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永遠に残るモノ-4
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校内巡回は、何というか、すさまじかった。
清一郎が学生だった時にはこんなに面食らった記憶はないのだが、それは彼がこういった催しにあまり参加していなかったからなのだろうか、それとも、ジェネレーションギャップのせいなのだろうか。
他のクラスでも見られた『喫茶店』はことごとく彼の常識を打ち破っていたし、文化祭で定番の『展示もの』も、彼の時はもっと無難で真面目なものばかりだったと思う。
――少なくとも、三桁に及びそうなアニメのフィギュアのコレクションやら一分の一スケールのロボットやらは、なかった筈だ。
つくづく、時の流れを実感した数時間だった。
清一郎はベランダの手すりに肘を置いて、そこから下を眺める。少し前から、清一郎とキラは彼女の教室に戻っていた。
今は一般公開も終わりを告げて、生徒たちは皆暗くなり始めた校庭で明々と炎を上げているキャンプファイアーの周りに集まっていた。
「きれいですねぇ」
隣で、ホッとこぼした吐息と共に、キラがそう呟いた。彼女は両手をベランダの手すり上にのせて、彼と同じように下を見つめている。その目はキャンプファイアーの炎を映して輝いていた。いや、あるいは、その輝きは彼女の内面から溢れ出る生気そのものなのかもしれない。
元々、キラは病人らしからぬ生き生きとした空気を身にまとっていた。この文化祭に参加してからは、それがより一層増しているような気がする。
(来させて、良かったんだ)
正直に言うと、こんな騒々しい所に連れてきたことに、清一郎は若干の後悔も覚えていたのだ。病院で安静にさせておいた方が良かったのではないだろうか、と。
だが、今のキラを見ていると、その不安が綺麗に払しょくされる。
不意に、彼女が清一郎の方へと振り向いた。その横顔を凝視していた彼はまともに視線を合わせてしまい、一瞬ギョッとする。もっともそれは表情には出ていなかったようで、キラは少し首をかしげてごく自然な眼差しを返してきた。
「あの、もう少しここに居てもいいですか?」
チラリと腕時計に視線を走らせ、清一郎は頷く。
ここに着いてから、彼はマメにキラの脈を取り、ほんの僅かでも息切れなどがないか注意深く観察していたが、彼女の状態は終始安定していた。
予定よりも遅くなっているが、もう少しなら大丈夫だろう。
「あと三十分ぐらいは」
彼の答えに、キラがふわりと微笑んだ。
室内には二人の他には誰もおらず、昼間の喧騒が幻であったかのように、シンと静まり返っている。
二人とも仮装を解いて背広と制服に着替えていた。制服だとキラもそれなりに高校生らしく見えて、何となく清一郎はホッとする。あまりに幼げな外見だと、何だか落ち着かなかった。
「今日は連れてきてくださって、ありがとうございました。こんなに楽しいだなんて、思わなかった」
そう言って、キラはまたキャンプファイアーへと目を戻す。清一郎は彼女の横顔を何も言わずに見つめていた。キラも答えを待っていたわけではないようで、またポツリ、ポツリと言葉をこぼし始める。
今日の出来事を、噛み締めるかのように。
「あんなふうにクラスの子と笑い合うなんて、今までしたことなかったんです。ううん、いつも、楽しかったんですよ? でも、大声で、声を出して笑うなんて、なかった。どんなに仲良くしていても、何となく、クラスの子とはいつも距離を感じていたから」
清一郎もクラスに溶け込んだ記憶はないが、全く気になったことはなかった。状況は同じでもそこから感じ取るものが彼とキラでは大きく違うのだろう。キラの胸の内にあるものを、清一郎は知ることができない――理解できない。何故か、妙にそれがもどかしい。
そんな、苛立ちのような焦りのような気持ちを彼が抱いているとは気付いていない様子で、キラが続ける。
「コスプレも、最初はちょっと引きました。でも、途中からなんか吹っ切れたというか」
「まあ、確かに他にももっと妙なのが溢れていたからな」
「ちょっと怖いくらいでした」
