難攻不落のお姫様~舘家の三兄弟②~

トウリン

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SS:確信犯

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 すっかり暗くなってしまった。
 その日雛姫ひなきは委員会の集まりがあって、廊下の窓から外を眺めながら、賢人けんと小春こはるが待つ教室へと急ぎ足で向かっていた。
 遅くなるから帰っていいと言っておいたけれども、二人ともニッコリ笑うだけで頷いてはいなかったから、きっと残っているはずだ。
 申し訳ないなと思いつつも、そうしてくれるのは、やっぱり、嬉しい。

 二年生ももう三学期で、二週間後の期末テストが終わったら、あっという間に三年生になってしまう。
(また小春ちゃんと……舘くんと、一緒になれたらいいな)
 小春とは卒業しても会うだろうけれど、賢人とは、多分、ない。高校を出てしまったら、彼との接点はなくなるだろう。
 だからこそ。
(最後の一年間は、一緒に過ごしたいな)
 そんなことを考えていた時だった。
 雛姫のクラスまであと扉三枚、というあたりまで近づいたところで中の会話が漏れ聞こえてきて、何となく、足を止めてしまう。

「お前、このままじゃ本気で留年するぞ?」
 この声は、数学教師だ。
 そして、それに応えるのは――
「大丈夫ですよ。余裕です」
 ――賢人、だ。

(留年……?)
 雛姫は眉根を寄せた。
 これまで追試や補習は免れてきたようだけれども、彼があまり勉強は得意でないことは知っている。
(でも)
 留年。
 そんなことになれば、一緒のクラスどころの話ではなくなってしまう。

「とにかく、この期末はちょっと気合入れろよ」
 雛姫の耳にそんな台詞が届き、クラスから教師が出てきて、雛姫と反対の方向へと去っていった。

 留年、なんて。
 呆然としたまま雛姫は再び歩き出し、教室に足を踏み入れる。

「雛姫ちゃん、終わったんだ?」
 パッと振り返ってそう言ったのは小春だ。
「あ、うん、待っていてくれてありがと……」
 答えながら彼女の隣にいる賢人に目を遣ると、彼は満面の笑みを投げてよこす。
「お疲れさん」
 晴れやかなその様子に、『留年』という言葉を聞かされた名残はない。
「ありがとう。あの、今、先生、留年って言ってたけど……?」
 おずおずと切り出した雛姫の前で、賢人と小春が顔を見合わせた。そして、賢人が雛姫に目を戻す。
「ああ、あれ聞こえた?」
「ホント、なの?」
「ん? ま、大丈夫っしょ」
 のほほんとしたその声には緊迫感の欠片もない。
「えっと、二学期って、何点だったの?」
 訊ねた雛姫に、賢人がつらつらと答える。
 その数値に、雛姫は愕然とした。まさに、ギリギリ、だ。

「期末テスト、がんばろ?」
 思わず彼に詰め寄った雛姫に、賢人は目をしばたたかせる。次いで、笑った。
「じゃあ、頑張ったらなんかご褒美くれる?」
「ご褒美?」
「そ。オレ、目先にご褒美ぶら下げてもらえないと、頑張れないタイプだから」
 首をかしげてそう言った賢人に、雛姫は頷く。彼がやる気を出してくれるなら、できる限りの協力はしたい。
「いいよ、何がいい?」
「キス」

「……え?」
 今、何かとんでもない言葉が耳に飛び込んできたような気がしたけれど、聞き間違えだろうか。

 眉をひそめた雛姫の前で、賢人が言う。
「何点取ったら、っていうのは雛姫が決めていいよ。その点数クリアした科目ごとにキスひとつって、どう?」
 どう、と言われても。
 即座には頷けない提案に固まっていると、賢人は屈託なく笑う。
「大丈夫、服に隠れているところにはしないし、当然、唇もなし」
 今は冬服だし、賢人が言うのは、手とか、そういうところだろうか。

(それなら……)
 恥ずかしいことには変わりがないけれど、それで高校生活最後の一年間を彼と過ごせるのなら。
「うん、いいよ」
 迷いながらも頷いた雛姫に、小春が目を丸くする。
「ちょっと、雛姫ちゃん!?」
 声を上げた小春に割り込むようにして、賢人が訊いてくる。
「じゃ、何点にする?」
「え、と」
 そこで雛姫は口ごもった。あまりに高い点数にしたら、それほどまでに賢人のキスを嫌がっていると思われてしまうだろう。
(舘くん、傷つく、かな)

 逡巡する雛姫に、賢人が問うてくる。
「雛姫?」
 本当は、百点とでも言っておきたい、が。
「う……じゃ、あ、七――八十点」
 前回どの教科も五十点前後のところを、あと二週間で三十点アップ。
 絞ったら、二、三の暗記科目はクリアするかもしれないけれど、そうたくさんはムリだろう。
 直前で言い換えた雛姫に、賢人は眉を上げ、ニッと笑った。
「了解。頑張るよ」
「あ、うん、がんばって……」
 邪気のない彼の笑顔に微妙に胸をざわつかせながら、雛姫は頷く。その胸騒ぎに気を取られていたから、賢人の背後で小さくため息をこぼした小春には、気付けなかった。

