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私の方が寂しい
傾きかけたシュメルヒにぎょっとしたヨアンが、はっしと手を掴んだ。
「シュメルヒ⁉ どうした、大丈夫か」
「……? え、ええ。ヨアン様、大丈夫です。ほっとしたせいでしょうか。少し立ち眩みがして」
「ほっとした? そんな顔には見えない。俺より君の方こそ休んだ方がいいんじゃないのか」
「ヨアン様」
「睨むなよ。引き留めるための駄々じゃない」
ヨアンは上半身を起こした。
「さっきは衝動的に君を止めようとした。でも、正直この視察は中止にしても大きな影響はないと本心で思ってる。本当に流行病の徴候があるなら近隣を統制する領主から報告が届くはずだが何もないし、各地にある<水の神殿>からも特に異常は報告されていない」
<水の精霊>を信仰する神殿と、それらが各地に神官を派遣して教えを広め民草の生活を豊かにする——という名目で置かれる分署を、オスロでは<水の神殿>と呼んでいた。中央の神殿から派遣された祭祀が一人で運営を担っており、領主との関係は各地によって異なるが、概ねお互いに干渉しないという暗黙の掟があると、シュメルヒは奏上を整理する執務を通してなんとなく知っていた。
その二つの権力者たちから、病については何の報告もない。だからヨアンはいくら王の名代とはいえ、おおっぴらに医師団を派遣して調査にあたれないのだ。
——今のところは。
だから、シュメルヒはどうしても、この機を逃したくない。
いずれ国中に広がる病の元凶が誰も知らない小さな村から始まったのなら、何とかして食い止めたい。ヨアンの治世を豊かに守るために。
(その程度のことができなくては、私がヨアン様の記憶に残ることは、きっと叶わない)
貴方のために、役に立って見せる。そのために何をしようとも。
「だからこそ、領主や神殿を通さず仮妃である私が赴くことで、民はヨアン様の深い慈愛を感じてくれるはずです。雨季も近いですし、橋や堤防の工事も辺境ではなかなか進まないと聞きます。せっかく部隊を編成して人出も借り出せるのですから……」
「殿下。妃殿下の仰る通り、一度議会を通して予算を通した私の面目も経ててくださいよ」
キリアスがくどくどと話に割って入った。ヨアンは忌々しそうにするが、シュメルヒにとっては有難い加勢だ。
「辺境領主たちのご機嫌も取っておきたいし、何よりあの辺一帯はマゼル運河の建設に人足や徴税を貸している地帯ですからね……国家事業のために国への不満が溜まりやすい地帯への王族派遣は、私としては手を抜きたくないんですよ」
「要はご機嫌取りに妃を使いたいのがお前の本音だろうが」
「否定はしませんがね……妃殿下は妃殿下で、なにやらご自身の思惑がありそうですし?」
目が合った瞬間、キリアスがキツネのように薄く笑った。どきりとした。
(この男……前世ではヨアン様を裏切ったし、苦手だ……秘密を知るわけでもないのに何か見透かされている気がして落ち着かない)
今世ではヨアンの味方の立場にいるし、ヨアンに向ける感情には親愛があるように見える。どこで未来が変わったのか分からないが、この先もヨアンの味方でいてくれたらと思うのは本心だ。たとえ処刑の当日、最後に言葉を交わした過去の敵だとしても。それに……。
(ヨアン様の描いた絵を届けに来た時のキリアスは……ヨアン様を責めている風ではなかった)
あの絵を前世で見ないままに死んでいたら、きっとシュメルヒは自分が許せなかったと思う。
死ぬ瞬間まで、自分のことばかり考えて周囲を呪っていた自分を。ヨアンが当時少なからずシュメルヒを思ってくれていたことを、あの絵が教えてくれた——。
