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第二部:天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。
北の地へ②
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「ブライアン……大丈夫か?」
硬い大地にぐったりと座り込んだブライアンを覗き込みながらアンジェリカがそう訊ねたのは、ロンディウムを出て二日目の晩のことだった。
「はは、――……大丈夫、大丈夫だよ。全然平気」
彼は中途半端な笑顔と共にそう答えたけれども、全然、平気そうには見えない。
まるで十日は荒野を彷徨ってきたかのようだ。
(あるいは、馬の尻につながれて丸一日引きずりまわされたとか)
――眉をひそめてしげしげとブライアンを観察したアンジェリカが抱いたのは、そんな感想だった。
とにかくブライアンはくたびれきっている。
アンジェリカたちが王都を出発した日の日没直前に、ブライアンは野宿の準備を始めていた彼女たちに追い付いた。本当はもう少し速く移動するはずだったから、もしかしたら合流は翌日になっていたかもしれなかったけれど、ブライアンのことを考えたアンジェリカがガブリエルに頼んで足を緩めてもらったのだ。
ガブリエルに言われた通り、ブライアンは身体にピッタリ合った三つ揃いから馬丁《ばてい》にでも借りてきたのだろうかという簡素な上下に着替えてきていた。コートも裾がほつれたよれよれのもので、服装だけ見れば屋敷の下働きという風情だけれども、どうしてか、まったくそんなふうには見えない。
やっぱり、ブライアンはブライアンだ。
品があるというか、どこか浮世離れしているというか。
この服装で貴族とは思われないかもしれないけれど、どこかいいところのお坊ちゃんがお忍びでうろついているくらいには思われるだろう。
(いずれにせよ、早く追いついてくれて良かった)
数日、いや、一晩でも一人きりにさせていたら、追剥に襲われていたかもしれない。
グランスは治安の良い国だけれども、さすがに人里離れたところでの安全までは保障の限りではない。ブライアンのように警戒心のない者が野宿なんてしたら、いい餌食になってしまう。
父も母も兄も、旅路に潜む様々な危険について口を酸っぱくしてアンジェリカに教え込んでくれたけれど、その中でも特に気を付けなければならないと言われたのは、良からぬことを考える者のことだった。獣や天候よりも、よほど危ないのだと。
そんな幼いころからの教えもあって、彼が姿を見せるまで、アンジェリカは気が気ではなかった。そんな心配をよそに、いつものようにヘラッと笑いながらブライアンがやってきたときには、ちょっとイラっとしてしまったけれども。
とにもかくにもブライアンはアンジェリカたちに合流し、今日は予定通りの行程に戻った。
日中はできるだけ距離を稼ぎたいので、馬を休ませるためだけの休憩のみ。
普通の旅なら街道沿いに点在する宿場町に泊まりながら進むところだけれども、今回は陽が沈む直前まで足を進め、暗くなったらその場で野宿をするという強行軍だった。多分、よほど旅慣れた者でなければ、きつい旅路だ。
そしてブライアンは、とてもではないが『旅慣れている』とは言えない人で。
彼も、昨夜は余裕綽々だった。
けれど、一晩明けて、今朝のこと、明らかに彼の顔色は優れず、いつもの笑顔にも全然力がなかった。きっと、硬い地べたで、ろくに眠れなかったのだろう。
アンジェリカは大丈夫だろうかと案じつつも、ブライアンの方からは何も言ってこなかったからそのまま様子を見ていた。
チラチラと彼を窺いながらまた丸一日馬を進め、こうして迎えた二日目の晩。
ブライアンは明らかに疲労困憊、アンジェリカが差し出したスープの入った器すら受け取ることが難しいように見える。
「やっぱり、帰った方が良くはないか?」
まだ、王都ロンディウムはすぐそこだ。帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
眉根を寄せて言ったアンジェリカを、ブライアンはノロノロと見上げ、力の入っていない笑みを浮かべた。アンジェリカが差し出すスープを受け取り、かぶりを振る。
「いや、大丈夫。慣れれば、あと二、三日で……」
その二、三日のうちに倒れてしまいそうなのだけれども。
「でも――」
更に言い募ろうとしたアンジェリカの唇を、すいと伸びてきた指が押さえた。
触れていたのはほんの一瞬で、気付いた時にはもう離れていたけれど、アンジェリカは唇に微かに残る感触に気を取られる。
その隙を、ブライアンが衝《つ》いた。
「あなたと一緒にいたいんだ」
静かで、深い声。
薪の明るさだけでもはっきりと見て取れる、緑色の輝きを放つ眼差し。
どうしてか、その言葉は、ただこの旅に同行したいのだというだけではないように聴こえた気がした。
その台詞、その視線になんとなくしり込みしながら、アンジェリカは重ねて提案する。
「別に、いずれ、ロンディウムには戻るのだから、ずっと離れているわけではない。長くてひと月かそこらだけだ」
「僕は、いつでもあなたの傍に行ける距離に、いたいんだ。あなたを独りにしたくない」
そう言ったブライアンには、疲労などどこに行ってしまったのだろう、という芯のある強さがみなぎっている。
ふと、その言葉に、いつぞやの彼の声が被さった。
独りにしない、ずっと傍に居ると言ってくれた声が。
(あれを、守ろうとしてくれているのか……?)
