君が目覚めるその時に

トウリン

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君が望むこと-1

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 十二月も下旬となり、もうじき病院も休みに入る。
 だが、確かに病院そのものは休みになるが、そこで働く医者にとっては、あまりありがたいこととは言えなかった。年末年始の連休中も当直は入るし、その当直も他の診療所が休みになる分、救急対応をしている霞谷病院に患者が集中するし、休み期間の予約を前倒しにして入れなければならないしで、むしろ仕事が増える。
 今も清一郎せいいちろうは、普段の五割増しになっている患者たちを殆ど流れ作業のようにさばいていた。

「じゃあ、次の予約を入れておきます。お大事に」
 清一郎はキーボードを打ちながら、お決まりの台詞を口にして診終った男性患者を送り出す。彼は「ありがとうございました」と言いつつドアに手をかけ、ふとその手を止めた。
「先生、今日はクリスマスイブですよ。先生も早いところ仕事終わらせて、彼女と楽しんでくださいよ」
「クリスマスイブ?」
「そうですよ、やだな、忘れてたんですか? 先生、カッコいいし医者なんだからモテるんでしょ? うちも十年前までは娘が手作りのプレゼントなんかくれたんですけどね、彼氏とやらができてからは、もうさっぱり。家内と二人で寂しいもんですわ。味気ないですよ」
 そう言いながらも、顔には明るい笑みが浮かんでいて、彼はもう一度頭を下げると清一郎が何か返す暇を与えず診察室を出て行った。

(クリスマス、か)
 清一郎は胸の内でその言葉を呟く。最後にそれを祝ったのは、いつのことだったか。
 多分、二十年は過ぎている筈だ。元々、子どもの頃には欲しい物をもらえる日くらいの認識しか彼にはなかったが、家を出て独り暮らしをするようになってからは、それすらも、ない。

 キラならきっと楽しむだろう。多分、プレゼントをもらえるからではなく、単なるイベントとして。
 ふと彼女のことを考えてしまって、彼は眉をしかめる――彼女が、『楽しむ』どころの状態ではないことを、否が応にも思い出したのだ。
 キラの『風邪』はあの後数日で『気管支炎』になり、『肺炎』になった。
 今は日に日に悪くなっていくことはなくなったが、それは良くない安定で、あと数センチ落ちれば危険域に入ってしまうようなものだ。

(何か、打開策が欲しい)
 そう思っても、一種の小康状態を壊すのが怖くて、岩崎も清一郎も新たな一歩を踏み出すこともできずにいる。
 と、患者が出て行くのを待っていたかのように、スタッフ専用通路につながっている引き戸が開いて、そこから同じ循環器内科の同僚が顔を出した。

たき、ちょっといいか?」
「少し待ってくれ」
 清一郎は手早くカルテを入力し終えて、彼の方へ顔を向ける。
 普通は、何か連絡を取りたいと思ったら院内PHSを使う。わざわざ相手の所へ赴く必要はないのだが。
「どうした? 病棟で何かトラブルか?」
「ああ、いや、小児科の岩崎先生が、お前に来て欲しいと言っているんだ」
「岩崎が?」
 瞬間、胸がざわついた。

 小児科といえば、すぐに清一郎の頭に思い浮かんでくるのはキラだ。もしも新規の患者で話があるのなら、わざわざ清一郎を名指しで呼ぶことはないだろう。
 清一郎は、ギュッと眉根を寄せた。

 嫌な、予感がする。

 キラが風邪をこじらせてから、もう二週間になる。状態は一進一退――いや、一進一退を繰り返しつつ徐々に徐々に悪い方へと向かっているのは、ごまかしようのない明白な事実だった。それでも、今朝、外来を始める前に開いたカルテを見る限り、昨晩までは大きな変化は無かった筈だが。
「すまないが、外来を代わってもらっていいか?」
「ああ、別に構わない」
 多分、元々そのつもりだったから、彼もわざわざ足を運んでくれたのだろう。
「助かる」
 短く告げて循環器内科の外来を出ると、清一郎は足早に小児科病棟に向かった。非常階段を一段飛ばしで駆け上がり、ナースステーションに足を踏み入れる。そこには岩崎がいて、二人の看護師に真剣な顔を向けていた。

