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トビ
小さな変化
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この宿を取ってからもう三日にもなるというのに、カラスはさっぱり動く気配を見せなかった。
見えない敵からの襲撃があってすぐにここに転がり込んだきり、彼は窓際に陣取ったまま食事の時もずっとそこにいる。
目的のない旅路だから、いつまで留まろうが、いつ出発しようが、カラス次第だ。けれど、日がな一日微動だにしない彼を眺めているだけというのは、どうにも時間を持て余してしまう。
巴は何か反応してくれることを期待して部屋の奥からカラスを見つめてみたけれど、窓の外に向いたままの彼の緑柱石のような目は何も語ってはくれなかった。
カラスと過ごすようになってひと月が経った今でも、彼は初めて会った時と変わらない。何を考えているのかさっぱり解からないままだった。
特にこの間の一件から、より一層黙り込んでいる時間が増えたような気がする。
(まだ怒っているのかしら)
狙われた時、彼女がカラスを庇ったことに、彼はいつになく激昂した。あんなふうな彼は、初めてだった。
あの時のカラスの剣幕を思い返し――次いでその後に投げられた彼の台詞がパッと頭によみがえってしまい、巴は思わず両手で熱くなった頬を包む。
『俺もお前のことの方が大事なことなんだよ!』
きっと、カラスは深く考えてあんなことを言ったわけじゃない。
ただ、頭に血がのぼっていたから、巴が口走ったことをそのまま返しただけなのだ。
彼女はそう自分に言い聞かせて頬のほてりを冷まそうと試みた。
そう、巴の行動に対してカラスはとても怒っていたし、後から考えれば、自分のしたことは彼の邪魔をしたに過ぎなかったのだということが判る。丸まった座布団よろしく抱えられているだけの方が、彼にとってはよほどやり易かったに違いない。
だけど、あの時は、考えるよりも先に身体が動いてしまった。
無謀な行動でむしろ彼を危険な目に遭わせてしまったことを、巴は申し訳なく思う。
けれども、その時の怒りを三日も保ち続けるなんて、いささか長過ぎやしないだろうか。
そっとカラスを横目で窺って、巴は小さく息をついた。あまり物事に拘らなさそうに見えて、彼は意外に根に持つ人なのかもしれない。
宿に入ってから一度も外に出ておらず、ずっとカラスと二人きりだった。
むっつりと口を噤んだままの彼と。
「あの――」
意を決して彼に呼びかけようとしたその瞬間、唐突にカラスが立ち上がった。
「行くぞ」
「え?」
キョトンと彼を見上げる巴をよそに、彼は身の回りの物が入った袋と巴の薙刀を掴むと、部屋を出て行こうとする。と思ったら、入口で立ち止まって座り込んだままの彼女を振り返った。
「何してる、さっさとしろ」
何の予兆もない行動にも拘らず当然のようにそう言う彼に、流石に巴もムッとする。立ち上がり、抗議の声を上げようとしたけれど、彼はまた踵を返して今度こそ行ってしまった。
一瞬呆気に取られ、巴は慌ててカラスの後を追う。
一歩踏み出すごとに募っていく怒りを彼にぶつけたくても、歩いていたらなかなか追いつけなかった。屋内を走るだなんて良くないことだったけれど、仕方がない。
カラスが消えた廊下の角を、小走りどころではない速さで曲がって――壁にぶつかった。いや、壁ではない。弾き飛ばされそうになった巴を、すかさず強い腕が支える。それにすがって顔を上げると、心の底から呆れ返っているのを隠しもしない緑の目が彼女を見下ろしていた。
「何やってんだよ、前見てろよ」
巴をしゃんと立たせながらのカラスの台詞は正論で、彼女は頬が熱くなる。けれどその時巴の胸の中に湧き上ったのは、みっともないところを見せてしまった恥ずかしさよりも、勝手過ぎるカラスへの腹立たしさだった。
「あなたが行ってしまわれるから――」
言いかけてカラスの背中に目を走らせた巴は、そこがもう宿の出入り口であることに気付く。彼は彼女を置いていくつもりなどはなからなかったのだ。
(待っていてくれるくらいなら、もう少しゆっくり歩いてくれてもいいのに)
そんなふうに考えて唇を尖らせて、巴はふと気付く。
自分は、最近、むくれてばかりではないだろうかと。
少し前までの彼女は、こんなふうに気持ちを荒立てたりすることがなかった。もっと冷静で、動じない性格だった筈だ。
それなのに今は、カラスの眼差し一つ、指の動き一つで右往左往しているような気がしてならない。
いつから、こんなに変わってしまったのだろう。
憮然とした巴に、彼女の心の内などさっぱり知らないカラスがいとも平然と手を差し伸べる。
