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永遠に残るモノ-1
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車の中は音楽もかかっていなくて、道順を指示するカーナビゲーションの声だけが、静かなエンジン音に時折被るだけだった。
チラチラと横目で清一郎を窺うと、彼は真っ直ぐに前を向いてハンドルを握っている。車が走り出してこの方、一瞬たりともキラにその視線が向けられることはなかった。
(や、運転中に目を逸らしたら危ないんだけど……)
キラはモジモジと膝の上の手に目を落として、左手で右の手のひらを撫でた。何となく、そこにはまだ彼女のものではない熱が残っている気がする。
――病室から駐車場に出るまで、清一郎はずっと彼女のその手を取ったままだった。その熱が、まだ消えない。
「一人で、歩けますよ?」
部屋を出てからしばらくしても手を放そうとしない清一郎にそっとそう声をかけたキラを、彼は足を止めて見下ろしてきた。二人の身長差は余裕で頭一つ半分はあるから、手をつないでいる距離だと、目を合わせるにはキラはかなり首をのけ反らせなければならない。
小さな子どもじゃあるまいし、異性と手をつなぐだなんて普通はあまりないことだ。少なくともキラの記憶に残っている範囲では、男性とこんなふうに触れ合ったことはなかった。
恥ずかしさとそれ以外の何かが入り混じった気持ちで彼を見上げているキラに、しかし、清一郎から返されたのはごくごく冷静、平静な眼差しだったのだ。
そして、この上なく合理的で実際的な言葉。
「こうしていた方が、君と歩幅を合わせ易い」
そう答えて「何か反論でも?」と言いたげに片方の眉を上げた清一郎は至って真面目な顔をしていて、キラは再び歩き出した彼に黙って付いていくしかなかった――手を握られたままで。
以前に、彼に抱き上げられて病院内を運ばれたことがある。その時よりも頬が熱くなったのは、何故なのだろう。
病棟から清一郎の車まで、多分、十分かそこら。
そのたった十分で、彼の温もりがキラの肌に浸みこんでしまったようだった。車に乗り込んでからもう二十分以上は経っているのに、まだ疼いている。
(なんか、もう、わたしばっかり気にし過ぎてて、恥ずかしい)
もう一度、彼女は手のひらを撫で、そこに何かを閉じ込めるように握り締める。そうして、また、目を上げた。
窓の外では景色がどんどん流れていく。清一郎の運転はとても丁寧で、曲がる時にも止まる時にも、ほとんど重力を感じさせなかった。
(何から何まで、先生らしい)
しみじみと、キラはそう思う。
今二人が乗っている清一郎の車は、いたって平凡な白の国産車だった。車内にもアクセサリー一つない。実用本位、そのもの。
どれも同じ筈のカーナビの声も、他のものよりも几帳面なように聞こえてきてしまう。そのカーナビが、また淡々と指示を出した。
キラの高校までは、まだ三十分以上かかるだろう。
――二人きりでいるのが、退屈なわけではないのだけれど。
こうやって、すぐ傍に彼を感じているだけで不思議と気持ちが落ち着いて寛げてしまうのだけれど。
(声をかけたら、運転の邪魔かな)
迷いながら、またチラリと彼に目を走らせる。と、何度目かの彼女のその視線を感じ取ったかのように、不意に清一郎が口を開いた。
「何だ?」
まさか彼が気付いているとは思っていなくて、キラは思わずびくりと肩を跳ねさせてしまう。そんな彼女の反応には構わず、真っ直ぐに進行方向を見据えたまま、清一郎がもう一度訊いてきた。
「何か話でもあるのか?」
話は確かにあったのだけれども実際に出す準備はできていなくて、キラはハクハクと口を開け閉めする。
「えっと、その……」
しどろもどろなキラを笑うこともなく、清一郎は黙って彼女の言葉を待っている。視線は前に注がれたままだけれども、耳はキラに向いているのが、何故か判った。
(言いたいこと――そう)
「あの、ママ――ウチの母と、最近話しましたか?」
ようやくキラがそう口にすると、清一郎はほんの一瞬怪訝そうに彼女へ目を走らせた。
「この間、話した」