「キ――雨宮あまみやに何かあったのか?」
「ああ、来てくれたのか。悪いな」
 清一郎を見て岩崎は微かな笑みを浮かべたが、やはり、その表情は硬い。
「何があったんだ?」
「僧房弁逆流が急に増悪したんだ。昨日から今日にかけて心機能も落ちているし、肺に水も溜まってきている。全然酸素化できていないんだ。これから挿管するんだが、その前に彼女と話をしておきたいかと思って」
 彼の説明に、清一郎は眉間に刻んだしわを深くする。
「……わざわざ呼ばなくても、良かっただろうに」
「けどな――」
「彼女は観察室か?」
 岩崎の言葉を遮るようにして、清一郎は問い返す。
「ああ、そうだ」
 岩崎は頷き、ナースステーションに接しているその部屋の方へと顔を向けた。

 岩崎にはああ言ったが、本当は、彼が何を考えて自分を呼び出したのか、清一郎には判っている。
 ――彼は、一度キラに人工呼吸器を装着したら、もう外せないかもしれないと思っているのだ。
 そのまま、目を覚ますことがないかもしれない、と。
 だから、言葉を交わせるうちに逢わせようとしたのだ。
 その考えに苛ついた清一郎は、無愛想に頷いた。
「わかった」
 そうして、踵を返して観察室へと向かい、その扉を引き開ける。

 後ろ向きな岩崎を、清一郎は腹立たしく思った。
(最初から『負け』を考えていて、どうする)
 清一郎にとって、治療は治療――治すこと、だ。治せないかもしれないと思ってやることなど、治療ではない。
 その苛立ちを抱いたまま、彼は観察室に二つ並んでいるうちの一つ、半分ほどカーテンが引かれている奥のベッドへと向かう。
 淡い桃色のカーテンにかけた清一郎の手が、一瞬止まる。小さく息をついてから、それを静かに引き開けた。
 と同時に、こちらを真っ直ぐに見つめているキラと、目が合った。

 寄り掛かれるように起こされたベッドに身体を預けて、酸素マスクを着けているキラが、微かに笑みを浮かべる。蒼い顔の中で、生気を失わない大きな目が煌めいた。
「先生」
 その声は小さく、酸素が流れる音にかき消されて殆ど聞こえない。
 清一郎は頷き返しながら、チラリとモニターに目を走らせる。酸素飽和度は九十%前後をふらふらしていた。彼女の細い肩は忙しない呼吸で上下しているが、酸素をろくに取り込めていない。きっと、かなり息苦しいはずだ。

「苦しいんだろう?」
「ふふ……なんか、水の中で、呼吸をしようと、しているみたい、です」
 笑いながら切れ切れに答えるキラに、彼は眉をしかめる。
「もう少ししたら呼吸器が着くから楽になる」
「そう、ですね」
 頷いて、彼女は大きく息を吸う。
 そして小さく笑った。

「?」

 この状況の、どこに笑うポイントがあるというのか。
 そんな清一郎の心の声が聞こえたのか、キラはゆっくりとかぶりを振った。
「あ、いえ……先生の、誕生日は、いつ、ですか?」
 これもまた、状況に即さない、唐突な質問。
 訳が判らないまま、その問いの意図を尋ねてキラに余計な負担をかけたくはなくて、清一郎は素直に答える。
「十二月の上旬だ」
「終わった、ばっか、ですね。プレゼント、あげそびれ、ました」
 こんな時に何を言っているのか。
 いかにも残念そうなキラの返事に、清一郎は半ば呆れ、半ば彼女らしいと納得する。
「来年考えてくれ」
 肩をすくめてそう答えると、キラが微かに目を見開いた。彼の返答はごくごく一般的でまったく奇抜なものではない筈なのだが、彼女は完全に意表を突かれたような顔をしている。
「何だ?」
「何でも、ない、です」
 眉をしかめた清一郎に、何故か泣きそうにも見える笑顔を浮かべながら、キラはまた首を振った。

