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大借金顛末

章の一 事の始まり

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 それは、人類の生活圏が宇宙に移って幾星霜。
 かつて惑星上に線引して争ったように宇宙を区切り戦争を繰り返す、そんな時代の瑣末な話である。

 銀河帝国軍大将ルードヴィッヒ・オーウェンと、同じく大将ランドルフ・リヒターは齢五歳からの幼馴染みである。
 方や、成金下級貴族の家で育った船舶事故の孤児、こなた、辺境から移って来た薔薇専門の造園技師の一人息子と言う、全く接点の無い二人だったが、ルードヴィッヒの養父が建てさせた別館の薔薇園の設置を機会に出会って以来、仲の良い兄弟分として育って来た。
 この二人、殆ど弾みで士官学校に進んだと言う、ちょっと問題な理由で軍人になり、そして二十代半ばで現在の地位に上り詰めていた。
 ベルジーナ要塞で再会して以来、様々な作戦行動を共にしてきた二人は、とある門閥貴族の子弟とのいざこざから新興勢力の旗手であるマンフレート・フォン・リーフェンシュタールに救いを求め、以来彼の子飼いの提督として戦って来た。
 無論、『ブルガンディア戦役』では反乱貴族側の提督を数多く討ち取り、勝利に貢献したのである。


 そんな二人の士官学校時代の先輩に、先の戦役で反乱貴族側に止むを得ず参加せねばならなかったフェルナンド・フォン・アイスフェルト大将がいる。
 足並みの揃わぬ反乱貴族連合の中で、真っ当に戦いその指揮能力を示し、そして降伏後の潔さからマンフレートに幕下に入る事を許された人物である。
 そのフェルナンドが、貴族連合側に入らねばならなかった理由を二人が知ったのは、冬至の祭りのちょうど一ヶ月前。
 新体制を打ち出したマンフレートが、提督達に二交代で休暇に入るよう布告した日の午後だった。
 二日後から、第一陣として休暇に入る事となった二人は、急な休みの消化の仕方を相談するのも兼ねて、高級士官用クラブ《鷲の砦》に寄り道をした。現在、ここはリーフェンシュタール元帥府の提督達の憩いの場と化している。
 定時に上がった提督達が集まった店内で、先に来ていた同僚達の話を入って来た二人は聞く事になった。
 その時、そこにいたのはほんの三人だったが、大声で知られたバルドール・フォッカー大将が、一人で四、五人分の声量でがなっていたのだ。
「そりゃひでぇ、よくもまあ今までやって来れたなあ、アイスフェルトの奴」
「おいおい、フォッカー、扉の向こう側まで声が抜けているぞ? クラブでは静かにと言う原則を忘れたか?」
 愛用している扇子を口元に寄せ、悠々とそう言ったルードヴィッヒに向かって、士官学校の同期生であるフォッカーははたはたと手を振って見せた。
 見た目こそ、すらりとした優男だが、その実学生当時は二大番格の片割れと言う蛮カラな過去を持つフォッカーは、特に気にした風もなく遅れて来た二人を見上げた。
「気にすんな、どうせ職場と顔ぶれは変わらんだろう。それより、お前ら知ってたか?」
「何が?」
 素直に聞き返すランドルフに、フォッカーは我が意を得たりと大きく頷きながらこう言った。
「うん、あのフェルナンド先輩が、ババ引くの覚悟の上で貴族連合に付いた理由だ」
「え、向こうから要請受けたからだろ? だって、ルードヴィッヒにも来たそうだし、フェルナンド先輩の家は帝国騎士だけど、本家はれっきとした帝国開闢以来の男爵家だって言う話だし」
 実は先の戦役を前に、貴族連合側によるマンフレート陣営にいる貴族号持ちの提督の、引き抜き工作が行われたのである。
 尤も、元々門閥貴族とそりが合わなかった為に閑職にいたところを、マンフレートに引き抜かれた者が大半であった為、ものの見事に振られたと言う事実がある。
 因みにルードヴィッヒは、フォンの称号を外しているが一応帝国騎士に名を連ねる成金だ。
 だが、それに対して言葉を添えたのは、フォッカーの向かい側に座っていた青年である。砂漠の、黄色がかった砂を思わせる髪と瞳の青年は、マンフレート陣営の三番目に若い提督――実は最年少は彼らの上官であるマンフレートである――で、マティウス・ノイマンと言う名である。
