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第三章:ほんとうの、はじまり
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「もう!」
足早に立ち去って行く一美の背中を見送って、萌はそう声をあげた。
いくらなんでも、横暴すぎる。
夜勤明けでもなんでも、自分の身体のことは自分が一番知っている。別に、大丈夫な筈だったのに。
萌はもう一度コンサート会場に戻ろうかどうしようか、迷う。
一美なんて、知ったことではない。
萌だって一人前の大人なのだから、あんなふうに行動に口を挟まれる筋合いはないではないか。
横を見たら、ガラス戸にクシャリと乱れた髪をした自分の姿が映っている。
これも、一美のせいだ。
「わたし、もう二十歳超えてるんだし!」
自分の面倒も見られない子どもの様な扱いは、納得いかない。
――よし、戻ろう。
そう思った時だった。
ズボンの後ろポケットに入れておいた携帯電話が音もなく振動する。
誰だろうかと思いながら液晶を確認すると、そこには『おかあさん』の文字があった。彼女がそう呼ぶのは、一人だけ――『クスノキの家』の優子だけだ。
どうしたのだろうと訝しみながら、萌は通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「あ、萌?」
耳に優しい温かな声で名前を呼ばれ、先ほどの一件でささくれだってしまった萌の心が凪いでいく。
「どうしたんですか?」
優子はいつも萌のことを気にかけてくれているけれど、それでも、用もないのにこうやって電話をかけてくることなどない。
萌が『クスノキの家』を出てから一年以上が経つ。その一年で、彼女の方からの電話は初めてだった。何かあったのだろうかと、萌の中を不安がよぎる。
が、返ってきたのは苦笑混じりの声だった。
「もう。何もなくても電話くらいするわよ。どうしてるのかなって思って。あなたの方からは連絡をくれないから」
「どうって……元気にしてます。ほら、便りのないのは無事な証拠って、言うじゃないですか」
「そうだけど、たまには声を聴かせてくれてもいいのよ? 夜遅くてもいいんだから」
「あ、はい……」
確かに何か起きたわけではなさそうだけれども、何となく違和感が漂う。優子の声の裏に、何かあるような気がしてならない。
「本当に、何にもないんですよね?」
「いやね、何があるっていうのよ。……それより、あなたの方こそ、変わりはないのよね?」
「ありません。元気にしてます」
「そう……」
しばらく、沈黙。
そして、再び口を開いた優子から出てきたのは、意外な名前だった。
「それならいいけど、何かあったら岩崎さんに相談するのよ?」
「先生、ですか?」
唐突にその名を挙げられ、萌は思わず受話器を耳から離してまじまじと見つめてしまう。
何故、ここで一美の名前が出てくるのだろう。
そんな疑問を、そのまま優子に投げかける。
「何で、先生が出てくるんですか?」
「何故って、今、一番あなたの傍にいてくれる人でしょう? あなたが困っている時、私が傍にいたらいいけれど、遠く離れていたら、何もしてあげられないもの」
「わたし、自分のことは自分でできます」
「ええ、そうね。してしまえるわね。でも、誰かが一緒にいてくれたら、独りでやるよりもつらさは減るわ。岩崎さんだって、あなたが独りで何でもやってしまうより、声をかけてくれた方が嬉しいと思うの」
そんなものだろうか。
萌は首をかしげる。
優子は「おかあさん」だから、そんなふうに言ってくれるのだ。
独りでできることなのにいちいち一美の手を煩わせていたら、それこそ、愛想を尽かされてしまう気がする――きっと、彼は離れていってしまう。
そうは思ったけれど、優子に反論するのも気が引けて、萌は言葉だけでも素直に頷いた。
「……わかりました」
彼女のその返事に、電話の向こうで小さな吐息が聞こえる。
そのため息の意味するところが何なのか――安堵なのか諦めなのか、萌には掴み兼ねた。それを最後に、会話が途切れてしまう。
受話器の向こうの微かな息遣いを耳にしながら萌は何かを言わなければならないと思ったけれど、言葉が見つからない。
やがて、先に口を開いたのは優子の方だった。
「取り敢えず、あなたが元気だというなら、良かったわ。じゃあね、また電話するから、あなたの方からもかけてきてね?」
「はい。ありがとうございます」
「……またね」
そうして、聞こえてくるのはツー、ツーという電子音だけになる。
萌は、電話を閉じてからもしばらくその場に佇んでいた。
一美への反抗心は失せていて、コンサート会場に戻ってやる、という意地めいた気持ちはなくなっている。
いつしかピアノの演奏が微かに耳に届き始め、ようやく萌は歩き出した――ロッカールームの方へ。
そうして、置いておいたバッグをロッカーから出し、ロッカールームを、病院を出て、駅へと向かった。
機械的に足を動かしながら、萌は優子が突然にあんなことを言い出した理由を考える。
(先生に相談しろ、だなんて)
少なくとも、優子に対して弱音は吐かなかった筈。彼女を心配させるようなことは、何も言っていない筈だった。
にも拘らず、優子のあの台詞。
「心配、させた? ……なんで?」
会話を思い返してみても、何がいけなかったのか、判らない。
何だか、一美と優子が被って見えた。
どちらも、先回りして萌の心配をしてばかりだ。そう思うと、少し複雑な気持ちになる。
一美と優子が似ているということは、自分も二人を混同しているのだろうか。
(まさか、わたしは、彼を『おかあさん』として見ているの?)