数々の異形の群れを思い出したのか、キラが明るい笑顔を浮かべた。そして、ふと首をかしげて清一郎を見上げてくる。
「あんなに長い間わたしを抱えていて、重くなかったですか? 腕、痛くなってません?」
言いながらキラは彼女が乗せられていた方の清一郎の腕に手を伸ばしかけ――指先が届く前にパッと手を引っ込める。そして後ろで両手を組むと、何となくごまかすような笑みを浮かべた。
「筋肉痛って、若い人はすぐに出るんですよね。先生も三日ぐらいしたら痛くなったりして」
暗に、彼が年寄りだとからかっているのだろう。確かに彼女から見ればそうだろうが。
清一郎は肩をすくめてそれに応じる。
「君は小さいからな。枕か何かを抱えていたようなものだ」
「小さいっていうのは、表現に問題ありだと思うんですけど」
ムッと唇を尖らせて、キラが睨む素振りをする。
思わず小さく笑みを漏らすと、日が沈んだ薄闇の中でも彼女が大きく瞬きをしたのが見て取れた。
別に清一郎はキラに気を使ったわけではなくて、本当に彼女を抱いていても苦痛でも何でもなかったのだ。むしろ、今この時も、こうやって隣に立っているよりも腕に抱え上げていたいくらいだった。
――清一郎の腕の中にいさせていれば、キラの体温を、鼓動を、呼吸を、はっきりと感じ取れたから。
それらの『彼女が生きている証』は、驚くほどの安堵感を彼にもたらしてくれたのだ。
今のキラの頬は遠くのキャンプファイアーの炎を映してか、仄かに赤みを帯びている。しかし、それがなければ透き通るように白いのだ。清一郎は、見ているだけではそこに熱が感じられなくて、触れて確かめてみたくなる。
そんな衝動に彼自身が戸惑い無意識に指先を握り込んだのと、キラが声を発するのとはほぼ同時だった。
「わたしはまだ十七だから、もう少しは大きくなると思いません?」
「どうだろうな。男だったらいけると思うが」
他の事に気を取られていたから、つい清一郎は本音を口にしてしまった。案の定、キラが鼻を鳴らす。
「もう! 夢くらい見させてくれてもいいじゃないですか」
彼女のその台詞に、ハッと胸を突かれた。
「すまない」
低い声で謝罪を口にした清一郎に、今度はキラの方が慌てたような裏返った声を出す。
「や、別に、そんなに真剣に受け取らなくても……」
そう言って、何故かクスクスと小さな笑いを漏らし始めた。
「何か、わたしと先生って、あんまり噛み合ってないですよね」
確かにその通りだが、清一郎は頷けなかった。その沈黙をどう取ったのか、キラは一度チラリと彼に視線を流してから続ける。
「でも、今日、先生と一緒に来られてホントに良かったです。すごく、楽しかった」
「……そうか」
そう返しながら、強張っていた彼の肩から力が抜けた。
「はい」
キラはコクリと頷き、手すりに寄り掛かっていっそう勢いを増してきた炎を見つめる。
しばらくそうしていて、不意に、ポトリと声をこぼす。
「ねえ、先生。こうやって、今あることは、永遠に残るんだって、思いませんか?」
清一郎はキラの言わんとしていることがよく理解できずに、眉をひそめて彼女を見下ろした。キラは真っ直ぐに眼下に目を留めたまま、続ける。
「あのね、今、わたしはここにいるでしょう? 存在しているの。死んだらね、確かにそれより後のわたしは存在できないけど、その瞬間より過去のわたしは存在し続けるの。わたしがいたっていうことは、ずっと、絶対に、消えないの。こうやって、みんなと一緒に楽しんだ、わたしは」
彼女は頭を傾けて清一郎を見上げて、ニコッと笑う。
「楽しいと思ったわたしの気持ち。みんなの記憶の中にある楽しんでいるわたし。……もしもみんなに忘れられてしまったとしても、消えるわけじゃないんです」
――僕は絶対に忘れない。
清一郎はキラにそう返してやりたかったが、その言葉は彼女の消失を受け入れているようで、口には出せなかった。代わりにギュッと唇を引き結ぶ。こんなにも鮮やかな彼女が自分が消えた後のことを考えているのだということに、理不尽な怒りを覚えた。
いつの間にか校庭に備え付けられたスピーカーからは賑やかな曲が流れていて、集まった生徒たちが手をつないでキャンプファイアーを囲み、廻り出す。
軽快な音楽を掻き消してしまいそうな、歓声。
キラは、その一人一人を慈しむように、ジッと彼らを見つめている。
