ホテル・ラフィアン【R-18】

乾しずく

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死人:404号室

死人:404号室

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 紫陽花が煙って見えるほどの細かい雨が降っていた。何にもする気が起きなくて、さっきまで寝ていたしのぶの身体を、包んで、湿らせて、ますます身体が重くなる。傘を差していても、その細かい霧の粒が、首筋から、袖口から、顔から、足元から、まとわりついてくるのだった。 
 それでもしのぶは指定されたそのホテルの部屋に、指定された時間の五分前に着いた。時間に遅れるということは、誠実ではないということ。父親が教えてくれたただひとつのことだから、しのぶはそれを守ることにしている。雨やけだるさがどれほどでも、しのぶは遅れないでその部屋に着く。それを強迫観念のように感じることもあったが、今は習慣のようなものだ。  ホテル「ラフィアン」は「ラフィアンあばずれ」というよりは小娘のようだ。ひとつのフロアに四室、それが縦に八階続く。部屋はどれも、客の好みを無視した淡い白で統一されていて、病院のように感じることもある。 
 鼠町のラブホテルの中で、しのぶが最も好きなホテルだった。
「午後三時にラフィアンの四○四号」というのが永山の指示だった。永山は穏やかな声音の、若い男だ。だがしのぶは実際に永山に会ったはただの一度だけだから、永山が穏やかな男であったのか、若い男であったのか、そのすべてが曖昧になっている。今しのぶの中では、永山はただの記号だ。
  フロントで五十過ぎの、台湾人の女性に声をかける。彼女のビーズ玉のような目が、しのぶを見て頷くのを見る。しのぶは彼女が苦手だが、ここでちゃんと挨拶しておくかどうかが、いざという時に重要であることを、一度身をもって知ったことがある。
  その記憶を払いのける。 
 女性が電話をかける。明らかに日本人ではないアクセントで、来客を告げるその声が、あまりにステロタイプで時々笑ってしまう。女が電話を切り、また頷く。しのぶは黙って会釈をして、四階へ上がった。 
 昇りと降りが決して交錯しないエレベーターが、ゆっくりと四階に着く。
  四号室をノックをして待つ。 
 ドアが開いた。 
 眼だけがこっちを見て、 
「どうぞ」
  低い声が招きいれた。
  落ち着かないまま足を踏み入れる。男がドアを押さえてくれた。
「ありがとうございます」と告げ、男の顔を見ないでブーツを脱いだ。ブーツを脱ぎ終わってから、ゆっくりと男を見る。

  細い男だった。 
 しのぶは彼を見て、まずジャコメッティの「市場の三人の男」という彫像を思い出した。それは学生の頃幸神町の古書街で偶然見つけた図録で見たのだった。ひょろっとした針金のような、それでいて力強いフォルムをしていた。  人間というより、樹のようだ。
  男は長袖のTシャツを着ていた。横縞のそのTシャツは囚人服のようで少し可笑しかった。 「しのぶです」男の眼がひとつ瞬く。
「よろしくお願いします」
  男の眼は細く、目尻が尖っていた。
  青白い顔が、外の雨の中で見た花を思い出させた。 
 黙っているのも気が滅入るので、明るく声をかける。
 「降ってきましたね」 
「そうですね」男は言った。
「いい天気です」 
 しのぶは笑った。
  男は真顔で頷いた。
「いい天気ですよ」 
「そうですね」しのぶはくすくす笑った。 
 そのまま浴室に行く。しのぶは風呂の蛇口をひねった。黴臭い匂いと見知らぬ誰かの体臭の混ざり合った、厭な臭いが湯に炊き上げられて、その臭いでしのぶはうんざりする。だが風呂に入らないわけにはいかないだろう。備え付けの入浴剤を入れようとすると、後ろから声がした。 
「入浴剤はいい」 
「そうですか」振り返らないでしのぶは答える。 
 男の声は低いテノールバスで、かといって威圧的ではなく、風呂場の壁に反響してすっと消えた。 
 かすかに、胸のどこかで、普段は感じることのないちりちりと焼けるような感覚が火花のように浮かんで消えた。それが何だったかはあまり思い出せない。思い出したくないというほうが本音かもしれない。しのぶは幽かだが欲情している自分に気がつく。そしてその感情に危機感を覚えた。しのぶはその感情が危険なことをなんとなく理解している。 
 それは懐かしいが思い出したくない感覚だ。  風呂場から出て、固いタオルで指先を拭く。湯加減を見たせいでしのぶの指は湿っていた。狭い部屋の中で男が口を開いた。 
「雨の日が嫌いですか」
 「好きではありませんね」反射的にしのぶは答える。 
「そうですか」感情を交えない声で男は答える。 
 しのぶはベッドに腰掛けた。ベッドは固く、弾力がない。その固いベッドがしのぶは好きだ。まるで病院みたいだからだ。 
 男が隣に座った。
  そっと男の手の上に自分の手を置いて、
「冷たい手」
声に出して言ってみる。 
 男は何も言わない。 
 その手の甲の上から指を絡め、男の首に顔を近づける。