彼が言っているのは、明らかに三日前のカンファレンスのことだ。キラはかぶりを振る。
「そうじゃなくて。わたしがいない時に話したこと、ないですか?」
しばしの沈黙。
そして。
「……ああ」
唸るようにそう答えただけで、それっきり。
「何を――」
キラは二人がどんな話をしたのか尋ねようとして、やめた。代わりに頷いて、おしまいにする。
「そうですか」
多分、裕子が変わろうとしているのは、その時の会話がきっかけなのだろう。
何年も変わろうとしなかった母に変化をもたらしたのは、これまでなかったものに違いない。今までずっと変わることのなかったキラの日常の中で最近になって現れた『新しいモノ』は、清一郎だけだ。
そして、単に『新しいモノ』だからだというだけでなく、彼のことを知りつつあるキラには、裕子にきっかけを与えてくれたのが清一郎だという推測に確信に近いものを抱いていた。
(多分、間違ってない)
心の中でそう呟いたキラの口元に、自然と微笑みが浮かぶ。
短い清一郎の肯定がキラにはやけに嬉しく感じられたのだけれども、その嬉しさの理由が、清一郎が母を変えようとしてくれたからなのか、母が変わろうとしているきっかけが清一郎なのだということが正しかったからなのか、それとも、キラの胸の奥底に潜む苦しさを彼が判ってくれていたからなのか――彼女自身にも判らなかった。
キラが黙ると、やっぱり車の中はシンと静かになる。清一郎の呼吸の音すら聞こえそうなその静けさが、不思議なほど心地良かった。
普段の清一郎は、無愛想で素っ気ない。
けれど、屋上で何度か言葉を交わすうち、キラにはその仏頂面の裏で彼がどれほど患者のことを考えているかが判ってきていた。
(わたしのことで親身になってくれるのも、患者の一人だと思っているからだよね)
そんなふうに思った瞬間、チクリと小さな痛みがキラの胸に走って、思わず眉をしかめる。
清一郎の優しさは『患者』に向けられるもの――『キラ』に、『キラだけ』に与えられるものじゃない。
(そんなの、当たり前でしょ?)
だって彼は『医者』なのだから。
当たり前のことなのに、みぞおちの辺りがモヤモヤする。
清一郎は、何百人もの患者を抱えているのだ。それなのに自分のことを特別に想って欲しいだなんて、おこがましい。
キラは小さく吐息をこぼして、首を捻って窓の外に目をやった。
今まで、誰かに気にかけて欲しいとか――誰かの特別になりたいとか、思ったことなどなかったのに。
(なんか、先生と出会ってからいろいろ変わった気がする)
母だけではなくて、キラ自身も。
(これは、良いこと? それとも、良くないこと?)
キラはこっそりと胸の中で自問する。
明らかに、自分はわがままになっている。彼女にはその自覚があった。
「酔ったのか?」
不意に、運転席から声がかかる。気付かないうちに車は赤信号で停まっていて、清一郎の顔が真っ直ぐにキラに向けられていた。その眉根が、微かに寄っている。
いつの間にかうつむきがちになっていた顔をパッとあげて、キラは慌てて首を振った。
「あ、いえ、全然。文化祭、どんなふうなのかなって……先生の高校の時は、どんな感じでしたか?」
半ばごまかすようにそう質問で返すと、彼はもう少し眉間の皺を深くしたけれど、信号が変わったのを目の端でとらえてまた前を向く。
「あまり覚えていないな。珍妙な格好をしたやつが校内をウロウロしていた気がする。それに、うるさかった」
「……楽しく、なかったんですか?」
「僕は通常通り授業が行われている方が好きだった」
「そう、ですか」
キラはなんと答えていいのか判らず、曖昧にそう呟いた。仮装している清一郎とか、ちょっと見てみたかった気がするのだけれども。
ふと友達の桃子《とうこ》がよく話してくれるファンタジーの漫画や小説のコスプレをしている清一郎の姿が頭の中に浮かんでしまって、思わずキラは小さな笑い声をこぼしてしまう。
訝しげな彼の視線に首を振って返して、彼女は口元をそっと隠した。
それからはまた会話は途切れて、やがて車窓にはキラの目に馴染んだ景色が広がり始める。
「そろそろですけど、駐車場は少し離れたところに特設である筈です。校内のだけだと、足りないから……えっと、ですね、校門を通り過ぎて、左の空き地で……わあ」
