現役ケースワーカーの俺が転生した世界は異種族の福祉国家だった

ダニエル

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三章

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「ディメルノさん、きっと疲れていたんですね。お風呂を上がったらすぐに寝てしまいました。今は、私の部屋でぐっすり寝ています」
「服はありあわせのものしかないけど、前のよりは多分マシだと思う」
 夕食を食べてから一時間程度。満腹の苦しさからようやく開放され始めた頃。食堂の椅子に座っていた俺は、部屋に戻ってきたニシキさんとメイヤーの言葉にほっと胸をなでおろしていた。
 食事を終えて、まずは体を洗って服を着替えないとという話になり、そして当然それをする役目から俺は外れることになった。だから俺はひとまず、夕食の洗い物を一人で淡々としていたのだが。
「ならよかった。……ごめん、任せきりになっちゃって」
「いえ、お気になさらないでください。私、これでも小さい子供は好きなんです。ただ、お風呂に入れてあげた時に……」
 なんと言うべきか迷っているみたいに、ニシキさんは言葉を濁して視線を下ろした。それが何を思い出した視線なのかは、なんとなく分かる。分かるだけに、俺も何を言うべきかなのかが分からない。
 見える範囲だけでも無数にあった痣。あれが服の下にもあるであろうことは、想像に難くない。むしろ見えない場所を傷付ける家庭内暴力の傾向を考えるなら、むしろ……。
「その想像は止めといたほうがいいと思うよ。まぁ、したきゃ止めないけどさ」
 そんな俺の想像は、メイヤーの声で霞となって消えた。そう、そんなことを想像しても仕方ない。むしろただただ自分が辛いだけだ。
 勘違いするな。俺が彼女の苦しみを想像しても、彼女は楽になったりなんてしない。俺が苦しみ事で、彼女の苦しみを肩代わりしてあげることなんて出来やしない。それを、俺は改めて強く胸に刻む。
「……悪い、余計なことを考えた」
「別に私はいいけどねぇ。それより、事情を詳しく話してくれるんでしょ?」
「そうですね、私も気になります。……ご同席しても?」
「もちろん。まあ事情……とは言っても、本当に詳しくないんだけどさ」
 彼女を見つけた時のことを、俺は出来るだけ鮮明に二人に話し始める。帰り道の路地裏の暗がりで泣いていたこと。そして痣を見つけて連れて帰ってきたこと。そしてその痣と彼女の話しぶりからして、彼女に暴行を振るったのは恐らくは、彼女の父親であろうこと。
「そんな……。自分の子供に暴力を振るうなんて」
「……まあ、別にない話ではないよ。っていうか、私の故郷じゃありふれた話だったし。ただ、この国でこんなことがあるなんて思ってなかったけどさ……」
 貧すれば鈍する。これ紛れもない事実だ。それは、俺の三年間のケースワーカー生活で得ることが出来た、数少ない知見でもある。
 生き物は困窮すると容易に道を踏み外す。本来持っていたはずの善良な人格を、良識を、簡単に貧困は奪っていく。そんな人たちを、俺は何人も見てきた。それは様々な種族が居るこの世界でだって、変わるはずのない自然の摂理だ。
 だからこそ俺が居た世界では福祉の制度を人間は作り上げ、人権の尊重を人々は謳ってきた。それはきっと、この国でも同じはず。だから貧困への救済措置があるこの国で同じことが起きるなんて、と。そう二人は思っているのだろう。だが──。
「どれだけ豊かな家庭でも、虐待は起きうるんだ。ほんの些細な歪み、ほんの少しのすれ違いでも、それをぶつける先に子供を選んじまう親は居る。……悲しいけどな」
「そう……かもね。それで、あの子をどうするつもりなわけ? どこの子供なのかも分からないんでしょ?」
「分からないけど、どっちにしても帰すわけにはいかないだろ。児童相談所……って、同じ名前とは限らないか。役所に子供を保護する部署があるよな? そこに連れて行ってから親の反応を伺いつつ、一時的にでも児童養護施設に……」
「……そんな部署、この国にはないよ」
「それでその後は面談を繰り返してから……。──は?」
 メイヤーの言葉に、思考も独り言も止まる。彼女の言っていることの意味が分からなくて、思考が完全にストップしてしまう。
 ない? なにが。一体何がこの国にないと──。
「この国には、子供を親元から切り離して保護する法律なんて……ないんだよ」
 今度こそ、誤解する余地も理解を後回しにする余地もなかった。いや、きっとその余地を残さないようにメイヤーは言ったのだ。キッパリと、まるで切り捨てるように。
「そんな、はずが。そんなわけないだろ!? だって、こんな生活保護の制度まで整っていて、それなのに子供の安全を守る法律がないなんてことが……」
「……残念ですが、それが事実なのです。ユウトさん、この国は多くの種族が寄り集まって出来た国家だというのは知っていますよね?」
 メイヤーが顔を伏せて、その代わりとでも言うようにニシキさんが口を開く。ハッキリを前を向いて、まるで俺を諭すような優しい口調で。
「もちろん知ってる。多種族共生を謳って作られた国だって、シルフィーさんから聞かされた。それと一緒に、福祉の理念もその骨子にあるって。それなら絶対に──」
「だから、なのです」
 俺の言葉を遮って、ニシキさんはそう言った。その言葉に迷いはなく明らかな確信を持っているのが伝わってくる。だけど、それが俺には分からない。何が「だから」なのかすら。
「……この国には、多くの種族が居ます。今ここにいる三人……いえ、ディメルノちゃんを入れても、全員が違う種族です」
