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第二章:朽ち果てた楽園で夢をみる
補給所を目指して
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「五十メートル先のメリーゴーランドの前を右に曲がって、そうしたらすぐに入口があるよ。鍵は開けておくから、急いで」
場内放送が落ち着いた声を響かせる。
その声に導かれ、明日菜と樹は後ろを振り返ることなく走った――見なくても、追い掛けてくるいくつもの咆哮が切迫した事態を嫌というほど知らしめる。
「もうすぐそこだ」
この朽ち果てたテーマパークに入ってから十分以上全力疾走を続けている明日菜は息も絶え絶えで、そう励ましてくれる樹に応えることなど到底できない。かろうじて小さな頷きだけを返して、ただひたすら脚を動かした。
樹の方が元々明日菜の何倍もの重さの荷物を背負っているうえに、今は彼女の分まで持ってくれているというのに、彼の息は全然上がっていない。それがなんだかムカつく。
「あのドアだ」
樹の声に、明日菜はパッとそちらに目を走らせる。
と、すでに限界だった足が、もつれた。
「ッ!」
つんのめった明日菜の腹に、がっしりした腕が回される。グッと腹部に圧力がかかって、彼女の足が浮いた。
「持っていろ」
その一言で、樹が右手に持っていた明日菜の荷物が放り投げるようにして彼女に渡される。
(ちょっと、マジ?)
さながらラグビーボールか何かのように明日菜を左脇に抱えたまま、樹は全くスピードを落とさず走り続けた。いや、もしかしたら、むしろこの方が速くなったのではないだろうか。
鍛えているからと言って、映画や何かじゃあるまいし、ヒトがこんな身体能力を持ち得るなんて信じられない。
呆気に取られている明日菜には全く気付いていない風情で大地を蹴る樹は、あっという間に目指す扉に辿り着いた。
あと三歩、というところでガチャリと音がして、勝手に扉が開く。
樹はその中に駆け込むと、後ろ足で蹴り閉めた。即座にまた、ガチャリと錠が下りる音がする。
明日菜をまだ抱えたまま、樹がドアを見据える。
二十秒ほど数えたところで、ドカ、と外から何かが激しく体当たりした。一度ならず、二度、三度と繰り返し、繰り返し。
明日菜はビクリと肩を跳ねさせたけれど、ドアは微かな揺れさえ見せなかった。
「このドアはそう簡単には破れない」
身を強張らせている明日菜を見下ろし、樹が淡々と言う。
そう簡単には、ということは、いつか限界が来るということだろうか。
どうしても明日菜はそんなふうに考えてしまう。
そのマイナス思考を振り払って、明日菜は未だ彼女を抱えたままの樹をねめ上げた。
「そろそろ下ろしてくれない?」
そう言われて初めて気が付いた、という様子で彼は彼女を見下ろし、一拍置いて床へと立たせた。
五十キロ近い『荷物』を抱えて走り続けて平然としているという力技を披露するくせに、こういうときの彼の所作は丁寧だ。明日菜の両脚がちゃんと床を踏み締めたのを確認してから、そっと腕を離す。
ずり上がった上着の裾を引っ張って元に戻し、ようやく人心地付いた明日菜はぐるりと辺りを見回した。彼女が立っているのは、せいぜい人が二人並んで通れるかというほどの狭い廊下で、十メートルほど先でT字路になっているのが見て取れる。そこに至るまで、ドアの一つもない。
外から見たらボロボロだったけれども、内装はやけに綺麗で近代的で、十年以上前の建物とは思えなかった。
「で、ここが『安全地帯』ってやつなの?」
隣に立つ樹を見上げてそう問うと、彼は無言でうなずいた。
*
マンションを脱出し、市街地を抜けた二人が目指したのは、十年以上前に閉園したテーマパークだった。県内であるにもかかわらず明日菜は全く聞いたことがないから、たぶん、彼女の物心がつく前に潰れたのだろう。
