獅子隊長と押しかけ仔猫

トウリン

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獅子隊長は五里霧中

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「じゃあ、パンが冷める前に下りてきてくださいね」
 洗顔用の盥を持ってきたケイティは、そう告げてブラッドの寝室をあっさりと去って行った。
 そう、いつものようにいたずらを仕掛けることもなく、からかいの言葉を投げることもなく、実に、あっさりと。

 閉じられた扉を見つめて、ブラッドはバリバリと頭を掻いた。
 この平和な朝は、彼が目指していたものだったはず。
 にも拘らず、なんだろう、この不全感は。
 あるべきものがないような、昨日に何かを置いてきてしまったような物足りなさがあって、妙に落ち着かない。

 朝を平穏平和に迎えられるというこの状況になってから、すでに七日が過ぎている。
 ケイティのブラッドに対する態度が冷たくなったとか、素っ気なくなったとか、そういうわけではない。ただ、他の連中と同じように接するようになっただけだ。
 そして変化のきっかけが何かというのは、考えるまでもない。ケイティをティモシーとアレンに任せて送り出してからのことなのだから。

 確かにブラッドは、自分だけに注がれているケイティの眼を他の者にも向けさせようと思った。若い彼女にはそれが必要なことだと思ったし、実際、彼に絡んでくる時間が減った分だけ、他の隊員と話したり――彼らに笑いかけたりする光景をよく見かけるようになった。

 この状況は、彼の目論見どおりなのだ。

 なのに。

「けっこう、堪える」
 彼はケイティの世界の中心ではなくなり、ほとんど独占状態だった彼女の視線も失われた。
 こうなる以前も、慕ってくるケイティのことを疎ましく思ったことは一瞬たりともない。ただ、自分の存在が彼女の世界を狭くしていることが、正しくないと思ったのだ。
 だから、切り離そうとしただけだ。

 この三年間、ブラッドに対するケイティの態度は、親を慕う仔猫さながらだった。ブラッドの計画どおりに事が進めば彼女は『親離れ』することになるのだから寂しくなるのは判っていたが――これほどとは。

 自縄自縛とはこのことだと、ケイティとの掛け合いの代わりに日課となったため息をこぼしてから、ブラッドは寝台を下りた。
 洗顔で多少なりとも気持ちを切り替え、着替えを済まし、彼は階下の食堂に向かう。

 ケイティがやってくる前に目を覚ましておく必要がなくなった上に、部屋でぐずぐずしている時間が微妙に伸びているから、ここのところブラッドが食堂に下りる時間はやや遅れがちになっている。中には、もう隊員たちの姿はまばらだった。
 その数人の世話をすべくケイティとフィオナはミツバチさながらに厨房と食堂を行ったり来たりしていたが、隊員の一人がケイティを呼び留める。アレンだ。

 ブラッドは、思わず足を止めて二人の様子を見守った。

 アレンがケイティに一言二言声をかけ、彼女がそれに応える。
 きっと、今日の献立は何だとか、そんな話をしているのだろう。

 隊員の中でも一番の若手のアレンは、多少軽いところはあるがいい男だ。外見的にもケイティとよく釣り合っている。
(いいことじゃないか)
 半ば自分に言い聞かせるようにして妙にざわつく胸の中でそう呟き、彼女達から目を離せないまま止まっていた足を動かして中に入ろうとしたブラッドだったが、次の瞬間再び固まる。

 何故なら、無造作に動いたアレンの手が、ケイティに伸ばされたからだ。

 彼の手はケイティの頬を包むように触れていて、彼女は笑っている。
 その光景に、ブラッドの胸の中には煮え立つ油を呑み込みでもしたかのような不快感が込み上げた。
(いつの間に、あんなに親しくなった?)
 あの日、一緒に出掛けさせてからだろうか。
 まさにブラッド自身が望んだとおりの結果のはずが、少しも喜べない。

 思わず両手を拳に握り込んだところで、背後から声をかけられる。
「隊長? どうされました?」
 パッと振り返ると、ルーカスが訝しげな顔を向けている。彼は何げなく食堂の中に視線を流し、「ああ」というような顔になった。

「なるほどね」
 ルーカスのその声は小さな呟きだったが、それはブラッドの耳にも届く。眉間に深々と溝を刻んだ上司に、ルーカスは器用に片方だけ眉を持ち上げた。
「ムカついています?」
 ――もちろん、ムカついているとも。
 反射的に胸の中でそう返していたが、自分にその権利がないことは百も承知だ。
「別に」
 ボソリとそう言い、ブラッドは大股に食卓に歩み寄る。背後からこれ見よがしなため息が追いかけてきたが、無視した。