(今世では絶対に……貴方を守ってみせます、ヨアン様)
シュメルヒは頑として譲らない眼差しでヨアンに詰め寄った。
「お約束を守ってください、ヨアン様」
「……キリアスの言ったことは本当なのか? 妃は、俺に内緒でなにか目的があるのか?」
「……それは」
「俺には言えないこと? 夫婦なのに?」
「今は、……今はまだ」
でも、とかたわらに膝まついてヨアンの裾に口付けした。宣誓の口づけだ。
「嘘偽りなく、私心なく、ヨアン様のために行きたいのです。いずれ必ず、ヨアン様にもご理解いただけるはずですから、どうか……今は私を信じて行かせてください。疚しいことはありません」
「その言い方は、狡いよ」
ヨアンは天を仰いで溜息を吐いた。やがてシュメルヒの顎を掬い上げて目を合わせると、低い声で言った。
「約束して。もう何度も約束させてるけど、それでもまだ安心できないんだ。……危険なことや、自分を蔑ろにするような行動は絶対にしないこと。君は妃で、それ以前に俺の大事な人だ。俺の大事な人を大切に扱うんだ。できるか? 約束してくれるなら、もう止めない」
「……! はい、もちろんです、ヨアン様の仮妃として、粗相のないように気をつけますね」
にこにこと胸を張るシュメルヒを見て、ヨアンは眉を下げた。
「だから、そういうことじゃないんだ。俺が言いたいのは、そうじゃなくて……」
「ヨアン様?」
どうしたというのか。何故、そんな悲しそうな、憂うような顔をするのか。また何か、知らず間違えてしまったのだろうか。ヨアンをがっかりさせるような不正解を口にしてしまったのか。
「はいはい、話がまとまってようございました! これならさほど行程を急がずとも、当初の予定通り一日目の駐屯地にまでたどり着けそうだ、やれやれ。妃殿下、ではそろそろ、よろしいですか?」
キリアスがシュメルヒを促した。
「ええ。ヨアン様、無理をしないでゆっくり休んでくださいね。お仕事はキリアスにやらせて、その分よく眠ってください」
「お、言いますねえ、妃殿下。これでも私も疲労困憊なんですが」
「お会いできないのは寂しいですけれど、良い子になさって」
「まだ言い足りないことはあるけど、はぁ……こっちへ。近くに来てくれ」
言われた通り密着するように身を寄せると、ヨアンがシュメルヒの髪を耳にかけそこへ言葉を吹き込んだ。
「何も無ければ新月までに城に戻ってこれるから大丈夫だとは思うが、ヒートに間に合うように戻っておいで。その時はずっと俺だけが君の傍で一緒に過ごしたい。俺のいない場所で一人にさせるなんて考えただけで気が狂いそうだ」
「あ、……は、い。わかっています」
そうだった。視察に夢中になって忘れていた。およそ、ふたつき毎に訪れるオメガのヒート。まだ慣れない身体の昂りは、ヨアンの傍にいては一層強く、耐えがたいほどだが、傍にいなければいないで、寂しくてどうにかなってしまいそうなほど辛い。
はじめてのヒートの晩は、ヨアンがまだ幼く未発達だったこともあり、肌の触れ合いなど到底無かった。
やがて成長してからは、贈られた首輪を決して外さず、つけたまま一緒の寝台でただ抱き合って眠った。眠ると言っても、昂ったからだは熱く火照り熱に喘ぐ声がうるさくてお互い一睡もできないまま朝を迎えるだけだが。
吐精すればいくらか楽になるはずだと言って、ヨアンはその時だけ、服の上からシュメルヒの性器を擦りたて、出させてくれた。しかしそれも一時の開放で、ヒートの間は、身体の奥にぽっかりと穴が開いたような底なしの欲情がおさまらない——いくらもしないうちに、また渇きが満ちてくる。
「うそ、ヨアン様の嘘吐きっ、ら、楽になんて、なっ、らない……! うぅ、んんぅっ、」
「うん、うん……そうだな、嘘を言ってすまない……もう少しだから。いい子だから」
