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戸惑い①
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食事を終えたクリスティーナは、マクシミリアンに連れられてストレイフの屋敷の中を案内されていた。
ストレイフ家もヴィヴィエ家も、部屋数は同じくらいだと思う。大体の造りも似ているかもしれない。
けれど、その中身は大きく違っていた――色々な意味で。
その違いの一つは、これだ。
「クリスティーナ様、おはようございます」
また、気さくに声をかけられ、クリスティーナはついついビクッとしてしまう。
これで三人目だ。
食堂を出てからいくらも経っていないのに、もう三人のメイドからすれ違いざまに朗らかな挨拶を投げかけられた。
「おはようございます」
小さな声でクリスティーナがそう答えると、クスクスと嬉しそうな笑い声が返ってくる。
最初の時よりはスムーズに応じられたのではないだろうか。
クリスティーナはそう自画自賛し、そっと微笑んだ。
ヴィヴィエ家では使用人から主に声をかけるなど、もっての外だった。モニクでさえ、コデルロスがいるところでは視線も上げなかったくらいだ。
それなのに、このストレイフ家では何の気兼ねもなく気軽にクリスティーナに笑顔を向けてくる。初めこそ戸惑ったけれど、そうされると、彼女は胸の中にふわりと灯りが燈るような心地良さを覚えた。
ヴィヴィエ家にいた頃には一度たりとも覚えたことのなかった浮き立つ気持ちを抱いて、クリスティーナはマクシミリアンと共に廊下を歩く。
ストレイフ家の内装は、華美な装飾がないという点では少しヴィヴィエ家と似ているかもしれない。
どちらも整然としていて実用的だ。
違うのは、ヴィヴィエ家では訪問客の目が入る所には高価な芸術品を惜しみなく展示していたというところだろうか。父が選ぶ作品は華美で高価で、触れることはおろか眺めることすらどこか気が引けてしまうようなものばかりだった。
そして、他人の目があるところには惜しみなく金をかけていた反面、客が立ち入らない、普段使いの家族の居住区には装飾らしい装飾は一切なかった。壁紙やカーテンも地味で汚れが目立たないようなものに統一されて、およそ彩《いろどり》というものがない。
クリスティーナが家に好きな絵を飾りたいと言えば、もしかしたら、コデルロスは応じてくれたのかもしれない。けれど、彼女は、そうする勇気が持てなかったのだ。
ストレイフ家もあまり物が置かれていないけれど、所々、ふと目が寂しくなった時にちょうど視界に入るように、絵画が掛けられたりしている。
それらはどれも、まるで今まさにその場にいるような気持ちにさせてくれる写実的な風景画ばかりだった。コデルロスが作者にこだわるのでクリスティーナもそれなりに芸術には詳しくなったけれど、ストレイフ家にあるものは高名な画家によるものではないように見受けられる。でも、有名ではなくても、皆とても巧みなものばかりだ。
今も、クリスティーナは一枚の絵に目を奪われて足を止める。
「この絵が気に入った?」
立ち止まったクリスティーナの隣に立って、マクシミリアンが微笑みかけてくる。彼女は絵を見つめたまま頷いた。
「マクシミリアンさま……はい。これは――この碧く描かれているのは、海なのでしょう?」
クリスティーナは、指先が触れてしまわないように気を付けながら絵に向けて手を伸ばす。
その絵は、真ん中あたりで緩やかな曲線で上下に分かたれていて、上半分が青い空、そして下半分はそれよりも深い碧が塗られている。画面の手前の方には、ここ、フランジナの首都カンベールの街並みとは全く違う、色鮮やかな建物が密集して描かれていた。
「ああ、これは南の方の港町だな。道端で描いているのを見て気に入ってね」
「きれいな碧ですね。海というのは、本当にこういう色なのですか?」
「あの辺だったらそうだよ。でも、時間帯や天候次第で、変わるんだ。一日中眺めていても飽きないな」
マクシミリアンの説明に、クリスティーナはうっとりとため息をついた。
彼女は遠出をしたことがないから、海も山も森も見たことがない。持っているのは本で得た知識だけだ。
「本物を見てみたい……」
思わずつぶやいたクリスティーナに、気軽な台詞が投げ返される。
「じゃあ、今度行ってみようか。この絵も綺麗だけど、実際に見るともっと綺麗だからね」
