癒しの乙女の永久なる祈り

トウリン

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最終章:乙女の祈りが叶うとき

邪神

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 暗い。

 ハッと我に返ったルゥナが最初に思ったのは、それだった。
 右も左も、上も下も、どこを見ても漆黒の闇。
 壁があるのか、天井があるのか――今立っている足の下に地面があるのかも、判らない。
 そんなにも暗いのに、持ち上げた自分の手足は、はっきりと見て取れた。

「どこなんだろう……」
 呟いても、誰も返事をくれない。

(こうなる前は、確か――)
 マギクの身体にしがみついたはず。
 手のひらがごつごつとした岩の塊のようになってしまった彼に触れて、そして――そこからは覚えていない。

「ソワレ……エディ?」
 応じてくれる者などいないと判っていても、つい、ルゥナは彼らの名前を呼んでしまった。
 けれど、そうして、やっぱり、返ってくるのが静寂だけであることを思い知らされる。
 とてつもない孤独感に、ブルリとルゥナの身体が震えた。
 この場に丸くうずくまってしまいたい。小さく縮こまって、エディたちが迎えに来てくれるのを待っていたい。
 そう思ってしまうけれど。

「……ここにいたってしょうがないよね。ジッとしてたって、何も変わらない」
 自分自身を叱咤して、ルゥナは両手を固く握り締めた。
 片方の足を持ち上げ、恐る恐る前に下ろす。目には何も見えなかったけれど、足の裏には、確かに硬い平面を感じた。

(とりあえず、歩ける。動ける)
 ホッと小さく息をついて、また一歩、ルゥナは踏み出した。
 動き出してみると手足にまとわりつく空気はとても重くて、足を持ち上げるのもつらい。ともすれば、その場にへたり込んでしまいたくなる。
 それを奮い立たせて、この闇の中、どこを目指したらいいのかも判らないまま、ルゥナはとにかく進んだ。

 どれくらい歩みを重ねた頃だろう。
 ふと、ルゥナは立ち止った。
 一筋の光も射さない中で、目を凝らす。

 何も、見えない。
 けれど、何かがある――違う。誰かが、いる。

(誰……?)
 その姿は見えなくても、ルゥナは何者かの存在を確信していた。
 直感に引きずられるようにして、もう石の塊のように感じられる足を無理やり動かす。
 進む先に見えてきたのは、闇に紛れてしまいそうな一塊。あと三歩ほどのところまで近付くと、その姿がはっきりと見て取れるようになった。
 丸くなって地面に伏している黒衣の人物は、ほとんど銀色と言ってもいいほど淡い金髪をしている。暗闇のはずなのに、その色だということははっきりと判った。

(あれは、マギク?)

 どうだろう。
 少なくとも髪の色は、さっきまで見ていたマギクの色に、良く似ていた。
 背は高そうだけれども、体格はあまりがっしりとはしていないように見える。そう、変化してしまう前の、彼のように。

(やっぱり、マギクだ)
 手足を縮めて伏しているマギクは、岩の塊のように固まっている。ほんの少しも動いていなくて、呼吸をしているのかどうかも判らない。
 その隣にはもう一人いて、ルゥナの方に背を向ける形でマギクに寄りかかっている。その背中は彼よりもずっとずっと小柄で華奢だった。

(……女の子……? わたしと、同じくらいの……?)
 ルゥナは眉をひそめる。
 見えるのは、細い背に広がる漆黒の長い髪と、同じ色の長衣。ほんの少し覗いている素肌は、今まで見たことがない、浅黒いもの。
 何故だろう、何となく、その姿に見覚えがあるような気がする。
 ルゥナがそう思ったとき、少女が身じろぎをした。
 ゆるりとした動きで身体を起こす。気だるげに立ち上がりながら、ルゥナの方に向き直る。
 サラリと揺らいだ黒髪の陰から現れた、その顔は――

「ピシカ……?」
 少女は、思わずルゥナがこぼしたその名前に、ほんの少しも反応を見せなかった。
 何の感情も見えない眼差しを向けられて、ルゥナはその場に立ちすくむ。
「ピシカじゃ、ない」
 カタチは、ピシカの――そしてルゥナの、それを映している。
 けれどふわりと立ち上がった少女のその真っ黒な目は、まるでぽかりと深い孔が開いているかのようで。