樹曰く、服部博士は、そういう、使用されなくなった施設を買い取り、改造して、諸々の物資を備蓄した『安全地帯』にしたのだそうだ。どこも『新生者』が溢れる街中ではなく、そこそこ郊外にあるらしい。
「博士が待つのは北海道だが、順調に行っても着くまでには一ヶ月はかかる。途中に点在する施設に食料や武器を置いてあるから、そこに寄りつつ進む。どこも守りは万全だから、身体を休めることもできるだろう」
そう言って、彼は車を走らせたのだ。
途中、道を塞ぐようにして横転しているバスに阻まれ、車は路肩に乗り捨てた。
そこから徒歩で、ほぼ丸一日。
昨晩は野宿で、明日菜は小さな物音でも跳び起きてしまった。
樹はだいぶ人里を離れたからまず『新生者』はいないだろうと言い、何か手のひらにのるほどの装置を取り出して、もしも半径百メートル以内に奴らが来たらそれが報せてくれるから、と保証してくれたけれど、安心なんてできるものじゃない。
これから延々こんな日が続くのかと思うと、正直、気が萎える。お風呂にも入れないし、食事だってまずくて食べた気にもなれない携帯食料ばかりだ。
明日菜は、疲れの取れない身体と鬱々とした気分を引きずり、周囲を警戒しながら進む樹に続く。
かつてはテーマパークとして機能していたこともあったわけだから、もちろんちゃんと道路はつながっている。けれど、身を隠せる木や何かがある方が良いから、と歩きにくい森の只中を行く羽目になっていた。
しばらくは、特に何事もなかった。
が、テーマパークの寂れたアトラクションが木々の間に見え隠れし始めた頃、不意に樹が足を止めたのだ。
「屈め」
短い一言に明日菜は反射的にパッとその場にしゃがみ込んだ。
同じく身体を低くした樹は、目を細めて辺りを窺っている。明日菜も周囲を見回してみたけれど、何も見えない。
「いるの?」
恐る恐る尋ねると、樹は眉間にしわを寄せた。
「意外に、いる。予想よりも多い。どうやら先客がいるらしい」
「先客?」
「ああ。他の守護者も保護対象を拾えたら立ち寄るはずだ。多分、もう誰かが先に入って、何かの理由で、数日留まっているのだろう」
言われて、明日菜はマンションにいた頃に聴かされた話を思い出す。
(『変異者』は『新生者』を呼び寄せちゃうんだっけ)
つまり、これから行くところには『人間』がいるということだ。
生き残ったのが自分たちだけではないということに、ちゃんと言葉を交わせる相手に会えるのだということに、明日菜は胸を躍らせる。
だが、顔を輝かせた彼女とは裏腹に、樹は渋い顔をしていた。
「どうかしたの?」
「建物の中に入ってしまえば安全だが、そこに至るまでが厄介だ。後は、出る時だな」
樹は眉間に深いしわを刻んだまま、何か考え込んでいる。
そして、言った。
「まだ手持ちの物資は残っているから、このまま引き返した方が安全かもしれない。次の補給所までは何とか持つだろう」
「え、でも、生き残ってる人がいるんでしょ?」
「ああ。だが、いずれにせよ、バラバラに動いた方がいい。『変異者』が集まるほど、『新生者』を集めてしまうから、博士からは基本的に護衛一人に『変異者』一人で動くようにと言われている」
「でも……」
生存者がいるなら、会ってみたい。
そうすれば、本当に、他にもまだ人間がいるのだという希望が持てるから。これから先の未来に、ほんのわずかでも期待が持てる気がするから。
心の底からそう願っても、明日菜を守る為に闘うのは樹だから、彼女にはわがままは言えない。
けれど、許されるなら、やっぱりその誰かに会いたかった。
樹はジッと明日菜を見つめている。やがて、ふう、と息をついた。
「身を隠しながら行こう。身体を低くしたまま、俺の後についてこい」
