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第二部:天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。
幕間・その六:奪われた天使
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アンジェリカからとんでもない爆弾を投げ付けられて逃げ出すように孤児院を出たブライアンは、ただひたすら、盲目的に足だけを動かしていた。
『爆弾』は、もちろん、「イライラする」というアンジェリカの言葉ではない。まあ、ブライアンに対して彼女が何か複雑な思いを抱いているのは見ていれば判ったし、その理由も、さっきの遣り取りもあって、ぼちぼち推測がついてきた。それについては、別に衝撃的な真実でもないし、アンジェリカに言った通り、怒ってもいない。むしろ、そんな心情を吐露してくれるようになったのか、と、ある種の感慨を持ってさえいた。
問題は、「嫌われたくない」の方なのだ。
(彼女があんなことを言うなんて)
明らかに、つい、ポロッと、という風情だったが、だからこそ驚きだった。彼女がそんな隙を見せるなんて、ブライアンは夢想すらしたことがなかったのだ。
よほど、アンジェリカの中では大波が立っているようだ。
ブライアンは、小さく息をつく。
ああやって揺らいでいる彼女は辛そうではあるけれども、何となく、その波を越える時は近づいているような気もする。いや、多分、近づいているのだろう。
今の彼女の苦しみは、きっと、産みの苦しみのようなものなのだ。
それが足りない記憶に由来するものなのか、あるいは、他の何かから来るものなのか。
いずれにせよ、ブライアンは辛い思いをしているアンジェリカには寄り添っていたいと思うし、それを乗り越える彼女を、乗り越えた彼女を、見ていたいと思う。
「まあ、彼女が許してくれればだけどね……」
ハハ、と独り笑ったブライアンは、ふと顔を上げて辺りを見回した。一心不乱に歩いていたから気付かなかったけれども、いつの間にか孤児院の壁がなくなっている。が、街中まではまだまだ距離がある。言って帰ってくるころには、すっかり日も暮れていることだろう。
そこで彼は、至極明確な事実に気が付いた。
「もしかして、馬があった方がいいのでは……?」
ここまで来ておいてなんだが、帰りのことを考えたら、馬を取りに孤児院まで戻った方が良さそうだ。
迷ったのはほんの一瞬で、すぐにブライアンは身を翻して引き返し始めた。
再び行き当たった壁に沿って進む。やっぱりだだっ広いなと思いつつ、最初に来た時と同じように、角を曲がった。
と、そこで遠目に見えたものにブライアンはふと足を止める。
(馬車?)
確かに、門よりも少し手前に、箱型馬車が。
馬の向きからすると街の方から来たのだろうと思われるが、彼の横を馬車が通り過ぎた記憶はない。孤児院の門から先ほどブライアンが踵を返したところまでは一本道で、塀の反対側は結構樹が多い林になっている。
(いったい、どこから?)
いくら呆けていようが、馬車が隣を通って気付かないはずがなかろう。
まさか、林の中を突っ切ってきたということもあるまいに。
馬車の扉の前にはブライアンに背を向けた一人の男がいる。ここから見て取れるのは、良い身なりをして黒髪だということくらいだ。そして、何かを腕の中に抱えているように見える。
馬車が微かに揺れたところを見ると、どうやら、中にも人がいるらしい。
まあいいか、と見るともなしに馬車の前の男の背を見ながらブライアンは再び歩き出した。彼が数歩進んだところで馬車に乗り込もうと男が動き、その腕の中にあるものがブライアンの目にも入ってくる。
その瞬間、彼は立ちすくんだ。
「え……?」