シュメルヒは満たされない枯渇と一瞬の逐情がもたらす快楽にむせび泣き、ヨアンはそんなシュメルヒを後ろから抱きしめ、夜通し慰めた。シュメルヒが怖くないようにと、ヨアンの考案した<おまじない>もしてくれる。
思い出して、羞恥に顔が火照った。たとえ交わっていなくとも、あれはシュメルヒの知る中で「もっとも卑猥なこと」だった。それを小声とはいえ、他人のいる前で告げられて身が竦む。
と、硬直していたシュメルヒの隙を突くように、ヨアンが素早く唇を重ねた。
「……っ、歯が当たったらどうするのです!」
「痛かったか?」
「そうではなく、血がっ」
「妃が約束を忘れないように念押ししたんだ」
「危ない真似をしない、医者の真似事はほどほどに、ですね。分かったと言ったでしょう!もう寝てください!」
「寝ようにも妃がいないと寝台は広すぎて落ち着かないんだ。早く帰っておいで」
シュメルヒは毒気を抜かれて重いため息を吐いた。ヨアンはやはり、もうシュメルヒの毒を警戒していないのを隠そうとしない。それはつまり、シュメルヒの気持ちなどお見通しということだ。こういう時、ヨアンを憎らしく感じる。屈託なく笑うヨアンが。
ドアがノックされ、部隊の隊長が入ってきた。
「妃殿下、準備が整いました」
護衛騎士の隊長がきびきびとした動きでそう告げた。整ったも何も、待機させられていたのだが。
「ヨアン様、では」
「ああ、気を付けて」
名残惜しそうにもう一度シュメルヒの手を握る。シュメルヒはふと、既視感を覚えた。
胸の奥がよじれるような喪失と寂寞。ぽっかりと穴が開いたような心許なさ……。
(四年前、ヨアン様がお籠りされた時と同じだ)
ヨアンの顔が見れない、声が聴けない……ただそれだけのことが耐えられないほどに苦痛だった。あの時と同じ感覚が全身を這った。
(たった数日のことなのに、どうかしている)
「そんな顔をするな。妃の言い出したことだぞ? 寂しいのは俺の方なのに」
ヨアンは意地悪く指摘してくる。それはそうなのだが……。
(嘘。私の方が寂しいに決まっている)
ムッとして、
「ヨアン様、私がいない間、精霊を招かないでくださいね。呼ばれても無視してください」
え、とヨアンが虚を突かれた顔をした。何を突然言い出すんだ、と目が言っている。
「それは、さすがに無視なんて失礼なことはできないが、……ああ、いや、分かった、妃の言う通りにする」
シュメルヒの目がすぅっと細められたのを見て、慌ててそう撤回する。
「絶対ですよ。いくら精霊とはいえ、ああもヨアン様に馴れ馴れしくするなんて……ヨアン様が悪いのです、お優しくするから、あの者が調子に乗るのです」
むかむかと腹を立てるシュメルヒを見上げてヨアンが片眉を上げた。
「あんまりな言い方だな。優しくしたら駄目なのか?」
「……駄目、では……ありませんが」
駄目だなんて言えない。相手は精霊なのだから。たとえ姿形がシュメルヒに似た得体の知れない存在だとしても。
シュメルヒは唇をすぼめてぽそりと呟いた。
「嫌なだけ、です」
ヨアンが目を見開き、しばらくして嬉しそうに笑った。
「そうか、妃は俺が他の人間に優しくするのが嫌か」
「っ、違います!……もう行きます。約束を破ったら口を利いて差し上げませんから」
ヨアンはにやにやしながら、
「それだと辛いのは妃も同じじゃないのか?」
シュメルヒは今度こそ腹を立てて無言で部屋を出て行った。
遠ざかる背後でヨアンの含み笑いが聞こえるのが憎たらしい。
(いつもこうだ、ヨアン様は自分だけは余裕然としておられて……振り回されるのは私ばかりだ)
気持ちを切り替えなくては。無理を言って城から出させてもらうのだから。それに。
(ヨアン様の役に立てる最後の機会かもしれないのだから……)
