君が目覚めるその時に

トウリン

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再びの出会い

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 瀧清一郎たきせいいちろうの一日のスケジュールは、ほぼ毎日決まっている。
 きっかり六時に起きて身支度を整えると六時四十五分にマンションを出て、徒歩で十五分。七時に病院に着いたら五分で着替え、コーヒーを淹れたら入院患者とその日に受診する予定の外来患者のカルテをチェックし、八時から担当患者の回診を始め、八時半のカンファレンスに間に合うように終わらせる。
 九時開始の午前中の外来は遅くとも十三時には終わるから、医局に戻る途中で売店に寄り、昼食を買う。物はいつも同じ銘柄のカップラーメンだ。いくつか種類はあるが、迷う時間が惜しいので、彼が買う品はいつも決まっていた。
 夕食はいつも病院の食堂で十九時に摂る。二十一時には帰宅し、風呂に入ってから文献などに目を通し、一時に就寝。
 その繰り返しだ。
 そのリズムが崩されることは、滅多にない――そう、滅多に。
 だが、今日は、それが乱された。

「あ、瀧先生」
 売店で耳に飛び込んできたその声に、棚に並んだカップラーメンに伸ばしかけていた清一郎の手が止まった。
 彼は、声がした方へ振り返る。
 そこに立っているのは一人の少女だが、姿を目にする前から清一郎にはそこにいるのが誰なのかは判っていた。
 彼女はすでに買い物を済ませたらしく、手にはチョコレート菓子とペットボトルの入ったビニール袋を提げている。
雨宮あまみや、キラ……」
 清一郎は口の中で彼女の名前を呟く。
 キラが前回退院したのは、五月の下旬だった。それからおよそ二ヶ月が過ぎているが彼女の様子に一見変わったところはなく、二ヶ月前と同じ、大きな目が生き生きと輝いている。

「お久しぶりです、お昼ご飯ですか?」
 彼女は軽く首をかしげて訊いてきた。
 キラの身をむしばんでいるのは決して軽い病ではないというのに、彼女は楽しげだ。いつでも、と言えるほど顔を合わせてはいないが、少なくとも過去二回の遭遇ではどちらもそうだったし、今もそうだ。
 薬漬けだろうし、生活も制限されているだろう。
 ――それなのに、何故彼女はこんなにも屈託がないのか。
 清一郎が診ている患者の中には、薬が多いと文句を言い、身体の不調について不満をこぼす者も少なくない。キラよりも遥かに状態の良い患者でも、だ。特に自らの不摂生で身体を壊した者にその傾向が強い。
 それに対してキラは、彼女には何の落ち度もなく病むことになり、本来友人と活発に遊び回っている年頃だろうにそれを大幅に制限されているにも拘らず、不満を抱いている様子はない。
 ――まあ、確かに多少の我は通しているようだが。
 清一郎であれば入院したらベッド上安静にするところだ。こんなふうにうろついているということは、主治医の岩崎とそれなりの交渉はしたに違いない。
 とは言え、ただでさえ不平不満の多い年齢だ。健康な子どもに比べればはるかに制約の多い生活に、恨んだり八つ当たりしたくなるようなことは、ないのだろうか。

「君は、いつでも楽しそうだな」
 ニコニコと機嫌が良さそうなキラに、清一郎は思わず呟いてしまう。と、彼女は大きく一つ瞬きをし、それから笑みを深くした。
「ふふふ……先生に逢えたからかもしれませんよ?」
 いたずらめいた色をその目に浮かべたキラの台詞は、彼をからかっているものなのだろう。ふざけることができるということは、体調は悪くないということだ。
 時々電子カルテを覗いていたから、清一郎はキラが三日ほど前に再入院になったことは知っていた。
 カルテにあるデータを見た範囲では、彼女の病状はわずかとはいえ進行していた。今回の入院は検査ではなく安静と内服薬の調整が目的で、それで改善しなければ手術になる。
 ――文字を読むだけでは『進行している』ということしか、判らなかった。

 だが。

 キラが再入院してからというもの、あのやかましい小児科病棟を訪れたくなる不可解な衝動を覚えていた清一郎は、彼女の姿を頭の天辺からつま先まで見下ろした。
(元気そうだ)
 以前と変わらぬ様子の彼女を前にして彼の胸の中に沸いたのは、安堵感。そして、疑問。
 キラは二度顔を合わせただけの、他の医者が担当している患者だ。それなのに、何故彼女のことが気にかかってしまうのだろう。
 もしかしたら、彼が知る中でも色々な意味でシビアな患者だからかもしれない。拡張型心筋症という病気自体は彼も診ているが、キラ程低年齢で発症した患者は経験がない。
 医者としての好奇心が、清一郎をキラに引き寄せるのだろうか。
 それで合っているような気がするし、違うような気もする。
 何事にも即座に明快な答えを求める清一郎は、それが得られず眉をしかめた。解からないことがあるというのは、どうにもスッキリしない。