「あなたは……あなたが、『邪神』……?」
 口ごもりながら問いかけてはみたけれど、全然、そんなふうには見えなかった。
 ルゥナの声が届かなかったのか、少女はスイと視線を流して足元の黒衣の塊に手を伸ばす。微動だにしないそれをそっと撫でると、かすれた声で何かを呟いた。

「え……?」
 彼女の声を聞き取れず、ルゥナは一歩踏み出す。そして、また、一歩。
 手を伸ばしたら届く距離まであと五歩ほど、というところまで行ったとき、また少女が囁いた。

「なんで、私ばかりがこんな目に」
 彼女は、ギリ、と、黒衣に爪を立てる。爪の先はかなり食い込んでいるのにそれは全然反応しなくて、ルゥナは、もしかしたら人ではないのかもしれないと思った。
 その正体にルゥナが気を取られている間に、少女は独り呟きを続ける。

 暗い声で。

「ピシカは私の対なのに、なんで私ばかり」
 ふいに出てきたその名前に、ルゥナはハッと我に返る。
「違うよ、ピシカは、あなたを助けようと――」
 ルゥナは声を上げてピシカのことを伝えようとしたけれど。

「あれは何もしてくれなかった。私が奴らに囚われるがままにして、私が奴らに壊されていくのを、ただ見ているだけだった」
 ここにはいないピシカへの呪詛の言葉は低く、そしてとても強い。それを聞くルゥナの胸が、刃物で切り付けられたかのように痛む。

「ねえ、聴いて。ピシカは、ずっとあなたを助けようとしてるんだよ。今だって……」
 ルゥナの訴えは、少女の耳を素通りする。少なくとも、彼女の目をこちらに向けさせることはできなかった。

 少女はしゃがみ込み、空虚な笑みを浮かべる。
「コレは、私と同じ。私と同じ絶望と憎悪に満たされている。わたしと同じように絶望し、私と同じように世界を呪い、私と同じように、全ての滅びを望んでいる」
 そう言って、愛おしげにマギクの背に頬を摺り寄せた。
「そんな――ッ!」
 声を上げ、ルゥナは二人に近寄ろうとした。刹那、強い風、あるいは風によく似た何かが吹き付ける。とっさに片腕を上げて遮ろうとしたけれど、全然その役に立たない。
 もろに全身に浴びせかけられたそれは、激烈な苦痛の記憶、今この場に満ちる闇より深い負の感情の塊だった。

 身体中を鈍い刃で切り裂かれ続けるような、幾本もの針に貫かれるような、痛み。
 自分の中の何かを無理やり捻じ曲げられ、大きく歪められる、苦しみ。
 望まぬことを強いられ、取るに足らないモノのように踏みにじられていく、屈辱。
 悲鳴を上げても、助けを求めても、返ってくるのは嘲笑ばかり。
 あなたのことを信じていたのに愛していたのに、互いに唯一無二の存在だったはずなのに――裏切られた。

 裏切られた裏切られた裏切られた。

 それは、光景ではなく感覚だった。
 だからこそ、生々しくルゥナの中に侵入してくる。
 どうにもならない諦念と、絶望感。
 とてつもない責め苦が、ルゥナを襲う。

(こんな……)
 呼吸ができず、ルゥナは喘いだ。

 ルゥナは、昔、心無い者の手に囚われたことがある。
 あの時、彼らは逃げられないようにとルゥナを鎖でつないだ。彼女の両脚を折り、治せないようにとそのまま木で固定した。
 ルゥナは、一日も経たないうちにソワレが助け出してくれたけれど。

「私は、壊された……」
 焼けつくような憎悪が込められた怨嗟の声は、苦痛と力をもって、嵐の中の向かい風のようにルゥナを拒む。

(閉じ込められていたあの時、わたしはどう感じていた……?)
 絶え間ない苦痛を与えられることは、とても恐ろしいことだった。けれど、それ以上に、ヒトとして扱われず、捕らえられることは、とても悲しくて苦しいことだった。
 ソワレが来てくれると信じていなかったら、とても耐えられなかっただろう。

