至高の愛

トウリン

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 アパートのドアをそっとノックした僕を迎えてくれたのは、喜びの涙で頬をびしょ濡れにした、彼女の満面の笑顔だった。
「良かった! 無事に着いたんだね。もしかして……って思ったら、もう怖くて怖くて」
 彼女は僕の腕を掴んで部屋の中に引っ張り込んでドアを閉めると、鍵を、そしてチェーンをかける。
「途中で奴らと鉢合わせしそうになったけど、何とかしのいだよ」
 まあ、『奴ら』って言っても、実際には一体だけだったけど。多少、誇張してもいいだろう?
 彼女は僕の台詞にハッと息を呑んで、涙ぐむ。
「ごめんね、私が来てって言っちゃったから……大学で同じ講義を取ってるんだよね? ごめん、あなたの名前も知らないのに……人の声を聞いたのがすごく久し振りだったから、電話をもらって嬉しくって。お母さんたちに電話かけても出ないし、もう、世界で私しか生き残ってなかったらどうしようって思ってたの……」
 一気にそう言って、彼女がしゃくりあげる。
 僕はバックパックを床に置き、ためらいがちに手を伸ばして、彼女の細い肩を抱き寄せた。

 逞しいとは程遠い僕の腕の中にもすっぽりとおさまってしまう、華奢な身体。華奢なのに、なんて柔らかいんだろう。
 彼女は、ひしと僕にしがみ付いてくる。
 初めて彼女に触れられた感動で、ジンと全身が痺れた。
「ねえ、なんでこんなことになっちゃったんだろう……なんで……?」
 震えながら、彼女が繰り返す。
 もちろん、僕はその答えを持っていない。
 ただ黙って、彼女を抱き締めた。
 ちょっと酸っぱいような汗じみた彼女の匂いを、こっそりと深呼吸して胸いっぱいに吸い込む。
 本物の、彼女の香りだ。遠くから見つめているだけじゃ、彼女がどんな匂いをしているのか、判らなかったんだ。
 多分、お風呂にも入れてないんだろうけど、いや、だからこそか、すごく良い匂いだ。
 肩の上で切り揃えられたサラサラした髪に、そっと頬を摺り寄せる。

 しばらくそうしているとだんだんと彼女の震えが収まっていって、やがて恥ずかしそうに顔を上げた。
「ごめんね、泣いたりして……やだ、さっきから謝ってばっかり」
「いいよ。それより、何か食べる? 途中のスーパーで、色々もらってきたんだ。結構品物が残ってたよ」
「え、ホント? 嬉しい。あんまり食べる物が残ってなくって……お腹空いてたの」
 その言葉と共に、クゥと彼女のおなかが小さく鳴った。
 ほんのりと色付いた彼女の頬が可愛い。感染しているわけじゃないのに、齧ってみたくなる。
 僕は余計なことをしでかしてしまう前に彼女を放してバックパックを持ち上げると、そそくさとキッチンに向かった。
「座ってて。僕が用意してあげるよ」
「あ、うん、ありがとう」
 彼女は頷いて、素直にクッションに腰を下ろした。そうして、バックパックから色々なものを取り出す僕に、話しかけてくる。
「ねえ、外って、どんな感じだった?」
「パッと見はあんまり前と変わらないよ。ただ、人の姿を見ないだけ。あ、猫はいたな。ごみ箱漁ってた。結構いたよ」
 チラリと見遣ると彼女は膝を抱えていて、その目は床を見つめていた。僕は彼女に答えながら桃の缶詰を開けて、皿に盛る。ちょっと考えてから粉薬を振りかけ、その上にもう一つ桃をのせた。今はネットで何でも調べられるし買えちゃうから、便利だよね。
「猫は大丈夫なのかなぁ。あんなふうになっちゃうのは、人間だけなの?」
「ネット見てると、どうもそうみたいだよ。実験してる人がいた」
 それも動画で見たんだ。
 犬、猫、鶏、ハムスター、そして人間。
 ナイフで傷を付けて、そこに奴らの血や肉をなすり付ける。
 三日くらいで変化が現れたのは、人間だけだった。

「そんなことした人がいるの!?」
 彼女がパッと顔を上げる。元から大きな目を、更に大きくまん丸く見開いていた。
 僕はとっさに手にしていた薬の瓶を手のひらの中に握り込んで隠す。
 危ない危ない。
「まあ、相手のことを知らないと、対処できないからね」
 そう言って、缶ジュースのココアを開ける。子どもに薬を飲ませる時は、ココアとかに混ぜるといいんだそうだ。彼女の目がまた床に戻っているのを確かめてから、カップに移したそれにサラサラと薬を注ぎ込む。
 甘い物ばかりだと気分が悪くなりそうだから、ちょっと塩の付いたクラッカーも出した。流石にクラッカーには薬を盛れないから、残念ながら、そのままだ。
 一揃いをトレイに載せて、彼女の元に戻る。