「行くぞ。外に出たら俺から離れるなよ」
そんな台詞と共に、巴がその手を取ることを微塵も疑ってはいない、眼差しを向けながら。
見えない敵からの襲撃があってすぐにここに転がり込んだきり、彼は窓際に陣取ったまま食事の時もずっとそこにいる。
目的のない旅路だから、いつまで留まろうが、いつ出発しようが、カラス次第だ。けれど、日がな一日微動だにしない彼を眺めているだけというのは、どうにも時間を持て余してしまう。
巴は何か反応してくれることを期待して部屋の奥からカラスを見つめてみたけれど、窓の外に向いたままの彼の緑柱石のような目は何も語ってはくれなかった。
カラスと過ごすようになってひと月が経った今でも、彼は初めて会った時と変わらない。何を考えているのかさっぱり解からないままだった。
特にこの間の一件から、より一層黙り込んでいる時間が増えたような気がする。
(まだ怒っているのかしら)
狙われた時、彼女がカラスを庇ったことに、彼はいつになく激昂した。あんなふうな彼は、初めてだった。
あの時のカラスの剣幕を思い返し――次いでその後に投げられた彼の台詞がパッと頭によみがえってしまい、巴は思わず両手で熱くなった頬を包む。
『俺もお前のことの方が大事なことなんだよ!』
きっと、カラスは深く考えてあんなことを言ったわけじゃない。
ただ、頭に血がのぼっていたから、巴が口走ったことをそのまま返しただけなのだ。
彼女はそう自分に言い聞かせて頬のほてりを冷まそうと試みた。
そう、巴の行動に対してカラスはとても怒っていたし、後から考えれば、自分のしたことは彼の邪魔をしたに過ぎなかったのだということが判る。丸まった座布団よろしく抱えられているだけの方が、彼にとってはよほどやり易かったに違いない。
だけど、あの時は、考えるよりも先に身体が動いてしまった。
無謀な行動でむしろ彼を危険な目に遭わせてしまったことを、巴は申し訳なく思う。
けれども、その時の怒りを三日も保ち続けるなんて、いささか長過ぎやしないだろうか。
そっとカラスを横目で窺って、巴は小さく息をついた。あまり物事に拘らなさそうに見えて、彼は意外に根に持つ人なのかもしれない。
宿に入ってから一度も外に出ておらず、ずっとカラスと二人きりだった。
むっつりと口を噤んだままの彼と。
「あの――」
意を決して彼に呼びかけようとしたその瞬間、唐突にカラスが立ち上がった。
「行くぞ」
「え?」
キョトンと彼を見上げる巴をよそに、彼は身の回りの物が入った袋と巴の薙刀を掴むと、部屋を出て行こうとする。と思ったら、入口で立ち止まって座り込んだままの彼女を振り返った。
「何してる、さっさとしろ」
何の予兆もない行動にも拘らず当然のようにそう言う彼に、流石に巴もムッとする。立ち上がり、抗議の声を上げようとしたけれど、彼はまた踵を返して今度こそ行ってしまった。
一瞬呆気に取られ、巴は慌ててカラスの後を追う。
一歩踏み出すごとに募っていく怒りを彼にぶつけたくても、歩いていたらなかなか追いつけなかった。屋内を走るだなんて良くないことだったけれど、仕方がない。
カラスが消えた廊下の角を、小走りどころではない速さで曲がって――壁にぶつかった。いや、壁ではない。弾き飛ばされそうになった巴を、すかさず強い腕が支える。それにすがって顔を上げると、心の底から呆れ返っているのを隠しもしない緑の目が彼女を見下ろしていた。
「何やってんだよ、前見てろよ」
巴をしゃんと立たせながらのカラスの台詞は正論で、彼女は頬が熱くなる。けれどその時巴の胸の中に湧き上ったのは、みっともないところを見せてしまった恥ずかしさよりも、勝手過ぎるカラスへの腹立たしさだった。
「あなたが行ってしまわれるから――」
言いかけてカラスの背中に目を走らせた巴は、そこがもう宿の出入り口であることに気付く。彼は彼女を置いていくつもりなどはなからなかったのだ。
(待っていてくれるくらいなら、もう少しゆっくり歩いてくれてもいいのに)
そんなふうに考えて唇を尖らせて、巴はふと気付く。
自分は、最近、むくれてばかりではないだろうかと。
少し前までの彼女は、こんなふうに気持ちを荒立てたりすることがなかった。もっと冷静で、動じない性格だった筈だ。
それなのに今は、カラスの眼差し一つ、指の動き一つで右往左往しているような気がしてならない。
いつから、こんなに変わってしまったのだろう。
憮然とした巴に、彼女の心の内などさっぱり知らないカラスがいとも平然と手を差し伸べる。
「行くぞ。外に出たら俺から離れるなよ」
そんな台詞と共に、巴がその手を取ることを微塵も疑ってはいない、眼差しを向けながら。
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