それが見えたのは、男が二歩ほど動いたわずかな間のみ。すぐにその姿は車中に消えた。
が。
「アンジェリカ……?」
つぶやきは、彼の口の中でとどまった。
どうして、彼女が見知らぬ男の腕の中にいるのか、解らない。だが、ブライアンがそれを見間違うはずがない。
彼の目が捕らえたのは、銀色の輝き。
まごうことなき、アンジェリカの、銀髪だ。
「待て――ッ!」
我に返ったブライアンがあげた声は半歩遅く、それが届くより先にバタンと音を立てて馬車の扉が閉ざされた。そして、馬のいななきと共に走り出す。
すぐさまブライアンは猛然と追いかけたが、ヒトが二頭の馬が引く馬車に追いつけるわけもなく。
彼が息を切らして馬車がいた辺り――孤児院の前に立った時には、すでに車輪の音も届かぬほどに距離を離されてしまっていた。
「クソ、誰が……」
呻いて、すぐに一人の男が脳裏に浮かぶ。
ウォーレス・シェフィールド。
あの男以外に誰がいる。
どうして奴がアンジェリカがここにいることを知ったのかは判らないが、きっと、間違いない。
呆けたように己の足で馬車を追いかけかけて、ブライアンはすぐにその愚かしさに気付いた。
「馬、馬だ」
馬で、追わねば。
ブライアンはすぐさま門に手をかける。助かったことに閂は外されていて、人を呼ばずしてそれを開くことができた。
荒い息のまま厩舎を目指してまた走り出したブライアンは、孤児院の建物に目を走らせた。と、前庭に面した二階の部屋の窓に、艶やかな金髪が見える。
ブライアンは咄嗟に身を屈め、手近な小石をすくい取った。それをその窓目がけて投げ付ける。
甲高い音と共に砕け散るガラス窓。
一拍置いて、そこからガブリエルが身を乗り出した。
「貴様、何を考えている!?」
怒気を含んだその声に、間髪入れずに叫び返す。
「アンジェリカが、攫われた!」
ガラスがなくなったその窓からガブリエルが身を躍らせたのは、ブライアンが吸った息を吐き出すよりも早かった。
ほとんど音も立てずに二階から飛び下りたガブリエルは、ブライアンには目もくれず厩舎がある方へと走り出す。彼を追って、ブライアンもまた動いた。
厩舎に辿り着いたのは二人ほぼ同時で、彼らはそれぞれ自分が乗る馬に鞍を付ける。そうしている間に、ガブリエルが苛立ちも露わな声で話し出した。多分、怒りのあまりに無言でいられないのだろう。
「この孤児院は、巡回警邏官の子どものためのものだ」
「え?」
ブライアンは一瞬手を止めてしまったが、すぐにまた作業を再開する。彼の声には気付かなかったように、あるいは、気にも留めずに、ガブリエルは続けた。
「子ども連れでは難しい職務を課されたとき、あるいは、親が亡くなり、引き取り手もない子どもは、ここに保護される。だから、アンジェリカはここに連れてこられたのだ――母の最期の願いを託された巡回警邏官によって」
「君はここのことを知らなかったのかい?」
「子どもができた時に、ここのことを知らされるらしい。ここに巡回警邏官の子どもがいるということは、ごく限られた者しか知らされない」
そういう場所だから、この警戒ぶりなのか。
警邏官にとって、子どもは最大の弱点に違いない。その安全が担保できなければ、任務にも支障が出る。
そして、どんな恨みを買うか判らない職務だ。最強の庇護者たる親が失われれば、その子どもたちはどんな目に遭うことか。
(アンジェリカだって、十年も経った今でも付け狙われているのだから)
だが、そこでふとブライアンの中に疑問が湧く。
(ウォーレス・シェフィールドは恨みで動いていたのだろうか)
いや、そうではなかった。
船倉で彼と対峙した時、まるで長い間アンジェリカのことを求めていたかのような口ぶりだった。同時に、あの時彼女に向けられていた執着に満ちた眼差しを思い出し、ブライアンの背筋に悪寒が走る。
(十年前から、奴の狙いはアンジェリカだったのか……?)