ヨアンには約束したけれど、多少の無理をしてでも病の発生源を突き止めるつもりだった。
「シュメルヒ⁉ どうした、大丈夫か」
「……? え、ええ。ヨアン様、大丈夫です。ほっとしたせいでしょうか。少し立ち眩みがして」
「ほっとした? そんな顔には見えない。俺より君の方こそ休んだ方がいいんじゃないのか」
「ヨアン様」
「睨むなよ。引き留めるための駄々じゃない」
ヨアンは上半身を起こした。
「さっきは衝動的に君を止めようとした。でも、正直この視察は中止にしても大きな影響はないと本心で思ってる。本当に流行病の徴候があるなら近隣を統制する領主から報告が届くはずだが何もないし、各地にある<水の神殿>からも特に異常は報告されていない」
<水の精霊>を信仰する神殿と、それらが各地に神官を派遣して教えを広め民草の生活を豊かにする——という名目で置かれる分署を、オスロでは<水の神殿>と呼んでいた。中央の神殿から派遣された祭祀が一人で運営を担っており、領主との関係は各地によって異なるが、概ねお互いに干渉しないという暗黙の掟があると、シュメルヒは奏上を整理する執務を通してなんとなく知っていた。
その二つの権力者たちから、病については何の報告もない。だからヨアンはいくら王の名代とはいえ、おおっぴらに医師団を派遣して調査にあたれないのだ。
——今のところは。
だから、シュメルヒはどうしても、この機を逃したくない。
いずれ国中に広がる病の元凶が誰も知らない小さな村から始まったのなら、何とかして食い止めたい。ヨアンの治世を豊かに守るために。
(その程度のことができなくては、私がヨアン様の記憶に残ることは、きっと叶わない)
貴方のために、役に立って見せる。そのために何をしようとも。
「だからこそ、領主や神殿を通さず仮妃である私が赴くことで、民はヨアン様の深い慈愛を感じてくれるはずです。雨季も近いですし、橋や堤防の工事も辺境ではなかなか進まないと聞きます。せっかく部隊を編成して人出も借り出せるのですから……」
「殿下。妃殿下の仰る通り、一度議会を通して予算を通した私の面目も経ててくださいよ」
キリアスがくどくどと話に割って入った。ヨアンは忌々しそうにするが、シュメルヒにとっては有難い加勢だ。
「辺境領主たちのご機嫌も取っておきたいし、何よりあの辺一帯はマゼル運河の建設に人足や徴税を貸している地帯ですからね……国家事業のために国への不満が溜まりやすい地帯への王族派遣は、私としては手を抜きたくないんですよ」
「要はご機嫌取りに妃を使いたいのがお前の本音だろうが」
「否定はしませんがね……妃殿下は妃殿下で、なにやらご自身の思惑がありそうですし?」
目が合った瞬間、キリアスがキツネのように薄く笑った。どきりとした。
(この男……前世ではヨアン様を裏切ったし、苦手だ……秘密を知るわけでもないのに何か見透かされている気がして落ち着かない)
今世ではヨアンの味方の立場にいるし、ヨアンに向ける感情には親愛があるように見える。どこで未来が変わったのか分からないが、この先もヨアンの味方でいてくれたらと思うのは本心だ。たとえ処刑の当日、最後に言葉を交わした過去の敵だとしても。それに……。
(ヨアン様の描いた絵を届けに来た時のキリアスは……ヨアン様を責めている風ではなかった)
あの絵を前世で見ないままに死んでいたら、きっとシュメルヒは自分が許せなかったと思う。
死ぬ瞬間まで、自分のことばかり考えて周囲を呪っていた自分を。ヨアンが当時少なからずシュメルヒを思ってくれていたことを、あの絵が教えてくれた——。
(今世では絶対に……貴方を守ってみせます、ヨアン様)
シュメルヒは頑として譲らない眼差しでヨアンに詰め寄った。
