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生きたい理由、死ねない理由
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今日も循環器内科の外来には面倒な患者が訪れていた。
「酒と煙草、やっているでしょう」
「ばれたかい?」
「酒は血液検査の数値で判るし、煙草は臭いがします」
「あはは……」
笑ってごまかすことではないだろうと、清一郎は目の前の男を見つめる。六十代半ばのこの患者は三橋という名前だ。一年ほど前に心筋梗塞で運ばれてきて、かなりの治療の末に無事生還できたわけだが、その後も清一郎の指示に、なかなか従おうとしない。
彼としては、さほど難しいことを言っているわけではない。
いくつかの薬を飲むことと、禁酒に禁煙――たったそれだけだ。
なのに何故、従えないのか。
清一郎の視線の先で、三橋はバツが悪そうに身を竦める。
「いやぁ、瀧先生にそうやって睨まれることになるのは判ってるんだけど、つい……」
「別に、睨んではいません。ただ、僕は、あなたに指示に従って欲しいだけです。それは僕の為ではありません。あなた自身の為なんですから。あなたはかつて心筋梗塞を起こしました。以前と同じ生活をしていたら、また同じことが起きます」
「やっぱり、先生はビシッと言うねぇ」
「当然のことです。このままでは七十歳の誕生日を迎えられないかもしれませんから」
清一郎は淡々と告げる。
と、不意に三橋の顔が真面目なものになった。そして呟く。
「七十歳の誕生日ですか……」
「長生き、したいでしょう?」
そうでなければ、わざわざ病院になど来ない筈だ。
当然肯定が返ってくると思っていた清一郎の耳に届いたのは、予想とはまったく異なるものだった。
「アタシの妻は、三年前にさっさと逝ってしまいましてね、……こんなことを言ったら瀧先生には怒られるかもしれないですけど、アタシはもういつ死んでもいいかな、と思ってるんです」
「え……?」
唐突に始まった語りに、医者に対して発するのは不適切だと思われる台詞。清一郎は眉をひそめた。そんな彼に、三橋はあっけらかんと笑ってみせる。
「いや、仕事ももう辞めましたしね、娘もいい男を見つけて自分の家庭を持ったし、もういいかな、と。ただ、できれば初孫くらいは抱いておきたいな、と欲を出してましてね。だから、こうやって先生に叱られながら、ここに通わせてもらってるわけですが」
そう言った彼は照れ臭そうに笑みを浮かべる。
「それさえ叶ったら、それを土産話にアイツに逢いに行きたいな、と。いや、もしかしたらこの間のあの時、迎えに来てくれてたのかもしれませんねぇ」
その時の彼のその顔は、どこか残念そうにも、見えた。つまりそれは、助かったことを残念に思っているということで。
清一郎はムッと眉間に皺を寄せつつ、いつもの台詞を口にする――いや、いつものものとは、少し変えて。
「……とにかく、酒と煙草は控えるように」
「あれ? やめるように、じゃないんですか?」
三橋が少し目を丸くして清一郎を見つめてきた。その視線から目を逸らすようにしてカルテに向かい、キーボードを操作する。
「完全にやめられないなら、せめて量を減らしてください。では、次の予約は一ヶ月後に。さようなら」
それ以上の追及が無いようにさっさと会話を打ち切って、清一郎は三橋に診察が終わったということを言葉と態度で示した。
「ああ、はい、じゃ、一ヶ月後にまたお願いします」
診察室から患者の姿が消えると、それまで無言だったナースが恐る恐るという風情で清一郎に声をかけてきた。いや、もしかしたら独り言に近かったのかもしれない。
「先生が患者さんに譲歩するところ、初めて見ました……」
「譲歩?」
視線を彼女に向けると、ビクッと肩を震わせた。
「え、だって、いつも絶対に譲らないじゃないですか。お酒もたばこも」
「……十をゼロにするのが無理なら、せめて五にしろと言っているだけだ。その方が合理的だろう?」
「まあ、そうなんですけど……」
呟きながら首を捻っている彼女に、清一郎はムスリと言う。
「彼が最後の患者か?」
「あ、はい、おしまいです。お疲れ様でした」
彼が無駄な時間を過ごすのを好まないことを熟知している彼女は、ワタワタと慌てた風情でペコリと頭を下げた。その頭が再び上がらぬうちに、清一郎は立ち上がり、診察室を後にする。
そうして途中で寄った売店で迷うことなくいつもの銘柄のカップラーメンをレジに持っていき、医局に向かう。
カップラーメンなど、作り始めてから食べ終えるまで、ものの十分もあれば事足りる。
診察室を出てからトータルで二十分ほどだと思われるが、その間ずっと、清一郎は看護師の台詞を思い返していた。
(譲歩……? 僕が……?)
こと仕事に関しては、一歩たりとも自分の考えを譲ったことなどない。
(僕が、譲歩、だと――?)
患者に迎合する医者など、あってはならない筈だ。そんな事では正しい医療ができなくなってしまう。
だが。
(では、正しい医療とは、どんなものなんだ?)
清一郎は自問する。
さして長生きしたいとは思っていないという三橋の台詞が、頭の中に引っかかっていた。
(医療とは、命をつなぐ為のものではないのか?)