 彼はちょうどランドルフのすぐ下の後輩に当り、彼は中将である。
 因みに、マンフレートが才覚と実力にだけ注目して集めた結果として、同じ士官学校の卒業生ばかりが幕僚に集まっている。彼の配下の提督の実に八割が、帝都ユグドラシルの第一士官学校の出身者である。
「それが、向こうに参加して勝利した暁に、お家の借金を全額無かったものにして貰う為だったらしいですよ」
 それを聞いて、ランドルフとルードヴィッヒは顔を見合わせた。
 そう言えば、学生時代から嫌に小銭稼ぎに奔走しているのは知っていた。学生時代の口癖など、
「軍人になる為に、学校に入った奴には負けない」
と言う、何やら本末転倒したものだったし、士官学校の隣にあった農業学校に入り込んでは何やら分けて貰い、それらを行商してもいた。
 また、色々裏情報を売り捌く一方で、教師相手にも色々商売をしていた男であった。
 ルードヴィッヒなどは、冬の雪の降る最中に、シャツ一枚で雪掻きをするこの男を見て、
「先輩なら、デンマルクでも生活出来ますね」
と、呟いた事があるくらいだ。
 だが、それらを知っている二人ですらひっくり返る金額を、何処で聞いて来たのかマティウスはあっさりと言った。
「何でも、総額一七五万マルクの大借金だったそうですよ?」
「ひ、ひゃくななじゅうごまんマルクぅ!?」
「奴は一体何に手を出した、先物買いか? それとも屑みたいな株にでも注ぎ込んだか?」
 提督職にある、彼ら高級軍人の年収が三万マルクほどで、一般人が普通に生活するのに月五百マルクほどで充分な物価での大借金に、実家が自営業であるランドルフの目が回る。(一マルク=四百円くらい)
 貴族としては最下位である帝国騎士ながら、企業家の家で育ったルードヴィッヒの方はありえそうな事情を口にしてみたが、それに補足を付けたのは、ピアノの側に立っていたマグヌス・エッカート大将だった。
「詳しい話は知りませんが、何でもお父君の代からの借金だそうですが。しかし、彼のお父君の頃なら、まだ経済政策も機能していた筈、一体どう言うものですかな」
 そう、極言するなら、ちょうどランドルフが生まれた二十五年程前が一番社会的にも経済的にも安定していた時代なのだ。
 その頃どうやれば、そこまでの借金になると言うのか、ルードヴィッヒは扇子をポケットに入れると、疲れたように手近なソファーに座った。
 その隣り側に座わりながら、ランドルフが静かに給仕に合図を出す。
「しかし、確か奴は姉二人と妹三人、そしてお母君の七人暮らしと言ってなかったか?」
「ああ、それにお姉さん、二人とも結婚したって話だけど」
 思い出しながらランドルフが頷くと、マティウスがまた補足する。
「ああ、なんでも『家の借金には一切関与しない』と言う約束で、お姉さん達の結婚は成立したそうですよ? それに結婚相手の方は皆、堅実な仕事に就いている平民だそうですし」
「確か、奴の親父さん、過労死の認定受けて保険金を支給された、数少ない人間だったらしいしな」
 給仕が運んで来たソーセージの盛り合わせに手を伸ばしながら、フォッカーが言うのに眉を顰めるルードヴィッヒに向かって、学生時代からの地獄耳を披露する形でマティウスは溜め息を付いた。
「でも、確か今年の三月までで、二五万マルクは返済したそうですよ?」
「……へ?」
 一瞬、数字を聞き流してしまって、ランドルフは聞き返す。
 だが、ルードヴィッヒの眉はきつく顰められたままだ。色違いの目の、視力を補正するのも兼ねて掛けている片眼鏡を外しながら、苦々しげに呟いた。
「なるほど、小銭稼ぎと収入の九割以上を返済に注ぎ込んだと言う事だな。しかし……」
「そんだけ払って、どれが終ったんだって感じだな、おい。まさか、一七五万全てが一つの借金とは言わんだろうに」
 フォッカーは、単に思い付きで言ったに過ぎないが、昔から真実を突くのは上手かった。
 彼の言葉に、マティウスとエッカートは顔を見合わせ、ランドルフも軽く眉を顰めた。
 そこに別の提督達が入って来たので、話はそこで終わりとなったが、ルードヴィッヒは何やらずうっと考え込んでいた。


