放蕩貴族と銀の天使

トウリン

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第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』

天使の微笑みは、時に、苦い①

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「ラザフォード」
 今日もひとしきり侃々諤々とやり合って、結局結論が出ないまま議場から出てきたところで、ブライアンは呼び留められた。彼が振り向くと、そこに立っていたのは一筋の乱れもなく身なりを整えた、冷ややかな眼差しをした壮年の男性だ。
 年代が違うのでブライアン自身との直接の交流はないが、パーティーなどで父と言葉を交わしているところを目にしたことがある気がする。

 名前は確か――

「ケンドリック卿」

 彼は伯爵で、その身なりが表す通り、とても生真面目な人柄だ。ラザフォード家ほどの財はないが、常に冷静沈着公明正大、これぞ貴族の鑑という人柄で、皆からは一目置かれている。

 議会に顔を出すようになって、ブライアンは貴族の――富を持つ者の義務というものがあることを知った。心ある者はそれを実践しているのだということを。

 確かに議会への出席は個人の意思に任されていて、出る気がない者は出なくてよい。実際、ブライアンの父も議会になど出たことがなく、ブライアンと同様に領地からの収入でその日その日を享楽的に過ごしている。
 幼い頃からその様を目にしてきて、ブライアンはそれが貴族というものなのだと思っていた。だが、決してそうではないことを今更ながらに知らされたのだ。

(実際、ボールドウィンは家督を継いだ時から色々やってたよな、そういえば)
 不甲斐なさに、はあ、とブライアンの口からはため息がこぼれた。

 議会への出席は義務ではない。貴族の中でも、真面目に議会に出席する者の方が少数派ではある。大多数は富の上に胡坐をかいて悠々自適に暮らしているが、それは芯がある少数派が国を支えてくれていたから許されていたことなのだ。
 彼らの気質は自主独往、他人がどうしていようが自分はやるぞ、為そうとしない者、その気のない者は好きにすればいい、というものだ。ブライアン含め多くの貴族は、そこに甘え、しかも甘えているのだということに気付きもしない。

 このケンドリック伯爵はブライアンが議会に顔を出すようになった当初はそれこそ一瞥すらよこそうとしなかったが、それも当然だろう。こうやって声をかけてくれたということは、多少は格上げしてもらえたということか。

 引き返そうとしたブライアンをケンドリック伯爵は片手を上げて制し、彼の方から近づいてくる。

「だいぶ君の案も形になってきているな」
 ブライアンの前に立つと、ケンドリック伯爵はニコリともせずにそう言った。眉一つ動かさないので、それがいいことだと思っているのかそうでないのかを表情から読み取ることは不可能だ。

「……ありがとうございます」
 どんな返事が正解なのか決めかねたまま、ブライアンはヘラリと笑ってそう答えた。
 そんな彼を見つめるケンドリック伯爵は、もちろん、愛想笑いなど返してはくれない。

(読めない人だなぁ)
 ブライアンは内心でぼやいた。
 このケンドリック伯爵は、徐々に他の貴族たちの賛同を得られつつあるブライアンの提案に、いまだ応とも否とも答えを出していない者のうちの一人だった。

(反対というわけではないと思うのだけどね)
 心の中で眉根を寄せて考え込むブライアンを、ケンドリック伯爵は鉄板すらも貫き通す針のような眼差しで見つめてくる。その鋭さに実際にチクチクと何かが突き刺さってくるような感覚に襲われて、ブライアンは落ち着きなく身じろぎをしたくなる自分を何とか抑えた。

(何だろうなぁ)
 ケンドリック伯爵の方から話を切り出してくるのを待ったが、彼は無言だ。

 その視線にそろそろブライアンが耐えきれなってきた頃、ケンドリック伯爵がその薄い唇を開く。
「私は、ことを為すのも為さぬのも、個々人が決めればいいことだと思っていた」
「え?」
「君が提案するようなことは、その気がある者だけがすればいい、と。やる気のない者を無理に引き込む必要はない、と、そう考えていた」
「はあ……」