ふと、ひと月ほど前に耳元で囁かれた少女の声がよみがえる。
――一年長く生きる為に五年ベッドに縛り付けられるのは嫌だ。
――後悔は残したくない。
彼女は、そう言った。
しかし、患者のやりたいようにやらせてしまえば、確実に寿命は短くなる。
(それでもいいのか?)
――三橋は、それでもいいと言った。
何だか頭の中がすっきりしない。人差し指の先で、こつこつと机の上を叩いてみる。
はっきりと答えが出ないというのは、不快だった。
清一郎はチラリと時計に目を走らせた。遅く始めた昼休みは、まだもう少し残っている。
午後の仕事を始める前に少し頭の中を整理した方が良さそうで、清一郎は小さな息をついて立ち上がった。
彼が向かった先は屋上で、扉を押し開けると同時に熱気が押し寄せてくる。まだ九月の彼岸前で、日が高いうちは結構暑い。
清一郎はフェンスに近寄り、そこから人や車がうごめく地面を見下ろした。
こうやって見渡しただけでも、その視界の中には数えきれないほどの人がいる。
当然、彼らは生きたいと思っている筈だ。だから、医者というものがいて病院というものがある。
ならば、病院の中ではどうだろう。
清一郎は身を翻し、フェンスに寄り掛かった。
この箱の中にはいろいろな患者がいる。そのうちには、寝たきりの者も少なからずいた。
循環器内科でも、心筋梗塞で心肺停止状態となって運ばれてきたが蘇生により心拍が再開して、本人の意識がないまま生命維持装置で命をつないで長らえさせている患者を常に抱えている。
もちろん清一郎も、脳の損傷が明らかで、戻ることは絶対にない患者の無意味な延命治療には反対だ。しかし、何をもってして『絶対』と言い切れるのだろう。
心臓は、いい。心臓は、単純だ。
その筋肉の塊が拍動を続ける限り、身体は生き続ける。
拍動があるならその人間は生きていると言える筈だ。鼓動が聞こえる限りは、戦い続ける価値がある。
彼女は――キラは、どう考えるだろう。やはり、そんなのはいやだと言うだろうか。
と、まるでその問いに答えるかのようなタイミングで、キィ、と微かな軋みを立てて建物の中へとつながる扉が開かれた。
こんな所に来る者は、滅多にいない。清一郎がここで息抜きをするようになってから、彼以外にここで姿を見たのは、あの少女だけだ。
まさか、と思った。
こんなタイミングで、彼女が来るわけがない、と。
しかし、清一郎の読みは違わず、思っていた通りの姿がそこから現れる。
小柄な少女は屋上の暑さに怯んだように、戸口の所で足を止めた。
清一郎は、わずかに目を細めて子どものような華奢な姿を見つめる。半袖のパジャマから覗く腕は遠目にも細く白いのが見て取れた。先日海辺に行った筈だが、さっぱり焼けた形跡はない。
先客がいるとは考えてもいないのか、清一郎に気付いた様子はなかった。休んでいるようで少し俯いて佇んでいる。
少女の――キラの姿に、彼は微かな苛立ちと、それ以外の不可解な何かを感じた。ザワリと腹の底が沸き立つような、何かを。
そんな慣れない感覚に眉をひそめた清一郎の視界の中で、彼女の頭が上がり、そしてその目が彼を捉える。
視線が合うと同時に、キラは少し後ずさった。
まるで建物の中に取って返そうとしているかのように見えて、清一郎はとっさに声をかけていた。
「また、こんな所に来ているのか」
その台詞は、明らかに彼女を追い返そうとしているようなものにしか聞こえないものに違いない。
――清一郎に、そんなつもりはなかったとしても。
彼は胸の中で舌打ちをして、キラに歩み寄った。
「もっと日陰に行った方がいい。暑いと体力を消耗する」
清一郎がそう言うと、彼女は窺うような眼差しで彼を見上げてきた。
「部屋に帰れって、言わないんですか?」
「……ナースの許可は得てきたのだろう?」
「もちろんです」
深々と頷いたキラに、清一郎は素っ気なく答える。
「ナースが許したということは、岩崎が許したということだ。僕がとやかく言うことじゃない」
彼女に目を向けることなく、風通しがよく日陰でもある場所へと導いた。
と。
「いつもは、言うくせに……」
小さな声で、ポソリとこぼすのが清一郎の耳にしっかりと届く。
やはり、岩崎の言う『いい子の』キラ像と清一郎に見えている姿とは、かなり違っているような気がする。
今の声は聞こえなかったことにして、清一郎はキラを座らせた。
一瞬、涼しい風が吹き抜けて、彼女の髪が膨らむようにして揺れる。何となくそれに触れてみたくなったのは、仔猫や何かを撫でたくなるのと同じような気持ちからだろう。
妙に気まずい想いがして、清一郎は、視線をキラから空へと移した。
彼女を誘ってはみたものの、話の口があるわけではない。
キラについての情報を、彼は頭の中で手繰ってみる。
「学校、残念だったな」
真っ直ぐ前を向いたまま、そう言ってみた。が、返事がない。
不審に思って見下ろすと、まじまじと彼を見つめている大きな目と行き合った。
「……何だ?」
「え、いえ、学校なんか行けなくて当然だって、言われるのかと思いました」
目を丸くしているキラは、本当に、心の底から意表を突かれているように見える。
