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エピローグ
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目を開けて、まず入ってきたのは、この世で最も美しいものだった。
クリスティーナ・ストレイフ。
彼の妻。
――狂おしいほど愛おしい、彼の妻。
マクシミリアンはそっと手を伸ばし、仄かに上気した頬にこぼれた淡い金髪をひと房取る。触れれば確かに本物で、これが夢ではないことを教えてくれる。
我慢できずに、彼は彼女を起こさないように細心の注意を払って手にしたそれを引き寄せ、口付ける。
と、その気配を感じたかのように、クリスティーナの睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと目蓋が持ち上がり、晴れ渡る春の空を思わせる澄んだ青が現れる。
目が合って、彼女はふわりと微笑んだ。
けれど、次の瞬間その笑みは淡雪のように消え去り、代わりにその両目から水晶の粒のような涙がほろほろといくつも転げ落ちる。
「ティナ!?」
思わずガバリとはね起きたマクシミリアンは、狼狽も露わにクリスティーナの頬に手を伸ばす。
彼女の涙の理由に、思い当たるのは一つしかない。
「どこか痛い? そんなに、辛かった?」
初めてのクリスティーナに、持ち得る限りの気遣いを、払ったつもりだった。けれど、まだ足りなかったのかもしれない。
「すまない。できる限り、貴女に苦痛がないようにと――」
おろおろと謝るマクシミリアンの唇に、そっと、優しい指が押し当てられる。
「違います、マクシミリアンさま。昨晩は、とても素敵でした」
彼女が浮かべる微笑みに、偽りはないように思われた。
マクシミリアンは唇に置かれた彼女の手を取り、彼の方から口付ける。触れさせたまま、眉をひそめた。
「では、何故、泣いたの?」
クリスティーナが瞬きすると、睫毛の先に残っていた雫が散る。それをキスでキレイに拭い去りたい気持ちをこらえながら、マクシミリアンは彼女の返事を待った。
すん、と、クリスティーナは小さく鼻をすする。泣いて、微かに赤くなったそれも、愛らしい。
彼女は小さく微笑んで、言う。
「昨晩が、素敵だったからです。わたくしにとっては夢のように思えたことだったのに、マクシミリアンさまやお母さまには、とてもつらいことだったのかと……そう思ったら、悲しくなって」
マクシミリアンは、思わず息を詰めた。
もう衝動を堪えることはできなくて、彼はクリスティーナの腕を掴んで引き寄せる。
力加減もできずにギュゥと抱き締めるとピタリと触れ合う肌が心地良くて、理性が飛びそうになった。それをかろうじて引き留め、呻くように囁く。
「昨日の夜から、私にとっても『夢のよう』なことに変わったよ。もう、昔のことなど欠片も思い出せないほどに。私の中には、ティナの温もりしか、残っていないんだ」
嘘偽りなく心の底からそう言えば、クリスティーナの頭がコトンと彼の肩に落ちてきた。
ホゥ、と彼女がこぼした吐息が、鎖骨の辺りをくすぐる。
「それなら、良かったです」
昨晩初めて素肌を触れ合わせたばかりだというのに、今のクリスティーナは寛ぎきっていた。完全に己を委ねてくれる彼女に、マクシミリアンの中にはまた愛おしさが込み上げてくる。
温かく柔らかな身体を抱き締めているだけでも指の先まで満ちていく幸福感と満足感に、マクシミリアンが浸りきっているときだった。
不意にクリスティーナが彼の胸に手を置いて、ガバリと身を起こす。
「お母さまは、どうされてるのでしょう」
突然現実に引き戻されて、マクシミリアンは目をしばたたかせた。そうして、にっこりと微笑む。
「大丈夫、落ち着いているとモニクは言っていたから」
彼の答えにクリスティーナはホッと表情を緩め、次いで、眉根を寄せた。
「どうして、ご存じなのですか?」
その眉間に寄った小さなしわにキスをして、答える。
「ティナが眠った後に、様子を見に行ったからだよ」
昨晩、気を失うように眠りに落ちた彼女を一瞬たりとも手放したくはなかったけれども、目覚めたら必ずエリーゼのことを言い出すだろうと思って確かめておいたのだ。
「そうですか……良かった」
嬉しそうに笑みを浮かべたクリスティーナだったけれども、またすぐにその顔が曇る。
今度も、彼女が何を考えているかなど、マクシミリアンには手に取るように判った。
「アラン・ヴィヴィエなら、私の船に送り込むよ」
「え?」
「気になるのだろう?」
クリスティーナは少しためらって、頷く。
「はい。でも、良いのですか?」