 つまりこれは、ブライアンの提案には反対するということなのだろうか。彼が推し進めているのは、まさにケンドリックが言わんとしていることに反するものだったから。

 反対する者が一人明らかになったことに、ブライアンは肩を落とす。が、ケンドリック伯爵の言葉は、そこで止まらなかった。
 わずかな間を置いた後、また、彼が続ける。
「見て見ぬふりをしている者は、そうしたいのならばそれで構わないと思っていたのだが、まさか、見えてすらいない者がいるとは、な」

「はい?」

 首をかしげてケンドリック伯爵を見てみれば、彼の眉間には微かなしわが刻まれていた。その眼差しには、どこか、考え込むような色が浮かんでいる。
「皆が貧しき者に手を差し伸べないのは利己、怠慢、あるいは無関心ゆえだと思っていた。だが、今回君が議題に挙げたことで、そうではないことを知った」
 ケンドリック伯爵は小さくかぶりを振る。
「見て見ぬふりではなく、そもそも、見てすらいなかったのだな。まあ、それも怠慢や無関心からであると言えるのかもしれないが」
 彼の言葉に、ブライアンの胸がチクリと痛んだ。

(似たようなことを、アンジェリカも言っていたよな)
 ブライアンが知ろうとしないことに、腹が立つ、と。

 ケンドリック伯爵はどちらかというと呆れている、という風情だったが、根っこのところは同じ心境なのだろう。何だか、また、アンジェリカに叱られているような気がしてきた。今ではさんざっぱら自分の無知さ加減を思い知らされている分だけ、身に沁みる。

「僕も、自分が何も見ようとしていなかったことを、ある人に指摘されました。その人といることで、今まで見えていなかったことが見えてきたというか、見るようになったというか」
 はは、と自嘲の嗤いと共にそう言うと、ケンドリック伯爵は眉を持ち上げてブライアンを見た。

「ある人?」
「はい。とても素晴らしい人です。美しいだけでなく、もう、人として!」
 ブライアンが拳を握って力いっぱい言い切ると、ケンドリック伯爵は微かに目を見開いた。そして、その目尻を、ほんの少しだけ和らげる。
「そうか。君の変化は、その人がもたらしたのか」
「はい。彼女の傍に立つに値する人間になりたくて」
 照れ照れと言ったブライアンに、ケンドリック伯爵が顎を引くようにして頷いた。
「それは、いい。そういう相手は一生の宝だ。大事にしなければいけない」
 深く重い声での言葉だった。その中の一言に、ブライアンは強く気持ちを引かれる。

「――一生?」

 一生、というと、死ぬまで、ということだ。
 だが、ケンドリック伯爵がその一言を口にするまで、ブライアンの頭には『今』より先のことなど存在していなかった。

(一生って、一年後とか十年後とか三十年後とか……?)
 ブライアンはいずれ妻を娶る。それも、もうそう遠くはないことだろう。
(そうなったら、他の女性を抱いた身で、アンジェリカに逢いに行くのか……?)

 猫の目亭に日参するようになってから、数多繰り返してきた淑女たちとの束の間の戯れは絶っている。意図してそうなったわけではないが、物理的に時間がないし、そもそもその気にならなかったからだ。
 彼女たちとの遊び半分の恋愛沙汰は、するもしないもブライアンの気持ちひとつだ。
 しかし、結婚となると、それはラザフォード家後継ぎとしてのブライアンには最重要の義務になる。彼の気分で避けて通ることはできない。
 まあ、貴族同士の結婚など馬の交配と大差はないから実質的には今の生活と大きく変わることはないのだろうが。

 適当な女性を思い浮かべて、口付けやそれ以上の男女の諸々をこなしているところを想像してみた。
 ……食指が動かないどころか――何か、みぞおちの辺りがモヤモヤする。不快な方向で。

