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第23章:儲君の選択
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潼関の戦いから数年、天下の情勢は大きく動いた。曹操は魏公、そして魏王へとその地位を上げ、事実上の皇帝として中原に君臨していた。賈詡は、その間も「静かなる航海」を続け、目立たぬように、しかし着実に曹操の信頼を積み重ねていた。
だが、平穏な日々は長くは続かない。国が安定すれば、必ず次の嵐の種が生まれる。魏という巨大な船を揺るがす、最も危険な嵐――後継者問題が、ついに始まったのだ。
曹操には、二人の有力な後継者候補がいた。
一人は、嫡男である曹丕。冷静沈着で現実的、政治家としての能力は申し分ないが、その性格は冷徹で執念深い。
もう一人は、三男の曹植。詩文の才は天賦のものがあり、その奔放で芸術家肌の気質を、曹操は深く愛していた。
家臣団もまた、この二人を支持する派閥に真っ二つに割れ、水面下で激しい権力闘争を繰り広げていた。楊脩(ようしゅう)を筆頭とする曹植派と、司馬懿(しばい)らが支持する曹丕派。それは、魏の未来を賭けた、危険な綱渡りであった。
賈詡は、この争いから徹底的に距離を置いていた。どちらかに肩入れすることは、敗れた場合に一族郎党皆殺しにされることを意味する。彼の生存戦略が、この争いに関わることを固く禁じていた。
【一度目の死】
だが、運命は彼に平穏を許さなかった。
ある夜、彼の屋敷を密かに訪れた者がいた。曹丕であった。
「賈詡殿。父上は、弟の才能ばかりを愛し、私を疎んじておられる。このままでは、私は廃されるやもしれぬ。貴殿の知恵で、私を助けてはくれまいか」
その目は、藁にもすがる思いで必死だった。賈詡は、その懇願を無下にできなかった。いや、次期君主となる可能性が最も高い嫡男からの頼みを断ることの危険性を、彼は計算してしまったのだ。
彼は、曹丕にいくつかの助言を与えた。
「父君の前では、決して才をひけらかさず、ただ長男としての孝行と謙虚な態度を貫きなさい。弟君の才を褒めそやし、自らは政治の実務に励むのです」
それは、正論であり、的確な助言だった。曹丕はその言葉に従い、曹操の覚えも徐々にめでたくなっていった。
やがて、曹丕が魏王太子に指名される。賈詡の助言は、見事に実を結んだのだ。
曹操の死後、曹丕が魏王の位を継ぐと、賈詡は論功行賞で高官の地位を与えられた。彼はこれで安泰だと、心のどこかで安堵していた。だが、彼は見誤っていた。本当の敵は、敗れた曹植派だけではなかったのだ。
曹丕の幕下には、もう一人の恐るべき智謀の士がいた。司馬懿である。彼は、賈詡と同じく曹丕を太子にすべく尽力したが、その功績は常に賈詡の影に隠れがちだった。曹丕が何か重要な決断を下す際、最後に頼りにするのは、常に賈詡の意見であったからだ。司馬懿にとって、賈詡は自らの野望の前に立ちはだかる、最大の障害物であった。
曹丕が帝位に就くための準備を進めていた、ある年のこと。
突如として、賈詡は反逆の容疑で捕らえられた。寝耳に水だった。彼が連行された先で目にしたのは、勝ち誇ったような笑みを浮かべる司馬懿の姿だった。
「賈詡殿。貴殿が旧主・張繡の一族と密かに連絡を取り、謀反を企てていた証拠が、全て挙がっておりますぞ」
司馬懿が突きつけた書簡は、見事に偽造されたものだった。だが、今の賈詡には、それを証明する術はなかった。曹丕派の重臣たちは、皆、司馬懿の息がかかった者たちで固められていた。
牢獄で、賈詡は曹丕との面会を求めた。やがて現れた新君主の目は、かつて助けを求めてきた青年のそれではなく、冷酷な覇王の目をしていた。
「賈詡よ、朕はそなたの知恵を頼りにしてきた。だが、司馬懿の示す証拠はあまりに確かだ」
曹丕の声は、氷のように冷たかった。
「それに……忘れたわけではあるまいな。そなたの策が、我が兄・曹昂様の命を奪ったことを。父上はそなたを許したが、朕は、あの宛城の夜を一日たりとも忘れたことはない。そなたの忠誠など、所詮は己が生き残るためのもの。朕も、全家臣を敵に回してまで、兄の仇を庇うことはできぬ」
その言葉が、全てを物語っていた。司馬懿の讒言は、ただのきっかけに過ぎない。曹丕の心の奥底に眠っていた長年の怨恨が、今、牙を剥いたのだ。
処刑台の上で、賈詡は初めて己の本当の過ちを悟った。
(……そうか。君主の個人的な恨みは、いかなる功績をもってしても消せぬのだ。そして敵は、対立派閥にいるとは限らない。同じ陣営の中にこそ、最も危険な敵が潜んでいる……!)