「わあ、おいしそう」
 たいしたものじゃないのに、彼女は目を輝かせてトレイに見入っている。
 ホントに、可愛い。
 元から可愛いのが、僕に逢えた嬉しさで十倍増しくらいになってるんだね。
「どうぞ」
「ありがとう。……ほんとに、嬉しい……」
 また、涙。
 よっぽど心細かったんだろうな。
 でも、大丈夫。これからは僕がずっと傍にいるから――誰よりも、傍に。
 心の中でそう呟いて、僕は彼女の前にトレイを置くと、彼女と向かい合うようにして腰を下ろす。

 彼女は僕の尻が床に着くか着かないか、といううちに、ココアの入ったコップに手を伸ばしていた。数口飲んで、次はぺろりと桃を平らげる。
 そんなに急いで食べたら喉に詰まらせそうだ。
 僕がそう思った傍から、彼女が咳き込んだ。クラッカーでむせたらしい。
「大丈夫?」
 ココアを手渡すと、彼女はそれを飲み干してから恥ずかしそうに微笑んだ。
「大丈夫……みっともないね、わたし」
 全然、みっともなくなんてない。
 僕は笑い返した。
「いつから食べてなかったの?」
 そう尋ねると、彼女はホッと息をついてからニコッと笑った。
 すっかり、僕に打ち解けている笑顔だ。
「昨日から。配給の非常食も、昨日で食べ終わっちゃって。でも、怖くて外には出られなかったから、このままこの部屋で飢え死にするのかなって、思ってたんだ。そんな時にあなたから電話をもらって」
「……嬉しかった?」
「もう、すっごく! どうしても逢って、顔を見ながら話をしたくって……気付いたら、来てって言っちゃってたの。考えてみたら、ひどいよね。外は危険なのに」
 項垂れた彼女が、可愛い。
「たいして危なくなかったよ」
 僕が笑ってそう答えると、彼女はホッとしたように笑みを返してくれた。
「あ、そう言えば、私、まだあなたの名前、訊いてな――」
 と、不意に、彼女が言葉を切って、いぶかしげに眉をひそめる。
「どうかした?」
「ん……何か、急に、ねむい……」
 言ってる傍から身体が揺れ始めて、ガクンと頭が垂れる。僕は完全に彼女が崩れてしまう前に手を伸ばして肩を支えると、ゆっくりと床に横たえた。

 寝かせるや否や、すうすうと、穏やかな寝息が静かな部屋の中に響く。
 僕は指先で彼女の目蓋に触れ、頬を辿り、唇をなぞる。
 彼女は、どこもかしこも柔らかかった。
 穏やかな寝顔は何時間見ていても飽きることがなさそうだったけれど、見惚れる前にやることをやっておかなければ。
 僕はバックパックを引き寄せて、中からダクトテープを取り出した。
 最初に、彼女の左右の足首を一つにしてグルグル巻きにする。
 次に彼女を引き起こして僕の肩に寄り掛からせておいて、両手首を後ろで一まとめにすると、これもまたグルグル巻きにした。
 普通だったら、彼女みたいな華奢な女の子にはこれで充分なのだろうけど。
 僕は少し考えて、彼女の肩から腰の辺りまで、腕の上からグルグル巻きにした。
 ダクトテープの簀巻きだ。
 芋虫みたいになってしまって可哀想だけど、仕方がない。
「ごめんね」
 彼女の耳元で囁いたら、ほんの少し、頷いてくれたような気がした。

 僕は彼女の頬を撫でてから、今度はカッターとタッパーを取り出す。タッパーの中に入っているのは、赤黒い塊だ。滅茶苦茶臭いから、開けるのは間際にしておく。
「ごめんね」
 もう一度、そう声をかけてから、僕は彼女の膝丈のフレアスカートをめくり上げた。
 ――真っ白な太ももを直視してしまって、思わず怯む。
 女の子のそんな所に簡単に触れちゃいけないのは判っているけれど、触らないことには何もできない。
 ちょっと唾を呑みこんで、僕はチキチキと音を立ててカッターの刃を出した。

 尖った切っ先を、柔らかな肌に押し当てる。
 プツッと微かな感触が指先に響いて、刃が当たっている所から赤いものがプクリと脹れ出した。
「ん……」
 彼女が顔を歪めながら小さな声を漏らし、無意識のうちに刺激から逃れようとする。薬のせいで感覚が鈍っているからか、それほど痛そうではない。
 僕は彼女のすねをまたぐようにしてその上に腰を下ろし、体重で押さえ込む。左手で彼女の腰を押さえて、ゆっくりとカッターを走らせた。
「んん」
 彼女が身もだえする、けど、目覚めはしない。
 僕が操る刃は、彼女の腿から一直線に赤い線を描いた。皮膚が柔らかいからなのか、刃の切れ味がいいからなのか、全然抵抗が無くてむしろ奇妙な感じだった。人間の身体を傷付けているという気が、全然しない。
 まあ、だからと言って、良い気分なわけではないけど。
 愛する人を傷付けて、嬉しいわけがない。
「本当に、ごめんね」
 聞こえていないとは思いつつ、もう一度謝った。