 その上、そんなことをした身で、アンジェリカの前に立つのだ。

 その時の自分は、どんな顔をしているのだろう。

 想像しようとしたが――できない。

「ラザフォード、どうかしたのか?」
 我知らず思考停止に陥っていたブライアンに、怪訝そうな声が掛けられた。ハタと我に返ってケンドリック伯爵に目を戻すと、声と同じくいぶかしげな眼差しが向けられていた。

「ああ、いえ、別に……なんでもありません。少し考え事を」
「そうか?」
 ケンドリック伯爵は眉根を寄せてブライアンを見ていたが、ややして、口を開いた。

「私は、君の案に賛成しよう」
「え」
 唐突な彼の台詞に、ブライアンは目と口を丸くした。そんな彼を、ケンドリック伯爵が一瞥する。
「他の者にも声をかけておく」
「ケンドリック伯爵」
 とりあえず名を口にしても、その先が続かない。口ごもるブライアンに、ケンドリックが微かな、本当に微かな笑みを、口元に刻んだ。

「今の君なら、立派にラザフォード家を背負っていけるだろう」
 そう残してケンドリック伯爵は踵を返し、規則正しい歩調で去っていく。

 今の言葉は、ケンドリック伯爵から与えられるものとしては最大級の賛辞になるのではなかろうか。

 呆気に取られてすらりと伸びた彼の背中を見送っていたブライアンは、ポンと肩を叩かれ正気に返る。
「どうしたんだ、ぼんやりして?」
「ボールドウィン」
「今のはケンドリック卿だろう? 何か手厳しいことを言われたのか?」
 にやりと笑ってそう問うてきたボールドウィンに、ブライアンはまだ信じがたい思いが離れない頭を振る。
「いや、その逆だ」
「逆?」
「彼は、僕の案に賛成すると言ってくれた」
「へぇ!」
 ボールドウィンらしくない感嘆符付きの声は、よほど意外だったからなのだろう。
「ケンドリック卿は他の人にも声をかけてくれると言っていたよ」
「それは大きな前進じゃないか。彼が認めてくれれば、反対派ですら意見を変えるぞ、きっと」
「うん……」
 感心しきりだったボールドウィンだったが、ブライアンの生返事に眉根を寄せる

「どうしたんだ? うれしくないのか?」
「いや、うれしい、うれしいよ、そりゃ」
「なら、喜べよ」
「ああ……でも、こう、現実味がないというか」
 ぼんやりと返したブライアンをボールドウィンは束の間まじまじと見つめ、次いで、にやりと笑った。

 そして。

「痛、痛いって、君は! 突然何をするんだ!?」
 ブライアンはボールドウィンの指で捻り上げられた耳を解放させ、楽しげに煌めいている鮮やかな碧眼を涙混じりの目でにらみつけた。ボールドウィンは悪びれた素振り皆無で肩をすくめてよこす。
「夢じゃなくて現実だろう?」
 確かに、たった今ボールドウィンの手で摘まんで捩じられた耳に残るこの痛みは、紛れもない現実だ。

 ジワリと、ブライアンの中にも実感が込み上げてくる。

 なんだろう、胸に満ちるこの気持ちは。
 これは、まるで、幼いころ、初めて一人で馬の背にまたがることができた時のような――いや、あれとは比にならないほどの誇らしさ、だ。

 胸に手を当てしみじみとその感覚を味わっていたブライアンの肩に、常より表情を柔らかくしたボールドウィンが手を乗せた。
「自信を持てよ、ラザフォード」
 そう言って、ポンポンと彼の肩を叩く。
「君は、変わったよ」
「そうかい?」
「ああ」
 頷いてから、ボールドウィンはニヤリと笑った。

「三歳児が十歳児くらいにはなったかな」

「すごいな、一気に七つも成長したのか!」
 それは確かに凄いと胸を張るブライアンを、ボールドウィンが呆れ半分感心半分の眼差しで見る。

「……君は本心でそう言っているんだろうな」
「え?」
「いや、そういうところが、本当に『凄い』と思うよ」
『そういうところ』とはどういうところだと首をかしげるブライアンの肩を、ボールドウィンはまた一つ、ポンと叩いた。
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