放蕩貴族と銀の天使

トウリン

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第二部:天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

切通にて②

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 よほど馬の扱いに慣れているらしく、ブライアンはそわそわと落ち着きなく頭を上げ下げしたり足踏みをしたりしている三頭の馬をうまくいなしていた。
 アンジェリカは順々に馬の首を撫でてやりながら、ブライアンに目を向ける。

「すごいな、ブライアン」
 それは誇張でなくアンジェリカの心の底からの言葉だったのに、ブライアンは何だか渋い顔をしている。

 小首をかしげてブライアンを見たけれども、微妙に視線が合わない。彼の視線の行き先は――彼女の目よりも少し右下の方だ。

「ブライアン?」

 名前を呼ぶと、彼はポツリと呟いた。

「傷が」

「え?」
 眉をひそめて自分の身体を見下ろしてみても、傷なんて見当たらない。そもそも、どこにも痛みなんてないのだ。傷があろうはずがない。

 一体何のことだろうといぶかしむアンジェリカに向けて、ブライアンが手を伸ばしてくる。羽根がかすめるように彼が触れてきたのは、彼女の頬だった。そうされて意識を向けて初めて、そこに微かにひりつくような感覚があることに気づく。

(そう言えば、小石が当たったか)
 男のつま先がたまたま弾いた石礫が跳んできたことは思い出したけれど、ほんの少し、かすめた程度だ。

 傷と呼ぶのもおこがましいような代物のはず。

 深く考えることなく、アンジェリカはそこに触れようとした。その手を、ブライアンが包み込むようにして抑える。

「触ったらダメだよ」
 彼はアンジェリカの手を放し、腰に下げている小さな鞄の中を探った。そこから銀色をした小さな水筒のようなものを取り出し、真っ白な手巾に中身を滲み込ませる。
 ツンと鼻を衝いたのは、酒の臭いだ。
 何をするのだろう、とアンジェリカが思った瞬間、ブライアンはそれを彼女の頬に押し当てた。

「ッ!」

 ピリッと痺れるような刺激に思わず息を呑んだアンジェリカに、一瞬、彼は手を浮かせた。
「あ、ごめん」
 歪んだブライアンの顔は、アンジェリカよりもよほど痛そうだ。彼のそんな様子に、彼女は何故か申し訳ないような気持ちになる。

「沁みると思わなかったから反応してしまっただけだ。実際にはそれほど痛くないし、手当ても別に要らないと思う」
 ブライアンの心配を和らげようと思って言ったのに、それはあまり功を奏さなかったようだ。

「あなたは……」
 渋面で彼は何かを言いかけ、やめる。そしてさっきよりもそっと、アンジェリカの頬に手巾を押し当てた。
 その手付きはまさに『細心の注意を払って』という風情で、間近に彼女の頬を凝視する真剣この上ないブライアンの顔がある。

 ブライアンはいつもふわりと微笑んでいる印象があるから、こんなふうな彼は何だか違和感があった。アンジェリカは目を逸らし、視線を左の方へと落とす。傷ばかりに意識を集中させているブライアンは、そんな彼女には全く気付いていないようだった。

 彼は湿らした手巾を何度かアンジェリカの傷に押し当ててからそれをしまう。次いで、今度は同じ鞄から小さな小瓶を取り出して、そこに入っている軟膏を彼女の頬にそっと塗り付けた。そうしている間も奥歯が強く噛み締められているのが見て取れたから、納得しているわけではないことが判ってしまう。

(ブライアンは何が不満なのだろう)
 彼の気持ちが読めなくて、アンジェリカは眉根を寄せる。

 多対一でも誰も怪我をしていない。
 馬も逃げなかった。
 損害は何一つない。

 黙々と手を動かし続けるブライアンの治療をアンジェリカも黙り込んで受けながら、彼女は一つ一つ挙げつつ考えた。

 が、やっぱり答えは出ない。
 ブライアンが怒る要素は何もないと思われる。

 アンジェリカが頭を悩ませているうちにブライアンの手当は終わり、彼は鞄の中に小瓶をしまう。

「ありがとう」
 アンジェリカは彼の目を見ながら礼を言ったけれども、視線は合わない。
「たいしたことはできてないけどね。じゃあ、僕はあの枝を片付けるから」
 そう言って、ブライアンはアンジェリカから目を逸らしたまま彼女に背を向けた。

「私も――」
 ついていきかけたアンジェリカに、彼が肩越しに振り返る。今度は、目が合った――が、その顔には苦笑が浮かんでいた。

「いいよ、あなたは休んでいて。さすがにこれは、僕の方が向いているから」
 いつものように柔らかな口調だ。けれど、何故かその声にトンと肩を突かれたような気がしてアンジェリカは戸惑った。

 何も言えずに見返したアンジェリカを、ブライアンは束の間見つめ、そしてフッと笑う。その笑みと共に、仕方がないな、という彼の声が聞こえたような気がした。そうしてブライアンは今度こそ踵を返して道を塞ぐ木へ向かい、ガサガサとそれを揺らし始める。

 無言で作業をするブライアンの背中をアンジェリカは見守った。手伝いたいけれども、そうしたら余計にブライアンを傷付けてしまいそうな気がする。

 そこで、アンジェリカはふと固まる。

(――傷付ける?)

 どうしてそんなふうに思ったのだろう。
 そうならないように、アンジェリカはブライアンを守ったのに。

 うつむき立ちすくむ彼女の背中が、ポンと叩かれる。
 ハッと顔を上げると、兄の笑顔が向けられていた。

「腕を上げたな」
「兄さま」
「何をしょぼくれているんだい? 見事だったじゃないか」

 眉を上げてアンジェリカを見下ろしてくるガブリエルの眼差しには、言葉通りに問いかけてくるような色合いと、そして、彼女の心中を見通そうとするような光があった。今回の旅がアンジェリカの記憶を辿るものであるためか、時折ガブリエルは、こういう、今まで彼女が目にしたことがなかった表情を見せる。

(兄さまもブライアンも、何だか変だ)
 こんなにずっと一緒にいることがなかったから、今まで見えていなかったことが見えるようになっただけなのだろうか。
 それとも、一緒にいることで、今までとは違う何かが生じているのだろうか。

(判らない)

 アンジェリカは兄からブライアンに目を戻して、しばらくその背を見つめてから、呟く。

「私は、何か間違えたのでしょうか」
 訊ねた彼女を、ガブリエルは軽く首をかしげるようにして見下ろしてきた。

「何を? 彼よりも君の方が腕が立つのは紛れもない事実だし、馬が逃げたら困るのも事実だし、彼を後ろに下げて一人で奴らに対峙したのは正しい判断だった」
 ガブリエルは手を上げ、さっきブライアンが手当てをしてくれたアンジェリカの頬にそっと触れる。
「これが取るに足らないかすり傷だっていうことも、事実だしね」
 そう言ったガブリエルは、何故か愉快そうに見える。

「合理的に考えれば、君は正しかったよ。ただ、正しさだけでは割り切れないことも多々あるんだ。とりわけ、感情というものが入ってくるときにはね」
 ガブリエルはアンジェリカの頬に触れていた手で彼女の頭を包んで、つむじの辺りに口付ける。そうして少し身を屈めてアンジェリカと目を合わせてきた。

「君は、彼に嫌われたくないんだね?」

 ヒョイと投げられたその問いに、アンジェリカは、暗がりから突然光の中に投げ出された仔猫のように、固まった。
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