そう言うと、樹はフェンスに向かって動き出した。明日菜も、彼の後に続く。
幸い、フェンスまでは何事もなく辿り着けた。
「あそこから入る」
樹が指差した先に、格子の扉がある。
行ってみると鍵がかかっていたが、樹が取り出した小さな棒でいじるといとも簡単に開いてしまった。
「中にはいないといいんだがな」
明日菜が入った後にもう一度鍵をかけると、樹が呟いた。その不吉な台詞に、彼女はムッと唇を尖らせる。
「そんなこと言わないでよ」
明日菜の抗議に肩をすくめると、樹は周囲を警戒しつつ歩き出した。
ペンキが剥がれ、錆の浮いたアトラクションに身を寄せつつ、進む。
無事な建物があるとは思えないほどの朽ち果てようだけれども、樹の足取りには迷いがない。
園内は静かなもので、ただ、廃墟探索にでも来ただけのようだ。
問題なく、目的の場所に辿り着けるかと明日菜が思った時だった。
「まずいな」
不意に、樹が呟いた。そうして、明日菜の背中からバックパックを取ると自分の左肩に掛ける。
「走るぞ」
言うと同時に、明日菜の腕を掴んで彼が走り出す。唐突な動きに一瞬足をもつらせた彼女だったけれど、そこは陸上部で鳴らした足使いで、すぐに体勢を整えた。
明日菜が自分のリズムで走り出すと同時に、背後からすっかり耳に馴染んだ――馴染みたくないけれども馴染んでしまった――雄叫びが響き渡る。まるでそれが呼び水になったかのようにあちらこちらから同じような咆哮が聞こえ始めた。
「もうすぐだ」
走ったからではなく、恐怖から喘いだ明日菜に、樹が叱咤の声をかける。
明日菜は、何も考えずに走った。集まってくる怒号は、耳から耳へと聞き流して。
「ガァッ」
突然、間近で轟く威嚇の声。
樹の右側の建物の陰から、両手を突き出して男が向かってくる。
刹那、気合の声一つ立てずに、樹の身体が回転した。しなった脚が、男の首筋を捉える。それは薙ぎ倒すように男を打ち据え、距離のある明日菜の耳にも、ごきりと嫌な音が聞こえた。もんどりうって倒れ込んだ男は、ピクリとも動かない。
思わず立ちすくんだ明日菜に、鋭い声が飛ぶ。
「行くぞ」
鞭で打たれたように、明日菜は肩を跳ねさせた。そしてまた、走り出す。
立ち止まっていたのはわずかな間だけだと思っていたけれど、追い掛けてくる声との距離は、確実に縮まっていた。
(まだ? まだ、着かないの?)
緊張と焦りで、明日菜の息が上がる。
(もう、無理)
彼女の脚が、鈍りかけていた時だったのだ。
「五十メートル先のメリーゴーランドの前を右に曲がって、そうしたらすぐに入口があるよ。鍵は開けておくから、急いで」
朗らかと言ってもいい声での場内放送の呼びかけが、突然響き渡ったのは。
場内放送が落ち着いた声を響かせる。
その声に導かれ、明日菜と樹は後ろを振り返ることなく走った――見なくても、追い掛けてくるいくつもの咆哮が切迫した事態を嫌というほど知らしめる。
「もうすぐそこだ」
この朽ち果てたテーマパークに入ってから十分以上全力疾走を続けている明日菜は息も絶え絶えで、そう励ましてくれる樹に応えることなど到底できない。かろうじて小さな頷きだけを返して、ただひたすら脚を動かした。
樹の方が元々明日菜の何倍もの重さの荷物を背負っているうえに、今は彼女の分まで持ってくれているというのに、彼の息は全然上がっていない。それがなんだかムカつく。
「あのドアだ」
樹の声に、明日菜はパッとそちらに目を走らせる。
と、すでに限界だった足が、もつれた。
「ッ!」
つんのめった明日菜の腹に、がっしりした腕が回される。グッと腹部に圧力がかかって、彼女の足が浮いた。
「持っていろ」
その一言で、樹が右手に持っていた明日菜の荷物が放り投げるようにして彼女に渡される。
(ちょっと、マジ?)
