欠けゆくもの、満ちゆくもの

トウリン

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明かされた真の姿

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 忽然と姿を消した『神の娘』シィンの突然の帰還に、大神殿の中は喜びで沸き返った。

「よくぞ……よくぞ戻られた!」
「お顔の色も、ずいぶんと良くなられて」
「おお、きっと、アーシェル様の元でのご静養が功を奏したのですね」

 感心しきりの神官たちが口々に言うのへ、シィンは複雑な思いを押し隠して笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。心配かけました」
 そう答えながら、目ではキンクスの姿を探す。果たして彼は、黒山の向こうに、いた。いつものように、穏やかな笑みを浮かべて。こうやって冴えた目で見てみると、それが上辺だけのものであることが、否が応でも知れた。
 見つめる彼女の何かに気付いたように、キンクスがわずかに眉根を寄せる。そして、一歩を踏み出した。彼が足を進めると、自ずと人山が動き、道ができる。それはまるで、彼が神そのものであるかのようであった。

「お帰り、必ず戻ってくると、信じていたよ」
 シィンの前に立ったキンクスは、彼女を見下ろして柔らかく微笑む。かつては、その笑みを、シィンは慈愛に満ちたものだと思っていた。だが、あの里で本物の笑顔に出会ってからは、キンクスのその目の中に温もりは存在していないことが判るようになってしまったのだ。

(どうして、優しさがあると思えたの?)
 シィンは、頬の内側を血がにじむほどに噛み締めた。
 単に薬で思考能力を奪われていたからか、あるいは、キンクスの中に自分に対する慈しみの思いがあると思いたかったからか。
 多分、両方だ。彼は、シィンの一番近くにいる、そして何の壁もなく彼女に触れてくる、唯一の人だったから。
 今も、キンクスの言葉全てに従ってしまいそうになる自分がいる。けれどシィンは、それを振り払って顔を上げた。

「お話があります――二人きりで」
 注がれる眼差しを真っ直ぐに受け止め、シィンはそう告げた。キンクスが神殿そのものなのだ。彼を説得しなければ、神殿は動かない。
 毅然とした彼女の態度に、キンクスが微かに目をみはるのが見て取れた。そして、一瞬よぎった、苦々しげな光も。だが、不穏な色は即座に一掃して、彼は鷹揚に頷いた。
「いいとも。私も色々訊きたいからね」
 そうして先に立って歩き出したキンクスの後に、シィンが、そしてラスが続く。
 大神殿の中は、以前と変わらず美しい。だが、外の世界に触れ、この美しさの下に隠されているものを知ってしまった彼女には、きらびやかな装飾も、磨き抜かれた白壁も、全てが色褪せて見えた。

 やがて三人はキンクスの執務室に着く。先にキンクスが部屋に入り、そしてシィン。ラスが続こうとしたところで、彼女は振り返った。
「ラスはここで待っていてね」
「しかし……」
 ちらりと部屋の中で待つキンクスに視線を走らせて心配そうな眼差しを向けてくるラスに、シィンは彼を安心させるように笑って見せる。ラスの眼にみなぎっているのは不信感で、明らかに、彼はキンクスのことをシィンにとって危険な存在であると認識している。

 それは、きっと、正しい。
 シィン自身、親代わりともいえるその人のことを、今は怖いと思っている。

(でも)

 彼女はぐっと両手を握り締めた。
 ラスが傍に居てくれれば心強いが、その分、無意識のうちに頼ってしまいそうな気がした。キンクスを説き伏せるには、ほんのわずかな弱さも見せてはならないのに。

「お願い」
 更に言葉を重ねられ、ラスは何かを言いかけたが結局口をつぐみ、いかにも気が進まなそうに頷く。
「……わかりました。でも、ここに立っていますから、何かあればすぐに呼んでください」
「ふふ、ありがとう」
 シィンはそう笑うと、手を伸ばしてラスの頬に触れる。彼女の方から彼に手を伸ばしたのは、これが初めてかもしれない。そのためか、指先が届いた瞬間、ラスはギョッとしたように目をしばたたかせた。
 そんな彼に、シィンはもう一度微笑みかける。
「じゃあね、待っててね」
 そうして、呆然としているラスを残して扉を閉ざした。

 そんな二人の遣り取りを何を思いながら眺めていたのか、キンクスがいる方からは物音一つしない。
 一度大きく深呼吸をしてから、シィンは彼に向き直った。

「それで、話とは?」
 目と目が合って、穏やかな、いつもと全く変わらぬ口調で、キンクスが水を向けてくる。シィンは数歩彼に近付いて、けれど、互いに手が届くことはない距離を保って、口を開いた。

「神官長様は、アーシャル様を信じておられるのですよね?」
 脈絡のない彼女の問いに、キンクスは怪訝そうに眉根を寄せ、そして頷く。
「――無論。何故、そのようなことを?」
 彼の返事は、表面的に捉えるならば、肯定だった。けれども、答えの前に置かれた微かな『間』に、シィンには何かが含まれているように思われてならない。
 その何かは何なのだろうと、彼女はジッとキンクスを見つめる。けれど、新月の闇夜のようなその瞳の奥にあるものを探り出すことはできなかった。

「わたしは、アーシャル様のお力を信じていました。わたしが祈りを捧げることで、アーシャル様がその御手を伸ばされ、みんなが幸せになれるのだと」
「その通りだ。疑う余地などないだろう?」
 くるみ込むような、キンクスのその声、その眼差し。
 以前なら、シィンも容易にそれを受け入れていたに違いない。
 愚かだったかつての自分を振り払うように、今の彼女は首を振る。