説明する声が、嘆息に変わる。キラがそう言っている間に、母校の校門に差し掛かったのだ。
何度も彼女がくぐったことのある門には、今、煌びやかなアーチがしつらえられていた。左右にそびえるパステルカラーの巨木が互いに向けて枝を伸ばしているデザインで、まるでおとぎの国への入り口のようだ。
キラがそれに目を奪われている間に車は校門を通り過ぎ、清一郎が『駐車場』と矢印の出ている場所へと車を進入させる。
昼も過ぎたこの時間、敷地内には整然と車が並べられており、まずまずの客の入りのようだった。
「着いたぞ」
そう言って、エンジンを切った清一郎がカチリとキラのシートベルトを外してくれる。
「あ、はい、ありがとうございます」
車のドアを開けると、途端に校内の喧騒が聞こえてくる。それだけで、キラの胸が浮き立ってきた。
(あんまり興奮しちゃ、ダメだよね)
気持ちを落ち着かせようと、車から降りた彼女はその場で二、三度深呼吸を繰り返す。
そうしている間に、清一郎がキラの隣にやってきた。
何故か彼は微かに眉をひそめて校門の方を眺め、キラを見下ろし、また学校の方に目をやる。
「どうかしましたか?」
やっぱりダメだとか、言われるのだろうか。
そんなことをされたら、まさにお預けを食らって目の前で餌の皿を下げられた犬のような心境になってしまう。
やきもきしているキラを、清一郎がもう一度見下ろしてきた。
そして。
唐突に身を屈めた清一郎が、左腕でキラの腿をすくい上げるようにして彼女を抱き上げる。
「ぅひゃうっ!?」
ものすごく間の抜けた悲鳴と共に、キラはとっさにすぐ傍にある彼の頭にしがみ付いてしまった。
彼女の腕が視界に入っているだろうに、清一郎はそのままスタスタと歩き出す。
「ちょ、ちょっと、先生、何なんですか、これは!?」
平然としている彼に、キラは抗議と疑問がごちゃ混ぜになった声をあげた。
確かに、病院の中でもこんなふうにされたことはある。だけど、今は、『外』だ。病院という、特殊な場所ではない。
常識が支配している場では、女子高生を片腕抱っこする大の男は浮き過ぎる。
けれど、慌てふためくキラをよそに、足を止めた清一郎は目だけを彼女に向けると、いつものように涼しい顔をして、言った。
「ここから校内まで、ずいぶん距離がある。教室まで自分の足で歩いたら、すぐに許容できる運動量をオーバーしてしまう。できるだけ長く、参加していたいのだろう?」
彼の言葉に、反射的に頷いてしまった。できることなら、最後のキャンプファイアーまで見ていきたい。
子どものようにコクリと頭を上下したキラに、清一郎の口元がふっと緩む。
(今、笑った……? 笑った、よ、ね……?)
間近で目にした微かな笑顔に思わず小さく息を呑んでしまった彼女には気付いたふうもなく、彼はまた歩き出した。
顔も熱くて胸も何だか変な感じで。
落ち着け落ち着けと胸の中で懸命に唱えているキラに、淡々とした声がかかる。
「だったら、できる限り自分で動かない方がいい」
「……先生の方が、恥ずかしくないんですか?」
「何故?」
ためらいがちの問いにきっぱりとそう返され、思わずキラはため息を漏らす。
(ああ、そうか。この人は自分が正しいと思っていたら、他の人の目なんてどうでもいいんだ)
自信という強固な壁があるから、他人からどう思われるかなんていう些細なことを気にして、やるべきと決めたことをやめたりしない。
そう思ってしまうと、すとんとキラの肩から力が抜ける。小さく笑みをこぼした彼女に、足を止めることなく清一郎が目を向けた。
「何だ?」
「いえ、なんでも。わたしって、ちっちゃいなぁと思って」
思わずそう答えてしまうと、彼はいぶかしげな顔で頷いた。何となく、「何をいまさら」という声が聞こえたような気がする。
「まあ、確かに小柄ではあるな」
――そういう意味ではないのだけれど。
まあいいか、とキラは笑う。
「そのうち、大きくなるんですよ。見ていてください」
半分おどけてそう答えると、彼女の腰辺りを支えていた清一郎の大きな手に、ほんの一瞬力がこもった。
気のせいかと思うくらい、短い間、微かな力。
「……ああ」