「え?」
「それほど遠くもないし、そうだな、五日もあれば向こうで一日ゆっくり過ごせるだろう」
「そんな、ご迷惑をおかけするわけには――」
慌ててクリスティーナがかぶりを振ると、マクシミリアンはにっこりと笑顔を返してきた。
「迷惑なんてことはないよ。私もそろそろ休暇を取りたいと思っていたところだ。新婚旅行がてら行ってみようか」
「でも……」
「そんなに私と出かけるのが嫌かい?」
眉尻を下げてそう問われ、クリスティーナは慌ててかぶりを振る。
「嫌、だなんて、そんなことありません」
「なら行こう。私は貴女を喜ばせたくて仕方がないんだよ? ティナがチラリと微笑んでくれるだけで、私は天にも昇る気持ちになれるんだ。どうしたら笑ってくれるだろうかと考えていると、夜も眠れなくなる」
大仰なマクシミリアンの冗談に、クリスティーナは思わずクスリと笑みを漏らした。と、釣られたように彼もにっこりと笑う。
「ほら、貴女はどんな表情でも可愛らしいけれど、やっぱり笑顔が一番いいね」
手放しでそんなことを言われて、彼女はどんな顔をしたら良いのか判らなくなってしまう。
マクシミリアンの視線から熱くなった頬を隠すように顔を伏せると、またクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。チラリと目だけを上げたクリスティーナは、彼と視線が合ってしまって慌ててまた床を見つめる。
「そんなふうに恥じらう貴女は、食べてしまいたくなってしまうな」
笑みを含んだマクシミリアンのその台詞に、クリスティーナの頬はもう炎が噴き出しそうだ。
二進も三進もいかなくなったクリスティーナがどうしようもなく固まっていると、不意にマクシミリアンがヒョイと身体を屈めた。そうしてサッとかすめるようなキスを彼女の頬に残して、一歩離れる。
「さあ、貴女の愛らしいところも堪能したし、そろそろ先に行こうか?」
「……」
喉が引きつって声が出せないクリスティーナは、黙ったままでこくりと頷いた。彼のこういう言葉は、いったいどこまで本気なのか判らなくて困ってしまう。
そんなクリスティーナにマクシミリアンは喉を鳴らすようにしてまた笑い、そして彼女に呼びかける。
「ねえ、ティナ」
それまでのからかうような響きはすっかり鳴りを潜めた声に、彼女は引き寄せられるように顔を上げた。
少しクリスティーナから距離を取ったマクシミリアンは、真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
「私を含めてこの屋敷の者は皆、ティナにここで楽しく幸せに暮らして欲しいと思っているんだ」
その声からは、彼が心からそう言ってくれているのだということが伝わってくる。政略結婚で、いわば父の事業のおまけのような存在である自分にそこまで心を砕いてくれていることに、クリスティーナは嬉しさも覚えたが同時にそれと同じほどの戸惑いも抱いた。
目をしばたたかせた彼女に、マクシミリアンが微笑む。また、少しからかうような色をその目に浮かべて。
「だからうちの連中はちょっとうっとうしいほど手出し口出ししてくるんだよ。早く慣れた方がいい。彼らにも笑顔を見せてやると喜ぶとは思うけど、できたらそれは私だけの特権にしておいて欲しいね……アルマンにも、あんまり愛想良くすると妬いてしまうよ?」
これもやっぱり、からかっているだけに違いない。
こんな軽い戯れにもうまく返せない自分を情けなく思いながら押し黙っているクリスティーナに、マクシミリアンは笑みを深くした。
その微笑みからはいつもとはどこか違う温もりが確かに感じられて、クリスティーナは思わず彼を見つめてしまう。
マクシミリアンは少し首をかしげてクリスティーナを見返してきたかと思うと、片手を持ち上げ彼女の頬をそっと包み込んだ。彼の暗緑色の瞳が、いっそう深みを増す。
(吸い込まれてしまいそう)
彼の手が触れていたのはほんの一瞬、とても短い間のことで、クリスティーナがそんなふうに思った時にはもう離れていた。
「さあ、それじゃあ一番見せたいところに行くとしよう」
マクシミリアンは何事もなかったかのようにそう言って、促すように手を巡らせる。
「一番?」
「そう」
彼は頷きクリスティーナを誘った。彼女の足取りに合わせて廊下を進み、やがて一枚の扉の前で立ち止まる。彼女の記憶違いでなければ、隣が昨夜過ごした夫婦の寝室のはずだ。
「ここ、ですか?」