「いいえ。わたしはここから出て、外の世界を目にしてきました。神殿から離れて暮らす人たちの事を。その人たちは、アーシャル様のお力にすがらず、自分たちの力だけで、ちゃんと暮らしています……この町の人たちよりも、生き生きと」

 脳裏によみがえる、この街の大通りの光景。
 アーシャルのお膝元であるはずのこの街に暮らす人々よりも、隠れ里の人々の方が、遥かに喜びと活気に溢れていた。

 シィンは顎を上げてキンクスの目を真っ直ぐに射貫く。
「わたしたちは、アーシャル様のお力を頼りにし過ぎているのではないでしょうか? アーシャル様が必要ない、というのではありません。心の支えとして、やっぱりアーシャル様はなくてはならない存在です。でも、もっと、人の力を信じて、わたしたち自身の力で生きるようにするべきだと思うのです」
 拙い言葉で、シィンは懸命に言い募る。キンクスはそんな彼女を、うっすらと笑みを刻んだまま、ヒタと見つめている。
「じきに、わたしが出会った人たちがここにやってきます。彼らは、自分たちの手で、未来を創っていこうと考えている人たちです。決して、神殿に仇なそうというわけではありません。根本にあるものは、わたしたち、神殿で祈る者と同じこと。ただ、みんなを幸せにしたい、みんなで幸せになりたい、ということ。彼らと話し合って、より良く生きる為の道を、共に歩んで行きたいのです」

 胸の中に溜め込んでいたものを全て吐露し、シィンは口をつぐむ。キンクスはというと、何かを考え込むかのように、軽く目を伏せていた。

 応じてくれるのだろうか。
 ――みんなの幸せを願っている彼なら、きっと、良い道を選んでくれる筈だ。彼らと話し、その現状を知って、きっと、みんなの為になる道を選ぼうとしてくれる。

 シィンは、そう信じていた。

 だが。

 耳に忍び込んできたその声に、眉根を寄せる。それは、笑い声――優しさや温もりは微塵も感じさせない、嘲笑だ。

 キンクスが、伏せていた顔を上げる。その目に浮かぶものに、思わずシィンは後ずさった。
「随分、余計な知恵をつけてきたものだな。まったく……時を費やして最高の人形に仕上げてきたというのに」
 冷ややかに投げつけられた、言葉。その響きに、シィンの背筋にぞくりと震えが走る。
「神官長、様……?」
 心もとなく呼んだ彼女の前で、彼は投げやりに肩をすくめた。

「『皆』の幸福など、知らんよ。私が欲しいのは、『私の』幸福だ」
 一瞬、シィンには、目の前に立つ人物がいったい誰なのか、判らなくなった。確かに、姿かたちは長い間崇拝し、慕ってきたキンクスのもの。だが、その中身は、いったい何者なのだろうか。

 言葉のないシィンに、キンクスはうんざりした口調を隠さずに、続ける。
「人は皆、己の幸福のみを望んでいるものだよ。しかも、安易にな。だからこそ、くだらん神などにもすがる。私が神の力を信じているかだと? 無論、そんな筈があるわけがなかろう。神がいったい何をしてくれるというのだ?」
「でも……でも、神官長様は、あんなに祈ってらっしゃったではないですか!」
「埒もない言葉を並べるだけで手に入るからな、私の幸福は。甘く耳に心地よい口上を並べるだけで、皆私に心酔し、私を豊かにしてくれる」
「そんな――!」

「何を憤る。お前とて、そうだろう?」
「え?」
 唐突に話を振られて、シィンは戸惑う。話の脈絡が掴めなかった。
 心の揺れが現れている彼女の目を見つめながら、キンクスは楽しそうに、嘲る。

「お前も、自身の幸福の為に祈りを捧げていたに過ぎん。違うか? お前が祈れば、皆がお前を崇拝する。お前はそれで、己に価値を見いだせる」
 ぐらりと揺れたシィンの腕を、蛇のような素早さで伸びたキンクスの手が捉える。もう一方の手で月の輝きにも似たシィンの髪をひと房取り、しげしげと見つめ――グッと握り締めた。

「ッ!」
 頭皮が引きつれる痛みに思わず顔をしかめた彼女の耳元で、彼が囁く。
「お前自身に価値はない。『神の娘』などと、口にするたび、笑いたくなるのを堪えるのが一苦労だったよ。『神の娘』? バカらしい――お前は、北の蛮族との間にできた、ただの人の子だ」

 突如もたらされたその事実に、シィンは目を見張る。果たしてそれが真実なのかどうかは判らない。けれども、その時キンクスの目にあったのは、獲物をいたぶる猫のような色だった。

「ラ――!」
 身をよじり、声を上げてラスを呼ぼうとしたその口を、キンクスの手が覆った。しなやかな形にそぐわない力で、彼女の鼻も口も閉ざしてしまう。

「『神の娘』の最後の仕事だ。その身を神に捧げてもらおう。何、怖がることはない。本当に殺したりはせぬよ。今まで通り――いや、神殿の更に奥深くで、生かしてやろう。そうして、私の子を産めばよい。美しく、愚かな人形を。その子を、新たな『神の子』としよう」

 息苦しさに遠のく意識の中、シィンの目に最後に映ったのは、心底から愉しそうな、キンクスの笑みだった。
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