そうして、やがて、ポツリと言った。
「わたしは、まだまだ『わたし』を残したい。まだまだ生きていたいんです」
「当たり前だ」
「ですね」
頷いたキラは、両手でベランダの手すりを押しやるようにして勢いよく身体を起こした。そうして清一郎に向き直り、彼を真っ直ぐに見上げてくる。暗い中でも、彼女のその目は生き生きと輝いていた。
「わたし、見苦しくてもなんでも、限界まで足掻きますからね」
キラは、そう、きっぱりと宣言した。
その視線の強さに、清一郎の目が吸い寄せられる。
彼は、様々な理由で自分の命を見限り、諦めてしまう者たちのことを知っていた。
どうせ先がないなら、こんなに苦しむくらいなら、と、まだいくばくか残っている命を放棄してしまう者たちのことを。
キラは、けっして彼らと同じ道は選ばないのだろう。たとえそれがどんなに険しく苦しいものだとしても、キラは決して諦めない。
清一郎のその考えを、続いた彼女の声が裏付ける。
「わたしは死にたくないんです。生きていたいんです。だから、この心臓が完全に止まってしまうまでは、絶対に諦めません」
明確な、意思表示だった。
意識せぬまま清一郎の手が動き、キラの細い肩を自分の傍へと引き寄せる。触れる程度に寄り添った身体に腕をまわすと、温もりと鼓動が伝わってきた。
(これを失わない為には、僕は何でもするだろう)
不意に、だが、強く、彼はそう思った。
キラの命をつなぐ為には、きっと、どんなことでもしてしまう――あっさりと手放す方が、彼女が苦しまずに済むだろうことが判っていても。
キラを死なせたくないと思うのが彼女の望みを叶えたいからなのか、それとも彼自身が彼女を失いたくないからなのか。
自分の身体にすっぽりと納まってしまうような小さな存在がこれほど心を揺さぶるものになるとは、思っていなかった。
清一郎は、右手をキラの頭の後ろに、左手を背中に添えて、ほんの少しだけ力を込める。と、クスリ、と微かな笑い声が彼の胸元をくすぐった。
「何だ?」
彼女の頭を自分の胸に引き寄せたまま、清一郎は問う。
「先生と出逢ってから、やりたかった事がいくつも叶っちゃったなって」
キラが言うのは、海とこの文化祭のことだろう。いくつも、というほど多くはないと思うが。
「……一つは、君が勝手にしでかしたことだろう?」
「ふふ、そうでした。スミマセン。反省してます」
キラが皆に黙って海に行ってしまった時は、本当に心配したのだ。ずいぶん軽い言い方だな、とムッとしながら、清一郎はふと気付いて彼女に問いかける。
「他には何が残っているんだ?」
「え?」
清一郎の手の中で、モソリとキラの頭が動いた。もっとも、彼に押さえられていて、モゾモゾとしただけで、実際に殆ど動かすことはできていなかったが。
少し力を緩めて、清一郎はもう一度尋ねる。
「やりたいことは、他に何が残っているんだ?」
答えまでに、わずかばかり間が開いた。
「……ナイショ、です」
微かな笑いを含んだ、声。キラの中にあるものを清一郎は知りたいと思ったが、彼女が秘密だというものをほじくり出す権限は彼にはない。
問いを重ねたくなるのを抑えて、清一郎は不承不承他の台詞を口にする。
「そろそろ、帰るか」
彼の言葉にまた少し間が空いて、そして彼女は頷いた。
「そうですね。このままじゃ、消灯時間になっちゃいます」
清一郎は腕を解き、キラを抱き上げようと腰を屈める。と、彼女はそれから逃れるように、後ずさった。眉をひそめた彼を、キラは小首をかしげて見上げてくる。
「あのね、先生、帰りは自分で歩いていきたいんです」
その乞うような眼差しに、清一郎は眉間の皺を深くした。
「だが――」
「お願い。この学校を出るまでは、『普通なわたし』でいたいんです」
キラの声にも視線にも懇願がこもっていて。
「行くぞ」
清一郎は、彼女を腕に抱き上げる代わりに、彼女に向けて片手を差し出した。
*
文化祭を終えた後、しばらくの間、疲れから体調を崩すのではないだろうかと案じる視線が、キラには四方八方から注がれていた。
しかし、大方の予想を裏切って、彼女の状態は良い方向に向かったのだ。
検査結果を見た岩崎が、「もしかしたら一度退院できるかもしれない」という言葉を口にするほどに。