(この子も、ピシカを信じていたのかな)
 ピシカが助けてくれる、と。

 きっと、そう。

 信じて、待って、そして――

(ピシカは、間に合わなかったの?)
 間に合わなくて、この少女は『壊れて』しまった?
 ルゥナはうずくまる小さな身体を見つめる。自分と同じ姿をした――最後に見たピシカと同じ姿をした、か細い身体を。
 今、彼女が目の前の少女から感じるのは、悲しみだった。
 悲しみと、孤独だった。

 ルゥナは渾身の力を振り絞って、少女とマギクに手を伸ばす。
「ピシカはずっとあなたと一緒にいたよ。きっと、同じくらい苦しんでた」
 声は、やっぱり届かない。
 だから、ルゥナは彼女に触れた。
 触れて、治癒の力を注ぎ込む。
 ルゥナにできることは、それだけだから。

(わたしは、彼女を癒したい。彼女も、ピシカも、みんな)
 この少女を癒せれば、ピシカのことも救えるのではないかと思った。
 世界も、これ以上の破壊から守ることができるのではないかと思った。
 ルゥナは少女を――少女とマギクを、精一杯伸ばした両腕に包み込み、目を閉じる。
 そうして、ただ、全てが癒されることを願った。
 ――全てが癒され、皆が幸せになることを。

 祈るほどにピシカの『印』を刻まれたうなじが熱を帯び、それが全身に満ちていく。
 想いはそのまま力になり、熱だけでなく輝きも伴って、次第に闇を追いやり始めた。

 ふと、頬に何かが触れる。

 目を開けると、今初めてその存在に気が付いた、というような、茫洋とした少女の視線がルゥナに向けられていた。

「……ピシカ……?」
 それまでの平坦で冷淡な声とは違う、たどたどしい、どこか心許なげな呼びかけ。
 少女と目を合わせ、ルゥナは小さくかぶりを振る。
「わたしはルゥナ。でも、ピシカもあなたを待ってるの」
「ピシカは私を捨てた。私を裏切り、見捨てた」
「違うよ。ずっとずっと、あなたと一緒にいたの。あなたを助けようとして、苦しんでたの」
 言いながら、少女に回した腕に力を込める。彼女を抱き締めて、囁いた。
「今も、ピシカが助けてくれている。だから、あなたの力をわたしに貸して? あなたと、わたしと、ピシカの力で、一緒に全てを正しましょう。苦しみも、歪みも、悲しみも、全部癒すの」

 もう、誰にも、つらい思いはして欲しくない。
 叶うことなら、今だけでなく過去の悲しみや苦しみも癒したかった。
 ルゥナの頭の中に浮かび上がってくるのは、今、目の前にいる二人のことだけではない。
 大事なソワレ、一緒に旅してきたエディやトール、フロアール――ルゥナに温かな想いを注いでくれる人たちだけじゃない。ただ街ですれ違った人たちも、野山を駆ける獣やさえずる小鳥、無秩序に生い茂る植物さえも、いつだって、彼女にとってはかけがえのないものだった。

 すべての命が、ルゥナには愛おしい。
 生きている、ただそれだけで、ルゥナにはとても大事なものになる。

(ピシカの力でわたしの想いを力にできるというのなら、わたしの全てをかけて祈ってみよう)
 腕に力を込めて、少女を強く引き寄せる。

(ピシカ……ピシカ、力を貸して)
 目を閉じたルゥナは心の中で呼び掛けた。

 ――ひたすらに。

 世界の全てに想いを馳せるほど、うなじの熱が高まっていく。
 ルゥナの『印』は、もう焼け付くようだった。

(このまま、燃え尽きてもいい。だから、お願い)
 腕の中の少女からルゥナへと何かが注ぎ込まれて、彼女の頭の中は真っ白になる。
 膨らむ力は制御できず、ルゥナの中からとめどなく溢れ出した。

「ああ……これは……」
 ルゥナの耳元をくすぐった、どこか夢見るような、柔らかな声。
 少女の細い腕が、ルゥナの背に回される。
 儚く、そして確かな力が、彼女を抱き締め返してきた。
 自分自身からほとばしる白銀の輝きに目を眩ませながら、ルゥナは薄っすらと目を開ける。

 ほんの一瞬、薄青色の髪と銀色の目をした少女の微笑みが見えて、その後は、もう何も判らなくなってしまった。
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