まさか、そんな、バカな。
そんな筈はない――と思いたい。
慌てて首を振ったけれど、萌の心には何かがズシンと根を下ろす。
自分の気持ちには、何一つ確信が持てないのだ。もしかしたら、本当はそんなふうに思っているのかもしれない。
『クスノキの家』を卒業して、優子との関係を切らなくちゃならなくなったから、一美を代わりにしたのだろうか。
彼には対等な扱いをしてくれと訴えつつ、本当は、すがる相手として彼を求めているのだろうか。
「こんな気持ちで、いいのかな」
思わず自問したけれど、いいわけがない。
それに。
それに、優子から突然出てきた一美の名前。
優子と一美は、萌を『クスノキの家』に迎えに来たあの時しか出会っていない。迎えに来て顔を合わせただけなら、こんなふうに優子の口から彼の名前は出てこないだろう。
ふと、萌は足を止める。後ろから歩いてきた人が迷惑そうによけていったけれど、気もそぞろに頭を下げるしかできなかった。
一美のプロポーズ。家庭なんか要らないと言っていた彼の突然のプロポーズは、あの時だった。
あの日、優子と一美はどんな話をしたのだろう。彼は、どこまで知っているのだろう。
――ああ、そっか。
不意に、萌の中に何かがストンと落ちた。
彼は、全てを聞いたに違いない。萌の生い立ちを。
(きっと、先生は『同情』したんだ)
彼女がどんなふうに扱われてきたかを聞いて、そして同情して、憐れんだ。
『それ』なら彼の言動が理解できる。
「そっか……」
萌は、ポツリとそれだけつぶやいた。
足早に立ち去って行く一美の背中を見送って、萌はそう声をあげた。
いくらなんでも、横暴すぎる。
夜勤明けでもなんでも、自分の身体のことは自分が一番知っている。別に、大丈夫な筈だったのに。
萌はもう一度コンサート会場に戻ろうかどうしようか、迷う。
一美なんて、知ったことではない。
萌だって一人前の大人なのだから、あんなふうに行動に口を挟まれる筋合いはないではないか。
横を見たら、ガラス戸にクシャリと乱れた髪をした自分の姿が映っている。
これも、一美のせいだ。
「わたし、もう二十歳超えてるんだし!」
自分の面倒も見られない子どもの様な扱いは、納得いかない。
――よし、戻ろう。
そう思った時だった。
ズボンの後ろポケットに入れておいた携帯電話が音もなく振動する。
誰だろうかと思いながら液晶を確認すると、そこには『おかあさん』の文字があった。彼女がそう呼ぶのは、一人だけ――『クスノキの家』の優子だけだ。
どうしたのだろうと訝しみながら、萌は通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「あ、萌?」
耳に優しい温かな声で名前を呼ばれ、先ほどの一件でささくれだってしまった萌の心が凪いでいく。
「どうしたんですか?」
優子はいつも萌のことを気にかけてくれているけれど、それでも、用もないのにこうやって電話をかけてくることなどない。
萌が『クスノキの家』を出てから一年以上が経つ。その一年で、彼女の方からの電話は初めてだった。何かあったのだろうかと、萌の中を不安がよぎる。
が、返ってきたのは苦笑混じりの声だった。
「もう。何もなくても電話くらいするわよ。どうしてるのかなって思って。あなたの方からは連絡をくれないから」
「どうって……元気にしてます。ほら、便りのないのは無事な証拠って、言うじゃないですか」
「そうだけど、たまには声を聴かせてくれてもいいのよ? 夜遅くてもいいんだから」
「あ、はい……」
確かに何か起きたわけではなさそうだけれども、何となく違和感が漂う。優子の声の裏に、何かあるような気がしてならない。
「本当に、何にもないんですよね?」
「いやね、何があるっていうのよ。……それより、あなたの方こそ、変わりはないのよね?」
「ありません。元気にしてます」
「そう……」
しばらく、沈黙。
そして、再び口を開いた優子から出てきたのは、意外な名前だった。
「それならいいけど、何かあったら岩崎さんに相談するのよ?」
「先生、ですか?」
唐突にその名を挙げられ、萌は思わず受話器を耳から離してまじまじと見つめてしまう。
何故、ここで一美の名前が出てくるのだろう。
そんな疑問を、そのまま優子に投げかける。
「何で、先生が出てくるんですか?」