マクシミリアンを振り返って尋ねると、彼は得意げに頷いた。
「そう。さあ、どうぞ。お入りください」
もったいぶったその言葉と共に彼が扉を開ける。
促されるままに戸をくぐったクリスティーナは、部屋を一望するなり立ち止まった。
「まあ」
目を瞠ってそうこぼしたきり、言葉が続かない。
広さは、それほどではない。これまで見てきた他の部屋と比べたら、こじんまりしている、と言っても良いくらい。
クリスティーナが目を奪われたのは、その内装だ。それは、この屋敷のどの部屋とも趣を違えていた。
基本的に、このストレイフ家の雰囲気は品よく落ち着いているけれども実用的で男性的なものに統一されている。
その中で異彩を放つこの部屋は、一言で表すならば、可憐、だった。
基調は淡い薔薇色だ。そこに、クリスティーナの目の色によく似た優しい水色がところどころに配置されている――例えば、壁紙に散る小花やカーテン、ソファのクッションというように。書き物机や椅子、鏡台など、白い家具には統一感のある彫刻が施され、とても可愛らしくて品があった。
「取り敢えず、貴女を想いながら整えたんだ。自画自賛になるけれど、貴女がこの部屋に佇んでいるところは一枚の絵のようだよ。ああ、でも、何か希望があれば、言って欲しい」
「希望?」
「そう。貴女の好きなように変えたらいい」
「好きなように、って……」
クリスティーナはもう一度部屋を見渡した。
この部屋を変えるなど、もったいなくてできそうにない。
「わたくし……なんて申し上げたらいいか……」
「気に入った?」
「はい、とても」
「そう。なら、お礼が欲しいな」
「お礼? わたくしにできることなら良いのですが」
クリスティーナにできることなど、たかが知れている。
ためらいがちに目で問いかけると、マクシミリアンはにっこりと笑い返してきた。
「ティナにしかできないことだよ」
「何でしょう?」
「キス」
その短い一言に、クリスティーナはポカンと目と口を丸くした。
「……え?」
問い返したわけではない。
ただ、あまりに理解不能でそんな声が漏れてしまっただけだ。
けれど、そんなクリスティーナにマクシミリアンは律儀に繰り返してくれる――もう少し、言葉を足して。
「ティナからのキスが欲しい」
微笑みながら当然のようにそう乞われ、今度こそ、クリスティーナはピシリと固まった。
ストレイフ家もヴィヴィエ家も、部屋数は同じくらいだと思う。大体の造りも似ているかもしれない。
けれど、その中身は大きく違っていた――色々な意味で。
その違いの一つは、これだ。
「クリスティーナ様、おはようございます」
また、気さくに声をかけられ、クリスティーナはついついビクッとしてしまう。
これで三人目だ。
食堂を出てからいくらも経っていないのに、もう三人のメイドからすれ違いざまに朗らかな挨拶を投げかけられた。
「おはようございます」
小さな声でクリスティーナがそう答えると、クスクスと嬉しそうな笑い声が返ってくる。
最初の時よりはスムーズに応じられたのではないだろうか。
クリスティーナはそう自画自賛し、そっと微笑んだ。
ヴィヴィエ家では使用人から主に声をかけるなど、もっての外だった。モニクでさえ、コデルロスがいるところでは視線も上げなかったくらいだ。
それなのに、このストレイフ家では何の気兼ねもなく気軽にクリスティーナに笑顔を向けてくる。初めこそ戸惑ったけれど、そうされると、彼女は胸の中にふわりと灯りが燈るような心地良さを覚えた。
ヴィヴィエ家にいた頃には一度たりとも覚えたことのなかった浮き立つ気持ちを抱いて、クリスティーナはマクシミリアンと共に廊下を歩く。
ストレイフ家の内装は、華美な装飾がないという点では少しヴィヴィエ家と似ているかもしれない。
どちらも整然としていて実用的だ。
違うのは、ヴィヴィエ家では訪問客の目が入る所には高価な芸術品を惜しみなく展示していたというところだろうか。父が選ぶ作品は華美で高価で、触れることはおろか眺めることすらどこか気が引けてしまうようなものばかりだった。
そして、他人の目があるところには惜しみなく金をかけていた反面、客が立ち入らない、普段使いの家族の居住区には装飾らしい装飾は一切なかった。壁紙やカーテンも地味で汚れが目立たないようなものに統一されて、およそ彩《いろどり》というものがない。
クリスティーナが家に好きな絵を飾りたいと言えば、もしかしたら、コデルロスは応じてくれたのかもしれない。けれど、彼女は、そうする勇気が持てなかったのだ。