実際、キラ自身も驚くほどに身体が軽かった。
――ひどく冷え込んだ十二月半ばの、あの日までは。
清一郎が学生だった時にはこんなに面食らった記憶はないのだが、それは彼がこういった催しにあまり参加していなかったからなのだろうか、それとも、ジェネレーションギャップのせいなのだろうか。
他のクラスでも見られた『喫茶店』はことごとく彼の常識を打ち破っていたし、文化祭で定番の『展示もの』も、彼の時はもっと無難で真面目なものばかりだったと思う。
――少なくとも、三桁に及びそうなアニメのフィギュアのコレクションやら一分の一スケールのロボットやらは、なかった筈だ。
つくづく、時の流れを実感した数時間だった。
清一郎はベランダの手すりに肘を置いて、そこから下を眺める。少し前から、清一郎とキラは彼女の教室に戻っていた。
今は一般公開も終わりを告げて、生徒たちは皆暗くなり始めた校庭で明々と炎を上げているキャンプファイアーの周りに集まっていた。
「きれいですねぇ」
隣で、ホッとこぼした吐息と共に、キラがそう呟いた。彼女は両手をベランダの手すり上にのせて、彼と同じように下を見つめている。その目はキャンプファイアーの炎を映して輝いていた。いや、あるいは、その輝きは彼女の内面から溢れ出る生気そのものなのかもしれない。
元々、キラは病人らしからぬ生き生きとした空気を身にまとっていた。この文化祭に参加してからは、それがより一層増しているような気がする。
(来させて、良かったんだ)
正直に言うと、こんな騒々しい所に連れてきたことに、清一郎は若干の後悔も覚えていたのだ。病院で安静にさせておいた方が良かったのではないだろうか、と。
だが、今のキラを見ていると、その不安が綺麗に払しょくされる。
不意に、彼女が清一郎の方へと振り向いた。その横顔を凝視していた彼はまともに視線を合わせてしまい、一瞬ギョッとする。もっともそれは表情には出ていなかったようで、キラは少し首をかしげてごく自然な眼差しを返してきた。
「あの、もう少しここに居てもいいですか?」
チラリと腕時計に視線を走らせ、清一郎は頷く。
ここに着いてから、彼はマメにキラの脈を取り、ほんの僅かでも息切れなどがないか注意深く観察していたが、彼女の状態は終始安定していた。
予定よりも遅くなっているが、もう少しなら大丈夫だろう。
「あと三十分ぐらいは」
彼の答えに、キラがふわりと微笑んだ。
室内には二人の他には誰もおらず、昼間の喧騒が幻であったかのように、シンと静まり返っている。
二人とも仮装を解いて背広と制服に着替えていた。制服だとキラもそれなりに高校生らしく見えて、何となく清一郎はホッとする。あまりに幼げな外見だと、何だか落ち着かなかった。
「今日は連れてきてくださって、ありがとうございました。こんなに楽しいだなんて、思わなかった」
そう言って、キラはまたキャンプファイアーへと目を戻す。清一郎は彼女の横顔を何も言わずに見つめていた。キラも答えを待っていたわけではないようで、またポツリ、ポツリと言葉をこぼし始める。
今日の出来事を、噛み締めるかのように。
「あんなふうにクラスの子と笑い合うなんて、今までしたことなかったんです。ううん、いつも、楽しかったんですよ? でも、大声で、声を出して笑うなんて、なかった。どんなに仲良くしていても、何となく、クラスの子とはいつも距離を感じていたから」
清一郎もクラスに溶け込んだ記憶はないが、全く気になったことはなかった。状況は同じでもそこから感じ取るものが彼とキラでは大きく違うのだろう。キラの胸の内にあるものを、清一郎は知ることができない――理解できない。何故か、妙にそれがもどかしい。
そんな、苛立ちのような焦りのような気持ちを彼が抱いているとは気付いていない様子で、キラが続ける。
「コスプレも、最初はちょっと引きました。でも、途中からなんか吹っ切れたというか」
「まあ、確かに他にももっと妙なのが溢れていたからな」
「ちょっと怖いくらいでした」
数々の異形の群れを思い出したのか、キラが明るい笑顔を浮かべた。そして、ふと首をかしげて清一郎を見上げてくる。
「あんなに長い間わたしを抱えていて、重くなかったですか? 腕、痛くなってません?」