「何故って、今、一番あなたの傍にいてくれる人でしょう? あなたが困っている時、私が傍にいたらいいけれど、遠く離れていたら、何もしてあげられないもの」
「わたし、自分のことは自分でできます」
「ええ、そうね。してしまえるわね。でも、誰かが一緒にいてくれたら、独りでやるよりもつらさは減るわ。岩崎さんだって、あなたが独りで何でもやってしまうより、声をかけてくれた方が嬉しいと思うの」
そんなものだろうか。
萌は首をかしげる。
優子は「おかあさん」だから、そんなふうに言ってくれるのだ。
独りでできることなのにいちいち一美の手を煩わせていたら、それこそ、愛想を尽かされてしまう気がする――きっと、彼は離れていってしまう。
そうは思ったけれど、優子に反論するのも気が引けて、萌は言葉だけでも素直に頷いた。
「……わかりました」
彼女のその返事に、電話の向こうで小さな吐息が聞こえる。
そのため息の意味するところが何なのか――安堵なのか諦めなのか、萌には掴み兼ねた。それを最後に、会話が途切れてしまう。
受話器の向こうの微かな息遣いを耳にしながら萌は何かを言わなければならないと思ったけれど、言葉が見つからない。
やがて、先に口を開いたのは優子の方だった。
「取り敢えず、あなたが元気だというなら、良かったわ。じゃあね、また電話するから、あなたの方からもかけてきてね?」
「はい。ありがとうございます」
「……またね」
そうして、聞こえてくるのはツー、ツーという電子音だけになる。
萌は、電話を閉じてからもしばらくその場に佇んでいた。
一美への反抗心は失せていて、コンサート会場に戻ってやる、という意地めいた気持ちはなくなっている。
いつしかピアノの演奏が微かに耳に届き始め、ようやく萌は歩き出した――ロッカールームの方へ。
そうして、置いておいたバッグをロッカーから出し、ロッカールームを、病院を出て、駅へと向かった。
機械的に足を動かしながら、萌は優子が突然にあんなことを言い出した理由を考える。
(先生に相談しろ、だなんて)
少なくとも、優子に対して弱音は吐かなかった筈。彼女を心配させるようなことは、何も言っていない筈だった。
にも拘らず、優子のあの台詞。
「心配、させた? ……なんで?」
会話を思い返してみても、何がいけなかったのか、判らない。
何だか、一美と優子が被って見えた。
どちらも、先回りして萌の心配をしてばかりだ。そう思うと、少し複雑な気持ちになる。
一美と優子が似ているということは、自分も二人を混同しているのだろうか。
(まさか、わたしは、彼を『おかあさん』として見ているの?)
まさか、そんな、バカな。
そんな筈はない――と思いたい。
慌てて首を振ったけれど、萌の心には何かがズシンと根を下ろす。
自分の気持ちには、何一つ確信が持てないのだ。もしかしたら、本当はそんなふうに思っているのかもしれない。
『クスノキの家』を卒業して、優子との関係を切らなくちゃならなくなったから、一美を代わりにしたのだろうか。
彼には対等な扱いをしてくれと訴えつつ、本当は、すがる相手として彼を求めているのだろうか。
「こんな気持ちで、いいのかな」
思わず自問したけれど、いいわけがない。
それに。
それに、優子から突然出てきた一美の名前。
優子と一美は、萌を『クスノキの家』に迎えに来たあの時しか出会っていない。迎えに来て顔を合わせただけなら、こんなふうに優子の口から彼の名前は出てこないだろう。
ふと、萌は足を止める。後ろから歩いてきた人が迷惑そうによけていったけれど、気もそぞろに頭を下げるしかできなかった。
一美のプロポーズ。家庭なんか要らないと言っていた彼の突然のプロポーズは、あの時だった。
あの日、優子と一美はどんな話をしたのだろう。彼は、どこまで知っているのだろう。
――ああ、そっか。
不意に、萌の中に何かがストンと落ちた。
彼は、全てを聞いたに違いない。萌の生い立ちを。
(きっと、先生は『同情』したんだ)
彼女がどんなふうに扱われてきたかを聞いて、そして同情して、憐れんだ。
『それ』なら彼の言動が理解できる。
「そっか……」
萌は、ポツリとそれだけつぶやいた。
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