「三年は船から降ろさないよ。手元にカードもサイコロも酒もなければ、嫌でも矯正されるだろう」
それは何も、アラン・ヴィヴィエの為ではない。
手を打たなければ、クリスティーナの心の一部は、常に彼の為に割かれることになるからだ。マクシミリアンの監督下にあると知っていれば、彼女はあのくだらない異母兄のことを気に病まずに済む。
三年経っても彼があのまま変わらない、ということも有り得るが――船の上では、色々なことが起きるのだ。
そう、色々なことが。
手の打ちようはいくらでもあった。
ひっそり微笑むマクシミリアンに、クリスティーナは満面の笑みをくれる。
「ありがとうございます」
屈託のないその笑顔は輝かんばかりで、長い間、マクシミリアンが求めてやまなかったものだった。圧倒的されるほどの愛おしさが込み上げて、彼は両手でそれを包み込む。
「お礼は、貴女からのキスでいいよ」
いたずら心半分、本気半分で掠れる声で囁くと、手の中の柔らかな肌が熱を帯びた。
クリスティーナは束の間ためらい、そして言う。
「放してくださらなければ、できません」
ボソボソと消え入りそうな声に、マクシミリアンは破顔する。そうして、彼女を解放してやった。
クリスティーナはマクシミリアンの肩に手を置いて、身を乗り出す。
触れたのは、ほんの一瞬。
パッと離れたクリスティーナに、マクシミリアンは眉を上げた。
「それだけ?」
「ッ――練習、します」
それまで以上に頬を染めながらそう言ったクリスティーナを、間髪入れず、マクシミリアンは、腕の中に引き寄せた。そして、愛おしさの分だけ、きつく抱き締める。
彼の望む全てが、今、ここにある。
クリスティーナは言った。
過去の彼があって、今の彼があるならば、過去の彼さえも受け入れよう、と。
そう、かもしれない。
今、こうやってクリスティーナを抱き締めていられるのであるならば、それがたとえどれほど忌むべきものであったとしても、かつての時は、マクシミリアンにとって必要なものだったのだ。
「マクシミリアンさま?」
無意識に腕に力がこもったのを感じたのか、クリスティーナが顔を上げる。
その唇にそっとキスを落として、彼は小さくかぶりを振った。
「何でもないよ。ただ――どうしようもなく、幸せなんだ。幸せでたまらないんだ。貴女をこうやって抱き締めていると」
マクシミリアンの返事に、クリスティーナの身体から力が抜ける。全てを委ねてくる温もりを抱き締めて、彼は静かに目を閉じた。
クリスティーナ・ストレイフ。
彼の妻。
――狂おしいほど愛おしい、彼の妻。
マクシミリアンはそっと手を伸ばし、仄かに上気した頬にこぼれた淡い金髪をひと房取る。触れれば確かに本物で、これが夢ではないことを教えてくれる。
我慢できずに、彼は彼女を起こさないように細心の注意を払って手にしたそれを引き寄せ、口付ける。
と、その気配を感じたかのように、クリスティーナの睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと目蓋が持ち上がり、晴れ渡る春の空を思わせる澄んだ青が現れる。
目が合って、彼女はふわりと微笑んだ。
けれど、次の瞬間その笑みは淡雪のように消え去り、代わりにその両目から水晶の粒のような涙がほろほろといくつも転げ落ちる。
「ティナ!?」
思わずガバリとはね起きたマクシミリアンは、狼狽も露わにクリスティーナの頬に手を伸ばす。
彼女の涙の理由に、思い当たるのは一つしかない。
「どこか痛い? そんなに、辛かった?」
初めてのクリスティーナに、持ち得る限りの気遣いを、払ったつもりだった。けれど、まだ足りなかったのかもしれない。
「すまない。できる限り、貴女に苦痛がないようにと――」
おろおろと謝るマクシミリアンの唇に、そっと、優しい指が押し当てられる。
「違います、マクシミリアンさま。昨晩は、とても素敵でした」
彼女が浮かべる微笑みに、偽りはないように思われた。
マクシミリアンは唇に置かれた彼女の手を取り、彼の方から口付ける。触れさせたまま、眉をひそめた。
「では、何故、泣いたの?」
クリスティーナが瞬きすると、睫毛の先に残っていた雫が散る。それをキスでキレイに拭い去りたい気持ちをこらえながら、マクシミリアンは彼女の返事を待った。
すん、と、クリスティーナは小さく鼻をすする。泣いて、微かに赤くなったそれも、愛らしい。
彼女は小さく微笑んで、言う。
「昨晩が、素敵だったからです。わたくしにとっては夢のように思えたことだったのに、マクシミリアンさまやお母さまには、とてもつらいことだったのかと……そう思ったら、悲しくなって」
マクシミリアンは、思わず息を詰めた。