「ルディ?」
 クラブからの帰り道、ルードヴィッヒの地上車に乗り込みながら、ランドルフはずうっと考え込んでいる親友を愛称で呼んだ。親友の官舎に寄ってから戻るよう運転する部下に命じると、ルードヴィッヒは些か不機嫌そうにシートに体を沈めた。
「なあ、何にそんなに怒っているんだ?」
「いや……。なあ、ランディ。俺、ちょっと奴のとこの事調べようと思うんだが」
 車窓の外を睨みながらのその一言に、ランドルフは面食らったように振り返った。
「奴って、フェルナンド先輩の事か?」
「ああ」
 短い応えに、相手の怒りの深さに気付いたランドルフは、戸惑いを隠せずその秀麗な横顔を眺めていた。


 その二日後、集まった書類を瞬く間に読み終えるや、ルードヴィッヒはその紙の束を握り潰し、そのまま机に叩き付けていた。
 しばらく考え込んでいたルードヴィッヒだったが、意を決したようにTV電話に手を伸ばした。二、三ヶ所に連絡を入れると、愛用の片眼鏡を丁寧に絹のハンカチで包んで箱にしまい込み、書類整理用の眼鏡を掛けて立ち上がったのである。


 休暇の初日、フェルナンド・フォン・アイスフェルトは、突然新たな同僚であり、士官学校時代の後輩であるルードヴィッヒ・オーウェンに訪ねて来られて、慌てて家から出て来た。
 形ばかりの邸宅街――この近辺に暮らすのは、アイスフェルト家と変わらない名ばかりの貴族だ――に不釣り合いな、流線型の車体が美しい最新型の地上車が停まっている。それに凭れ掛かり、常に無く不機嫌で、ピシッとしたスーツ姿で眼鏡を掛けたルードヴィッヒの方は、着古したワイシャツとてろてろのトラザースで出て来たフェルナンドに、眉を顰めたまま手にした書類袋を差し出した。
「な、何だ?」
 突然の事に、目を白黒させるフェルナンドに向かって、ルードヴィッヒは常に無く厳しい目で相手を見据えた。青い右目と緑色の左目が、戦場にいる時よりも剣呑さを増す。
「フェルナンド・フォン・アイスフェルト、貴様の身上書と負債内容を見せてもらった」
「え?」
 後輩からいきなり居丈高に名を呼ばれ、一瞬フェルナンドはむっとした表情を浮かべた。
 だが次の瞬間、そんな彼の鼻先に、ルードヴィッヒの一喝が叩き付けられた。
「いいか、俺は成金の息子だ。父は成り上がった以上、それに相応しい考え方と努力をした!」
 手にした書類袋を手で叩きながらのその鋭い声に、フェルナンドの体が竦んだ。
 彼の家に証書片手に乗り込んで来て、借金返済を迫る借金取り達の最初の一声に、調子がまるっきり似ていたからだ。
「そして母は、『貧乏であると言うことは、自己責任を問えぬ場合が多い』と、俺に教えた」
 ここで声の調子が緩んだのは、単に母の話になったからだ。
 おずおずと顔を上げたフェルナンドに、「即ち」と言葉を繋いで、ルードヴィッヒは逆方向から引っ叩く様に怒鳴り付けた。
「その成金の息子として、貴様の借金かねへの対処のしようは許せんしっ! 貧乏であるべくしてある生き様も許せんっ!!」
 ひーっと、頭を抱えて小さくなってしまったフェルナンドを己の地上車の後部座席に放り込むと、ルードヴィッヒはとっとと運転席に着いた。
「今日中に、役所と金融街回って整理を終らせるぞ、いいなっ!」
「あ、せんせいっ」
 思わずそう呼んでしまって――最早、フェルナンド・フォン・アイスフェルトは、目の前にいる男が後輩であるとか、職場の同僚であるという事実を忘れ果て、いきなり現れた弁護士のように思っていた――、再びの一喝を浴びてしまった。
「誰が先生だ、誰がっ!」
 頭を抱えて小さくなってしまう相手に、小さく舌打ちしつつルードヴィッヒは胸の中で毒づいていた。
(金をいい加減な扱いしおって、そんなで貧乏なんて片腹痛いっ)