さながらラグビーボールか何かのように明日菜を左脇に抱えたまま、樹は全くスピードを落とさず走り続けた。いや、もしかしたら、むしろこの方が速くなったのではないだろうか。
鍛えているからと言って、映画や何かじゃあるまいし、ヒトがこんな身体能力を持ち得るなんて信じられない。
呆気に取られている明日菜には全く気付いていない風情で大地を蹴る樹は、あっという間に目指す扉に辿り着いた。
あと三歩、というところでガチャリと音がして、勝手に扉が開く。
樹はその中に駆け込むと、後ろ足で蹴り閉めた。即座にまた、ガチャリと錠が下りる音がする。
明日菜をまだ抱えたまま、樹がドアを見据える。
二十秒ほど数えたところで、ドカ、と外から何かが激しく体当たりした。一度ならず、二度、三度と繰り返し、繰り返し。
明日菜はビクリと肩を跳ねさせたけれど、ドアは微かな揺れさえ見せなかった。
「このドアはそう簡単には破れない」
身を強張らせている明日菜を見下ろし、樹が淡々と言う。
そう簡単には、ということは、いつか限界が来るということだろうか。
どうしても明日菜はそんなふうに考えてしまう。
そのマイナス思考を振り払って、明日菜は未だ彼女を抱えたままの樹をねめ上げた。
「そろそろ下ろしてくれない?」
そう言われて初めて気が付いた、という様子で彼は彼女を見下ろし、一拍置いて床へと立たせた。
五十キロ近い『荷物』を抱えて走り続けて平然としているという力技を披露するくせに、こういうときの彼の所作は丁寧だ。明日菜の両脚がちゃんと床を踏み締めたのを確認してから、そっと腕を離す。
ずり上がった上着の裾を引っ張って元に戻し、ようやく人心地付いた明日菜はぐるりと辺りを見回した。彼女が立っているのは、せいぜい人が二人並んで通れるかというほどの狭い廊下で、十メートルほど先でT字路になっているのが見て取れる。そこに至るまで、ドアの一つもない。
外から見たらボロボロだったけれども、内装はやけに綺麗で近代的で、十年以上前の建物とは思えなかった。
「で、ここが『安全地帯』ってやつなの?」
隣に立つ樹を見上げてそう問うと、彼は無言でうなずいた。
*
マンションを脱出し、市街地を抜けた二人が目指したのは、十年以上前に閉園したテーマパークだった。県内であるにもかかわらず明日菜は全く聞いたことがないから、たぶん、彼女の物心がつく前に潰れたのだろう。
樹曰く、服部博士は、そういう、使用されなくなった施設を買い取り、改造して、諸々の物資を備蓄した『安全地帯』にしたのだそうだ。どこも『新生者』が溢れる街中ではなく、そこそこ郊外にあるらしい。
「博士が待つのは北海道だが、順調に行っても着くまでには一ヶ月はかかる。途中に点在する施設に食料や武器を置いてあるから、そこに寄りつつ進む。どこも守りは万全だから、身体を休めることもできるだろう」
そう言って、彼は車を走らせたのだ。
途中、道を塞ぐようにして横転しているバスに阻まれ、車は路肩に乗り捨てた。
そこから徒歩で、ほぼ丸一日。
昨晩は野宿で、明日菜は小さな物音でも跳び起きてしまった。
樹はだいぶ人里を離れたからまず『新生者』はいないだろうと言い、何か手のひらにのるほどの装置を取り出して、もしも半径百メートル以内に奴らが来たらそれが報せてくれるから、と保証してくれたけれど、安心なんてできるものじゃない。
これから延々こんな日が続くのかと思うと、正直、気が萎える。お風呂にも入れないし、食事だってまずくて食べた気にもなれない携帯食料ばかりだ。
明日菜は、疲れの取れない身体と鬱々とした気分を引きずり、周囲を警戒しながら進む樹に続く。
かつてはテーマパークとして機能していたこともあったわけだから、もちろんちゃんと道路はつながっている。けれど、身を隠せる木や何かがある方が良いから、と歩きにくい森の只中を行く羽目になっていた。
しばらくは、特に何事もなかった。
が、テーマパークの寂れたアトラクションが木々の間に見え隠れし始めた頃、不意に樹が足を止めたのだ。
「屈め」
短い一言に明日菜は反射的にパッとその場にしゃがみ込んだ。
同じく身体を低くした樹は、目を細めて辺りを窺っている。明日菜も周囲を見回してみたけれど、何も見えない。
「いるの?」
恐る恐る尋ねると、樹は眉間にしわを寄せた。
「意外に、いる。予想よりも多い。どうやら先客がいるらしい」
「先客?」
「ああ。他の守護者も保護対象を拾えたら立ち寄るはずだ。多分、もう誰かが先に入って、何かの理由で、数日留まっているのだろう」