   *

 昼休みの屋上で、雛姫は、ずらりと並べられた答案を呆然と見つめた。良く晴れてはいるが二月の半ばのこの時期、雛姫、賢人、そして小春の他に、誰もいない。

 全部で十二枚。

「これ……」
「七十点以上、だろ?」
「七十点、ていうか――」
 どれも、軒並み、九十点を超えている。
(今まで赤点ギリギリ、だったんだよね?)
 たった二週間で、どうしてそれがこうなるのか。
 何度瞬きをしても数字は変わらず、雛姫の頭はパニック状態だ。
 そんな彼女の隣で、小春がため息をつく。
「舘君って、『やれない』じゃなくて、『やらない』口だよね。前、テスト時間の半分くらい、寝てるの見たよ」
「そんなの、赤点にならなきゃいいんだろ?」
 つまり、問題から赤点を予想して、そこをクリアできる程度だけ解いていた、ということだろうか。
「詐欺だよねぇ……」
 呟いた小春の両脇に賢人が手を入れ、ヒョイと持ち上げた。
「ちょっと、舘君?」
 抗議の声を上げた小春に、賢人が言う。
「これからご褒美もらうから、ちょっと席外してくれよ」
「え、待って」
「じゃぁな」
 賢人は難なく小春を扉の中に押しやって、近くにあった箒でつっかえ棒をしてしまう。
 そしてクルリと振り返った彼は、しゃがみ込んだままの雛姫の前に広げられている答案を雑な手付きで回収した。

「さて、と」
 賢人の一言に、雛姫はハタと我に返る。目を上げると、彼がニッコリと笑い返してきた。
「じゃ、ご褒美くれる?」
「え、えぇっと……」
 約束したのだから、雛姫に拒否権はない。が、正直、この結果は完全に想定外だ。

 口ごもった雛姫に賢人は小首をかしげ、次いで、ヒョイと彼女を抱き上げる。
「た、舘くん!?」
 それはいわゆるお姫様抱っこで、咄嗟に手足をばたつかせた雛姫に、賢人は眉をしかめた。
「暴れたら危ないだろ。もうちょっと暖かいとこに行くだけだって」
 そう言って、彼は壁際の陽だまりに向かう。

 そこに行くだけの間だけ。
 雛姫は当然そう思っていたけれど、賢人がしゃがみ込んでも、まだ、彼女は彼の膝の上にいた。腰と肩にがっちりと力強い腕が回されていて、離れることができない。

「あ、あの……?」
「この方が暖かいしご褒美もらいやすいじゃん。で、全部で十二科目だから、十二回分、だよな?」
 しなくてもいい計算をした賢人は、しげしげと雛姫を見つめてくる。
 そして、彼女の右手を取った。

(手、なの?)
 ホッとした瞬間、中指の節に温かなものが触れる。が、それだけではなく。

 唇よりも、柔らかく、そして、濡れた感触。

 雛姫はビクリと肩をはねさせた。
「舘くん!?」
「ん?」
 悲鳴じみた声で名を呼んだ雛姫を、彼は何事もなかったかのような眼で見上げてくる。
 そんな無邪気そのものの眼差しを向けられたら。
(今、舐めた、よね?)
 とは、訊けない。

「何でも、ない」
 眼を逸らして答えると、彼はクスリと笑った。そうして、雛姫の手をひっくり返し、広げた掌に顔を寄せる。
 また同じことが繰り返され、雛姫の頬が熱くなる。

(でも、手だけ、だし)

 右手が終わって、今度は左手。
 あと、八回。

(八回、手だけ、だよね……?)

 そう思った瞬間賢人が頭をもたげ、こめかみのあたりに唇を押し当て、そっとついばんだ。
「ッ!」
 ――手だけでは、なかった。
 彼は左右のこめかみに触れた後、目蓋に移る。薄い皮膚を、優しく吸われ、舌先でくすぐられた。

 あと、四回。

(もうちょっと、だけ)
 だけど、心臓が破裂しそうだ。
 左の目蓋に賢人の唇を受けながら、雛姫は頭の中で円周率を唱え始める。けれどそんな彼女の逃避行動は、次の賢人の動きで敢え無く阻止された。

 耳たぶに触れた、温かなもの。
 次いで、吸われ、甘く噛まれた。

「ひゃぅッ」
 手を突っ張って可能な限り身を離すと、賢人が不満そうに唇を尖らせる。
「今の途中だから、カウントしないでよ?」
「途中って、そこ、耳……それ、キスと、違う……」
 しどろもどろに答えた雛姫の頬にかかる髪を、彼は指先でよけた。
「え? だって、唇でもないし、服で隠れてもないだろ? それに、口で触れたんだから、キスだよ」
 こともなげに、賢人はそうのたまい、そして、ニッと笑う。

「あと四回な?」
 牙を剥いた狼のようなその笑みにクラリとめまいに襲われた雛姫を、再び力強い腕が引き寄せた。
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