 その相反する二つの表情がせめぎ合う彼女の反応に、何故そんな顔をするのか尋ねようと口を開きかけた清一郎の隣で、またモニターが不快な警告音を立てる。
 アラームは通常よりもかなり低い数値で鳴るように設定してあるが、それを更に下回る数値になったのだ。
 今は、自分の疑問を解消するよりも、キラを楽にする方が先決だ。
 清一郎はアラームを中断するボタンを押して音を消すと、もう一度キラを見下ろす。
 ふと、その姿に胸を突かれた。
 見上げ返してくる彼女に、触れたいと思う。
 元来、清一郎は人との触れ合いを拒む性質《たち》だった。誰かに触れたいだなどと――ましてや抱き締めたいだなどと、今まで思ったことがない。
 けれど、キラを見る度、腹の底からその衝動が込み上げてくる。

「もう話すな。また後で会いに来る」
 清一郎は、彼女に向けて伸びてしまいそうになる両手を身体の脇で握り締め、囁いた。
 そうしてキラに背を向け岩崎の元に戻ろうとしたが、その彼の足を、小さな声が引き止める。
「あ、先生、待って」
 清一郎は肩越しに振り返り、彼を見つめるキラの眼差しにすがるような切実な光があるのを認めて、身体ごと彼女に向き直った。
 キラの両手は、力無く伸ばされた彼女の膝の上に置かれている。

 一瞬迷って清一郎はキラの元へ取って返し、ベッドサイドにしゃがみ込むと彼女のその両手に自分の手のひらを重ねた。それはピクリとも動いていなかったけれど、何故か、彼がそうすることをキラが望んでいるように思われたからだ。
 清一郎の手の中で、キラの小さな拳にわずかに力がこもるのが感じられる。
 同時に、中断していたアラームが、また響き始める。

 早く処置をしなければ。
 そんな焦りが清一郎の中をよぎったのを感じ取ったかのように、キラが口を開く。彼に注がれた彼女の眼差しは真っ直ぐで、そして必死だった。
「あのね、先生」
 キラが大きく喘ぐ。
 もういい、黙っていろと清一郎が言おうとするのを目で封じて、彼女が続ける。可能な限りの、速さで。
「あのね、わたしには、もう、何かを選ぶこと、できなく、なります。もしも、何か、決めなくちゃいけなく、なったら、先生に、選んで、欲しいんです」
「僕に……?」
 眉をひそめた清一郎に、キラが小さく頷いた。そしてまた笑って、息を整えて続ける。
「岩崎先生は、赤ちゃん、生まれた、でしょう? もう『お父さん』だから、パパやママの気持ち、考えてしまうん、です。でも、今は、わたしのことだけを、考えて、欲しいんです――わがまま、通したい、です」

 まだ、どんな選択肢が出てくるかもはっきりしていない。そんな状態なのに、清一郎はキラから白紙委任状を渡されてしまった。
 何故、彼なのか。
 それを確かめようとして、やめた。
 キラは自分で考え、選ぶ少女だ。安易に自分の運命を他人の手に委ねることはしない。彼女がそうして欲しいと言うなら、それは熟慮の結果なのだ。
 決断の時が訪れた時、キラが望むであろう答えを清一郎に出すことができるのか。
 これまで彼女と交わしてきた言葉の中から、その答えを見つけ出すことができるのだろうか。
 ――判らない。
 だが、キラは彼に全てを託してくれたのだ。

「わかった」
 清一郎は深く頷き、そして彼女の拳を握る手に力を込めた。
「ありがとうございます」
 ホッとしたような笑顔を浮かべたキラに、もう馴染みとなった感覚に、清一郎の胸がきつく締め付けられる。彼はもう一度その手を握り、そして、立ち上がった。岩崎たちは準備万端に整えて待っている筈だ。流石に、もう行かなければならないだろう。
「じゃあ、また」
「あ、先生」
 短く告げて観察室を出ようとした清一郎を、キラが再び呼び止める。
 ――皆が準備を整えて待っているんだ。
 振り返りながら心を鬼にしてそう言おうとした清一郎よりも先に、彼女が告げた。

「もう一つ、お願いが、あるんです」

 と。
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