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第3章:暴君の眼差し
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氐族から生還した賈詡は、故郷の涼州には戻らなかった。あの死線で得た教訓――すなわち、乱世において個人の力はあまりに無力であり、生き残るためにはより大きな力に属さねばならないという冷徹な現実が、彼の足を再び都へと向かわせたのだ。
縁あって、彼は董卓配下の牛輔に仕えることになった 。董卓が洛陽を掌握し、暴政の限りを尽くしていた頃である。賈詡は目立たぬよう息を潜め、ただひたすらに情報を集め、権力者の傍で生きる術を学んでいた。
その機会は、予期せぬ形で訪れた。反董卓連合軍の結成である。董卓が諸将を集めて軍議を開いた際、賈詡も末席に座っていた。居並ぶ猛将たちが威勢のいい言葉を並べる中、賈詡は冷静に連合軍の内情を分析し、「彼らは一枚岩ではなく、互いに牽制し合っているため、短期決戦には至りません。持久戦に持ち込むべきです」と牛輔を通じて献策した。
その的確な分析が、董卓本人の耳に届いた。賈詡は暴君の御前に召し出される。賞賛の言葉を期待したわけではないが、そこで彼が目の当たりにしたのは、人の理性が通じる相手ではない、絶対的な恐怖そのものだった。
広間に引き出された賈詡の目の前で、董卓は戯れのように、些細な失態を犯した部下の一人を処刑してみせた。悲鳴を上げる間もなく首が飛び、血が床を汚す。その惨状を、董卓は心底楽しそうに眺めていた。
やがて、その血に濡れた視線が賈詡に向けられた。
「貴様が賈詡か。面白いことを言うそうではないか」
そして、運命の問いが発せられる。
「連合の蝿どもが鬱陶しい。ワシは都を長安に移そうと思う。貴様はどう思う?」
廷臣たちが息を呑むのが分かった。洛陽は漢王朝四百年の栄華の象徴。それを焼き払い、数百万の民を無理やり西へ連行するなど、暴虐の極みであった。
(止めねばならぬ)
それは、まだ賈詡の中に残っていた、良識ある官吏としてのかすかな矜持だった。繰り返される死のループを知らぬ彼にとって、それはあまりに自然な反応だった。
彼は一歩前に出ると、董卓の目をまっすぐに見据え、冷静に、しかしはっきりと諫言した。
「太師、お待ちください。遷都はなりません。民は故郷を失い、塗炭の苦しみを味わうでしょう。何より、漢王朝の御威光は地に堕ち、天下の信を失います。人心を失えば、長安の守りもいずれは崩れましょう」
完璧な正論だった。理にかない、国家を思う心に満ちていた。
だが、その言葉は董卓の逆鱗に触れた。玉座から立ち上がった董卓は、地響きのような足音を立てて賈詡の眼前に迫る。
「―――貴様は、民の味方か?それとも、このワシの味方か?」
その問いに答えが響く前に、董卓の巨体が動いた。賈詡は抵抗する間もなく、その怪物的な腕力で宙に吊り上げられる。首の骨が軋む音を聞きながら、賈詡は急速に遠のく意識の中で悟った。
(そうか……この男に、人の言葉は通じぬのだ)
暴君にとって、正論とは己への反逆に他ならなかった。
ハッと目を開くと、そこは再び遷都が宣言される直前の軍議の席だった。首筋に残る幻の激痛に、賈詡は思わず身震いする。
(駄目だ。正論で反対すれば殺される)
一度目の死で得た教訓は、彼の骨身に染みていた。だが、あの地獄絵図をただ座して見ていることもできない。賈詡は自らの知謀を信じ、別の道を探った。
(そうだ。反対するのではない。より優れた策を提示し、この狂気を制御するのだ)
董卓が再び遷都を宣言した時、賈詡は静かにその時を待った。そして、廷臣たちの動揺が広がる中、おもむろに進み出た。
「太師の英断、感服いたしました。長安に都を移すは、まこと名案にございます」
まずは董卓を持ち上げる。意外な言葉に、董卓は満足げに頷いた。賈詡は続けた。
「つきましては、この遷都を万全のものとするため、愚見を述べさせていただきたく。まず洛陽の富豪から財産を献上させ、民には十分な食糧と荷車を与えます。そして軍が彼らを幾重にも護衛し、秩序正しく移動させるのです。そうすれば、民は太師の温情に感謝し、天下もその手際の良さを称賛いたしましょう」
それは、董卓の計画の残虐性を極力排し、現実的な計画へと修正する、いわば「改善案」だった。これならば、最悪の事態は避けられるかもしれない。
しかし、董卓の表情は賈詡の期待とは裏腹に、みるみるうちに険しくなっていった。称賛の言葉を待つ賈詡に向けられたのは、蛇のように冷たい猜疑の眼差しだった。
「……ほう。貴様は、ワシの計画に不備があると申すか」
地を這うような低い声だった。
「ワシよりも優れたやり方を知っていると?このワシを出し抜き、遷都を己の手柄にしようという魂胆か?」