ストレイフ家もあまり物が置かれていないけれど、所々、ふと目が寂しくなった時にちょうど視界に入るように、絵画が掛けられたりしている。
それらはどれも、まるで今まさにその場にいるような気持ちにさせてくれる写実的な風景画ばかりだった。コデルロスが作者にこだわるのでクリスティーナもそれなりに芸術には詳しくなったけれど、ストレイフ家にあるものは高名な画家によるものではないように見受けられる。でも、有名ではなくても、皆とても巧みなものばかりだ。
今も、クリスティーナは一枚の絵に目を奪われて足を止める。
「この絵が気に入った?」
立ち止まったクリスティーナの隣に立って、マクシミリアンが微笑みかけてくる。彼女は絵を見つめたまま頷いた。
「マクシミリアンさま……はい。これは――この碧く描かれているのは、海なのでしょう?」
クリスティーナは、指先が触れてしまわないように気を付けながら絵に向けて手を伸ばす。
その絵は、真ん中あたりで緩やかな曲線で上下に分かたれていて、上半分が青い空、そして下半分はそれよりも深い碧が塗られている。画面の手前の方には、ここ、フランジナの首都カンベールの街並みとは全く違う、色鮮やかな建物が密集して描かれていた。
「ああ、これは南の方の港町だな。道端で描いているのを見て気に入ってね」
「きれいな碧ですね。海というのは、本当にこういう色なのですか?」
「あの辺だったらそうだよ。でも、時間帯や天候次第で、変わるんだ。一日中眺めていても飽きないな」
マクシミリアンの説明に、クリスティーナはうっとりとため息をついた。
彼女は遠出をしたことがないから、海も山も森も見たことがない。持っているのは本で得た知識だけだ。
「本物を見てみたい……」
思わずつぶやいたクリスティーナに、気軽な台詞が投げ返される。
「じゃあ、今度行ってみようか。この絵も綺麗だけど、実際に見るともっと綺麗だからね」
「え?」
「それほど遠くもないし、そうだな、五日もあれば向こうで一日ゆっくり過ごせるだろう」
「そんな、ご迷惑をおかけするわけには――」
慌ててクリスティーナがかぶりを振ると、マクシミリアンはにっこりと笑顔を返してきた。
「迷惑なんてことはないよ。私もそろそろ休暇を取りたいと思っていたところだ。新婚旅行がてら行ってみようか」
「でも……」
「そんなに私と出かけるのが嫌かい?」
眉尻を下げてそう問われ、クリスティーナは慌ててかぶりを振る。
「嫌、だなんて、そんなことありません」
「なら行こう。私は貴女を喜ばせたくて仕方がないんだよ? ティナがチラリと微笑んでくれるだけで、私は天にも昇る気持ちになれるんだ。どうしたら笑ってくれるだろうかと考えていると、夜も眠れなくなる」
大仰なマクシミリアンの冗談に、クリスティーナは思わずクスリと笑みを漏らした。と、釣られたように彼もにっこりと笑う。
「ほら、貴女はどんな表情でも可愛らしいけれど、やっぱり笑顔が一番いいね」
手放しでそんなことを言われて、彼女はどんな顔をしたら良いのか判らなくなってしまう。
マクシミリアンの視線から熱くなった頬を隠すように顔を伏せると、またクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。チラリと目だけを上げたクリスティーナは、彼と視線が合ってしまって慌ててまた床を見つめる。
「そんなふうに恥じらう貴女は、食べてしまいたくなってしまうな」
笑みを含んだマクシミリアンのその台詞に、クリスティーナの頬はもう炎が噴き出しそうだ。
二進も三進もいかなくなったクリスティーナがどうしようもなく固まっていると、不意にマクシミリアンがヒョイと身体を屈めた。そうしてサッとかすめるようなキスを彼女の頬に残して、一歩離れる。
「さあ、貴女の愛らしいところも堪能したし、そろそろ先に行こうか?」
「……」
喉が引きつって声が出せないクリスティーナは、黙ったままでこくりと頷いた。彼のこういう言葉は、いったいどこまで本気なのか判らなくて困ってしまう。
そんなクリスティーナにマクシミリアンは喉を鳴らすようにしてまた笑い、そして彼女に呼びかける。
「ねえ、ティナ」
それまでのからかうような響きはすっかり鳴りを潜めた声に、彼女は引き寄せられるように顔を上げた。
少しクリスティーナから距離を取ったマクシミリアンは、真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