「君がどうしたかったは、知っている。退院が延期になったのは当然のことだが、君がそれを残念に思うことまでは否定しない」
清一郎が淡々とそう答えると、彼女はパチリと大きく瞬きをし、そして笑った。ふわりと、ほころぶように。
あまりに嬉しそうなその笑顔に、清一郎は戸惑った。何が彼女を喜ばせたのかが、判らなかったからだ。なので、思わず眉間に皺を寄せて訊いてしまう。
「何が、そんなに嬉しいんだ? 実は学校に行きたくなかったのか?」
「違いますよぅ。学校に行けなかったことは、悔しいです」
「じゃあ、何なんだ」
「判らないんですか?」
意外そうに問い返されて、清一郎はムッと唇を引き結ぶ。
判らないから訊いているのだ。自分で判ることはわざわざ訊きはしない。
多分、内心の声が顔に表れていたのだろう。キラがフフッと小さな笑みを漏らす。
「先生が、残念だったなって言ってくれたからですよ。わたしが残念だって思ってることを、解かってくれたからです」
「それは、当たり前だろう」
「そうですか? だって先生はいつもわたしにああしろ、こうしろ、あれはダメ、これはダメって言うばかりなんですもん。わたしがどう思っているかなんてどうでもいいのかな、とか」
「そんな――」
――ことはない。
と言いかけて、清一郎はハタと固まった。
(確かに、指示を出す時に患者が何を思うかは、気にしたことがなかった)
昼の外来で、三橋から治療とは全く関係のない話を聞かされた。医者になって十年経つが、思い返してみた限り、患者と『雑談』をしたのは、初めてだ。
「先生?」
無言で佇む清一郎に、下からそっと声がかかる。見れば、キラが微かに眉をひそめて彼を見上げていた。
初めて――いや、違う。初めては、この少女だ。
海で、彼女の話を聴いた。
あれ以来、何事にも統制が取れていた彼の中で、何かが乱れ始めているのだ。というより、そもそも、キラと関わりを持ってからおかしくなってきている気がするが。
もっとタチの悪い患者はいくらでもいるのに、キラほど清一郎の調子を乱した者はいない。
彼の半分ほどの年の少女が、何故こんなにも影響力を持つのだろう。
子ども、だからなのか。幼くて大人の感性とは違うから、だから彼のリズムを狂わせてしまうのだろうか。
(キラに三橋の話をしたら、彼女はなんと言うのだろう)
清一郎は、ふとそんなことを考えた。
共感するのだろうか、反発するのだろうか。
疑問に思ったら確かめたくてたまらなくなり、彼はあまり考えることなく言葉を口にする。
「僕の患者に、別に生きたいわけではないと言いつつ通っている人がいるんだ」
「え?」
キラがキョトンと見上げてくるのへ、清一郎は肩をすくめて続ける。
「やめろと言っているのに、酒も煙草もやめない。薬も時々飲み忘れる。だが、律儀に予約にはやって来る」
「それは、大変ですね……」
多分、何と答えたらいいのか判らないのだろう。彼女はそんな台詞を口にする。
清一郎は少し言葉を切って、また始めた。
「彼は、妻に先立たれたし娘も結婚したからいつ死んでもいいのだと言う。そう言いつつ、孫を抱いてみたいからもう少し生きたいのだ、と。僕には、彼が生きたいのかそうでないのか、判らない」
そこで、彼は口を閉じた。すぐにキラから何か返ってくるだろうと思っていたけれど、予想通りにはいかなかった。
清一郎が黙ってしまえば屋上には誰もいないかのように静まり返って、時折、そよ、と風が吹くだけだ。
しばらく待っても返事がないから、彼は訝しみながら目を下に向けた。
と、キラの綺麗な丸い頭の、その天辺のつむじが見える。
彼女は考え込むように膝を抱えて、少し先のコンクリの床を見つめていた。
やはりキラにも理解不能なのだろうか。
清一郎は、ため息混じりに胸の中でそう呟く。
生きたいと願う彼女にとって、いつ死んでも構わないというのは、きっと理解し難い言い草なのだろう。
「すまない――」
妙なことを話した、気にしないでくれ。
そう、告げようとした時だった。
「多分、生きたい理由と死ねない理由は、違うんだと思います」
目線を下げたまま、キラがポソリとこぼすように言った。
「え?」
眉をひそめた清一郎を、パッとキラが見上げてきた。
「『生きたい』のは、まだやりたいことがあるから、それをしたいと思うからまだ生きたいなって思うんです。それは希望であって、しなくちゃいけないことじゃないんです」
彼女のその台詞は、理解はできたが、彼の問いへの答えとしては今一つ納得がいかなかった。
(人というものは、やりたいことがあるから生きているのだろう? だが、三橋さんは違う)
三橋は、孫を抱きたいと言いつつ、いつ死んでもいいと言う。
その矛盾は何なのだろうかと内心で首をかしげつつ、返事に困った清一郎はキラに問いを投げかけた。
「君にも、やりたいことはあるのか?」
それは、愚問だった。
やりたいと切望しつつ不可能なこと、そんなもの、この少女には腐るほどあるのだろう。
だが、迂闊な自分の発言に渋面になった清一郎には気付いた様子もなく、キラは言う。