  かすかに死臭がしたような気がするが、虚臭かもしれない。 

「お風呂行きますか」小さな声で言う。
  男が頷く。 
 脱衣所のないホテルの浴室で、籠の中に手早く服を脱いでいく。
  羞恥はない。
  かつて、服を脱ぎ、男の目の前で裸になることで、胸が昂ぶったこともあった。
  そういう記憶も確かにある。
  その記憶は、腹部の傷と共に封印され、今はしのぶの胎内のどこかにあるのだろう。
 今、しのぶが考える性行為は、どこか排泄に似ていた。 
 白い精液も、尿も大便も、そんなに代わりはないのかもしれない。 
 男たちはしのぶの上で、ただ痙攣して排泄していくだけだ。 
 違いがあるとすれば、それは、
 
 何かを共有できたような錯覚があるかないかで、

  それを優しさと呼んだ時期が確かにあったのだ。 

 浴室の中で、湯気の中に浮かぶ男の体は、無駄な肉が全くない。
  しのぶはこれと似たものを以前に見たことがある。 
 インターネットで見た、アウシュビッツの死体の写真。 
 男の固い、冷たい体に泡をまとわりつかせ、丁寧に洗う。
  男の目は、しのぶを見ているのかいないのか。 
 しのぶは男の体越しに鏡を見た。
  自分の裸の身体が鏡に映っている。 
 三十を迎えて、少しづつではあるが、余計な肉が増えている。 
 ふとしのぶは、死体を洗うアルバイトをしていた男のことを思い出した。 
 その男は医大生で、軽薄な男だったが、腕は確かだった。
  しのぶの身体に針を刺し、的確な薬を処方してくれた。 
 その薬は今はない。 
 硬い筋肉を、体毛の薄い腋の下を、丁寧に洗った。 
 不思議なことだが、何か儀式をしているような気持ちになる。 
 ふとしのぶは思い立ち、膝を折った。 
 膝がタイルの冷たさを感じて、それが背中に伝わる。 
 かまわず、シャワーを床において、男の陰茎をゆっくりと口に含んだ。 
 身体と比べると、それは確かに存在感を持ってそこに存在していた。 
 そして死んでもいなかった。 
 男の身体の中で、それだけが生きている物体のようで、愛しくもあり疎ましくもある。 
 口の中で冷たいまま大きくなる。 
 上目遣いに見上げて、微笑む。
  男と目が合った。
  その眼の中にある、欲望の光を、しのぶは見ることが出来ないでいる。 

 横たわる身体を、じっと見ている。
  その眼の色が何の色だとさっき思ったのかを思い出せない。 
 きつく眼を閉じる。 
 男の身体から石鹸の匂いと合い混じった、消せない体臭が臭う。 