だったら、今はその必要はない。
「今は、独りでは……兄がいるから……」
目を伏せ、口ごもりながら答えたアンジェリカを、ブライアンは軽く首をかしげるようにして覗き込む。
「でも、お兄さんが相手では話せないこともあるだろう?」
「そんなことはない。兄は私が話すことはちゃんと真剣に聴いてくれるから」
「彼ではなくて、アンジェリカ、あなたの側の気持ちだよ」
「……兄は私に甘い。私の望みは可能な限り叶えようとしてくれるし、私も兄のことは信頼しているし、頼りにしている」
「そういうのとは、ちょっと違ってさ」
ブライアンはそれ以上の言葉が見つからないようで、もどかしそうにしている。
アンジェリカの方も彼の言いたいことが解らなくて、歯がゆくて――苛々する。唇を噛んだ彼女に、ブライアンがふと笑った。
僕には解っているんだよ、と言わんばかりのその笑みが、やけに腹立たしい。
「とにかく、スープを飲んで、寝て。明日の朝、やはり無理そうだったら、帰って」
畳みかけるようにそう言ってアンジェリカは立ち上がった。その場を離れる彼女を、ブライアンは引き留めようともしない。
彼がそうしないことに対して自分が覚えたのは安堵なのか不満なのか、そのどちらかを抱くべきなのか抱くべきではないのか、アンジェリカ自身にも判然としないから、いっそう苛立ちが募る。
焚火を挟んでブライアンから一番遠い場所――ガブリエルの隣に腰を下ろして、アンジェリカは自分の分のスープを食器に汲んだ。
「いただきます」
ボソリと言って黙々と食事を進める妹に、ガブリエルがチラリと目を走らせる。
しばし、沈黙。
冷え込みが強まりつつある中には、虫の声もない。
ややして。
「君は、あの男といるときは、少し表情が違うな」
どことなく思案深げに、淡々とガブリエルが言った。
「はい?」
アンジェリカは手を止め、眉間にしわを寄せて兄を見る。
思いきりいぶかしげな顔をしている彼女に向けられたガブリエルの眼差しからは、彼が何を考えているのか読み取れない。
「君がそんな顔をしているのは、初めて見るよ」
また、ガブリエルが言った。
(顔? どんな顔? 違う? どう違う?)