「お約束を守ってください、ヨアン様」
「……キリアスの言ったことは本当なのか? 妃は、俺に内緒でなにか目的があるのか?」
「……それは」
「俺には言えないこと? 夫婦なのに?」
「今は、……今はまだ」
でも、とかたわらに膝まついてヨアンの裾に口付けした。宣誓の口づけだ。
「嘘偽りなく、私心なく、ヨアン様のために行きたいのです。いずれ必ず、ヨアン様にもご理解いただけるはずですから、どうか……今は私を信じて行かせてください。疚しいことはありません」
「その言い方は、狡いよ」
ヨアンは天を仰いで溜息を吐いた。やがてシュメルヒの顎を掬い上げて目を合わせると、低い声で言った。
「約束して。もう何度も約束させてるけど、それでもまだ安心できないんだ。……危険なことや、自分を蔑ろにするような行動は絶対にしないこと。君は妃で、それ以前に俺の大事な人だ。俺の大事な人を大切に扱うんだ。できるか? 約束してくれるなら、もう止めない」
「……! はい、もちろんです、ヨアン様の仮妃として、粗相のないように気をつけますね」
にこにこと胸を張るシュメルヒを見て、ヨアンは眉を下げた。
「だから、そういうことじゃないんだ。俺が言いたいのは、そうじゃなくて……」
「ヨアン様?」
どうしたというのか。何故、そんな悲しそうな、憂うような顔をするのか。また何か、知らず間違えてしまったのだろうか。ヨアンをがっかりさせるような不正解を口にしてしまったのか。
「はいはい、話がまとまってようございました! これならさほど行程を急がずとも、当初の予定通り一日目の駐屯地にまでたどり着けそうだ、やれやれ。妃殿下、ではそろそろ、よろしいですか?」
キリアスがシュメルヒを促した。
「ええ。ヨアン様、無理をしないでゆっくり休んでくださいね。お仕事はキリアスにやらせて、その分よく眠ってください」
「お、言いますねえ、妃殿下。これでも私も疲労困憊なんですが」
「お会いできないのは寂しいですけれど、良い子になさって」
「まだ言い足りないことはあるけど、はぁ……こっちへ。近くに来てくれ」
言われた通り密着するように身を寄せると、ヨアンがシュメルヒの髪を耳にかけそこへ言葉を吹き込んだ。
「何も無ければ新月までに城に戻ってこれるから大丈夫だとは思うが、ヒートに間に合うように戻っておいで。その時はずっと俺だけが君の傍で一緒に過ごしたい。俺のいない場所で一人にさせるなんて考えただけで気が狂いそうだ」
「あ、……は、い。わかっています」
そうだった。視察に夢中になって忘れていた。およそ、ふたつき毎に訪れるオメガのヒート。まだ慣れない身体の昂りは、ヨアンの傍にいては一層強く、耐えがたいほどだが、傍にいなければいないで、寂しくてどうにかなってしまいそうなほど辛い。
はじめてのヒートの晩は、ヨアンがまだ幼く未発達だったこともあり、肌の触れ合いなど到底無かった。
やがて成長してからは、贈られた首輪を決して外さず、つけたまま一緒の寝台でただ抱き合って眠った。眠ると言っても、昂ったからだは熱く火照り熱に喘ぐ声がうるさくてお互い一睡もできないまま朝を迎えるだけだが。
吐精すればいくらか楽になるはずだと言って、ヨアンはその時だけ、服の上からシュメルヒの性器を擦りたて、出させてくれた。しかしそれも一時の開放で、ヒートの間は、身体の奥にぽっかりと穴が開いたような底なしの欲情がおさまらない——いくらもしないうちに、また渇きが満ちてくる。
「うそ、ヨアン様の嘘吐きっ、ら、楽になんて、なっ、らない……! うぅ、んんぅっ、」
「うん、うん……そうだな、嘘を言ってすまない……もう少しだから。いい子だから」
