壊れた世界、壊れた明日

トウリン

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第五章:愚者が溺れる白昼夢

船上にて

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 立ち去ってから一時間そこそこで、再び樹は明日菜に無事な姿を見せてくれた。

「あ、来た」
 身を隠していた空き家のカーテンの隙間から海の方を窺っていた鹿角が上げた声に、膝を抱えていた明日菜はパッと立ち上がる。

「行ってもいい?」
「――大丈夫だ」

 許可が下りると同時にガラリとガラス戸を引いて外に飛び出し、ちょっとした展望台のようになっているところまで走った。そこに、釣り番組でよく見るようなボートが、スゥッと近づいてくる。
 彼女が展望台に辿り着くとほぼ同時に、デッキに現れた樹がひらりと鉄柵を飛び越えてきた。
「何もなかった? 怪我はない?」
 詰め寄る明日菜に頷きを返しながら、樹はのんびりと二人の方に歩いてくる鹿角《かすみ》に目を向ける。
「問題は?」
なんもなし。平和そのもの。ゆっくりじっくり明日菜ちゃんと二人きりの時間を堪能させてもらったよ」
 ヘラヘラ笑いながらの鹿角の台詞に、刹那、樹の周囲の空気の温度が優に十度は下がった。

「……冗談だって」
 若干笑みを引きつらせた鹿角へ冷やかな一瞥を投げ、樹は明日菜に向き直る。
「行くぞ」
 その一言だけで明日菜を抱き上げ、荷物か何かのように、鉄柵の向こうに停まっている船のデッキにヒョイと下ろした。

 波は穏やかだけれども、少し揺れる。というよりも、何となく足元がふわふわする感じだ。
 船に乗るのは初めてなので、明日菜にはその覚束なさが何だか不安だった。
 明日菜が手すりにしがみついていると、樹、そして続いて鹿角が乗り込んできて、そのたびに、ぐらりと揺れる。

「これを着ておけ」
 そう言って樹が差し出したのは、派手なオレンジ色のぼってりしたベストだ。救命胴衣という奴だろう。
 言われたとおりに袖を通すと、樹がファスナーを上げてくれた。

「三時間ほどで着く。船に乗ったことは?」
 かぶりを振った明日菜に、彼は微かに眉をひそめる。
「……気分が悪くなったら言え」
「わかった」
 頷いた明日菜の頭をひと撫ですると、樹は操縦席の方へと足を向けた。一人になった彼女の隣に、樹の代わりという風情で鹿角が来る。

「できるだけ遠くを見ときなよ」
「はい」
 明日菜がこくりと頭を上下すると同時に、モーター音が腹の底に響いてきた。

 鹿角に言われたとおりに水平線を見つめる明日菜に、不意に、クスリと忍び笑いが届く。そちらを見ると、手すりに肘を置いて彼女を見ている彼と目が合った。
「何ですか?」
 唇を尖らせた彼女を見て鹿角がニヤリとする。
「いや、素直だよなと思ってさ」
「どういう意味です?」
「明日菜ちゃんの顔が全然違うんだよね、五島が隣にいるといないとでは」

「……そんなことないですよ」
 多分そんなことあるだろうけれども、素直に「そうでしょう」とはなんとなく言えない。プイッとまた海を見た明日菜に、彼のクスクス笑いが大きくなる。
「まあまあ、五島だって同じなんだしさ」
「え?」
「あいつ、君を見ているときと君以外を見ているときとでは、全然目つきが違うから」
「まさか。樹さんはどんな時も同じだよ」
「そう思うのは、明日菜ちゃんは明日菜ちゃんを見ているときのあいつの目しか知らないからだろ。それって傍から見てると、そりゃもう、大事で大事でたまらないって感じ。対してオレに向ける眼差しの冷たいこと冷たいこと」

 それは、鹿角がいつもふざけた態度だからではないだろうかと思ったけれど、明日菜は口をつぐんでおいた。放っておいたらどんどん妙な方向に進みそうだったから、話題転換を兼ねて現実的なことを言ってみる。