「私を含めてこの屋敷の者は皆、ティナにここで楽しく幸せに暮らして欲しいと思っているんだ」
その声からは、彼が心からそう言ってくれているのだということが伝わってくる。政略結婚で、いわば父の事業のおまけのような存在である自分にそこまで心を砕いてくれていることに、クリスティーナは嬉しさも覚えたが同時にそれと同じほどの戸惑いも抱いた。
目をしばたたかせた彼女に、マクシミリアンが微笑む。また、少しからかうような色をその目に浮かべて。
「だからうちの連中はちょっとうっとうしいほど手出し口出ししてくるんだよ。早く慣れた方がいい。彼らにも笑顔を見せてやると喜ぶとは思うけど、できたらそれは私だけの特権にしておいて欲しいね……アルマンにも、あんまり愛想良くすると妬いてしまうよ?」
これもやっぱり、からかっているだけに違いない。
こんな軽い戯れにもうまく返せない自分を情けなく思いながら押し黙っているクリスティーナに、マクシミリアンは笑みを深くした。
その微笑みからはいつもとはどこか違う温もりが確かに感じられて、クリスティーナは思わず彼を見つめてしまう。
マクシミリアンは少し首をかしげてクリスティーナを見返してきたかと思うと、片手を持ち上げ彼女の頬をそっと包み込んだ。彼の暗緑色の瞳が、いっそう深みを増す。
(吸い込まれてしまいそう)
彼の手が触れていたのはほんの一瞬、とても短い間のことで、クリスティーナがそんなふうに思った時にはもう離れていた。
「さあ、それじゃあ一番見せたいところに行くとしよう」
マクシミリアンは何事もなかったかのようにそう言って、促すように手を巡らせる。
「一番?」
「そう」
彼は頷きクリスティーナを誘った。彼女の足取りに合わせて廊下を進み、やがて一枚の扉の前で立ち止まる。彼女の記憶違いでなければ、隣が昨夜過ごした夫婦の寝室のはずだ。
「ここ、ですか?」
マクシミリアンを振り返って尋ねると、彼は得意げに頷いた。
「そう。さあ、どうぞ。お入りください」
もったいぶったその言葉と共に彼が扉を開ける。
促されるままに戸をくぐったクリスティーナは、部屋を一望するなり立ち止まった。
「まあ」
目を瞠ってそうこぼしたきり、言葉が続かない。
広さは、それほどではない。これまで見てきた他の部屋と比べたら、こじんまりしている、と言っても良いくらい。
クリスティーナが目を奪われたのは、その内装だ。それは、この屋敷のどの部屋とも趣を違えていた。
基本的に、このストレイフ家の雰囲気は品よく落ち着いているけれども実用的で男性的なものに統一されている。
その中で異彩を放つこの部屋は、一言で表すならば、可憐、だった。
基調は淡い薔薇色だ。そこに、クリスティーナの目の色によく似た優しい水色がところどころに配置されている――例えば、壁紙に散る小花やカーテン、ソファのクッションというように。書き物机や椅子、鏡台など、白い家具には統一感のある彫刻が施され、とても可愛らしくて品があった。
「取り敢えず、貴女を想いながら整えたんだ。自画自賛になるけれど、貴女がこの部屋に佇んでいるところは一枚の絵のようだよ。ああ、でも、何か希望があれば、言って欲しい」
「希望?」
「そう。貴女の好きなように変えたらいい」
「好きなように、って……」
クリスティーナはもう一度部屋を見渡した。
この部屋を変えるなど、もったいなくてできそうにない。
「わたくし……なんて申し上げたらいいか……」
「気に入った?」
「はい、とても」
「そう。なら、お礼が欲しいな」
「お礼? わたくしにできることなら良いのですが」
クリスティーナにできることなど、たかが知れている。
ためらいがちに目で問いかけると、マクシミリアンはにっこりと笑い返してきた。
「ティナにしかできないことだよ」
「何でしょう?」
「キス」
その短い一言に、クリスティーナはポカンと目と口を丸くした。
「……え?」
問い返したわけではない。
ただ、あまりに理解不能でそんな声が漏れてしまっただけだ。
けれど、そんなクリスティーナにマクシミリアンは律儀に繰り返してくれる――もう少し、言葉を足して。
「ティナからのキスが欲しい」
微笑みながら当然のようにそう乞われ、今度こそ、クリスティーナはピシリと固まった。
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