 それから三時間後、数ヶ所の銀行を回った二人は、新しいカフェテラススタイルの喫茶店に入った。
 正確には、フェルナンドの頭に糖質を補給させる為に、ルードヴィッヒが寄るのを決めたのだ。
 綺麗で、しかも高級そうな店構えに、そのまま回れ右しようとした相手の腕を引っ掴むと、ルードヴィッヒは真っ直ぐ店内に踏み込んだ。
 政変による変化の一つに、様々な店舗の敷居が下がった事が上げられる。
 門閥貴族達が、自分達がテリトリーとしたところに平民が踏み込む事を嫌った為で、ちょっといい感じの店は大抵彼らによって(時には下級貴族達すら)締め出しを受けたのである。
 だが、政変によって貴族達が放逐された今は、貴族平民の区別なく店に入る事が出来る様になったのだ。――お金さえ、あれば。 
 人目の多いテラスや窓際ではなく、送風機近くの暖かなボックス席を選んだルードヴィッヒは、注文を取りに来た女給に自分用のホットコーヒーと、フェルナンド用のラズベリー・トルテとカフェ・オ・レを注文すると、今まで回って来た銀行の資料を取り出した。
「この十万マルクもチャラに出来るが、これは払っておいた方が後々楽だな」
「はあ……」
 ルードヴィッヒの呟きに、応えは少し上の空であった。
 何しろ、装飾された人の多い店舗と言うものにはこの人生とんと縁が無く、しかもそう言う店の中で、テーブルに着いて何か食べるなどと言う事は初体験に等しいフェルナンドである。物珍しさと心細さにきょろきょろしているうちに、綺麗な女給さんの手で目の前にきれいなお菓子と大振りなカップに注がれたコーヒー牛乳が並べられた。
 ぽかんっと見ていたら、再び、場所柄から声は小さかったが一喝された。
「きょろきょろするな、食えっ!」
「は、はははははははいっ」
 慌てて、デザートフォークを取ってトルテを一欠け口に運んだフェルナンドは、その甘い味にぽかんとなってしまった。
「いいか、将来的な投資だと思えばいい。このお前のお父君名義の負債は残すからな」
「はあ……え、将来的な投資って……?」
「フェルナンド・フォン・アイスフェルト!」
「は、はいっ」
 飛び上がるように返事したフェルナンドに向かって、ブラックコーヒーに口を付けながらルードヴィッヒは言葉を続けた。
「お前は、自分が作った訳ではない大借金を、たった一人で二五万マルクも返済してきたんだ。既に銀行も金融も、お前がもう少し借金を整理すれば、融資さえしてくれるだろう」
「え!?」
 これが、青天の霹靂と言う事だろうか。
 思いもよらぬ言葉に、狼狽えた様に聞き返す事しか出来ない。
 そんな当人を置き去りに、ルードヴィッヒの言葉は続く。
「当然だ。返せると言う事は、稼げると言う事だ。潜在億万長者と認識されているだろうな」
「――ピンと来ません」
 飲み込みの悪い相手に、ルードヴィッヒは必死に怒りを押さえ、噛み砕いて説明しようとする。
「――だから、高級軍人と言う立場を抜きにしても、お前には返済して来た実績と信用が有ると言う事だ」
 やっぱりぽけっと首を傾げた相手に向かって、ルードヴィッヒは二十分掛けて内実を教えた。
 その結果、くらくらしながらフェルナンドは、話の内容を反芻した。
「つまり、えっと、俺はこれから、給料の中から七五〇マルクは使えて、生活出来る、と言う事ですよね」
 暫しの沈黙の後、「ああ」と応えたルードヴィッヒは反省しきりだった。
 同じ士官学校の卒業生、並びに自分より年上と言う事で、かなり噛み砕きはしたが一気に話し過ぎた様である。
 情報過多で、アップアップしているかつての切れ者に向かって、ルードヴィッヒは溜息と共にこう言ってやる。
「もう一個、ケーキ食うか?」
「あ、でも」
「茶菓子代くらい、俺が払ってやる」
 本音は、もう少し自分がゆっくりしたかったのだ。
 何しろ当主がこれでは、アイスフェルト家の他の人間の反応は、もっと酷いだろうと踏んだのだ。
 そして、ルードヴィッヒの判断は間違っていなかったのである。