彼は、曹丕という主君の心は掴んだかもしれない。だが、その心の奥底にある氷の壁と、その主君の寵愛を巡って争う、同僚という名の競争相手の牙を、完全に見落としていた。
【二度目の死】
ハッと目を開くと、そこは再び、曹丕が助けを求めてきたあの夜だった。
一度目の死の記憶が、彼に別の道を選ばせた。
(曹丕に加担してはならぬ。ならば、曹植派につけばよいのか?)
それは、自暴自棄に近い考えだった。だが、彼は試してみることにした。
彼は曹丕の頼みを丁重に断り、逆に曹植派の楊脩らと接触を重ねた。そして、曹植の才能がいかに素晴らしいかを、曹操にそれとなくアピールし続けた。
結果、歴史は変わり、曹植が太子となった。
だが、その後の運命は、一度目よりもさらに悲惨だった。
芸術家肌の曹植は、君主としての器量を全く持ち合わせていなかった。彼は酒に溺れ、政治を顧みず、その横暴な振る舞いで家臣たちの信頼を失っていった。その隙を、廃された曹丕が見逃すはずがなかった。
曹丕はクーデターを起こし、弟から帝位を簒奪。そして、曹植派に与した者たちを、一人残らず粛清した。賈詡もまた、反逆者として、市中引き回しの上、斬首された。
(駄目だ……!どちらかに肩入れした時点で、詰んでいたのだ!)
だが、平穏な日々は長くは続かない。国が安定すれば、必ず次の嵐の種が生まれる。魏という巨大な船を揺るがす、最も危険な嵐――後継者問題が、ついに始まったのだ。
曹操には、二人の有力な後継者候補がいた。
一人は、嫡男である曹丕。冷静沈着で現実的、政治家としての能力は申し分ないが、その性格は冷徹で執念深い。
もう一人は、三男の曹植。詩文の才は天賦のものがあり、その奔放で芸術家肌の気質を、曹操は深く愛していた。
家臣団もまた、この二人を支持する派閥に真っ二つに割れ、水面下で激しい権力闘争を繰り広げていた。楊脩(ようしゅう)を筆頭とする曹植派と、司馬懿(しばい)らが支持する曹丕派。それは、魏の未来を賭けた、危険な綱渡りであった。
賈詡は、この争いから徹底的に距離を置いていた。どちらかに肩入れすることは、敗れた場合に一族郎党皆殺しにされることを意味する。彼の生存戦略が、この争いに関わることを固く禁じていた。
【一度目の死】
だが、運命は彼に平穏を許さなかった。
ある夜、彼の屋敷を密かに訪れた者がいた。曹丕であった。
「賈詡殿。父上は、弟の才能ばかりを愛し、私を疎んじておられる。このままでは、私は廃されるやもしれぬ。貴殿の知恵で、私を助けてはくれまいか」
その目は、藁にもすがる思いで必死だった。賈詡は、その懇願を無下にできなかった。いや、次期君主となる可能性が最も高い嫡男からの頼みを断ることの危険性を、彼は計算してしまったのだ。
彼は、曹丕にいくつかの助言を与えた。
「父君の前では、決して才をひけらかさず、ただ長男としての孝行と謙虚な態度を貫きなさい。弟君の才を褒めそやし、自らは政治の実務に励むのです」
それは、正論であり、的確な助言だった。曹丕はその言葉に従い、曹操の覚えも徐々にめでたくなっていった。
やがて、曹丕が魏王太子に指名される。賈詡の助言は、見事に実を結んだのだ。
曹操の死後、曹丕が魏王の位を継ぐと、賈詡は論功行賞で高官の地位を与えられた。彼はこれで安泰だと、心のどこかで安堵していた。だが、彼は見誤っていた。本当の敵は、敗れた曹植派だけではなかったのだ。