 椅子に腰を下ろしたブラッドにケイティが、そしてルーカスにはフィオナが寄ってくる。
「パンとスープ、持ってきますね」
 お茶を注ぎながらそう言ったケイティは、屈託のない笑みを向けてくる。その頬、さっきアレンが触れていたところを手のひらでこすってやりたい衝動に駆られながら、ブラッドは頷いた。
「ああ、頼む」
 にこりと笑ったケイティは身を翻して厨房に入っていく。

 見るともなしに彼女の背中を見送っていたブラッドに、斜め向かいからアレンが声をかけてきた。
「今日のパン、美味いっすよ。チーズとクルミが入ってます」
「そうか」
 思わず、ムッツリとした声になった。アレンの方を見ずに返事をしたから、その時年下の隊員がにんまりと笑ったことには、気付いていなかった。
「じゃ、自分はお先です」
 いつにもまして不愛想な隊長にそう言って、アレンは席を立ち食堂を出て行った。彼が立ち去ったことでホッとしている自分に気付き、ブラッドは奥歯を噛み締める。

(オレの方がガキみたいじゃないか)
 そう、大事なものを取られそうになってジタバタしている、子どもだ。
 心を入れ替えて、自分の立場というものを肝に銘じなければ。

 じきに戻ってきたケイティが、ブラッドの前にパンとスープ、それにベーコンを敷いた卵焼きを置いてくれる。
「どうぞ」
 その一言で去って行こうとしたケイティを、ブラッドは呼び留める。が、何を言うかは決めていなかった。

「何ですか?」
 首をかしげる彼女の視線が、チラリとカップに走る。その中身もまだ残っていることを確認したのか、眼の中に浮かんでいた訝しげな色が増した。
 取り敢えず何か言わなければと口を動かすと、ブラッドの中で一番わだかまっていたことがコロリとこぼれ出す。ろくに脳みそを通していないようなことが。

「その、アレだ、あまり気軽に男に触らせない方がいい」
 しまった、と思ったときには、もう遅かった。

「はい?」
 わずかに、ケイティの目が細められる。

 完全に、しくじった。
 それは判ったが、一度吐いてしまった言葉はもう戻せないし、内容的に取り繕いようもない。
 内心どう進んだらいいのかも解らぬままに、ブラッドは続ける。

「さっき、アレンに触らせていただろう。年頃の娘なのだから、あまり簡単に男に触らせるべきじゃない」
 気持ちとは裏腹な淡々とした声でのブラッドの忠告を、ケイティは黙って聞いていた。だ→だが、微妙に力がこもった唇が、その心中を何よりも雄弁に物語っている。
 多分、そこで口をつぐんでおくべきだったのだ。
 あるいは、ケイティが何か言ってくれれば、もう少しマシなことが言えたのかもしれない。
 だが出てきた言葉は彼自身耳を塞ぎたくなるようなもので。

「オレは君の保護者のようなものだ。君を守る義務が――」
「もう、ムリ」
 地を這うような低い声が、ブラッドの声を押し返した。
「ケイティ」
「あたし、もうそんな子どもじゃないです」
「ケイティ、君はまだ――」
「確かにだんな様と年は離れているかもしれませんが、だんな様が思っているほど子どもじゃありません!」
 完全に、ケイティの逆鱗を逆撫でした。
 イヤというほどそれが伝わってきたが、キラキラと、怒りで緑柱石さながらに輝く目は綺麗だった。七日ぶりに真っ直ぐに向けられてくるその目に見入りながら、ブラッドはケイティをなだめようと彼女の名を口にする。

「ケイティ――」
 が、憤然とした声に叩き落とされた。
「そんなに『コドモ』なあたしがダメなら、いっそ、あんなことやこんなことして、さっさと『オトナ』の階段駆け上ってきましょうか?」
 突拍子もない言い様に、ブラッドは椅子を蹴立てて立ち上がる。
「ちょっと、待て、そういう意味では――」
 彼の声を振り払うようにプイと顔を背け、背を反らせたケイティが言う。
「いいですよ、こう見えても引く手あまたなんですからね! 子ども扱いしてくるのは、だんな様くらいなんですから!」

 引き留める隙は、与えてくれなかった。ケイティはクルリと踵を返し、足音荒く厨房へ入っていく。ブラッドは、ただただ、その小さな背中を呆然と見送るしかない。

 椅子から腰を浮かせた格好で固まっているブラッドに、横手から声が届く。
「今の、全面的に隊長に非があるということは、解かっていますよね?」
 顔中に「呆れました」と書いているルーカスをジロリと睨み、ブラッドは浮いたままの腰を椅子に戻す。そうして、半ばやけになって食事を腹に詰め込んだ。
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