「北海道に渡ったら、早く車を探さないとですね」
 北海道は広い。今までのように徒歩がメインだといつまで経っても辿り着けないに違いない。
 同意が返ってくると思っていたけれど、明日菜の言葉に鹿角はかぶりを振った。
「ん? ああ。陸路よか、何か飛ぶもんを見つけるよ」
「飛ぶもの?」
「ヘリとかセスナとかさ」
 言いながら、彼は胸ポケットからタブレットを取り出した。そこに地図を映し出す。
「差し当たって、これでこの渡島半島ってとこに渡るんだけどさ、こっちの函館側じゃなくて、この出っ張りをこのままグルッと回って函館の北東に向かうのさ。そこに飛行場があるからね」
「飛行場……」

 その単語で明日菜の頭に浮かぶのは羽田とか成田とか、広大な敷地に巨大なジェットがいくつも並ぶ光景だけれども。

「最終的に目指すのは釧路の方だからね。遠いんだよ、これが。空路が手に入ればあっという間なんだけどなぁ」
「でも、誰が操縦するんですか?」
「オレでも五島でも。免許は持ってないけどヘリも軽飛行機も飛ばせるよ。戦車もイケるし――ジェットはやったことないけど取説があったらできるんじゃないかな」

 なんだか適当だ。
 今も巧みに船を操っている樹はともかく、鹿角の方はどうなのだろう。
 少しばかり不安が漂う。

 それが如実に明日菜の顔に現れたと見えて、鹿角は眉尻を下げた。
「ちょっとちょっと、五島ほどじゃなくていいから、少しくらいオレのことも信用してくれない?」
「え……えぇっと……すみません」
「冗談だけどね」
 明日菜が謝る傍からそんなことを言うから、思わずムッと睨み付けた。
「ごめん。ほら、見てみろよ」
 口では『ごめん』と吐き出しながら鹿角に悪びれた様子は全くなく、前方を指さす。
「北の大地が見えてきたぞ」

 釣られて目を向けた遥か先には陸地が広がっていた。
 途中一つの島とすれ違ったけれど、それとは全然違う。北海道のことをなんとなく『島』と認識していた明日菜は、目を丸くした。
「なかなかデカいだろ。場所によっちゃ、地平線も見える」
「地平線……見たことないです」

 そう答えて、ふと、自分にはまだ見たことがないものがたくさんあるのだということに明日菜は気づいた。見たことがないもの、経験したことがないものが、たくさん。
 そう思ったとたん、悔しいような、もどかしいような気持ちが込み上げてきたのだ。
 今までは服部博士の待つ所という目的地だけを目指してひたすら進んできて、余計なことを考える余裕なんて全然なかった。
 ここへきて、微かなわだかまりが胸の中で疼きを訴える。
 これは、手に入らないものは一層欲しくなるという、あれだろうか。

(いつか、また自由にあちこち行けるようになるのかな)

 その時は――

 無意識のうちに明日菜は振り返り、肩越しに操縦席に立つ樹を見つめた。

 と、不意に、鹿角が声を上げる。
「そろそろあいつと交代してやるか」
 言うなり揺れるデッキを身軽く歩き、操縦席に行ってしまった。入れ替わりに樹が彼女の方へとやってくる。

「寒くはないのか?」
「今はそんなに。このオレンジのが結構風除けになるから」
「酔いは?」
「全然」
「まだ時間がかかる。少し眠っておくか?」
「大丈夫」
 そこまで答えて、つい、クスリと笑ってしまった。

「何だ?」
 問われて、明日菜は首を振る。
「何でもない」
 ただ、会話の内容が鹿角とはずいぶん違うなと思ってしまっただけだ。

 彼女の返事に樹は眉間の溝を深くしていたけれど、ややしてぼそりとこぼす。

「奴とは、会話が弾んでいたな」
 まるで、焼きもちを焼くか拗ねているような口調と内容。

 思わず樹を振り仰いだ明日菜は、そこにいつもと変わらない彼を見る。

(まあ、まさか、ね)
 こっそり肩をすくめて、彼女は言う。
「別に、言葉数が多ければいいっていうわけじゃないよ」

 傍にいるのが樹なら、ただいてくれるだけで良いような気持ちになれるのだから。いくら弾む会話で気分を和ませてくれても、傍にいて欲しいと思うのは、樹だ。

(その辺、知っていて欲しいなぁ)
 でないと、何となく寂しいというか、物足りないというか。
(無理な話だと思うけど)

 つい、ため息をこぼすと、また声が。

「酔ったのか?」
「違うよ」

 明日菜はチラリと心配顔の樹を見上げて、かぶりを振った。
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