「わたし、ですか? そうですね、飛行機に乗ってみたいです。で……そうですね、アフリカに行きたいな。野生動物探究ツアーとか」
おどけた口調のその台詞は、夢物語に聞こえる。
そんなふうに軽い口調で突拍子もないことを挙げてみせたのは、清一郎の心中に気付いたからなのだろうか。
清一郎は眉間のしわを深くした。そうして、もう一度訊く。彼女と真っ直ぐ目を合わせながら。
「本当に、君がやりたいことは、何なんだ?」
キラの笑顔が固まり、そして、すぅっと、手のひらに落ちた淡雪のように消えていく。
彼女は首を捻じるようにして前を向き、少ししてから立ち上がった。トントンと、つま先でコンクリートを蹴っている。
沈黙。
そして、話し出したのは唐突だった。細い声で、しかししっかりと、語る。
「わたしは、文化祭とか、修学旅行とか、そういうのに参加したい。高校も、ちゃんと卒業したい……何年かかってもいいから。絶叫マシーンにも乗ってみたい。お化け屋敷とかホラー映画とか、まさに怖いもの見たさ、ですね。各駅停車の電車に乗って、思い立ったところで降りてその街を歩いてみたい。好きな人とデートもしたい。その人と教会でウェディングドレスを着て歩きたい。……友達が幸せになるところを見たい。パパとママが嬉しくて泣くところを、見てみたい――悲しくてとか辛くてとかじゃなくて」
キラがまた、清一郎を見る。
澄んだ眼差しが微笑んだ。
「それがわたしの、『生きたい理由』」
列挙された、いくつもの『願い』。いつか叶えたいこと。
それは、どれもごく日常的で平凡なことだ。殆どの者が、意識もせずに実現できていること。
だが、清一郎は、キラに向けて「簡単なことだ」とは言えなかった。そのうちできるようになる、とも。
根拠のない励ましなど、彼の信条に反することだった。
――それなのに、何故、その腕にキラを抱き上げ、「大丈夫だ」という言葉を口にしたくてたまらない気持ちになっているのだろう。
奇妙な感情の波に、全身が疼く。
それにさらわれてしまわないよう、清一郎は奥歯を噛み締めた。
「生きたい理由は、やりたいこと。それは解かった。なら、死ねない理由というのは、何なんだ?」
何かを堪えているせいでいつも以上に平坦になった彼の声に、キラが首をかしげて見上げてきた。立っていても、彼女は小さい。殆ど直角になるほど頭を反らせて、キラは清一郎の目を見つめてきた。
「死ねないのは――大事な人がいるから……大事な人を残していって悲しませたくないから」
キラが微かに首をかしげると、ふわりと髪が揺れた。
「それは、鎖なんです。それがある限りは、絶対に、諦められないんです。諦めちゃいけないんです……多分、それが生まれてきたことで背負う、一番大きな義務なんです。その人を好きでいてくれる人がいる限り、そういう人を作ってしまった限り、その人は生きなくちゃいけないんです。それは、その人がどうしたいかは関係ない、そう『しなければならない』ことなんです。どんなに嫌でも苦しくても、生きることにしがみついていなくちゃならないんです」
そう言った、揺らぎのない眼差し。真っ向から目を合わせているのが苦しくなる程、力のこもった、眼差し。
その言葉はきっと、彼女自身の決意でもあるのだろう。
「そうか」
清一郎はキラの目を見つめ返し、短く、そう呟いた。彼女の目がツ、と逸らされ、また静けさがカーテンのように下りてくる。
二人とも黙ったままで、時折割り込んでくるチチッという鳥の声だけが静寂を乱した。
触れそうな、けれども触れてはいない距離にいる彼女から、仄かな温もりが伝わってくる。
どれほどの時間が過ぎた頃か、不意にキラが身じろぎをした。そうして、腕にはめた時計に目をやって、言う。
「わたし、そろそろ部屋に戻らないと。前科持ちだから、少しでも遅れると探し回られちゃいます」
その声はついさっきまでのものとは打って変わって明るく軽やかなものだった。
腕時計を見る仕草は少し大げさで、声の明るさは不自然さを醸し出す一歩手前のものだった。もしかすると、心の内を明かしてしまった気まずさをごまかそうとしているのかもしれない。
本当なら病室までついていってやりたいところだったが、きっと、キラは嫌がるだろう。
「僕は、もう少しここにいるから」
「そうですか、じゃあ、また」
清一郎の返事にあからさまにホッとした様子で、キラはそそくさと離れていく。彼女の気持ちは解からないでもないが、何となくその素っ気ない態度は気に入らなかった。
「おとなしくしているんだぞ?」
ドアの向こうへ消える直前にそう声をかけると、彼女はニコッといつもの笑顔で振り返った。
「判ってます。こう見えても、優等生なんですよ」
そうして扉は閉ざされ、広い屋上には清一郎だけが取り残される。少し幼さの残るキラの声が消え失せただけで、やけにガランとしているように感じられた。
「生きたい理由と、死ねない理由」
清一郎は口の中で転がすようにして呟く。
両者が別のものだとは、考えたことがなかった。
希望と、義務。
ふと、生きるのであれば、義務ではなく希望の為であって欲しいと、清一郎は思った。
彼は真っ青に晴れ渡った空を見上げ、そして深く息を吸い込む。一度目を閉じてから、ゆっくりと吐き出した。
