすればいいか皆目見当がつきません。でも、彼女はなぜ、目を開こうとしたのだろう。あの湖の前で。
自分の姿を見るために?
十分に癒されたと思ったために?
彼女は多分、開かずになったその原因を、十分理解しているだろうと彼には思われました。父親との確執があったからとて、見るまいとしたのは渾身を注いでできた絵を、燃やされたから。自分からの愛情を、受け手が拒んだから。だとすれば、見るまいとしたのは、いえ、二度と目を開けて見ることができなくなったのは。その悔しい結果、受け付け難い、結末ならば。
彼には想像することしかできません。でも、
もし、もしも、目が開いて、あの湖で自分の姿を見られたならば。
自分のように、何をするべきか、分かるだろう。
あの湖面の鏡が卑しい自分を映すはずはなかった。欲望に駆られて仲間を突き飛ばしたり、敵国に仲間を売った、自分の浅ましい心情を、卑しくそこに映すことはしなかった。
自分が仲間に要求されて大国の兵士を殺害したことも、仕方のなかったことだと映し出さなかった。
あれはやはりはっきりと自分の仕業だったと、この手でその人間を殺したのだと。それはやむをえない事情だったかもしれない。浅薄な私情もあったかもしれないが
結局皆捕まえられて、その後の収監された場所で、わけのわからない獣に喰われ、ほとんど皆殺しにされたあの結果を、もたらしたのが。
自分の行動だったことを
自分の行動だったことを、
彼は身に納まる思いで、それを確認したのでした。
記憶。
それを確かめるだけだろう。それを確かめるだけなのだ。なら、そのために、あんなに泣いて頑張らなくてはならないのなら、別に、開けなくていい。
いいえ、複雑なことはなく、
ただ、
泣いている相手に、彼が、そっと手を差し出しただけでした。
風が吹きました。息を吸おうとしてぷかぷかと葉を揺らすアイラヌの草が、同じ名の少女の足元で、頭を揃えています。じっと草は彼女を見上げています。同じ名を持つ同士、どうして、慰め合えないか、と。
君は頑張ったよ、と言ってあげたくても。
口もない草は、その姿を見られずして、そのメッセージを届けられません。
アイはもうすぐ自分の目は開かれると思っていました。本当は、自分の意志で、開きたくても。でももう目を閉ざす必要は、自分にはないと感じたためでした。どれほどあの瞬間が目玉にこびりついていても。克服し難い傷口がまだ、塞がれてなかったとしても。
アイは優しく腰の丈ほどある草藪のツバキを触りました。葉の果肉が、柔らかく、自分の指を弾きます。
「痛っ」
そして、棘ある茎に触れました。この瞬間、彼女は、思わず目が開けられることを希望しました。
しかし、目は開きませんでした。
また涙が滲み出ました。どうしても彼女は自分の目を上下に元通りに
開きたかったのです。
自分の意志で。
その日の月夜もまた彼女は庭に出て、同じように、ツバキを触り棘を刺しました。
「痛いっ」
という反応も予定調和で、それで目が開くことはありませんでした。ですが、その晩空は美しく、満天の星たちが、大地に光よ届けと明かりを寄越します。
「綺麗な星だね」
アイの背後から、誰かが声を掛けました。アイはびくりとして、動けなくなりました。
サリアル夫人が、白い丈長のスカートを揺らして、背後から、アイに近づきました。
「お昼もここに来ていたね」
夫人は横に並びました。二人は背丈がちょうど同じくらいで、顔つきもどこか似ていました。顎が尖ってて、前髪を分けていて、後ろ髪をさらさらと落として。
「お祭の日、あなた、うたうんでしょ?」
アイから返事はありません。
「楽しみにしているから」
サリアルは、できるだけ優しく、優しく、言いました。他意はなく、純粋に、あなたの歌声が聴きたいという目的で。彼女は密かにリムと女将の間で交わされたアイについての話を聞いています。だから、その目の開かない理由も、今、多分その目を開けようとしていることも、分かっていました。彼女はお節介でした。いつもそうでした。
「ごめんなさい。プレッシャーに感じた?」
慌て気味に彼女は滅裂に言いました。自分から声を掛けておいて、相手との間に居たたまれなくなりました。身体も近いように感じ、少し離れようともしました。