言いながらキラは彼女が乗せられていた方の清一郎の腕に手を伸ばしかけ――指先が届く前にパッと手を引っ込める。そして後ろで両手を組むと、何となくごまかすような笑みを浮かべた。
「筋肉痛って、若い人はすぐに出るんですよね。先生も三日ぐらいしたら痛くなったりして」
暗に、彼が年寄りだとからかっているのだろう。確かに彼女から見ればそうだろうが。
清一郎は肩をすくめてそれに応じる。
「君は小さいからな。枕か何かを抱えていたようなものだ」
「小さいっていうのは、表現に問題ありだと思うんですけど」
ムッと唇を尖らせて、キラが睨む素振りをする。
思わず小さく笑みを漏らすと、日が沈んだ薄闇の中でも彼女が大きく瞬きをしたのが見て取れた。
別に清一郎はキラに気を使ったわけではなくて、本当に彼女を抱いていても苦痛でも何でもなかったのだ。むしろ、今この時も、こうやって隣に立っているよりも腕に抱え上げていたいくらいだった。
――清一郎の腕の中にいさせていれば、キラの体温を、鼓動を、呼吸を、はっきりと感じ取れたから。
それらの『彼女が生きている証』は、驚くほどの安堵感を彼にもたらしてくれたのだ。
今のキラの頬は遠くのキャンプファイアーの炎を映してか、仄かに赤みを帯びている。しかし、それがなければ透き通るように白いのだ。清一郎は、見ているだけではそこに熱が感じられなくて、触れて確かめてみたくなる。
そんな衝動に彼自身が戸惑い無意識に指先を握り込んだのと、キラが声を発するのとはほぼ同時だった。
「わたしはまだ十七だから、もう少しは大きくなると思いません?」
「どうだろうな。男だったらいけると思うが」
他の事に気を取られていたから、つい清一郎は本音を口にしてしまった。案の定、キラが鼻を鳴らす。
「もう! 夢くらい見させてくれてもいいじゃないですか」
彼女のその台詞に、ハッと胸を突かれた。
「すまない」
低い声で謝罪を口にした清一郎に、今度はキラの方が慌てたような裏返った声を出す。
「や、別に、そんなに真剣に受け取らなくても……」
そう言って、何故かクスクスと小さな笑いを漏らし始めた。
「何か、わたしと先生って、あんまり噛み合ってないですよね」
確かにその通りだが、清一郎は頷けなかった。その沈黙をどう取ったのか、キラは一度チラリと彼に視線を流してから続ける。
「でも、今日、先生と一緒に来られてホントに良かったです。すごく、楽しかった」
「……そうか」
そう返しながら、強張っていた彼の肩から力が抜けた。
「はい」
キラはコクリと頷き、手すりに寄り掛かっていっそう勢いを増してきた炎を見つめる。
しばらくそうしていて、不意に、ポトリと声をこぼす。
「ねえ、先生。こうやって、今あることは、永遠に残るんだって、思いませんか?」
清一郎はキラの言わんとしていることがよく理解できずに、眉をひそめて彼女を見下ろした。キラは真っ直ぐに眼下に目を留めたまま、続ける。
「あのね、今、わたしはここにいるでしょう? 存在しているの。死んだらね、確かにそれより後のわたしは存在できないけど、その瞬間より過去のわたしは存在し続けるの。わたしがいたっていうことは、ずっと、絶対に、消えないの。こうやって、みんなと一緒に楽しんだ、わたしは」
彼女は頭を傾けて清一郎を見上げて、ニコッと笑う。
「楽しいと思ったわたしの気持ち。みんなの記憶の中にある楽しんでいるわたし。……もしもみんなに忘れられてしまったとしても、消えるわけじゃないんです」
――僕は絶対に忘れない。
清一郎はキラにそう返してやりたかったが、その言葉は彼女の消失を受け入れているようで、口には出せなかった。代わりにギュッと唇を引き結ぶ。こんなにも鮮やかな彼女が自分が消えた後のことを考えているのだということに、理不尽な怒りを覚えた。
いつの間にか校庭に備え付けられたスピーカーからは賑やかな曲が流れていて、集まった生徒たちが手をつないでキャンプファイアーを囲み、廻り出す。
軽快な音楽を掻き消してしまいそうな、歓声。
キラは、その一人一人を慈しむように、ジッと彼らを見つめている。
そうして、やがて、ポツリと言った。
「わたしは、まだまだ『わたし』を残したい。まだまだ生きていたいんです」
「当たり前だ」
「ですね」