再び目蓋をあげた清一郎は一歩を踏み出し、分からず屋の患者たちを相手にすべく、いつもの診察室へと向かった。
「酒と煙草、やっているでしょう」
「ばれたかい?」
「酒は血液検査の数値で判るし、煙草は臭いがします」
「あはは……」
笑ってごまかすことではないだろうと、清一郎は目の前の男を見つめる。六十代半ばのこの患者は三橋という名前だ。一年ほど前に心筋梗塞で運ばれてきて、かなりの治療の末に無事生還できたわけだが、その後も清一郎の指示に、なかなか従おうとしない。
彼としては、さほど難しいことを言っているわけではない。
いくつかの薬を飲むことと、禁酒に禁煙――たったそれだけだ。
なのに何故、従えないのか。
清一郎の視線の先で、三橋はバツが悪そうに身を竦める。
「いやぁ、瀧先生にそうやって睨まれることになるのは判ってるんだけど、つい……」
「別に、睨んではいません。ただ、僕は、あなたに指示に従って欲しいだけです。それは僕の為ではありません。あなた自身の為なんですから。あなたはかつて心筋梗塞を起こしました。以前と同じ生活をしていたら、また同じことが起きます」
「やっぱり、先生はビシッと言うねぇ」
「当然のことです。このままでは七十歳の誕生日を迎えられないかもしれませんから」
清一郎は淡々と告げる。
と、不意に三橋の顔が真面目なものになった。そして呟く。
「七十歳の誕生日ですか……」
「長生き、したいでしょう?」
そうでなければ、わざわざ病院になど来ない筈だ。
当然肯定が返ってくると思っていた清一郎の耳に届いたのは、予想とはまったく異なるものだった。
「アタシの妻は、三年前にさっさと逝ってしまいましてね、……こんなことを言ったら瀧先生には怒られるかもしれないですけど、アタシはもういつ死んでもいいかな、と思ってるんです」
「え……?」
唐突に始まった語りに、医者に対して発するのは不適切だと思われる台詞。清一郎は眉をひそめた。そんな彼に、三橋はあっけらかんと笑ってみせる。
「いや、仕事ももう辞めましたしね、娘もいい男を見つけて自分の家庭を持ったし、もういいかな、と。ただ、できれば初孫くらいは抱いておきたいな、と欲を出してましてね。だから、こうやって先生に叱られながら、ここに通わせてもらってるわけですが」
そう言った彼は照れ臭そうに笑みを浮かべる。
「それさえ叶ったら、それを土産話にアイツに逢いに行きたいな、と。いや、もしかしたらこの間のあの時、迎えに来てくれてたのかもしれませんねぇ」
その時の彼のその顔は、どこか残念そうにも、見えた。つまりそれは、助かったことを残念に思っているということで。
清一郎はムッと眉間に皺を寄せつつ、いつもの台詞を口にする――いや、いつものものとは、少し変えて。
「……とにかく、酒と煙草は控えるように」
「あれ? やめるように、じゃないんですか?」
三橋が少し目を丸くして清一郎を見つめてきた。その視線から目を逸らすようにしてカルテに向かい、キーボードを操作する。
「完全にやめられないなら、せめて量を減らしてください。では、次の予約は一ヶ月後に。さようなら」
それ以上の追及が無いようにさっさと会話を打ち切って、清一郎は三橋に診察が終わったということを言葉と態度で示した。
「ああ、はい、じゃ、一ヶ月後にまたお願いします」
診察室から患者の姿が消えると、それまで無言だったナースが恐る恐るという風情で清一郎に声をかけてきた。いや、もしかしたら独り言に近かったのかもしれない。
「先生が患者さんに譲歩するところ、初めて見ました……」
「譲歩?」
視線を彼女に向けると、ビクッと肩を震わせた。
「え、だって、いつも絶対に譲らないじゃないですか。お酒もたばこも」
「……十をゼロにするのが無理なら、せめて五にしろと言っているだけだ。その方が合理的だろう?」
「まあ、そうなんですけど……」
呟きながら首を捻っている彼女に、清一郎はムスリと言う。
「彼が最後の患者か?」
「あ、はい、おしまいです。お疲れ様でした」
彼が無駄な時間を過ごすのを好まないことを熟知している彼女は、ワタワタと慌てた風情でペコリと頭を下げた。その頭が再び上がらぬうちに、清一郎は立ち上がり、診察室を後にする。
そうして途中で寄った売店で迷うことなくいつもの銘柄のカップラーメンをレジに持っていき、医局に向かう。
カップラーメンなど、作り始めてから食べ終えるまで、ものの十分もあれば事足りる。
診察室を出てからトータルで二十分ほどだと思われるが、その間ずっと、清一郎は看護師の台詞を思い返していた。
(譲歩……? 僕が……?)
こと仕事に関しては、一歩たりとも自分の考えを譲ったことなどない。
(僕が、譲歩、だと――?)
患者に迎合する医者など、あってはならない筈だ。そんな事では正しい医療ができなくなってしまう。
だが。
(では、正しい医療とは、どんなものなんだ?)
清一郎は自問する。
さして長生きしたいとは思っていないという三橋の台詞が、頭の中に引っかかっていた。
(医療とは、命をつなぐ為のものではないのか?)