 二人がアイスフェルト家の屋敷に戻って来ると、家の中で三人の女性が右往左往していた。
 一人は、フェルナンドの母親。残りは一応女学校に通っている、一番下の双子の妹達である。彼女達の姉――フェルナンドのすぐ下の妹――は、就職してそこの社員寮に入っていると言う話である。
 踏み抜けそうな床板と、ぼろぼろの壁にげんなりしているルードヴィッヒの横で、フェルナンドの方は室内の異常に気付いて母親に駈け寄った。
「母さん、まさか借金取りに荷物を持って行かれたんですかっ!」
「ああ、フェルナンド、違うのよ……」
 おろおろと息子の手に縋る老婦人に向かって、ルードヴィッヒは先程より簡単に、より噛み砕いて、アイスフェルト家の借金は既に完済に近く、信用度の低い証書をこれから整理するのだと告げた。
 その途端、アイスフェルト夫人は真後ろに倒れてしまった。
 咄嗟の事で、辛うじて息子が抱き止めたものの、夫人の顔色の悪さにルードヴィッヒは病院に行く用意をするよう、フェルナンドの妹達に命じた。
 その言葉に、夫人は悲鳴と共に家の奥へと逃げ出そうとした。
「嫌ー、検査したら入院になるー、怖いぃーーっ!」
「軍人保険の扶養者保証と貴族株で、入院費用は要りません、私が付き添いますから安心してくださいっ!」
 そう宥めると、ルードヴィッヒはフェルナンドに母親を運ばせ、地上車を走らせて大急ぎで手近な総合病院に駆け込んだ。
 かつては、門閥貴族の別邸だったと言う建物を改装したその病院で、三十分足らずの診断の後二人は診察室に呼ばれた。
 アイスフェルト夫人は既に病室に運ばれており、五十歳位の壮年の医師は、開いた口が塞がらないと言った風情で二人に診断結果を話した。
「何処も悪いところはありません。しいて言うなら、あの方は栄養失調です。三十年前ならいざ知らず、近年稀に見る酷さでしたが」
 話が飲み込めないフェルナンドの横で、やっぱりとルードヴィッヒは余り堪えた風も無く頷いた。
 あの借金である。職場で食べられるアイスフェルトはともかく、あの母君はパン一欠片で一日、いや二、三日を過ごすくらいの事をしていただろう。
「取り敢えず、四日間入院していただきます。消化の良い、栄養価の高いものをまず食べていただかないと」
「はい、お願いします」
 アップアップしているフェルナンドをつれて待合室に出ると、ルードヴィッヒは誰に言うとも無く、
「四日間か。まさかそれだけで済むとはなあ」
と、呟いた。
「え、四日も!?」
 跳ね上がるように聞き返したフェルナンドに対して、ルードヴィッヒは嘆息交じりに切り返す。
「むしろ奇跡だと思うぞ? 俺はきっと一月は硬いと思っていた。第一、ここをやっていたら、半年は行くぞ」
 腎臓の辺りを擦るのを見て、フェルナンドの顔色が青白いのを通り越して紙の白さになる。
「ま、この病院は看護婦が充実しているから付き添いは要らない。引越しや色々あるから、一端戻るぞ」
「で、でもお金はっ」
「要らないと言っただろう」
「ででも、昔同僚が、軍人保険は当人しか使えないって……」
 病院から出て、一服しようとしたルードヴィッヒの手の中で、ぐしゃっとシガレットケースが音を立てた。
「事務局に確認ぐらいせんかっ!」
「すみませーんっ!」
 ピーピー泣く相手を後部座席に放り込むと、ルードヴィッヒは本日十何回目かの大きな溜息を吐いてハンドルを握った。
 二人が乗ったフィールエック・モートァ社製の地上車が滑り込んだのは、アイスフェルト家の屋敷ではなくそこから五百メートルほど離れた瀟洒な集合住宅の方だった。
「こ、ここは」
「あの屋敷では、普通の生活は難しいし、何より借金取りどもに知られているだろう。取り敢えず今日からここで暮らす、いいな」
「はあ」
 要領を得ないフェルナンドを、彼の妹がいる部屋に放り込むと、ルードヴィッヒは少し早めの夕食を摂りに向かった。