自分は、何一つ変わってはいないはず。
(変わるわけがない)
――変わりたくもない。
どんなふうにも。
自分は、なるべくして今の自分になったのだから。
「私は、別に、何も」
手の中のスープに映る自分の目を見つめながら、アンジェリカはボソボソと答えた。ほんの一瞬、兄に目を走らせると、彼は問いを投げかけるように片方の眉を軽く持ち上げてよこす。
その表情、仕草、眼差しが、何故か、似ても似つかないブライアンに重なった。
ガブリエルはアンジェリカの兄、ブライアンはアンジェリカの友人なのに、まるで彼女をすっ飛ばして二人が通じ合っているかのように。
彼らが仲良くなってくれるのなら、その方がいい。
けれど、こんなふうに彼女だけが蚊帳の外に置かれたように感じるのは、気に入らない。
(私は、何も変わらない。誰にも、変えさせることなんてできない)
アンジェリカは胸の中できっぱりと断言し、注がれ続ける兄の視線から目を逸らして食事を再開した。
硬い大地にぐったりと座り込んだブライアンを覗き込みながらアンジェリカがそう訊ねたのは、ロンディウムを出て二日目の晩のことだった。
「はは、――……大丈夫、大丈夫だよ。全然平気」
彼は中途半端な笑顔と共にそう答えたけれども、全然、平気そうには見えない。
まるで十日は荒野を彷徨ってきたかのようだ。
(あるいは、馬の尻につながれて丸一日引きずりまわされたとか)
――眉をひそめてしげしげとブライアンを観察したアンジェリカが抱いたのは、そんな感想だった。
とにかくブライアンはくたびれきっている。
アンジェリカたちが王都を出発した日の日没直前に、ブライアンは野宿の準備を始めていた彼女たちに追い付いた。本当はもう少し速く移動するはずだったから、もしかしたら合流は翌日になっていたかもしれなかったけれど、ブライアンのことを考えたアンジェリカがガブリエルに頼んで足を緩めてもらったのだ。
ガブリエルに言われた通り、ブライアンは身体にピッタリ合った三つ揃いから馬丁《ばてい》にでも借りてきたのだろうかという簡素な上下に着替えてきていた。コートも裾がほつれたよれよれのもので、服装だけ見れば屋敷の下働きという風情だけれども、どうしてか、まったくそんなふうには見えない。
やっぱり、ブライアンはブライアンだ。
品があるというか、どこか浮世離れしているというか。
この服装で貴族とは思われないかもしれないけれど、どこかいいところのお坊ちゃんがお忍びでうろついているくらいには思われるだろう。
(いずれにせよ、早く追いついてくれて良かった)
数日、いや、一晩でも一人きりにさせていたら、追剥に襲われていたかもしれない。
グランスは治安の良い国だけれども、さすがに人里離れたところでの安全までは保障の限りではない。ブライアンのように警戒心のない者が野宿なんてしたら、いい餌食になってしまう。
父も母も兄も、旅路に潜む様々な危険について口を酸っぱくしてアンジェリカに教え込んでくれたけれど、その中でも特に気を付けなければならないと言われたのは、良からぬことを考える者のことだった。獣や天候よりも、よほど危ないのだと。
そんな幼いころからの教えもあって、彼が姿を見せるまで、アンジェリカは気が気ではなかった。そんな心配をよそに、いつものようにヘラッと笑いながらブライアンがやってきたときには、ちょっとイラっとしてしまったけれども。
とにもかくにもブライアンはアンジェリカたちに合流し、今日は予定通りの行程に戻った。
日中はできるだけ距離を稼ぎたいので、馬を休ませるためだけの休憩のみ。
普通の旅なら街道沿いに点在する宿場町に泊まりながら進むところだけれども、今回は陽が沈む直前まで足を進め、暗くなったらその場で野宿をするという強行軍だった。多分、よほど旅慣れた者でなければ、きつい旅路だ。
そしてブライアンは、とてもではないが『旅慣れている』とは言えない人で。
彼も、昨夜は余裕綽々だった。
けれど、一晩明けて、今朝のこと、明らかに彼の顔色は優れず、いつもの笑顔にも全然力がなかった。きっと、硬い地べたで、ろくに眠れなかったのだろう。
アンジェリカは大丈夫だろうかと案じつつも、ブライアンの方からは何も言ってこなかったからそのまま様子を見ていた。
チラチラと彼を窺いながらまた丸一日馬を進め、こうして迎えた二日目の晩。
ブライアンは明らかに疲労困憊、アンジェリカが差し出したスープの入った器すら受け取ることが難しいように見える。
「やっぱり、帰った方が良くはないか?」
まだ、王都ロンディウムはすぐそこだ。帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
眉根を寄せて言ったアンジェリカを、ブライアンはノロノロと見上げ、力の入っていない笑みを浮かべた。アンジェリカが差し出すスープを受け取り、かぶりを振る。
「いや、大丈夫。慣れれば、あと二、三日で……」
その二、三日のうちに倒れてしまいそうなのだけれども。
「でも――」
更に言い募ろうとしたアンジェリカの唇を、すいと伸びてきた指が押さえた。
触れていたのはほんの一瞬で、気付いた時にはもう離れていたけれど、アンジェリカは唇に微かに残る感触に気を取られる。
その隙を、ブライアンが衝《つ》いた。
「あなたと一緒にいたいんだ」
静かで、深い声。
薪の明るさだけでもはっきりと見て取れる、緑色の輝きを放つ眼差し。
どうしてか、その言葉は、ただこの旅に同行したいのだというだけではないように聴こえた気がした。
その台詞、その視線になんとなくしり込みしながら、アンジェリカは重ねて提案する。
「別に、いずれ、ロンディウムには戻るのだから、ずっと離れているわけではない。長くてひと月かそこらだけだ」
「僕は、いつでもあなたの傍に行ける距離に、いたいんだ。あなたを独りにしたくない」
そう言ったブライアンには、疲労などどこに行ってしまったのだろう、という芯のある強さがみなぎっている。
ふと、その言葉に、いつぞやの彼の声が被さった。
独りにしない、ずっと傍に居ると言ってくれた声が。
(あれを、守ろうとしてくれているのか……?)