少し間の開いた返事はただの同意よりももう少し多くの何かを含んでいるような気がして、何故かキラの胸がトクリと一つ高鳴った。
それが、何なのか。
速い彼の足ではキラがそれを確認しようとするよりも先に校門へ着いてしまって、結局彼女は問えず仕舞いだった。
チラチラと横目で清一郎を窺うと、彼は真っ直ぐに前を向いてハンドルを握っている。車が走り出してこの方、一瞬たりともキラにその視線が向けられることはなかった。
(や、運転中に目を逸らしたら危ないんだけど……)
キラはモジモジと膝の上の手に目を落として、左手で右の手のひらを撫でた。何となく、そこにはまだ彼女のものではない熱が残っている気がする。
――病室から駐車場に出るまで、清一郎はずっと彼女のその手を取ったままだった。その熱が、まだ消えない。
「一人で、歩けますよ?」
部屋を出てからしばらくしても手を放そうとしない清一郎にそっとそう声をかけたキラを、彼は足を止めて見下ろしてきた。二人の身長差は余裕で頭一つ半分はあるから、手をつないでいる距離だと、目を合わせるにはキラはかなり首をのけ反らせなければならない。
小さな子どもじゃあるまいし、異性と手をつなぐだなんて普通はあまりないことだ。少なくともキラの記憶に残っている範囲では、男性とこんなふうに触れ合ったことはなかった。
恥ずかしさとそれ以外の何かが入り混じった気持ちで彼を見上げているキラに、しかし、清一郎から返されたのはごくごく冷静、平静な眼差しだったのだ。
そして、この上なく合理的で実際的な言葉。
「こうしていた方が、君と歩幅を合わせ易い」
そう答えて「何か反論でも?」と言いたげに片方の眉を上げた清一郎は至って真面目な顔をしていて、キラは再び歩き出した彼に黙って付いていくしかなかった――手を握られたままで。
以前に、彼に抱き上げられて病院内を運ばれたことがある。その時よりも頬が熱くなったのは、何故なのだろう。
病棟から清一郎の車まで、多分、十分かそこら。
そのたった十分で、彼の温もりがキラの肌に浸みこんでしまったようだった。車に乗り込んでからもう二十分以上は経っているのに、まだ疼いている。
(なんか、もう、わたしばっかり気にし過ぎてて、恥ずかしい)
もう一度、彼女は手のひらを撫で、そこに何かを閉じ込めるように握り締める。そうして、また、目を上げた。
窓の外では景色がどんどん流れていく。清一郎の運転はとても丁寧で、曲がる時にも止まる時にも、ほとんど重力を感じさせなかった。
(何から何まで、先生らしい)
しみじみと、キラはそう思う。
今二人が乗っている清一郎の車は、いたって平凡な白の国産車だった。車内にもアクセサリー一つない。実用本位、そのもの。
どれも同じ筈のカーナビの声も、他のものよりも几帳面なように聞こえてきてしまう。そのカーナビが、また淡々と指示を出した。
キラの高校までは、まだ三十分以上かかるだろう。
――二人きりでいるのが、退屈なわけではないのだけれど。
こうやって、すぐ傍に彼を感じているだけで不思議と気持ちが落ち着いて寛げてしまうのだけれど。
(声をかけたら、運転の邪魔かな)
迷いながら、またチラリと彼に目を走らせる。と、何度目かの彼女のその視線を感じ取ったかのように、不意に清一郎が口を開いた。
「何だ?」
まさか彼が気付いているとは思っていなくて、キラは思わずびくりと肩を跳ねさせてしまう。そんな彼女の反応には構わず、真っ直ぐに進行方向を見据えたまま、清一郎がもう一度訊いてきた。
「何か話でもあるのか?」
話は確かにあったのだけれども実際に出す準備はできていなくて、キラはハクハクと口を開け閉めする。
「えっと、その……」
しどろもどろなキラを笑うこともなく、清一郎は黙って彼女の言葉を待っている。視線は前に注がれたままだけれども、耳はキラに向いているのが、何故か判った。
(言いたいこと――そう)
「あの、ママ――ウチの母と、最近話しましたか?」
ようやくキラがそう口にすると、清一郎はほんの一瞬怪訝そうに彼女へ目を走らせた。
「この間、話した」
彼が言っているのは、明らかに三日前のカンファレンスのことだ。キラはかぶりを振る。
「そうじゃなくて。わたしがいない時に話したこと、ないですか?」