「確かにそうだけど、それと子供の話になんの関係が……」
「それぞれの種族の常識の違いだよ」
「……常識?」
 メイヤーが伏していた顔を上げる。その目は暗く淀んだ、最初に出会った時と同じ黒い瞳だ。だけどそこに確かな悲しみと、そして俺にはきっと推し量ることの出来ない後悔を滲ませていた。
「種族ごとに常識が違うんだ。それは身体的な差異から生まれるものだったり文化的なものだったり色々だけどさ。とにかく、そのせいで他種族の内情に干渉しないようにするのが基本なんだよね。だけど行政はそうも言っていられない。だから国には、色々な決まり事があるんだけど……」
「……例えば、私たちラミアは定期的に脱皮をしなければなりません。そのために、ラミアは月に一度だけ脱皮のための休みを貰うことが出来ます」
「違いを、尊重するってことか?」
 俺の問いかけに二人は頷きを返す。差異を認める、違いを受け入れる。それはいいことだ、いいことのはずだ。共生とは、そういうものだ。
「その理念はさ、私もいいと思うよ。だけど、違いを受け入れるっていうのはいいことだけじゃない。……魔族の子供がどうやって育てられるか、ユウトは知ってる?」
 俺は首を横に振り、メイヤーはだろうねとため息をつく。
「まあ知らなくて当然だよね、この国に来たばかりなんだし。……魔族っていうのはさ、魔力も多く持っていて体も頑丈なんだよ。だから力が全て、力を持っている魔族が偉い、血筋なんて関係ない。……そのせいで、魔族の家の中では殺し合いが当たり前なんだ」
「コロシアイ……。殺し合い、って……家族でか?」
 あまりに馴染みのない言葉だったせいで、咄嗟に意味が分からなかった。殺し合い。喧嘩のことをそう表現しているのではない、のだろう。
 メイヤーの表情が、自分の腕をかき抱くように回された腕が。そしてその指先が青くなるほどに、強く握られていることが、雄弁にその事実を語っている。彼女がその一族の中で、それをどう思っていたのかも。
「……族長を殺せた人が次代の長になる。そんな時代遅れの伝統がまだ残ってる村だってあるくらいなんだ。だから力の弱い魔族は虐げられるし、常に命の危機に晒されることになる。兄弟で殺し合わせるなんて日常になるくらい。けれど、魔族の中でその伝統に異を唱える人は居ないんだ」
「強く……ないといけないからか。異論を挟む魔族は弱い存在だから……」
「まあそれもあるけどさ、本当にその育て方が正しいって思ってるんだよ、あの人達は。心の底から、こんな時代でも。だから止めない。周りに何を言われても、それが伝統だからってね」
 馬鹿みたいだよね、と。そう呟いた言葉は、ほとんど消え入りそうなほどに小さな声だった。きっと彼女にとって、思い出したくない過去がそこにあるのだろう。それでも彼女は話してくれた。俺のために、そしてきっとディメルノのために。
 ここまで聞いて、彼女の言いたいことが分からないほど俺も馬鹿ではない。身体的な特徴に裏打ちされた共同体、種族。よくよく考えれば、その中で独自の価値観が出来るのなんて当たり前だ。
 家の中のことには口を出せない。日本の役所でだってそうだった。介入できるのはごくごく一部の例外だけ。子供が日常的に怒鳴れているのを把握していたって、基本的には行政は介入できない。日本でさえも、その有様だった。
「で、でも……あの傷だぞ? あんなに痣だらけで怖がっていて……。それとも、アルラウネにはあんな子育ての仕方があるとでも?」
「そんなわけ、ないでしょ……。そんな話聞いたことない。あれは間違いなく虐待だよ、あの家だけの」
「それなら、なんとかしてあげなくちゃ!! 児童相談所がないのは分かったよ、保護する法律がないのも仕方ねぇ。だけどそれなら、今の法律の中で出来ることを探すだろ!?」
 法律は解釈で変えられる。ただでさえ多種族に対応するために決まりごとの多い国だ、きっとどこかに穴があるに違いない。
「解釈でも屁理屈でもなんでもいい!! せめてあの子を一時的にでも保護して、安全を確保してあげないと……」
「ですが、どうやって……? ユウトさんもこの国に来たばかりで、法律にだって詳しくはないのでしょう……?」
「それに、下手すると私達が誘拐犯になっちゃうしね。追い出したりはもちろんしないけどさ、親が役所に怒鳴り込んできたりしたら……私にはどうしようも──」
 ない、その言葉をメイヤーが口にする前に、俺は勢いよく立ち上がった。そしてそのまま机の上に乗り出して、目を白黒させるメイヤーに詰め寄る。もしも手があるのなら一つしかない。
「ど、どうしたの……?」
「メイヤー、ひとつ聞きたいんだが──」
 俺が知りうる限り、運用のために最も解釈の自由が許されている法律の一つ。事象がケースバイケース過ぎて明文化が出来ず、現場の柔軟な運用を求められて、そしてそれがそのまま職員の負担に繋がっている制度。
 生活保護法。もしも活路があるとしたらそこしかない。そしてそこに活路を見出すのであれば、頼れるのはたった一人だ。この世界に来て散々お世話になったのに、これ以上迷惑をかけるのは申し訳ないけれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「シルフィーさんに今すぐ連絡って、取れたりするか?」
 だから俺は恥も外聞も、そして仕事でもないのに人の人生に深く関わらないなんて言う誓いも、その全てをかなぐり捨ててそう言っていた。
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