 やはり死臭だ。 

 しのぶの身体を愛撫する。 
 ごつい指。細い指。節が立った、ささくれた、冷たい指。 
 肌の上を這うのが、指なのか、氷なのか、虫なのか、もうしのぶにはわからない。
  不気味なその感触が何故かしのぶを興奮させる。 
 客の一部が見せる偽りの優しさとか、
 自分が満足したいだけのその言葉、 
 排泄の前の儀式のようなその言葉、 
 「感じる?」というくだらない質問、 
 その他すべてを一切排除して、 
 そこにあるのは意思だけ。 
 その意思こそしのぶが欲しかったものかもしれない。 

 男の舌が身体を這ったとき、 
 演技でなく声をあげたのはそのせいだ。 

 男の舌は首筋を執拗に舐めた後、鎖骨を沿って乳房に向かう。 
 待って、と思わずしのぶは声を上げる。 
 男の舌は氷を含んだように冷たい。 
 男の舌は止まらなかった。乳首を含み、転がす。
  水のような唾液がまとわりついて、ちゅぱちゅぱと音を立てる。 

 ああ、と言葉にならない声が出た。

  なにこれ、と思う。

 指が触れたときは完全に濡れていた。 
 節くれだった指が入ってくる。 
 冷たい舌が突起を含んで、冷たい唾液で満たされる。
  自分の体から流れ出るあたたかいものと、男の冷たい唾液が混ざり合う。 
 男は細長い体を折り曲げて、しのぶの陰部を舌で攻めながら、同時に長い指を体の奥に入れてくる。
  細長い指が膣のなかで折れ曲がり、感じる部分をこすりあげた。 
 大きな声が出た。 
 思わず男の陰茎を掴もうと手を伸ばした。欲しい。欲しい、ということを伝えたくて手を伸ばしたが、指が空を切った。 
 男の冷たい指の動きは加速して、しのぶは枕を噛んだ。これ以上声を出したら終わってしまうような気がして、枕に突っ伏してくぐもった声を上げる。 
 ずっとこんなことが続いたら死んでしまう、と思うほど執拗に、指と舌が、体のあちらこちらを愛撫する。つらいのは、指が舌のどちらかは必ず、しのぶの核となる部分をとらえていることだ。 

 なにこれ、しぬ。 

 しのぶは目を見開いて、男の腕をつかんだ。 「お願いです」 
 男の目を見た。 
 暗闇の中で、男の目が少し金色に見えた。 「いれて、ください」 

 男の陰茎がそのまま入ってきた。 

 ああ、それはだめ、という恐怖心を快感が焼き尽くしてしまう。 
 男の陰茎もまた、氷のように冷たくて、だがそのまましのぶの中で体温を奪いながら、動く。 

 一回、 
 二回、 

 挿入したまま動きを止めないで、ゆっくり満たしていく。 

「もっと」 

 もっと、もっとはやく、と口が動くが言葉にならない。 

 男はしのぶの体をやさしく持ち上げて、四つ這いにさせる。指が臀部を支えて、今度は後ろからゆっくり入ってくる。 

 からだの一番奥まで届く。
 もうしのぶの体からは澄んだ液体が流れ続けている。それが男のものにまとわりついて冷却されて、摩擦でまた熱を含む。ぐちょぐちょぐちょぐちょという音がして、抽送が繰り返される。 

 うそ、やだ、さっきより長くなってない?  しのぶの体の奥を何度も冷たいそれが突いてきて、しのぶはまた枕を涎で濡らしてしまう。  しのぶの頭の中に何かがあふれてきて、何も考えられなくなる。 

 ああ、これではもう。

  排泄でなく、捕食だ。

  しのぶの体の奥で冷たい何かが爆ぜた。 

 しのぶはだらん、とベッドに倒れこんで男を見上げる。 

 薄い闇の中で男がこちらを無表情に見ていた。 


 吸血鬼というのは、こういう感じなんだろうなとしのぶは思う。 


 雨がやんだようだ。
 カーテンの向こうの、羽目殺しの窓からもう音は聞こえない。 

 身体を横たえてしのぶは荒い息を整える。

 男は黙ってベッドに腰かけている。 

 からだの中からどろり、と精液が流れ落ちた。 

 それは夜のように冷たかった。

  根拠もなく意味もなく、

  この男は死んでいる、としのぶは思った。
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