ふと、ひと月ほど前に耳元で囁かれた少女の声がよみがえる。
――一年長く生きる為に五年ベッドに縛り付けられるのは嫌だ。
――後悔は残したくない。
彼女は、そう言った。
しかし、患者のやりたいようにやらせてしまえば、確実に寿命は短くなる。
(それでもいいのか?)
――三橋は、それでもいいと言った。
何だか頭の中がすっきりしない。人差し指の先で、こつこつと机の上を叩いてみる。
はっきりと答えが出ないというのは、不快だった。
清一郎はチラリと時計に目を走らせた。遅く始めた昼休みは、まだもう少し残っている。
午後の仕事を始める前に少し頭の中を整理した方が良さそうで、清一郎は小さな息をついて立ち上がった。
彼が向かった先は屋上で、扉を押し開けると同時に熱気が押し寄せてくる。まだ九月の彼岸前で、日が高いうちは結構暑い。
清一郎はフェンスに近寄り、そこから人や車がうごめく地面を見下ろした。
こうやって見渡しただけでも、その視界の中には数えきれないほどの人がいる。
当然、彼らは生きたいと思っている筈だ。だから、医者というものがいて病院というものがある。
ならば、病院の中ではどうだろう。
清一郎は身を翻し、フェンスに寄り掛かった。
この箱の中にはいろいろな患者がいる。そのうちには、寝たきりの者も少なからずいた。
循環器内科でも、心筋梗塞で心肺停止状態となって運ばれてきたが蘇生により心拍が再開して、本人の意識がないまま生命維持装置で命をつないで長らえさせている患者を常に抱えている。
もちろん清一郎も、脳の損傷が明らかで、戻ることは絶対にない患者の無意味な延命治療には反対だ。しかし、何をもってして『絶対』と言い切れるのだろう。
心臓は、いい。心臓は、単純だ。
その筋肉の塊が拍動を続ける限り、身体は生き続ける。
拍動があるならその人間は生きていると言える筈だ。鼓動が聞こえる限りは、戦い続ける価値がある。
彼女は――キラは、どう考えるだろう。やはり、そんなのはいやだと言うだろうか。
と、まるでその問いに答えるかのようなタイミングで、キィ、と微かな軋みを立てて建物の中へとつながる扉が開かれた。
こんな所に来る者は、滅多にいない。清一郎がここで息抜きをするようになってから、彼以外にここで姿を見たのは、あの少女だけだ。
まさか、と思った。
こんなタイミングで、彼女が来るわけがない、と。
しかし、清一郎の読みは違わず、思っていた通りの姿がそこから現れる。
小柄な少女は屋上の暑さに怯んだように、戸口の所で足を止めた。
清一郎は、わずかに目を細めて子どものような華奢な姿を見つめる。半袖のパジャマから覗く腕は遠目にも細く白いのが見て取れた。先日海辺に行った筈だが、さっぱり焼けた形跡はない。
先客がいるとは考えてもいないのか、清一郎に気付いた様子はなかった。休んでいるようで少し俯いて佇んでいる。
少女の――キラの姿に、彼は微かな苛立ちと、それ以外の不可解な何かを感じた。ザワリと腹の底が沸き立つような、何かを。
そんな慣れない感覚に眉をひそめた清一郎の視界の中で、彼女の頭が上がり、そしてその目が彼を捉える。
視線が合うと同時に、キラは少し後ずさった。
まるで建物の中に取って返そうとしているかのように見えて、清一郎はとっさに声をかけていた。
「また、こんな所に来ているのか」
その台詞は、明らかに彼女を追い返そうとしているようなものにしか聞こえないものに違いない。
――清一郎に、そんなつもりはなかったとしても。
彼は胸の中で舌打ちをして、キラに歩み寄った。
「もっと日陰に行った方がいい。暑いと体力を消耗する」
清一郎がそう言うと、彼女は窺うような眼差しで彼を見上げてきた。
「部屋に帰れって、言わないんですか?」
「……ナースの許可は得てきたのだろう?」
「もちろんです」
深々と頷いたキラに、清一郎は素っ気なく答える。
「ナースが許したということは、岩崎が許したということだ。僕がとやかく言うことじゃない」
彼女に目を向けることなく、風通しがよく日陰でもある場所へと導いた。
と。
「いつもは、言うくせに……」
小さな声で、ポソリとこぼすのが清一郎の耳にしっかりと届く。
やはり、岩崎の言う『いい子の』キラ像と清一郎に見えている姿とは、かなり違っているような気がする。
今の声は聞こえなかったことにして、清一郎はキラを座らせた。
一瞬、涼しい風が吹き抜けて、彼女の髪が膨らむようにして揺れる。何となくそれに触れてみたくなったのは、仔猫や何かを撫でたくなるのと同じような気持ちからだろう。
妙に気まずい想いがして、清一郎は、視線をキラから空へと移した。
彼女を誘ってはみたものの、話の口があるわけではない。
キラについての情報を、彼は頭の中で手繰ってみる。
「学校、残念だったな」
真っ直ぐ前を向いたまま、そう言ってみた。が、返事がない。
不審に思って見下ろすと、まじまじと彼を見つめている大きな目と行き合った。
「……何だ?」
「え、いえ、学校なんか行けなくて当然だって、言われるのかと思いました」
目を丸くしているキラは、本当に、心の底から意表を突かれているように見える。
「君がどうしたかったは、知っている。退院が延期になったのは当然のことだが、君がそれを残念に思うことまでは否定しない」
