暗黒神話

トウリン

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変容

一日目の朝

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 目の前に横たわる、華奢な身体。
 ズシリと重い、手の中の銃。
 かすれた、懇願の声。

 ――そして……。


   *


 北海道に到着した翌日の朝。

 一晩ぐっすり眠った筈だが、康平こうへいは何となくだるさの残る身体をもてあましていた。
 何か、眠っている間中、活動し続けていたような感じがする。だが、彼は椅子の上だろうが岩の上だろうが木の上だろうが問題なく眠れるたちだし、そもそも、二晩や三晩なら横にならなくても平気なのだ。

(何だろな……中途半端に身体だけ眠っちまったって感じだな)

 こきこきと首を回していると、隣のベッドで未明みあかが動き出した。

「おはよう」
「はよ」

 すっきりしないのは未明も同様のようで、いつもやたらに朝からテンションが高い彼女なのに、眉間にしわを寄せているし『おはよう』の声にも張りがない。

 旅の疲れなのか、あるいは、この町で起きている現象に巻き込まれたのか。

 朝食も、康平が呆れるほどのチビの大食いの未明が料理を突くばかりで、ほとんど口まで運ぼうとしなかった。

「なんか、クソだりぃな」
 ぼやいた康平に、未明が肩をすくめる。
「多分、シーカイのせいじゃないかな。生で遭ったら、姿見るだけで抜け殻になるから」
「はぁ?」
「ガンドの時は、姿は見えたけどこことは違う次元にいたから大きな影響でなかったんだと思う。あのシーカイは……たぶん、かなり、『近い』。なんていうか、辛うじて薄膜一枚で隔てられてるって感じ」
 そう言って、未明は小さく刻んだ卵焼きを口に入れる。だが、康平は一度見つめた箸を、下ろす。そんなことを言われたら、もともとなかった食欲が余計に失せた。

 康平は食事を摂ることを諦めて、代わりにやけくそのように砂糖を突っ込んだコーヒーを飲み干す。その甘さに顔をしかめながら訊いた。
「じゃあ、アレはこの世界にいるってことか?」
「……いえ、それだったら、このくらいの被害じゃ済まないと思う。とにかく、病院に行ってみよう。眠り込んでるって人たちを見てみたい。でも、その前に栄養補給だよね」

 言うなり未明はガツガツと食事を掻き込み始めた。見るからに楽しむためでなく充填のためという風情で、康平は、自分よりもよほどたくましい奴だと感心する。

 どうにかこうにか午前中いっぱいは動けるだけのエネルギーを摂取した二人は、間を置かず病院へと足を運んだ。

 小さな町だけに入院病床のある病院はなく、もう少し大きな隣町の町立病院にこの眠り病専用の病棟ができているらしい。要は、それだけ多くの人々が被害に遭っているということになる。
 入院したら目を覚ます、というわけではないから、この現象があの化け物のせいだとして、隣町まで行ったら大丈夫ということにはならないようだ。

「ぉッと」

 ホテルを出て二、三歩進んだところで、康平は頭を屈めた。
 そこを、フワリと妙なものがよぎる。それは、猫ほどの大きさがある蚊のような姿をしていた。未明いわく、『シーカイの眷属の影』とのことだ。町のそこかしこで見かけるが、まるでどこかに映写機でもあるかのように突然現れ突然消えるから、余計に気味が悪い。

「基本的にはただの『影』だからヒトには害がない筈なんだけど……弱っているヒトなんかは、影響を受けるかもしれない」

 未明は、スゥッと遠ざかっていくそれを目で追いながらそう言った。

(親玉がグロければ、その子分もグロいな)
 康平が率直な感想を浮かべる。

 その『眷属』とやらは、蚊に似てはいるのだが、口吻は太く、開閉することができるようであり、その中には鋭い歯が見えた。刺すというよりも食いちぎる役割の方が大きそうだ。脚は四本、先には鋭い鉤爪があり、一度捉えられたら二度と放してくれなさそうだ。その背には、透き通った翅がある。姿形もそうだが、そもそも、その大きさからしてえげつない。猫ほどもある昆虫など、よほど虫好きでなければ――いや、いくら虫が好きでも、嫌だろう。
 あんな蚊に食われたくないと、康平は心底から思った。