「いいえ」
と夫人はやっと少女からの回答を貰いました。アイは相手が分かりました。いつも少し離れた部屋で、旦那と丁々発止のやり取りをよくする、賑やかな御夫人だと。サリアルの声はよく通るのです。
「お祭の日までいらっしゃるんですね」
「ええ、勿論。楽しみにしているわ」
「そうですか」
「あなたは?楽しみにしている?」
アイは黙ったまま、しばらく考え込んでしまいました。夫人は彼女の顔を遠慮なく覗き込みました。瞑られた両眼の表情は豊かです。
「楽しみにしたいです」
「そうなんだ」
搾り出したようなアイの答えに、サリアルは即座に返しました。
「ごめんね、邪魔して。集中したいこともあったでしょうし、私はこれでお部屋に戻るわ。それじゃ!」
そそくさといなくなった夫人に一人取り残されたアイは、たった独りの空間を持て余すことになりました。それだけ、サリアルの言葉は、彼女の頭の中を目まぐるしく駆け巡り、彼女に考えさせたからです。彼女は布団に帰りました。
そこで、誰かに頭を撫でられながら、子守唄でも聴かされている夢を見ました。
翌朝、目を覚ました時、自分は目が開いているんじゃないかとアイは思いました。ですが瞼の裏に映る外気の光は、直接瞳には届かず、彼女は気が沈みました。アイは閉じたままの瞼を上から押さえ、眼球をくにくにと弄りました。
窓から風が入り、彼女の目の蓋に、それが触りました。アイは手を目から逸らしました。
「あの人は誰だろう?」
そんな疑問が浮かびました。自分を湖岸から呼び出した人、二度も私に呼びかけた人。あの人は誰だろう。
浄化。
穢れはなくならず意味を持つ。
祭まであと二日……。その日に。
世界中が礼をしました。
誰かが腕組みをして立っています。その誰かは黒い衣を着て、胸を風に曝け出しています。怖い感じの佇まいに、あらゆる動物が遠巻きにしています。その視線は遥か北方にありました。
「おい」
門口の掃除を終え、ごみを片付けようとするリムに、女が声を掛けてきました。蕾立った花道が、さわさわと揺れています。
彼が振り向くとそこには赤毛の女がいました。彼は驚く振りもなくじっとそこに佇みました。
「観念したか」
女はそう言いながら彼に近づいてきます。
「お前のことを迎えに来た。一緒においで。悪くはしないから」
リムは首を振りました。
「行けない」
「お前は罪人だ。その罪の償いをしなくてはならない。公務妨害、裏切り、煽動、そして殺人の罪を、その体でもって」
「俺は行かない」
赤毛の女はふうっと息を吐きました。
「分かっている。お前は自分の道を見つけた。お前の行動を監視していた。お前はこの宿の娘に惚れている」
リムは黙っていました。
「しかしお前は守る者のために暴れるかもしれない。その力を抗じるために、存分に。お前を連れて行く方法はいくらでもあるのだ。我々の思い通りにすることも。しかし時間が、許さない」
女は残念そうにかぶりを振りました。
「私の、願いを、伝えよう。お前は、大人しく、していること。決して、対抗しようと、しないこと。大事なものを、守ること」
リムは、赤毛の女の言っていることが理解できなくて、女の様子をもっと観察しようとしました。女は暗い目を開いているようでした。しかし、その目は開いていないようにも見えます。閉じているように。
「そうすればいい。一律の経験をすること、その風雨に、逆らって波立つことがなければ。水は逆らわなければどこにいるのか分からない。同じ水なのだから」
「あんたは俺を見逃してくれるのか」
リムが訊きました。女は腰に手を当てました。
「大丈夫だ。お前はあの流れに逆らわない」
そして、煙のようにいなくなりました。
リムは冷たいものを感じました。女は何かを、予告しに来たのです。それは明らかでした。なのに、彼にはそれ以上の、彼女が知らせに来たもの以上の、邪まな予感を覚えたのです。彼女の言った、あの流れとは何か。彼は何かを見逃した気がしました。
きっと、黒獣の害によって目覚めた力が、大国にとって敵意となるようなことを慎むように言われたのだろう。あるいは、この力でもって無闇に活躍をして、目立つことがないようにとか。彼の想像はここまででした。だとしても