もしかすると、彼女の両親が命を落としたことも。
もしもブライアンのその推測が事実だとすれば、アンジェリカに対するウォーレス・シェフィールドの執着は、生半可なものではない。
今アンジェリカを見失えば、きっと、二度と取り戻せない。
刹那、噛み締めた奥歯がギシリと鳴った。
(そんなこと、させるものか)
ブライアンには、そんな選択肢はない。
断じて、有り得ない。
それまで以上の速さで手を動かし、ガブリエルにわずかに遅れてブライアンも鞍を付け終える。ほんの一呼吸も置くことなく、互いに目配せすらせずに馬にまたがった。
馬上の人となり、そこで初めて、炯々と光るガブリエルの目がブライアンに向けられる。
「この前の道はしばらくは分岐がない。道が分かれる前に追いつくぞ」
そう言って、彼は馬の腹を蹴った。
『爆弾』は、もちろん、「イライラする」というアンジェリカの言葉ではない。まあ、ブライアンに対して彼女が何か複雑な思いを抱いているのは見ていれば判ったし、その理由も、さっきの遣り取りもあって、ぼちぼち推測がついてきた。それについては、別に衝撃的な真実でもないし、アンジェリカに言った通り、怒ってもいない。むしろ、そんな心情を吐露してくれるようになったのか、と、ある種の感慨を持ってさえいた。
問題は、「嫌われたくない」の方なのだ。
(彼女があんなことを言うなんて)
明らかに、つい、ポロッと、という風情だったが、だからこそ驚きだった。彼女がそんな隙を見せるなんて、ブライアンは夢想すらしたことがなかったのだ。
よほど、アンジェリカの中では大波が立っているようだ。
ブライアンは、小さく息をつく。
ああやって揺らいでいる彼女は辛そうではあるけれども、何となく、その波を越える時は近づいているような気もする。いや、多分、近づいているのだろう。
今の彼女の苦しみは、きっと、産みの苦しみのようなものなのだ。
それが足りない記憶に由来するものなのか、あるいは、他の何かから来るものなのか。
いずれにせよ、ブライアンは辛い思いをしているアンジェリカには寄り添っていたいと思うし、それを乗り越える彼女を、乗り越えた彼女を、見ていたいと思う。
「まあ、彼女が許してくれればだけどね……」
ハハ、と独り笑ったブライアンは、ふと顔を上げて辺りを見回した。一心不乱に歩いていたから気付かなかったけれども、いつの間にか孤児院の壁がなくなっている。が、街中まではまだまだ距離がある。言って帰ってくるころには、すっかり日も暮れていることだろう。
そこで彼は、至極明確な事実に気が付いた。
「もしかして、馬があった方がいいのでは……?」
ここまで来ておいてなんだが、帰りのことを考えたら、馬を取りに孤児院まで戻った方が良さそうだ。
迷ったのはほんの一瞬で、すぐにブライアンは身を翻して引き返し始めた。
再び行き当たった壁に沿って進む。やっぱりだだっ広いなと思いつつ、最初に来た時と同じように、角を曲がった。
と、そこで遠目に見えたものにブライアンはふと足を止める。
(馬車?)
確かに、門よりも少し手前に、箱型馬車が。
馬の向きからすると街の方から来たのだろうと思われるが、彼の横を馬車が通り過ぎた記憶はない。孤児院の門から先ほどブライアンが踵を返したところまでは一本道で、塀の反対側は結構樹が多い林になっている。
(いったい、どこから?)
いくら呆けていようが、馬車が隣を通って気付かないはずがなかろう。
まさか、林の中を突っ切ってきたということもあるまいに。
馬車の扉の前にはブライアンに背を向けた一人の男がいる。ここから見て取れるのは、良い身なりをして黒髪だということくらいだ。そして、何かを腕の中に抱えているように見える。
馬車が微かに揺れたところを見ると、どうやら、中にも人がいるらしい。
まあいいか、と見るともなしに馬車の前の男の背を見ながらブライアンは再び歩き出した。彼が数歩進んだところで馬車に乗り込もうと男が動き、その腕の中にあるものがブライアンの目にも入ってくる。
その瞬間、彼は立ちすくんだ。
「え……?」
それが見えたのは、男が二歩ほど動いたわずかな間のみ。すぐにその姿は車中に消えた。
が。
「アンジェリカ……?」
つぶやきは、彼の口の中でとどまった。
どうして、彼女が見知らぬ男の腕の中にいるのか、解らない。だが、ブライアンがそれを見間違うはずがない。
彼の目が捕らえたのは、銀色の輝き。
まごうことなき、アンジェリカの、銀髪だ。
「待て――ッ!」