 病院への道はスムーズで、信号もなく、車を十分も走らせると着くことができた。
 院内はごった返しで、対応に追われているのか、眠り病の病棟はどこかと訊くと二つ返事で教えてくれる。あまりの多さに、急遽二つの病棟を眠り病専用にしたらしい。病棟に入る人間もいちいち確認する余裕がないのか、完全にノーチェックだった。

 康平と未明は、一部屋六床の病室を、一つ一つ覗いていく。
 と、妙なことに気がついた。

「子どもがいない、ね」
 未明の言葉に、康平も頷く。

 明らかに、子どもの数が少ない。十歳以上は時々見かけたが、小学校低学年以下の子どもの姿は数人程度、幼児はおそらく、いない。逆に、高年齢層になればなるほど数を増していた。
 この現象が単純に風力発電施設の低周波によるものだとすれば、加齢による可聴域や低周波に対する感受性の違いによるものなのかもしれない。

 シーカイとやらの影響だとすれば、それはどんな作用によるものなのだろうか。

 患者たちは、点滴だけをつながれ、わずかな身じろぎも見せず、表情一つ変えることなく、昏々と眠っている。
 それは、明らかに不自然な眠りだった。

「何か……イヤな感じ」
 ポツリと未明が呟く。彼女が口にしなければ、康平が同じ台詞を吐いていただろう。

 元々、病院というものは重苦しい雰囲気に包まれているものだろうが、この病棟は、特に圧迫感があった。天井が低いような、空気が実際に重量を持っているような、そんな違和感だ。ベッドの下や部屋の隅など、ちょっとした陰には何かがとぐろを巻いているような気もしてくる。だが、それは『印象』に過ぎず、実際には部屋は充分に明るく、天井は充分に高く、そして物陰にも何も潜んではいない。

 未明はかなりの時間をかけて患者たちを探っていったが、やがて小さく息をついた。

「お手上げ」
「何も判らないのか?」
 尋ねた康平に唇を尖らせた未明がうなずく。

 その後も数人の様子を窺ってはみたが、結局、明らかな収穫はなく、二人は病棟を回り終わってしまった。

「出るか……」
 康平の促しに未明はまだ諦めきれなさそうに病室の方を振り返ったが、粘ってみてもどうにもならないと悟ったのか、小さくかぶりを振る。
「そうね」

 病院の外に出ると、二人は思わず大きな息を吐いた。
「多分、魔術は関わってる。でも、どんな術なのか、よく解らないわ。痕跡のようなものしかないの。シーカイや『眷属』も何らかの影響は及ぼしているとは思うのだけど……直接の害ではない感じ」
 そう言って、未明は黙り込む。

 恐らく、彼女の中には黒幕に心当たりがあるのだろう。だが、それを口にしないのは、康平を立ち入らせない為だ――でき得ることなら、自分ひとりで何とかしようと考えているに違いない。この一ヶ月の経験で、康平にも思い当たる者が思い浮かんだが、半ば意地のようになって、その名を出すことはしなかった。

「風車の方に行ってみるか?」
 話題を変えるように、康平は切り出した。
「そうだね。ここで判ることはあまりなさそうだし」
 頷いた未明は先に立って、独りで歩き出す。
 その背中は、少女の姿だということもあるが、細い。時々彼女の肩を掴んで強く揺さぶってやりたくなるのは何故だろうかと、康平は自問する。イライラするのか、もどかしいのか、自分の方を振り向かせたいのか――。正直言って、自分でもよく解らない。だが、もう何年も感じたことのない感情の揺らぎであることは確かだった。

 彼女は、どこまででも独りで歩いていく――いけるのではないだろうか。実際、これまではずっと独りでいたのだから。

(本当は、俺は別に必要でも何でもない)
 そんなことを考えた康平の足が、止まった。

 遠ざかっていく未明の背中を無言で見送る。
 距離が、どんどん、開いていく。

 と。

 ついて来ない康平に気づいたのか、彼女が振り返った。

「ちょっと、どうしたの? 行かないの?」
 離れた康平を訝しげに見る――一緒に来て当然、と思っている未明の視線を向けられ、彼の胸の中に、何か名状し難い感覚がじんわりと滲み出した。

「行くよ」
 短く答え、歩き出す。

 離れたと思った距離は、数歩で無くなった。
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