この力でもって守れるものは何かあるのでしょうか。彼にはそれは、何もないと分かっています。その闘いを守ることはできるかもしれませんが。各人の。アイや、女将や、自分自身が挑んでいる闘いを。皆が現在、必死で、対峙している、取り組みを。それらを壊すようなものに対しては。
「逃げろ」と何かが言っています。逃げろ、逃げろと。
ですがその声に応えるものを彼は持っていませんでした。
「畜生」
と、拠点にしていた村を襲われ追い出されて、サン=サルの村に毒を撒こうとした男は毒づきました。祭の日がいよいよと近づいて、高揚した気分そのままに、ここに集まってきたサン=サルの村に世話になった人々が、ついに盗賊共を攻撃したのです。特別組織立っていない彼らは散り散りになりながら逃げました。彼らに村を奪われた人々は、方々の集落や彼らにしか分からない避難地に逃げ糊口を凌ぎ、サン=サルの支援を待ち続けていましたが、ここに反撃を果たしたのです。
それは朝方でした。リムが赤毛の女とやり取りをしている間に、復讐は行われ、村人たちの怒りは力ずくで盗賊たちを懲らしめました。盗賊は毒を井戸に入れようとしました。そんな身の程を知らない者は、あっけなく殺されました。慈悲の猶予もなく。
血が流れ、ゆるやかに地面を下り、土を穢しました。逃げた男は、毒づきながらも、我が身を哀れみました。なんでこんな目に遭うんだろう、と。ちっとも世の中はうまくいかない、と。世界中を呪いながら、彼は、走りに走りました。
誰も彼にはついて来ず、彼は、一人きり山を北に向かいました。尾根道を通り、谷筋を渡り、小川に身を浸し、蛙を捕まえ、芝に足を取られながら。彼は自分が水だと気に入りませんでした。ただ流されるだけの水だと。彼は何者かでありたいと思っていました。誰かに認められる自分でありたいと思っていました。誰かを恐れさせたかったのです。世界をひれ伏せたかったのです。何に怒るか分からないまま、彼の怒りは、ただ頂点に達し、相手を欲しました。ぶつけられる相手を。しかし彼としては、世界中を呪うより他はありませんでした。その怒りは空を向いていたからです。すっからかんの、空しい空を。
彼は山頂に辿り着きました。そこで、目ぼしい輩はいないか、今すぐに襲える相手はいないかと、目を皿にして街道を行く旅人を物色しました。その向こうに
遥けき空の下に
彼を見下ろす空の下に
黒い煙が細い影を伸ばしているのに気づきませんでした。
勝利に酔った人々は大声を上げて凱旋し、そのまま祭を始めてもいいほど村は熱狂に包まれました。騒がしい夜、ほとんど花道の蕾はほころび始め、いよいよ、迎えうる前夜祭と続く歓びの宴と、そして合唱の舞台を想像しうる、祭より二日前の特別な晩でした。
「リム君。すまないけど、また、アイを連れてきてくれる?」
それは、三度目の頼み事でした。
少し前、夕飯を食べてから、アイは自分の部屋を出て、キッチンでお皿を洗っている女将に、また湖へ向かうことを告げていました。その時に、
「私、やっと目を開けたいと思う」
と言っていました。女将は黙っていましたが、彼女は、告げることだけを告げて丘の上に向かいました。女将はただ皿洗いを続けましたが、口元は緩み、いよいよか、と思いました。
「ここに来て癒されない人はいないもの。私を含めて。ここに来てよかった。それぞれが、それぞれの時間を使って、焦らず、遅れもせず、変わっていくことのできるこの村へ」
彼女は桶の水を空けて、その飛沫をぴんと指先から弾きました。
アイはセラシュにも同じことを告げていました。そして、
「ありがとうね」
と、付け加えました。セラシュは胸がいっぱいになり、そのことを、リムにも伝えようとしましたが、ちょっと考えてやめていました。