「先生?」
 押し黙ったままの清一郎を、キラが小首をかしげて覗き込んでくる。まともに目が合い、思わず彼は顎を引いた。
「……君は、安静の指示が出ているんじゃないのか?」
 とっさに、彼は無難な台詞を口にする。他に思い付かなかったのだ。
 そうして、安堵と苛立ちとそれ以外のはっきりとしない何かを胸の中に抱いたまま、清一郎はキラを見下ろす。だが、彼女はケロリとしたもので依然と全く変わらぬ屈託のない笑みを返してきた。
「出てますよ。でも、一日一回だけ、売店に来ていいことになってるんです。あ、大丈夫、ちゃんとエレベーターを使ってますから」
 眉間に皺を寄せた清一郎の先手を打って、売店のすぐ横にあるエレベーターを指差しながらキラが笑った。そうして、唐突にヒョイと彼の後ろの棚を覗き込むと、清一郎がキラと対峙すると度々そうしたように、彼女も眉をひそめる。
「先生こそ、不摂生じゃないですか? まさか、三食カップラーメンってことはないですよね?」
「僕の食生活は君には関係ない」
「先生だって、わたしのことに口出すじゃないですか」
「僕は医者で君は患者だ」
「だけど、わたしは先生の患者じゃないですよ――今のところは」
 唇を尖らせてそう言ったキラに、ふと清一郎も口を噤んだ。
(確かに、そうだ)
 小児科からコンサルトは受けたし、いずれ循環器内科で診ることになるだろう。しかし、現状では、雨宮キラは『清一郎の』患者ではない。にも拘らず、つい彼女のことを気にかけてしまう。

 黙り込んだ清一郎に、キラがふと頬を緩ませた。
「医者とか患者とか、そういうのがなくても、知り合った相手のことは、気になりませんか? 元気かな、幸せかなって。わたしは、気になりますよ?」
「君が僕のことを心配する必要はないだろう」
 清一郎がキラの事を気にするのは当然の事なのだ。彼は医者で、彼女は心臓に重大な欠陥を抱えている患者なのだから。
 対して、清一郎は健康な成人だ。心配される要素は何もない。
「そういうのって、必要かどうかとか関係なく、したくなっちゃうもんだと思うんですけど……」
 苦笑混じりにキラはそう言うと、店の中にかけられている時計に目を走らせた。
「あ、いけない、もう行かないと。あんまり遅くなるとママが心配しちゃう」
 呟くような彼女のその台詞に、ふと清一郎の脳裏には退院の時に会った裕子のことがよみがえった。あの時は彼の一言に尋常ではない取り乱しようだったと思うのだが、再入院する羽目になって、あれどころではないショックを受けているのではなかろうか。

「君のお母さんは――大丈夫なのか?」
 思わず、そう訊いてしまう。訊いてしまったことに、彼自身が一瞬戸惑った。キラはそんな清一郎にわずかに目を見開き、そして微笑む。
「ママは――ほら、わたしがこんなだから、ちょっと心配性なんです」
 母親のことを口にした彼女の眼差しが、不意にまた大人びた。一息に倍も年経たようなキラに、清一郎は目を細める。と、彼のその視線に気づいたように、彼女はカラリと口調を変えて、付け足した。
「でも大丈夫、岩崎先生はお話が上手だから」
(……つまりそれは、僕の話し方が良くないということか?)
 胸の中でのその問いが聞こえたかのように、キラは続ける。
「瀧先生は、会話が苦手そうですよね」
 したり顔の彼女に、清一郎はムッとする。確かに日常会話は好まないが、患者とのコミュニケーションはきちんと取れているつもりだ。

 むっつりと唇を結んだ清一郎に、キラはニッコリと微笑む。その笑みの意味するところが何なのか、彼には判らなかった。判らないままの清一郎を置き去りに、キラはひらひらと手を振る。
「十五分以上かかると、ママが捜しに来ちゃう。じゃあ、またね、先生」
 さっくりと彼女は身を翻し、ちょうどドアが開いたエレベーターの中へとするりと姿を消す。
 相変わらず、ずけずけと物おじせずに言いたいことを口にする少女だ。
 清一郎にあんなふうにはっきりと物申す者は、今までいなかった。何となく彼女のことが頭の片隅に残ってしまうのは、その所為かもしれない。
 きっと、雨宮キラの方が変わっているのだ。彼女は、あけすけ過ぎる。まるで思ったことは即座に口に出さないと気が済まないかのようだ。
「僕には何も問題はない」
 ボソリと清一郎は呟いたが、自覚なくそうしていたことに眉をしかめる。彼はいつもの銘柄のカップラーメンを手に取ると、レジへと向かった。
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