頷いたキラは、両手でベランダの手すりを押しやるようにして勢いよく身体を起こした。そうして清一郎に向き直り、彼を真っ直ぐに見上げてくる。暗い中でも、彼女のその目は生き生きと輝いていた。
「わたし、見苦しくてもなんでも、限界まで足掻きますからね」
キラは、そう、きっぱりと宣言した。
その視線の強さに、清一郎の目が吸い寄せられる。
彼は、様々な理由で自分の命を見限り、諦めてしまう者たちのことを知っていた。
どうせ先がないなら、こんなに苦しむくらいなら、と、まだいくばくか残っている命を放棄してしまう者たちのことを。
キラは、けっして彼らと同じ道は選ばないのだろう。たとえそれがどんなに険しく苦しいものだとしても、キラは決して諦めない。
清一郎のその考えを、続いた彼女の声が裏付ける。
「わたしは死にたくないんです。生きていたいんです。だから、この心臓が完全に止まってしまうまでは、絶対に諦めません」
明確な、意思表示だった。
意識せぬまま清一郎の手が動き、キラの細い肩を自分の傍へと引き寄せる。触れる程度に寄り添った身体に腕をまわすと、温もりと鼓動が伝わってきた。
(これを失わない為には、僕は何でもするだろう)
不意に、だが、強く、彼はそう思った。
キラの命をつなぐ為には、きっと、どんなことでもしてしまう――あっさりと手放す方が、彼女が苦しまずに済むだろうことが判っていても。
キラを死なせたくないと思うのが彼女の望みを叶えたいからなのか、それとも彼自身が彼女を失いたくないからなのか。
自分の身体にすっぽりと納まってしまうような小さな存在がこれほど心を揺さぶるものになるとは、思っていなかった。
清一郎は、右手をキラの頭の後ろに、左手を背中に添えて、ほんの少しだけ力を込める。と、クスリ、と微かな笑い声が彼の胸元をくすぐった。
「何だ?」
彼女の頭を自分の胸に引き寄せたまま、清一郎は問う。
「先生と出逢ってから、やりたかった事がいくつも叶っちゃったなって」
キラが言うのは、海とこの文化祭のことだろう。いくつも、というほど多くはないと思うが。
「……一つは、君が勝手にしでかしたことだろう?」
「ふふ、そうでした。スミマセン。反省してます」
キラが皆に黙って海に行ってしまった時は、本当に心配したのだ。ずいぶん軽い言い方だな、とムッとしながら、清一郎はふと気付いて彼女に問いかける。
「他には何が残っているんだ?」
「え?」
清一郎の手の中で、モソリとキラの頭が動いた。もっとも、彼に押さえられていて、モゾモゾとしただけで、実際に殆ど動かすことはできていなかったが。
少し力を緩めて、清一郎はもう一度尋ねる。
「やりたいことは、他に何が残っているんだ?」
答えまでに、わずかばかり間が開いた。
「……ナイショ、です」
微かな笑いを含んだ、声。キラの中にあるものを清一郎は知りたいと思ったが、彼女が秘密だというものをほじくり出す権限は彼にはない。
問いを重ねたくなるのを抑えて、清一郎は不承不承他の台詞を口にする。
「そろそろ、帰るか」
彼の言葉にまた少し間が空いて、そして彼女は頷いた。
「そうですね。このままじゃ、消灯時間になっちゃいます」
清一郎は腕を解き、キラを抱き上げようと腰を屈める。と、彼女はそれから逃れるように、後ずさった。眉をひそめた彼を、キラは小首をかしげて見上げてくる。
「あのね、先生、帰りは自分で歩いていきたいんです」
その乞うような眼差しに、清一郎は眉間の皺を深くした。
「だが――」
「お願い。この学校を出るまでは、『普通なわたし』でいたいんです」
キラの声にも視線にも懇願がこもっていて。
「行くぞ」
清一郎は、彼女を腕に抱き上げる代わりに、彼女に向けて片手を差し出した。
*
文化祭を終えた後、しばらくの間、疲れから体調を崩すのではないだろうかと案じる視線が、キラには四方八方から注がれていた。
しかし、大方の予想を裏切って、彼女の状態は良い方向に向かったのだ。
検査結果を見た岩崎が、「もしかしたら一度退院できるかもしれない」という言葉を口にするほどに。
実際、キラ自身も驚くほどに身体が軽かった。
――ひどく冷え込んだ十二月半ばの、あの日までは。
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