 じきに、刃先がこつりと膝のお皿に当たる。
 これ以上切ると、スカートで隠せなくなってしまう。傷を目の当りにしたら、彼女はきっとショックを受けるに違いない。動画を見る限り、傷が大きければ大きいほど早く感染が成立していたけど、これ以上彼女を傷付けるのも、つらいし。
 僕はカッターを置くと、今度はタッパーを手に取った。
 ふたを開けると、強烈な臭気が一気に部屋の中に充満する。たいして量はないのに、すごい臭い。こんなものを彼女に触れさせるのは嫌だったけれど、他に方法が思い浮かばなかったんだ。後で、ちゃんとキレイにしてあげよう。
 僕はゴム手袋を取り出して手にはめると、その代物を掴み出した。グチャリと、まるで子どもの頃に遊んだスライムのような感触。
 臭いとその触感に顔をしかめながら、彼女のスカートを汚さないように気を付けて、それを傷口に練り込んだ。
「ッ!」
 眠りの淵で、彼女が小さく息を呑む。さすがに、ちょっと沁みたのかも。
 ごめんね、すぐに終わらせるから。
 心の中で謝りながら、丹念に何度かそれをなすり付けた。
「い、あ、ぁ……」
 彼女が喉の奥から絞り出すように、細い声で呻く。
 ……なんか、ちょっと、変な気分になってきちゃうな。
 別に、僕は人を傷付けて興奮するような変態じゃないのに。
 何だか気まずい思いになりながらも、作業を続ける。

 そうして。

「まあ、こんなもんでいいかな……」
 彼女の白い腿に、今や赤黒いモノがべったりと付いている。一刻も早くキレイにしてあげたかったけれど、動画の実験では、接触が五分以下だとうまく感染しなかったんだよね。噛まれてすぐに傷口をえぐったら、被験者は無事だったんだ。
 ――三秒ルールみたいなもんかな。
 時計と睨めっこをして、きっかり十分でウェットティッシュを取り出し、彼女の腿を拭う。傷が見えちゃったらショックだろうから、ちゃんと包帯も巻いてあげてね。
 そうしてすっかりキレイにしてあげると、僕は彼女の頭の下にクッションを置いて、壁に寄り掛かった。
 コチコチと、時計の秒針が立てる音と彼女の寝息だけが部屋の中のBGMだ。
 僕は誰にも邪魔されず、じっくりと彼女を堪能する。
 今この時、彼女は、僕のものだった。そして、じきに、僕も彼女のものになる。
 その時が待ち遠しくてならない。
 ああ、早くそうならないかな。
 僕も眠れてしまったら、時間が早く過ぎるだろうけど、期待のあまりに目が冴えてしまって仕方がない。だから、ひたすら彼女を目で愛した。

 ――彼女が目を覚ましたのは、三時間ほどが過ぎた頃だ。
 目蓋が震えて持ち上がり、何度か瞬きをする。
 訝しげに辺りを見回してから、パッと目を見開いた。
「え、何、これ……」
 まだ薬の影響で、ろれつが回っていない。舌足らずな口調が可愛くて、僕は思わず微笑んだ。
「起きたんだね」
 そう声をかけると、彼女は初めて僕に気付いたように、凍り付いた。
「ねえ、なんで、私、こんななの――あ、痛ッ」
 ダクトテープで簀巻きにされたまま身体を捻じった彼女が、悲鳴を上げる。
「ああ、ジッとしていた方がいいよ?」
「でも、やだ、脚がすごく痛い――熱い……ねえ、私に何かした? 私に何をしたの!?」
「大丈夫、ちゃんと手当てしてあるし、じきに痛くなくなるから」
 安心させるために微笑んで見せたんだけど、あんまり効果がなかったみたいだ。
「ねえ、あなた、何なの!? これ、解いてよ!」
「駄目だよ。そうしたら、君はどこかに行っちゃうじゃないか。君だって、僕のことをずっと好きだったんだろう? ようやく、一緒になれるんだから――」
「ずっと、好き……? 何のこと? あなたのことなんて、知らなかったわよ! ついさっき、あなたが電話してくるまでは!」
 睨み付けてくる彼女に、僕は首をかしげる。
「え? 僕たちは何度も逢ってるよ? いつも傍にいたじゃないか」
「知らない……知らない、知らない!」
 そんなに大きな声をあげたら、喉が痛くなってしまうと思うんだけどな。

 彼女はそう言うけれど、僕は彼女のことを何でも知ってるんだ。誕生日も、何が好きかも、世界がこうなるまでは毎日どんなふうに過ごしていたのかも。彼女のことなら何でも知ってる。本当は、今頃イタリアに旅行に行ってる筈だったんだよね。僕も同じ飛行機、同じホテルを予約したんだけど、無駄になっちゃった。まあ、結局こうやって一緒にいるんだから、別にいいけど。

 にっこり笑ってみせると、彼女は何故か身を竦ませた。
「ねえ、ホントにお願い。どこにも逃げたりしないから、解いて……」
 打って変わって、弱々しい声。
 ちょっとほだされちゃうけど、ここは心を鬼にして。
「駄目だよ」
 僕がそう答えると、彼女はゆっくりと目を閉じた。
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