 行きつけのランス料理の店《ポン・パドゥール》に入ると、壁際の観葉植物側の席でランドルフが手を振った。
「遅れてすまない」
 席に着きながらそう言うルードヴィッヒに、こちらもやや疲れているらしいランドルフが首を振って見せる。
「いいよ、お疲れさん。大変だったのは判っているから」
 そう言う彼は、ルードヴィッヒからの依頼でアイスフェルト家の引越しを手伝っていたのだ。
 ルードヴィッヒの伯母さん達二人を手伝って、あそこのあばら家に等しい屋敷から荷物を運び出そうとしたのだが、家の者が後生大事に持ち出そうとするゴミやガラクタ――いわゆる思い出の品とかでは無く、洗ったガラス瓶やブリキ缶、まだ使えると主張する刃の欠けたナイフや、既にぼろぼろに擦り切れたコートや毛布の残骸など――を省くと、あの家にはずた袋二つ分の荷物しか無かったのだ。
「エイダさんも、クリスティーネ叔母さんも、整理したあそこんちの荷物見て泣いてたよ」
 エイダこと、エイダ・フォン・シュタインベルクは早逝したルードヴィッヒの実父の姉であり、クリスティーネ・フォン・シュタインベルクはルードヴィッヒの大叔母――彼女は祖母の兄弟の妻である――に当る。二人とも、シュタインベルク家が経営するホテル・ハイデクラオトに居たところを、ルードヴィッヒからの救援要請を受ける形になったのだ。
 因みに、ルードヴィッヒがそこの息子を連れて元の屋敷に戻った時、ランドルフと女性陣は引っ越し先の集合住宅に居たのだ。
「そうか。お母君は栄養失調だそうだ」
「何か、嵌まり過ぎて嫌かも……」
 運ばれてきた食前酒と、前菜のサラダに手を伸ばしながら二人は同時に溜め息を付いた。
 同僚がこんな奴と言うのが、互いにショックだったのだ。
「伯母さん達が、あそこの人達が引かない程度の生活必需品を取り敢えず用意したんだけどさ」
 げんなりとした口調に、ルードヴィッヒは眼鏡の下から二色の瞳で促した。
「泣き出したか?」
「全員気絶した」
 予測より凄い反応に、ルードヴィッヒは改めて付け足した。
「改めて言っておくが、伯母達を手伝い人に選んだのはうちの母だ。お前の両親は、絶対引き込むなよ」
「判ってる」
 ランドルフの両親は辺境育ちで、しかも難民の救護施設で働いた経験がある人達である。
 放って置けなくて、あそこの家庭を立て直す為に、一生を捧げかねないのを判っている息子は大きく頷いた。
「実際俺も」
「ん?」
「夕食食ったらUターンだ」
 白ワインを飲み干しての言葉に、ランドルフは労わるように肩を叩いてやった。


 その頃、アイスフェルト家では。
「兄さん、きっとあの人兄さんに気があるのよ」
 双子の下の方、黒髪を三つ編みにしているシルヴィアの言葉に、フェルナンドはきょとんっと顔を上げた。それに、姉の方のクローディアが同じく三つ編みを直しながら続く。
 因みに、二人が三つ編みにしているのは、鬘屋に売る為である。
「たかだか昨日、今日会った相手に、ここまで熱心に親切なんて、下心無しで有る訳無いじゃない」
 邪悪な一卵性双生児の言葉に、三十路の兄はおろおろするだけだ。
 その兄の手をがっしり掴んで、二人は真剣に、ユニゾンでこう言った。
「絶対ゲットしてよねっ! 金持ち、頭良い、ハンサム、そして面倒見良し、あんな出物無いんだからっ! 私達の将来の為に、後見人になって貰って! お願いっ!」
 妹達の言葉に凍っている間に、やって来たルードヴィッヒに彼は腕を掴まれた。
「まだまだ、回る所がある。お母君はともかく、お前は倒れている暇なぞ無い!」
 何しろ急な引越しである。
 挨拶回りをしておかねば、踏み倒して夜逃げと言う誤解に繋がる。弁護士の先生――妹達もフェルナンドも、すっかりルードヴィッヒを新進気鋭の弁護士と思い込んでしまっている――に引きずられるまま、フェルナンドは出掛けて行った。
 こうして、一日目がやっと終った。
 だがこの時点で、ルードヴィッヒはまだ三日ほどで済むと思っていたのだ。

 彼が己の予測の甘さを痛感するのは、まだまだ先の事であった。
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