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「……ああ」
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「何を――」
キラは二人がどんな話をしたのか尋ねようとして、やめた。代わりに頷いて、おしまいにする。
「そうですか」
多分、裕子が変わろうとしているのは、その時の会話がきっかけなのだろう。
何年も変わろうとしなかった母に変化をもたらしたのは、これまでなかったものに違いない。今までずっと変わることのなかったキラの日常の中で最近になって現れた『新しいモノ』は、清一郎だけだ。
そして、単に『新しいモノ』だからだというだけでなく、彼のことを知りつつあるキラには、裕子にきっかけを与えてくれたのが清一郎だという推測に確信に近いものを抱いていた。
(多分、間違ってない)
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キラが黙ると、やっぱり車の中はシンと静かになる。清一郎の呼吸の音すら聞こえそうなその静けさが、不思議なほど心地良かった。
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けれど、屋上で何度か言葉を交わすうち、キラにはその仏頂面の裏で彼がどれほど患者のことを考えているかが判ってきていた。
(わたしのことで親身になってくれるのも、患者の一人だと思っているからだよね)
そんなふうに思った瞬間、チクリと小さな痛みがキラの胸に走って、思わず眉をしかめる。
清一郎の優しさは『患者』に向けられるもの――『キラ』に、『キラだけ』に与えられるものじゃない。
(そんなの、当たり前でしょ?)
だって彼は『医者』なのだから。
当たり前のことなのに、みぞおちの辺りがモヤモヤする。
清一郎は、何百人もの患者を抱えているのだ。それなのに自分のことを特別に想って欲しいだなんて、おこがましい。
キラは小さく吐息をこぼして、首を捻って窓の外に目をやった。
今まで、誰かに気にかけて欲しいとか――誰かの特別になりたいとか、思ったことなどなかったのに。
(なんか、先生と出会ってからいろいろ変わった気がする)
母だけではなくて、キラ自身も。
(これは、良いこと? それとも、良くないこと?)
キラはこっそりと胸の中で自問する。
明らかに、自分はわがままになっている。彼女にはその自覚があった。
「酔ったのか?」
不意に、運転席から声がかかる。気付かないうちに車は赤信号で停まっていて、清一郎の顔が真っ直ぐにキラに向けられていた。その眉根が、微かに寄っている。
いつの間にかうつむきがちになっていた顔をパッとあげて、キラは慌てて首を振った。
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半ばごまかすようにそう質問で返すと、彼はもう少し眉間の皺を深くしたけれど、信号が変わったのを目の端でとらえてまた前を向く。
「あまり覚えていないな。珍妙な格好をしたやつが校内をウロウロしていた気がする。それに、うるさかった」
「……楽しく、なかったんですか?」
「僕は通常通り授業が行われている方が好きだった」
「そう、ですか」
キラはなんと答えていいのか判らず、曖昧にそう呟いた。仮装している清一郎とか、ちょっと見てみたかった気がするのだけれども。
ふと友達の桃子《とうこ》がよく話してくれるファンタジーの漫画や小説のコスプレをしている清一郎の姿が頭の中に浮かんでしまって、思わずキラは小さな笑い声をこぼしてしまう。
訝しげな彼の視線に首を振って返して、彼女は口元をそっと隠した。
それからはまた会話は途切れて、やがて車窓にはキラの目に馴染んだ景色が広がり始める。
「そろそろですけど、駐車場は少し離れたところに特設である筈です。校内のだけだと、足りないから……えっと、ですね、校門を通り過ぎて、左の空き地で……わあ」
説明する声が、嘆息に変わる。キラがそう言っている間に、母校の校門に差し掛かったのだ。