言われて、明日菜はマンションにいた頃に聴かされた話を思い出す。
(『変異者』は『新生者』を呼び寄せちゃうんだっけ)
つまり、これから行くところには『人間』がいるということだ。
生き残ったのが自分たちだけではないということに、ちゃんと言葉を交わせる相手に会えるのだということに、明日菜は胸を躍らせる。
だが、顔を輝かせた彼女とは裏腹に、樹は渋い顔をしていた。
「どうかしたの?」
「建物の中に入ってしまえば安全だが、そこに至るまでが厄介だ。後は、出る時だな」
樹は眉間に深いしわを刻んだまま、何か考え込んでいる。
そして、言った。
「まだ手持ちの物資は残っているから、このまま引き返した方が安全かもしれない。次の補給所までは何とか持つだろう」
「え、でも、生き残ってる人がいるんでしょ?」
「ああ。だが、いずれにせよ、バラバラに動いた方がいい。『変異者』が集まるほど、『新生者』を集めてしまうから、博士からは基本的に護衛一人に『変異者』一人で動くようにと言われている」
「でも……」
生存者がいるなら、会ってみたい。
そうすれば、本当に、他にもまだ人間がいるのだという希望が持てるから。これから先の未来に、ほんのわずかでも期待が持てる気がするから。
心の底からそう願っても、明日菜を守る為に闘うのは樹だから、彼女にはわがままは言えない。
けれど、許されるなら、やっぱりその誰かに会いたかった。
樹はジッと明日菜を見つめている。やがて、ふう、と息をついた。
「身を隠しながら行こう。身体を低くしたまま、俺の後についてこい」
そう言うと、樹はフェンスに向かって動き出した。明日菜も、彼の後に続く。
幸い、フェンスまでは何事もなく辿り着けた。
「あそこから入る」
樹が指差した先に、格子の扉がある。
行ってみると鍵がかかっていたが、樹が取り出した小さな棒でいじるといとも簡単に開いてしまった。
「中にはいないといいんだがな」
明日菜が入った後にもう一度鍵をかけると、樹が呟いた。その不吉な台詞に、彼女はムッと唇を尖らせる。
「そんなこと言わないでよ」
明日菜の抗議に肩をすくめると、樹は周囲を警戒しつつ歩き出した。
ペンキが剥がれ、錆の浮いたアトラクションに身を寄せつつ、進む。
無事な建物があるとは思えないほどの朽ち果てようだけれども、樹の足取りには迷いがない。
園内は静かなもので、ただ、廃墟探索にでも来ただけのようだ。
問題なく、目的の場所に辿り着けるかと明日菜が思った時だった。
「まずいな」
不意に、樹が呟いた。そうして、明日菜の背中からバックパックを取ると自分の左肩に掛ける。
「走るぞ」
言うと同時に、明日菜の腕を掴んで彼が走り出す。唐突な動きに一瞬足をもつらせた彼女だったけれど、そこは陸上部で鳴らした足使いで、すぐに体勢を整えた。
明日菜が自分のリズムで走り出すと同時に、背後からすっかり耳に馴染んだ――馴染みたくないけれども馴染んでしまった――雄叫びが響き渡る。まるでそれが呼び水になったかのようにあちらこちらから同じような咆哮が聞こえ始めた。
「もうすぐだ」
走ったからではなく、恐怖から喘いだ明日菜に、樹が叱咤の声をかける。
明日菜は、何も考えずに走った。集まってくる怒号は、耳から耳へと聞き流して。
「ガァッ」
突然、間近で轟く威嚇の声。
樹の右側の建物の陰から、両手を突き出して男が向かってくる。
刹那、気合の声一つ立てずに、樹の身体が回転した。しなった脚が、男の首筋を捉える。それは薙ぎ倒すように男を打ち据え、距離のある明日菜の耳にも、ごきりと嫌な音が聞こえた。もんどりうって倒れ込んだ男は、ピクリとも動かない。
思わず立ちすくんだ明日菜に、鋭い声が飛ぶ。
「行くぞ」
鞭で打たれたように、明日菜は肩を跳ねさせた。そしてまた、走り出す。
立ち止まっていたのはわずかな間だけだと思っていたけれど、追い掛けてくる声との距離は、確実に縮まっていた。
(まだ? まだ、着かないの?)
緊張と焦りで、明日菜の息が上がる。
(もう、無理)
彼女の脚が、鈍りかけていた時だったのだ。
「五十メートル先のメリーゴーランドの前を右に曲がって、そうしたらすぐに入口があるよ。鍵は開けておくから、急いで」
朗らかと言ってもいい声での場内放送の呼びかけが、突然響き渡ったのは。
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