彼女らのわくわくする気分は、リムには伝えられませんでした。なぜなら、この感慨は、アイと付き合ってきた歳月が長い者だけが、味わえた、大きな出来事だったからです。ですが、彼がやって来たことも、彼もまた治されていったことも、この気分には混じり合っています。それは自分たちが、自分たちもまた、ここに来て、治されていったことにも、拠っています。本当の力強い力が、人の、源から湧き上がってくるこの地は、単に、荒れてもなお耕され、建物が建てられ、蹂躙された人間が立ち上がる土地性が、あるいは闘いをぶつけ合った者同士が湖を覗き込んで、鏡に映った自分の芯を顧みることのできる、偉大なる治療の場が、そこにあったからこその、たゆまず積み重ねられ醸成された、特別な、特別な空間だったのでしょうか。いいえ、セラム氏が言った通り、ここに来る人間が、そうした力強さを持っていたために、それが、露わになった場所なのです。
人の場。それが、土地が土地たる所以を伝えてくるのです。
それがどうしてこの世だと言えなくないのでしょう。
リムは歩きました。賑やかな界隈を、人々に親しい声を、掛けられながら。そして
咲きほころぶ蕾の花道が悠然と続く丘への道路をものしずかに
天の星々もきらやかに瞬くのを見上げず
ただアイの背中を見つけようとして
その心の導くままにまっすぐに
アイはいました。アイは振り返りました。しかし、まだ、その目は開いていません。
「あなたは誰?」
と言いました。
「確か、初めて会った時に、自分は囚人だと、言っていませんでしたか」
「ああ」
リムは漏れるように答えました。
「名前は?」
「……セイハル」
「やっぱり」
彼女は微笑みました。
「聞いた名前と違ってる」
風が吹き過ぎていきました。
「まだ捕まらないんですか」
「捕まった方がいいですか?」
アイはかすかに顎を引き、風を聴きました。
「いいえ」
「生憎、解放されました。自分は裁かれることがなくなりました。
裁かれた方が、いいですか?」
アイの言葉と彼の声が同時だったために、彼には「いいえ」の答えが聞けませんでした。
「いいえ」
「自分は、裁かれた方がいいと思っています。色々な罪を、自分は犯したから」
また、声が重なります。
彼は沈黙しました。次の言葉を言うのが怖かったからです。しかし用意しているのはその言葉しかなく、その言葉は、彼の口から出て行くのをじっと待っています。
彼は
アイラヌの目の閉じられたあらましを聞いていました。その感情にも理解を示しました。無理に開ける必要はないと思いました。
彼女は目を開いていました。そして、彼の目は涙が溜められていました。
「いいえ」
「あなたが好きです」
その声は、同時でした。
「だから、裁かれたい」
暗い中、その暗闇にも紛れるような、黒さのはずなのに、肌は艶やかに輝いていて、目は白く、可愛らしく、何かに溢れていて直視できず
でも直視しなければならず
アイは全身を伝わる波立ちに軽く呻きました 何年かの
自ら閉じた皮膚の裏に見た顔は
さざなむ体に乗せられた
自分の顔を
その目の中に捉えて
「じゃあ、その、裁きの中で」
アイは言いました。
「私たちと、一緒に、暮らしていけるの……?」
「どうでしょう」
リムは、うつむきながら、軽く、答えました。自分にはそれを望む権利はないと、どれだけ願っても、それはできなくなることを彼は目の前にしています。苦しさ。本当の苦しさが、告白と同時に彼を襲いました。
彼はそれを捨て置けませんでした。湖の中で見た、自分の姿を、それが本物だと見るならば、それは変わらずにここにあるもので、それは今も向こうから見た湖の水面に
映し出されているのです。
希望。
絶望。
そして、深い愛が。
リムは顔を上げました。もっとそばにアイの開かれた両目があります。開かれたといっても
彼には初めて会った時からそれは閉じられていなかったのですが
「セイハルさん」
セイハルは彼女の瞳の中に、自分の姿を見つけました。怯えて、恐れて、怖がっている卑小な自分の姿を。でも
湖面に反射して見た通りの自分の姿を
「私、嬉しい」
彼女は彼の手を取りました。
「一緒に、暮らしましょう」
熱気が彼らの肌に届きました。それは山の向こうから吹き下ろされてくるものでした。なんだろうとあちらを見上げた人々は、かすかに、空が焦げていることを知りました。サーディアの南進が始まったのです。
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