清一郎が淡々とそう答えると、彼女はパチリと大きく瞬きをし、そして笑った。ふわりと、ほころぶように。
あまりに嬉しそうなその笑顔に、清一郎は戸惑った。何が彼女を喜ばせたのかが、判らなかったからだ。なので、思わず眉間に皺を寄せて訊いてしまう。
「何が、そんなに嬉しいんだ? 実は学校に行きたくなかったのか?」
「違いますよぅ。学校に行けなかったことは、悔しいです」
「じゃあ、何なんだ」
「判らないんですか?」
意外そうに問い返されて、清一郎はムッと唇を引き結ぶ。
判らないから訊いているのだ。自分で判ることはわざわざ訊きはしない。
多分、内心の声が顔に表れていたのだろう。キラがフフッと小さな笑みを漏らす。
「先生が、残念だったなって言ってくれたからですよ。わたしが残念だって思ってることを、解かってくれたからです」
「それは、当たり前だろう」
「そうですか? だって先生はいつもわたしにああしろ、こうしろ、あれはダメ、これはダメって言うばかりなんですもん。わたしがどう思っているかなんてどうでもいいのかな、とか」
「そんな――」
――ことはない。
と言いかけて、清一郎はハタと固まった。
(確かに、指示を出す時に患者が何を思うかは、気にしたことがなかった)
昼の外来で、三橋から治療とは全く関係のない話を聞かされた。医者になって十年経つが、思い返してみた限り、患者と『雑談』をしたのは、初めてだ。
「先生?」
無言で佇む清一郎に、下からそっと声がかかる。見れば、キラが微かに眉をひそめて彼を見上げていた。
初めて――いや、違う。初めては、この少女だ。
海で、彼女の話を聴いた。
あれ以来、何事にも統制が取れていた彼の中で、何かが乱れ始めているのだ。というより、そもそも、キラと関わりを持ってからおかしくなってきている気がするが。
もっとタチの悪い患者はいくらでもいるのに、キラほど清一郎の調子を乱した者はいない。
彼の半分ほどの年の少女が、何故こんなにも影響力を持つのだろう。
子ども、だからなのか。幼くて大人の感性とは違うから、だから彼のリズムを狂わせてしまうのだろうか。
(キラに三橋の話をしたら、彼女はなんと言うのだろう)
清一郎は、ふとそんなことを考えた。
共感するのだろうか、反発するのだろうか。
疑問に思ったら確かめたくてたまらなくなり、彼はあまり考えることなく言葉を口にする。
「僕の患者に、別に生きたいわけではないと言いつつ通っている人がいるんだ」
「え?」
キラがキョトンと見上げてくるのへ、清一郎は肩をすくめて続ける。
「やめろと言っているのに、酒も煙草もやめない。薬も時々飲み忘れる。だが、律儀に予約にはやって来る」
「それは、大変ですね……」
多分、何と答えたらいいのか判らないのだろう。彼女はそんな台詞を口にする。
清一郎は少し言葉を切って、また始めた。
「彼は、妻に先立たれたし娘も結婚したからいつ死んでもいいのだと言う。そう言いつつ、孫を抱いてみたいからもう少し生きたいのだ、と。僕には、彼が生きたいのかそうでないのか、判らない」
そこで、彼は口を閉じた。すぐにキラから何か返ってくるだろうと思っていたけれど、予想通りにはいかなかった。
清一郎が黙ってしまえば屋上には誰もいないかのように静まり返って、時折、そよ、と風が吹くだけだ。
しばらく待っても返事がないから、彼は訝しみながら目を下に向けた。
と、キラの綺麗な丸い頭の、その天辺のつむじが見える。
彼女は考え込むように膝を抱えて、少し先のコンクリの床を見つめていた。
やはりキラにも理解不能なのだろうか。
清一郎は、ため息混じりに胸の中でそう呟く。
生きたいと願う彼女にとって、いつ死んでも構わないというのは、きっと理解し難い言い草なのだろう。
「すまない――」
妙なことを話した、気にしないでくれ。
そう、告げようとした時だった。
「多分、生きたい理由と死ねない理由は、違うんだと思います」
目線を下げたまま、キラがポソリとこぼすように言った。
「え?」
眉をひそめた清一郎を、パッとキラが見上げてきた。
「『生きたい』のは、まだやりたいことがあるから、それをしたいと思うからまだ生きたいなって思うんです。それは希望であって、しなくちゃいけないことじゃないんです」
彼女のその台詞は、理解はできたが、彼の問いへの答えとしては今一つ納得がいかなかった。
(人というものは、やりたいことがあるから生きているのだろう? だが、三橋さんは違う)
三橋は、孫を抱きたいと言いつつ、いつ死んでもいいと言う。
その矛盾は何なのだろうかと内心で首をかしげつつ、返事に困った清一郎はキラに問いを投げかけた。
「君にも、やりたいことはあるのか?」
それは、愚問だった。
やりたいと切望しつつ不可能なこと、そんなもの、この少女には腐るほどあるのだろう。
だが、迂闊な自分の発言に渋面になった清一郎には気付いた様子もなく、キラは言う。
「わたし、ですか? そうですね、飛行機に乗ってみたいです。で……そうですね、アフリカに行きたいな。野生動物探究ツアーとか」
おどけた口調のその台詞は、夢物語に聞こえる。
そんなふうに軽い口調で突拍子もないことを挙げてみせたのは、清一郎の心中に気付いたからなのだろうか。