だったら、今はその必要はない。
「今は、独りでは……兄がいるから……」
目を伏せ、口ごもりながら答えたアンジェリカを、ブライアンは軽く首をかしげるようにして覗き込む。
「でも、お兄さんが相手では話せないこともあるだろう?」
「そんなことはない。兄は私が話すことはちゃんと真剣に聴いてくれるから」
「彼ではなくて、アンジェリカ、あなたの側の気持ちだよ」
「……兄は私に甘い。私の望みは可能な限り叶えようとしてくれるし、私も兄のことは信頼しているし、頼りにしている」
「そういうのとは、ちょっと違ってさ」
ブライアンはそれ以上の言葉が見つからないようで、もどかしそうにしている。
アンジェリカの方も彼の言いたいことが解らなくて、歯がゆくて――苛々する。唇を噛んだ彼女に、ブライアンがふと笑った。
僕には解っているんだよ、と言わんばかりのその笑みが、やけに腹立たしい。
「とにかく、スープを飲んで、寝て。明日の朝、やはり無理そうだったら、帰って」
畳みかけるようにそう言ってアンジェリカは立ち上がった。その場を離れる彼女を、ブライアンは引き留めようともしない。
彼がそうしないことに対して自分が覚えたのは安堵なのか不満なのか、そのどちらかを抱くべきなのか抱くべきではないのか、アンジェリカ自身にも判然としないから、いっそう苛立ちが募る。
焚火を挟んでブライアンから一番遠い場所――ガブリエルの隣に腰を下ろして、アンジェリカは自分の分のスープを食器に汲んだ。
「いただきます」
ボソリと言って黙々と食事を進める妹に、ガブリエルがチラリと目を走らせる。
しばし、沈黙。
冷え込みが強まりつつある中には、虫の声もない。
ややして。
「君は、あの男といるときは、少し表情が違うな」
どことなく思案深げに、淡々とガブリエルが言った。
「はい?」
アンジェリカは手を止め、眉間にしわを寄せて兄を見る。
思いきりいぶかしげな顔をしている彼女に向けられたガブリエルの眼差しからは、彼が何を考えているのか読み取れない。
「君がそんな顔をしているのは、初めて見るよ」
また、ガブリエルが言った。
(顔? どんな顔? 違う? どう違う?)
自分は、何一つ変わってはいないはず。
(変わるわけがない)
――変わりたくもない。
どんなふうにも。
自分は、なるべくして今の自分になったのだから。
「私は、別に、何も」
手の中のスープに映る自分の目を見つめながら、アンジェリカはボソボソと答えた。ほんの一瞬、兄に目を走らせると、彼は問いを投げかけるように片方の眉を軽く持ち上げてよこす。
その表情、仕草、眼差しが、何故か、似ても似つかないブライアンに重なった。
ガブリエルはアンジェリカの兄、ブライアンはアンジェリカの友人なのに、まるで彼女をすっ飛ばして二人が通じ合っているかのように。
彼らが仲良くなってくれるのなら、その方がいい。
けれど、こんなふうに彼女だけが蚊帳の外に置かれたように感じるのは、気に入らない。
(私は、何も変わらない。誰にも、変えさせることなんてできない)
アンジェリカは胸の中できっぱりと断言し、注がれ続ける兄の視線から目を逸らして食事を再開した。
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