我に返ったブライアンがあげた声は半歩遅く、それが届くより先にバタンと音を立てて馬車の扉が閉ざされた。そして、馬のいななきと共に走り出す。
すぐさまブライアンは猛然と追いかけたが、ヒトが二頭の馬が引く馬車に追いつけるわけもなく。
彼が息を切らして馬車がいた辺り――孤児院の前に立った時には、すでに車輪の音も届かぬほどに距離を離されてしまっていた。
「クソ、誰が……」
呻いて、すぐに一人の男が脳裏に浮かぶ。
ウォーレス・シェフィールド。
あの男以外に誰がいる。
どうして奴がアンジェリカがここにいることを知ったのかは判らないが、きっと、間違いない。
呆けたように己の足で馬車を追いかけかけて、ブライアンはすぐにその愚かしさに気付いた。
「馬、馬だ」
馬で、追わねば。
ブライアンはすぐさま門に手をかける。助かったことに閂は外されていて、人を呼ばずしてそれを開くことができた。
荒い息のまま厩舎を目指してまた走り出したブライアンは、孤児院の建物に目を走らせた。と、前庭に面した二階の部屋の窓に、艶やかな金髪が見える。
ブライアンは咄嗟に身を屈め、手近な小石をすくい取った。それをその窓目がけて投げ付ける。
甲高い音と共に砕け散るガラス窓。
一拍置いて、そこからガブリエルが身を乗り出した。
「貴様、何を考えている!?」
怒気を含んだその声に、間髪入れずに叫び返す。
「アンジェリカが、攫われた!」
ガラスがなくなったその窓からガブリエルが身を躍らせたのは、ブライアンが吸った息を吐き出すよりも早かった。
ほとんど音も立てずに二階から飛び下りたガブリエルは、ブライアンには目もくれず厩舎がある方へと走り出す。彼を追って、ブライアンもまた動いた。
厩舎に辿り着いたのは二人ほぼ同時で、彼らはそれぞれ自分が乗る馬に鞍を付ける。そうしている間に、ガブリエルが苛立ちも露わな声で話し出した。多分、怒りのあまりに無言でいられないのだろう。
「この孤児院は、巡回警邏官の子どものためのものだ」
「え?」
ブライアンは一瞬手を止めてしまったが、すぐにまた作業を再開する。彼の声には気付かなかったように、あるいは、気にも留めずに、ガブリエルは続けた。
「子ども連れでは難しい職務を課されたとき、あるいは、親が亡くなり、引き取り手もない子どもは、ここに保護される。だから、アンジェリカはここに連れてこられたのだ――母の最期の願いを託された巡回警邏官によって」
「君はここのことを知らなかったのかい?」
「子どもができた時に、ここのことを知らされるらしい。ここに巡回警邏官の子どもがいるということは、ごく限られた者しか知らされない」
そういう場所だから、この警戒ぶりなのか。
警邏官にとって、子どもは最大の弱点に違いない。その安全が担保できなければ、任務にも支障が出る。
そして、どんな恨みを買うか判らない職務だ。最強の庇護者たる親が失われれば、その子どもたちはどんな目に遭うことか。
(アンジェリカだって、十年も経った今でも付け狙われているのだから)
だが、そこでふとブライアンの中に疑問が湧く。
(ウォーレス・シェフィールドは恨みで動いていたのだろうか)
いや、そうではなかった。
船倉で彼と対峙した時、まるで長い間アンジェリカのことを求めていたかのような口ぶりだった。同時に、あの時彼女に向けられていた執着に満ちた眼差しを思い出し、ブライアンの背筋に悪寒が走る。
(十年前から、奴の狙いはアンジェリカだったのか……?)
もしかすると、彼女の両親が命を落としたことも。
もしもブライアンのその推測が事実だとすれば、アンジェリカに対するウォーレス・シェフィールドの執着は、生半可なものではない。
今アンジェリカを見失えば、きっと、二度と取り戻せない。
刹那、噛み締めた奥歯がギシリと鳴った。
(そんなこと、させるものか)
ブライアンには、そんな選択肢はない。
断じて、有り得ない。
それまで以上の速さで手を動かし、ガブリエルにわずかに遅れてブライアンも鞍を付け終える。ほんの一呼吸も置くことなく、互いに目配せすらせずに馬にまたがった。
馬上の人となり、そこで初めて、炯々と光るガブリエルの目がブライアンに向けられる。
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2024年12月追記
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