もう衝動を堪えることはできなくて、彼はクリスティーナの腕を掴んで引き寄せる。
力加減もできずにギュゥと抱き締めるとピタリと触れ合う肌が心地良くて、理性が飛びそうになった。それをかろうじて引き留め、呻くように囁く。
「昨日の夜から、私にとっても『夢のよう』なことに変わったよ。もう、昔のことなど欠片も思い出せないほどに。私の中には、ティナの温もりしか、残っていないんだ」
嘘偽りなく心の底からそう言えば、クリスティーナの頭がコトンと彼の肩に落ちてきた。
ホゥ、と彼女がこぼした吐息が、鎖骨の辺りをくすぐる。
「それなら、良かったです」
昨晩初めて素肌を触れ合わせたばかりだというのに、今のクリスティーナは寛ぎきっていた。完全に己を委ねてくれる彼女に、マクシミリアンの中にはまた愛おしさが込み上げてくる。
温かく柔らかな身体を抱き締めているだけでも指の先まで満ちていく幸福感と満足感に、マクシミリアンが浸りきっているときだった。
不意にクリスティーナが彼の胸に手を置いて、ガバリと身を起こす。
「お母さまは、どうされてるのでしょう」
突然現実に引き戻されて、マクシミリアンは目をしばたたかせた。そうして、にっこりと微笑む。
「大丈夫、落ち着いているとモニクは言っていたから」
彼の答えにクリスティーナはホッと表情を緩め、次いで、眉根を寄せた。
「どうして、ご存じなのですか?」
その眉間に寄った小さなしわにキスをして、答える。
「ティナが眠った後に、様子を見に行ったからだよ」
昨晩、気を失うように眠りに落ちた彼女を一瞬たりとも手放したくはなかったけれども、目覚めたら必ずエリーゼのことを言い出すだろうと思って確かめておいたのだ。
「そうですか……良かった」
嬉しそうに笑みを浮かべたクリスティーナだったけれども、またすぐにその顔が曇る。
今度も、彼女が何を考えているかなど、マクシミリアンには手に取るように判った。
「アラン・ヴィヴィエなら、私の船に送り込むよ」
「え?」
「気になるのだろう?」
クリスティーナは少しためらって、頷く。
「はい。でも、良いのですか?」
「三年は船から降ろさないよ。手元にカードもサイコロも酒もなければ、嫌でも矯正されるだろう」
それは何も、アラン・ヴィヴィエの為ではない。
手を打たなければ、クリスティーナの心の一部は、常に彼の為に割かれることになるからだ。マクシミリアンの監督下にあると知っていれば、彼女はあのくだらない異母兄のことを気に病まずに済む。
三年経っても彼があのまま変わらない、ということも有り得るが――船の上では、色々なことが起きるのだ。
そう、色々なことが。
手の打ちようはいくらでもあった。
ひっそり微笑むマクシミリアンに、クリスティーナは満面の笑みをくれる。
「ありがとうございます」
屈託のないその笑顔は輝かんばかりで、長い間、マクシミリアンが求めてやまなかったものだった。圧倒的されるほどの愛おしさが込み上げて、彼は両手でそれを包み込む。
「お礼は、貴女からのキスでいいよ」
いたずら心半分、本気半分で掠れる声で囁くと、手の中の柔らかな肌が熱を帯びた。
クリスティーナは束の間ためらい、そして言う。
「放してくださらなければ、できません」
ボソボソと消え入りそうな声に、マクシミリアンは破顔する。そうして、彼女を解放してやった。
クリスティーナはマクシミリアンの肩に手を置いて、身を乗り出す。
触れたのは、ほんの一瞬。
パッと離れたクリスティーナに、マクシミリアンは眉を上げた。
「それだけ?」
「ッ――練習、します」
それまで以上に頬を染めながらそう言ったクリスティーナを、間髪入れず、マクシミリアンは、腕の中に引き寄せた。そして、愛おしさの分だけ、きつく抱き締める。
彼の望む全てが、今、ここにある。
クリスティーナは言った。
過去の彼があって、今の彼があるならば、過去の彼さえも受け入れよう、と。
そう、かもしれない。
今、こうやってクリスティーナを抱き締めていられるのであるならば、それがたとえどれほど忌むべきものであったとしても、かつての時は、マクシミリアンにとって必要なものだったのだ。
「マクシミリアンさま?」
無意識に腕に力がこもったのを感じたのか、クリスティーナが顔を上げる。
その唇にそっとキスを落として、彼は小さくかぶりを振った。
「何でもないよ。ただ――どうしようもなく、幸せなんだ。幸せでたまらないんだ。貴女をこうやって抱き締めていると」
マクシミリアンの返事に、クリスティーナの身体から力が抜ける。全てを委ねてくる温もりを抱き締めて、彼は静かに目を閉じた。
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