何度も彼女がくぐったことのある門には、今、煌びやかなアーチがしつらえられていた。左右にそびえるパステルカラーの巨木が互いに向けて枝を伸ばしているデザインで、まるでおとぎの国への入り口のようだ。
キラがそれに目を奪われている間に車は校門を通り過ぎ、清一郎が『駐車場』と矢印の出ている場所へと車を進入させる。
昼も過ぎたこの時間、敷地内には整然と車が並べられており、まずまずの客の入りのようだった。
「着いたぞ」
そう言って、エンジンを切った清一郎がカチリとキラのシートベルトを外してくれる。
「あ、はい、ありがとうございます」
車のドアを開けると、途端に校内の喧騒が聞こえてくる。それだけで、キラの胸が浮き立ってきた。
(あんまり興奮しちゃ、ダメだよね)
気持ちを落ち着かせようと、車から降りた彼女はその場で二、三度深呼吸を繰り返す。
そうしている間に、清一郎がキラの隣にやってきた。
何故か彼は微かに眉をひそめて校門の方を眺め、キラを見下ろし、また学校の方に目をやる。
「どうかしましたか?」
やっぱりダメだとか、言われるのだろうか。
そんなことをされたら、まさにお預けを食らって目の前で餌の皿を下げられた犬のような心境になってしまう。
やきもきしているキラを、清一郎がもう一度見下ろしてきた。
そして。
唐突に身を屈めた清一郎が、左腕でキラの腿をすくい上げるようにして彼女を抱き上げる。
「ぅひゃうっ!?」
ものすごく間の抜けた悲鳴と共に、キラはとっさにすぐ傍にある彼の頭にしがみ付いてしまった。
彼女の腕が視界に入っているだろうに、清一郎はそのままスタスタと歩き出す。
「ちょ、ちょっと、先生、何なんですか、これは!?」
平然としている彼に、キラは抗議と疑問がごちゃ混ぜになった声をあげた。
確かに、病院の中でもこんなふうにされたことはある。だけど、今は、『外』だ。病院という、特殊な場所ではない。
常識が支配している場では、女子高生を片腕抱っこする大の男は浮き過ぎる。
けれど、慌てふためくキラをよそに、足を止めた清一郎は目だけを彼女に向けると、いつものように涼しい顔をして、言った。
「ここから校内まで、ずいぶん距離がある。教室まで自分の足で歩いたら、すぐに許容できる運動量をオーバーしてしまう。できるだけ長く、参加していたいのだろう?」
彼の言葉に、反射的に頷いてしまった。できることなら、最後のキャンプファイアーまで見ていきたい。
子どものようにコクリと頭を上下したキラに、清一郎の口元がふっと緩む。
(今、笑った……? 笑った、よ、ね……?)
間近で目にした微かな笑顔に思わず小さく息を呑んでしまった彼女には気付いたふうもなく、彼はまた歩き出した。
顔も熱くて胸も何だか変な感じで。
落ち着け落ち着けと胸の中で懸命に唱えているキラに、淡々とした声がかかる。
「だったら、できる限り自分で動かない方がいい」
「……先生の方が、恥ずかしくないんですか?」
「何故?」
ためらいがちの問いにきっぱりとそう返され、思わずキラはため息を漏らす。
(ああ、そうか。この人は自分が正しいと思っていたら、他の人の目なんてどうでもいいんだ)
自信という強固な壁があるから、他人からどう思われるかなんていう些細なことを気にして、やるべきと決めたことをやめたりしない。
そう思ってしまうと、すとんとキラの肩から力が抜ける。小さく笑みをこぼした彼女に、足を止めることなく清一郎が目を向けた。
「何だ?」
「いえ、なんでも。わたしって、ちっちゃいなぁと思って」
思わずそう答えてしまうと、彼はいぶかしげな顔で頷いた。何となく、「何をいまさら」という声が聞こえたような気がする。
「まあ、確かに小柄ではあるな」
――そういう意味ではないのだけれど。
まあいいか、とキラは笑う。
「そのうち、大きくなるんですよ。見ていてください」
半分おどけてそう答えると、彼女の腰辺りを支えていた清一郎の大きな手に、ほんの一瞬力がこもった。
気のせいかと思うくらい、短い間、微かな力。
「……ああ」
少し間の開いた返事はただの同意よりももう少し多くの何かを含んでいるような気がして、何故かキラの胸がトクリと一つ高鳴った。
それが、何なのか。
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