違う、と叫ぶ前に、董卓の背後に控えていた呂布が動いた。賈詡は反論する間も、命乞いをする暇さえ与えられなかった。閃光のような一撃が彼の胸を貫く。
崩れ落ちる体の中で、賈詡は二つ目の絶望的な真理を学んだ。
(この男は……己より優れた知恵を持つ者を、何よりも憎むのだ)
暴君は、自分が常に絶対であり、最も賢明でなければならない。そのプライドを少しでも傷つける者は、たとえそれが善意からの助言であっても、死を免れないのだった。
縁あって、彼は董卓配下の牛輔に仕えることになった 。董卓が洛陽を掌握し、暴政の限りを尽くしていた頃である。賈詡は目立たぬよう息を潜め、ただひたすらに情報を集め、権力者の傍で生きる術を学んでいた。
その機会は、予期せぬ形で訪れた。反董卓連合軍の結成である。董卓が諸将を集めて軍議を開いた際、賈詡も末席に座っていた。居並ぶ猛将たちが威勢のいい言葉を並べる中、賈詡は冷静に連合軍の内情を分析し、「彼らは一枚岩ではなく、互いに牽制し合っているため、短期決戦には至りません。持久戦に持ち込むべきです」と牛輔を通じて献策した。
その的確な分析が、董卓本人の耳に届いた。賈詡は暴君の御前に召し出される。賞賛の言葉を期待したわけではないが、そこで彼が目の当たりにしたのは、人の理性が通じる相手ではない、絶対的な恐怖そのものだった。
広間に引き出された賈詡の目の前で、董卓は戯れのように、些細な失態を犯した部下の一人を処刑してみせた。悲鳴を上げる間もなく首が飛び、血が床を汚す。その惨状を、董卓は心底楽しそうに眺めていた。
やがて、その血に濡れた視線が賈詡に向けられた。
「貴様が賈詡か。面白いことを言うそうではないか」
そして、運命の問いが発せられる。
「連合の蝿どもが鬱陶しい。ワシは都を長安に移そうと思う。貴様はどう思う?」
廷臣たちが息を呑むのが分かった。洛陽は漢王朝四百年の栄華の象徴。それを焼き払い、数百万の民を無理やり西へ連行するなど、暴虐の極みであった。
(止めねばならぬ)
それは、まだ賈詡の中に残っていた、良識ある官吏としてのかすかな矜持だった。繰り返される死のループを知らぬ彼にとって、それはあまりに自然な反応だった。
彼は一歩前に出ると、董卓の目をまっすぐに見据え、冷静に、しかしはっきりと諫言した。
「太師、お待ちください。遷都はなりません。民は故郷を失い、塗炭の苦しみを味わうでしょう。何より、漢王朝の御威光は地に堕ち、天下の信を失います。人心を失えば、長安の守りもいずれは崩れましょう」
完璧な正論だった。理にかない、国家を思う心に満ちていた。
だが、その言葉は董卓の逆鱗に触れた。玉座から立ち上がった董卓は、地響きのような足音を立てて賈詡の眼前に迫る。
「―――貴様は、民の味方か?それとも、このワシの味方か?」
その問いに答えが響く前に、董卓の巨体が動いた。賈詡は抵抗する間もなく、その怪物的な腕力で宙に吊り上げられる。首の骨が軋む音を聞きながら、賈詡は急速に遠のく意識の中で悟った。
(そうか……この男に、人の言葉は通じぬのだ)
暴君にとって、正論とは己への反逆に他ならなかった。
ハッと目を開くと、そこは再び遷都が宣言される直前の軍議の席だった。首筋に残る幻の激痛に、賈詡は思わず身震いする。
(駄目だ。正論で反対すれば殺される)
一度目の死で得た教訓は、彼の骨身に染みていた。だが、あの地獄絵図をただ座して見ていることもできない。賈詡は自らの知謀を信じ、別の道を探った。
(そうだ。反対するのではない。より優れた策を提示し、この狂気を制御するのだ)
董卓が再び遷都を宣言した時、賈詡は静かにその時を待った。そして、廷臣たちの動揺が広がる中、おもむろに進み出た。
「太師の英断、感服いたしました。長安に都を移すは、まこと名案にございます」
まずは董卓を持ち上げる。意外な言葉に、董卓は満足げに頷いた。賈詡は続けた。
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それは、董卓の計画の残虐性を極力排し、現実的な計画へと修正する、いわば「改善案」だった。これならば、最悪の事態は避けられるかもしれない。
しかし、董卓の表情は賈詡の期待とは裏腹に、みるみるうちに険しくなっていった。称賛の言葉を待つ賈詡に向けられたのは、蛇のように冷たい猜疑の眼差しだった。
「……ほう。貴様は、ワシの計画に不備があると申すか」
地を這うような低い声だった。
「ワシよりも優れたやり方を知っていると?このワシを出し抜き、遷都を己の手柄にしようという魂胆か?」
違う、と叫ぶ前に、董卓の背後に控えていた呂布が動いた。賈詡は反論する間も、命乞いをする暇さえ与えられなかった。閃光のような一撃が彼の胸を貫く。
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