シュメルヒは満たされない枯渇と一瞬の逐情がもたらす快楽にむせび泣き、ヨアンはそんなシュメルヒを後ろから抱きしめ、夜通し慰めた。シュメルヒが怖くないようにと、ヨアンの考案した<おまじない>もしてくれる。
思い出して、羞恥に顔が火照った。たとえ交わっていなくとも、あれはシュメルヒの知る中で「もっとも卑猥なこと」だった。それを小声とはいえ、他人のいる前で告げられて身が竦む。
と、硬直していたシュメルヒの隙を突くように、ヨアンが素早く唇を重ねた。
「……っ、歯が当たったらどうするのです!」
「痛かったか?」
「そうではなく、血がっ」
「妃が約束を忘れないように念押ししたんだ」
「危ない真似をしない、医者の真似事はほどほどに、ですね。分かったと言ったでしょう!もう寝てください!」
「寝ようにも妃がいないと寝台は広すぎて落ち着かないんだ。早く帰っておいで」
シュメルヒは毒気を抜かれて重いため息を吐いた。ヨアンはやはり、もうシュメルヒの毒を警戒していないのを隠そうとしない。それはつまり、シュメルヒの気持ちなどお見通しということだ。こういう時、ヨアンを憎らしく感じる。屈託なく笑うヨアンが。
ドアがノックされ、部隊の隊長が入ってきた。
「妃殿下、準備が整いました」
護衛騎士の隊長がきびきびとした動きでそう告げた。整ったも何も、待機させられていたのだが。
「ヨアン様、では」
「ああ、気を付けて」
名残惜しそうにもう一度シュメルヒの手を握る。シュメルヒはふと、既視感を覚えた。
胸の奥がよじれるような喪失と寂寞。ぽっかりと穴が開いたような心許なさ……。
(四年前、ヨアン様がお籠りされた時と同じだ)
ヨアンの顔が見れない、声が聴けない……ただそれだけのことが耐えられないほどに苦痛だった。あの時と同じ感覚が全身を這った。
(たった数日のことなのに、どうかしている)
「そんな顔をするな。妃の言い出したことだぞ? 寂しいのは俺の方なのに」
ヨアンは意地悪く指摘してくる。それはそうなのだが……。
(嘘。私の方が寂しいに決まっている)
ムッとして、
「ヨアン様、私がいない間、精霊を招かないでくださいね。呼ばれても無視してください」
え、とヨアンが虚を突かれた顔をした。何を突然言い出すんだ、と目が言っている。
「それは、さすがに無視なんて失礼なことはできないが、……ああ、いや、分かった、妃の言う通りにする」
シュメルヒの目がすぅっと細められたのを見て、慌ててそう撤回する。
「絶対ですよ。いくら精霊とはいえ、ああもヨアン様に馴れ馴れしくするなんて……ヨアン様が悪いのです、お優しくするから、あの者が調子に乗るのです」
むかむかと腹を立てるシュメルヒを見上げてヨアンが片眉を上げた。
「あんまりな言い方だな。優しくしたら駄目なのか?」
「……駄目、では……ありませんが」
駄目だなんて言えない。相手は精霊なのだから。たとえ姿形がシュメルヒに似た得体の知れない存在だとしても。
シュメルヒは唇をすぼめてぽそりと呟いた。
「嫌なだけ、です」
ヨアンが目を見開き、しばらくして嬉しそうに笑った。
「そうか、妃は俺が他の人間に優しくするのが嫌か」
「っ、違います!……もう行きます。約束を破ったら口を利いて差し上げませんから」
ヨアンはにやにやしながら、
「それだと辛いのは妃も同じじゃないのか?」
シュメルヒは今度こそ腹を立てて無言で部屋を出て行った。
遠ざかる背後でヨアンの含み笑いが聞こえるのが憎たらしい。
(いつもこうだ、ヨアン様は自分だけは余裕然としておられて……振り回されるのは私ばかりだ)
気持ちを切り替えなくては。無理を言って城から出させてもらうのだから。それに。
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