清一郎は眉間のしわを深くした。そうして、もう一度訊く。彼女と真っ直ぐ目を合わせながら。
「本当に、君がやりたいことは、何なんだ?」
キラの笑顔が固まり、そして、すぅっと、手のひらに落ちた淡雪のように消えていく。
彼女は首を捻じるようにして前を向き、少ししてから立ち上がった。トントンと、つま先でコンクリートを蹴っている。
沈黙。
そして、話し出したのは唐突だった。細い声で、しかししっかりと、語る。
「わたしは、文化祭とか、修学旅行とか、そういうのに参加したい。高校も、ちゃんと卒業したい……何年かかってもいいから。絶叫マシーンにも乗ってみたい。お化け屋敷とかホラー映画とか、まさに怖いもの見たさ、ですね。各駅停車の電車に乗って、思い立ったところで降りてその街を歩いてみたい。好きな人とデートもしたい。その人と教会でウェディングドレスを着て歩きたい。……友達が幸せになるところを見たい。パパとママが嬉しくて泣くところを、見てみたい――悲しくてとか辛くてとかじゃなくて」
キラがまた、清一郎を見る。
澄んだ眼差しが微笑んだ。
「それがわたしの、『生きたい理由』」
列挙された、いくつもの『願い』。いつか叶えたいこと。
それは、どれもごく日常的で平凡なことだ。殆どの者が、意識もせずに実現できていること。
だが、清一郎は、キラに向けて「簡単なことだ」とは言えなかった。そのうちできるようになる、とも。
根拠のない励ましなど、彼の信条に反することだった。
――それなのに、何故、その腕にキラを抱き上げ、「大丈夫だ」という言葉を口にしたくてたまらない気持ちになっているのだろう。
奇妙な感情の波に、全身が疼く。
それにさらわれてしまわないよう、清一郎は奥歯を噛み締めた。
「生きたい理由は、やりたいこと。それは解かった。なら、死ねない理由というのは、何なんだ?」
何かを堪えているせいでいつも以上に平坦になった彼の声に、キラが首をかしげて見上げてきた。立っていても、彼女は小さい。殆ど直角になるほど頭を反らせて、キラは清一郎の目を見つめてきた。
「死ねないのは――大事な人がいるから……大事な人を残していって悲しませたくないから」
キラが微かに首をかしげると、ふわりと髪が揺れた。
「それは、鎖なんです。それがある限りは、絶対に、諦められないんです。諦めちゃいけないんです……多分、それが生まれてきたことで背負う、一番大きな義務なんです。その人を好きでいてくれる人がいる限り、そういう人を作ってしまった限り、その人は生きなくちゃいけないんです。それは、その人がどうしたいかは関係ない、そう『しなければならない』ことなんです。どんなに嫌でも苦しくても、生きることにしがみついていなくちゃならないんです」
そう言った、揺らぎのない眼差し。真っ向から目を合わせているのが苦しくなる程、力のこもった、眼差し。
その言葉はきっと、彼女自身の決意でもあるのだろう。
「そうか」
清一郎はキラの目を見つめ返し、短く、そう呟いた。彼女の目がツ、と逸らされ、また静けさがカーテンのように下りてくる。
二人とも黙ったままで、時折割り込んでくるチチッという鳥の声だけが静寂を乱した。
触れそうな、けれども触れてはいない距離にいる彼女から、仄かな温もりが伝わってくる。
どれほどの時間が過ぎた頃か、不意にキラが身じろぎをした。そうして、腕にはめた時計に目をやって、言う。
「わたし、そろそろ部屋に戻らないと。前科持ちだから、少しでも遅れると探し回られちゃいます」
その声はついさっきまでのものとは打って変わって明るく軽やかなものだった。
腕時計を見る仕草は少し大げさで、声の明るさは不自然さを醸し出す一歩手前のものだった。もしかすると、心の内を明かしてしまった気まずさをごまかそうとしているのかもしれない。
本当なら病室までついていってやりたいところだったが、きっと、キラは嫌がるだろう。
「僕は、もう少しここにいるから」
「そうですか、じゃあ、また」
清一郎の返事にあからさまにホッとした様子で、キラはそそくさと離れていく。彼女の気持ちは解からないでもないが、何となくその素っ気ない態度は気に入らなかった。
「おとなしくしているんだぞ?」
ドアの向こうへ消える直前にそう声をかけると、彼女はニコッといつもの笑顔で振り返った。
「判ってます。こう見えても、優等生なんですよ」
そうして扉は閉ざされ、広い屋上には清一郎だけが取り残される。少し幼さの残るキラの声が消え失せただけで、やけにガランとしているように感じられた。
「生きたい理由と、死ねない理由」
清一郎は口の中で転がすようにして呟く。
両者が別のものだとは、考えたことがなかった。
希望と、義務。
ふと、生きるのであれば、義務ではなく希望の為であって欲しいと、清一郎は思った。
彼は真っ青に晴れ渡った空を見上げ、そして深く息を吸い込む。一度目を閉じてから、ゆっくりと吐き出した。
再び目蓋をあげた清一郎は一歩を踏み出し、分からず屋の患者たちを相手にすべく、いつもの診察室へと向かった。
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