曹丕の幕下には、もう一人の恐るべき智謀の士がいた。司馬懿である。彼は、賈詡と同じく曹丕を太子にすべく尽力したが、その功績は常に賈詡の影に隠れがちだった。曹丕が何か重要な決断を下す際、最後に頼りにするのは、常に賈詡の意見であったからだ。司馬懿にとって、賈詡は自らの野望の前に立ちはだかる、最大の障害物であった。
曹丕が帝位に就くための準備を進めていた、ある年のこと。
突如として、賈詡は反逆の容疑で捕らえられた。寝耳に水だった。彼が連行された先で目にしたのは、勝ち誇ったような笑みを浮かべる司馬懿の姿だった。
「賈詡殿。貴殿が旧主・張繡の一族と密かに連絡を取り、謀反を企てていた証拠が、全て挙がっておりますぞ」
司馬懿が突きつけた書簡は、見事に偽造されたものだった。だが、今の賈詡には、それを証明する術はなかった。曹丕派の重臣たちは、皆、司馬懿の息がかかった者たちで固められていた。
牢獄で、賈詡は曹丕との面会を求めた。やがて現れた新君主の目は、かつて助けを求めてきた青年のそれではなく、冷酷な覇王の目をしていた。
「賈詡よ、朕はそなたの知恵を頼りにしてきた。だが、司馬懿の示す証拠はあまりに確かだ」
曹丕の声は、氷のように冷たかった。
「それに……忘れたわけではあるまいな。そなたの策が、我が兄・曹昂様の命を奪ったことを。父上はそなたを許したが、朕は、あの宛城の夜を一日たりとも忘れたことはない。そなたの忠誠など、所詮は己が生き残るためのもの。朕も、全家臣を敵に回してまで、兄の仇を庇うことはできぬ」
その言葉が、全てを物語っていた。司馬懿の讒言は、ただのきっかけに過ぎない。曹丕の心の奥底に眠っていた長年の怨恨が、今、牙を剥いたのだ。
処刑台の上で、賈詡は初めて己の本当の過ちを悟った。
(……そうか。君主の個人的な恨みは、いかなる功績をもってしても消せぬのだ。そして敵は、対立派閥にいるとは限らない。同じ陣営の中にこそ、最も危険な敵が潜んでいる……!)
彼は、曹丕という主君の心は掴んだかもしれない。だが、その心の奥底にある氷の壁と、その主君の寵愛を巡って争う、同僚という名の競争相手の牙を、完全に見落としていた。
【二度目の死】
ハッと目を開くと、そこは再び、曹丕が助けを求めてきたあの夜だった。
一度目の死の記憶が、彼に別の道を選ばせた。
(曹丕に加担してはならぬ。ならば、曹植派につけばよいのか?)
それは、自暴自棄に近い考えだった。だが、彼は試してみることにした。
彼は曹丕の頼みを丁重に断り、逆に曹植派の楊脩らと接触を重ねた。そして、曹植の才能がいかに素晴らしいかを、曹操にそれとなくアピールし続けた。
結果、歴史は変わり、曹植が太子となった。
だが、その後の運命は、一度目よりもさらに悲惨だった。
芸術家肌の曹植は、君主としての器量を全く持ち合わせていなかった。彼は酒に溺れ、政治を顧みず、その横暴な振る舞いで家臣たちの信頼を失っていった。その隙を、廃された曹丕が見逃すはずがなかった。
曹丕はクーデターを起こし、弟から帝位を簒奪。そして、曹植派に与した者たちを、一人残らず粛清した。賈詡もまた、反逆者として、市中引き回しの上、斬首された。
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