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シィンは謳う
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シィンは廊下を走る。前を行くローグとラスの背中を見つめながら。時折入る妨害を、二人は難なく組み伏せていく。
「シィン様、大丈夫ですか?」
「平気。ラスとローグも怪我しないでね」
息を切らしながら彼女が答えると、ラスがわずかに目元を細めた。と、柱の陰から不意に飛び出しシィン目がけて手を伸ばしてきた衛兵を、身を翻したローグが回し蹴りで叩きのめす。
「ありがとう、ローグ」
パッと笑顔を返してきた彼は、ほんの数日で急に大人びたようだ。まるで、止まっていた時間が急に動き出したかのように。翳りで曇っていたこげ茶の目は澄み渡り、以前はなかった茶目っ気で輝いている。きっと、これが本来のローグの姿なのに違いない。
(ローグも、道を見つけたのかな)
進むべき道を決めたから、先を見られるようになったのだろうか。
(わたしと、同じように)
そう、シィンは進む先を選んだ。
これまで、シィンの全ては『与えられたもの』だった。与えられるものを受け入れるだけで、自分で得ようとしたものは、何一つなかった。
けれど、この道は、これから進もうとしている道は、彼女が考え、彼女が選んだ――初めて自分自身で決めたものなのだ。
その先に何が待っているのかは、判らない。けれども、カイネが言ったように、自分がしようと思っていたことを、したいと思っていたことを、しようと思った。
(わたしがしたかったのは、一人でも多くの人を幸せにすること)
そんなのは、無理なことなのかもしれない。
あるいは、思い上がったことなのかもしれない。
だけど、嘆いたりしているよりも、こうやって動いている方が、ずっといい。
無理だ、できない、と逃げるよりも、無理だった、できなかったと悔しがる方が、ずっといい。
廊下を走って走って、シィンたちは講堂に出る。
高座から見下ろす人々は、皆、後ろを向いていた。誰も彼もが、入口の方に押し寄せていて、戻ってきたシィンに気付く者はいない。彼らが向かう先に目を凝らせば、そこにはアシク達の姿が見え隠れしていた。彼らは剣を使わず、素手で群集を防いでいるようだ。
「まずいな、数が多いし、町民相手ではアシク達は手が出せまい」
眉をひそめたラスに、ローグが顔を曇らせる。
「何とかしないと……」
けれども、何をしたらいいのだろう。誰も傷付けることなく、皆の意識をこちらに向けるには。
シィンは意を決すると、高座の際まで進み出た。
「シィン様……?」
あまりにギリギリに立つ彼女を案じて手を伸ばしたラスを、ローグが首を振って引き留める。
二人の視線を背中に受けながら、シィンは一度大きく息を吸って、吐いた。
もう一度人々を見渡してから、目を閉じる。
そして。
思うがままに、腹の底から声を溢れさせる。
その喉が奏でる調べに、決まりなどない。ただ、高く、低く、謳った――自分の中にある、祈りをこめて。
透き通るような旋律は、人々の怒号の中を縫っていく。
「おい、あれ……」
最初にシィンに気付いた一人が、振り仰いで指差した。それは次第に伝播していく。
高座から放射状に、怒号はさざめきへと変わりゆき、人々の眼は侵入者から一心に謳い続ける『神の娘』へと移りゆく。
いつしか、広間にいる者は全て、シィンの歌声に聴き入っていた。かつての彼女の歌声は、人々を熱狂はさせたが魅了はしなかった。今の彼女の歌声は、盲目的な吸引力は失っていたが、人の心を包み込み、ささくれ立った心を穏やかにする力を持っている。
ふとシィンが気づいた時、広間は囁き声一つ無く、静まり返っていた。
シィンは口を閉じ、その夜明け間近な空の色の瞳で人々を見渡す――一人一人を見つめるつもりで。彼らは、皆、その目に尊崇と賛美と思慕の色を浮かべていた。
身に余るそれらの想いを受け止めることに、シィンは身震いする。怖気づきそうになる心を、奮い立たせた。
彼らは、皆、わたしの言葉を求めている。
自分の言葉がどれほどの力を持つのかは判らない。けれども、やるだけやってみようと、シィンは覚悟を決めた。
すう、と息を吸い、一度溜める。
そして。
「皆さん、わたしの言葉を聞いてください」
人々の視線が、突き刺さる。シィンは一度、唾を呑み込んだ。
「わたしたちは、今まで、アーシャル様に、他の全ての神々に――守られてきました。けれども、彼らは、もうわたしたちに手を伸ばすことはなさいません」
その瞬間、シンとしていた広間にどよめきが走る。それが大きな渦になる前に、シィンは更に声を振り絞る。
「今、この神殿の外には、国の各地から集った人たちがいます。彼らは、ヒトはヒトの力で生きていけると気付いた人たちです。彼らに、あなたたちを害する意図はありません。ただ、みんなでより良く生きる術はないかと、みんなでより良く生きていきたいと、願っているだけです」
「それは、神が……アーシャル様が……」
おずおずと声を上げたのは、民の中に紛れた神官だ。彼の言葉に、そこかしこで頷く者が出る。
シィンは頬の内側を噛み、そして講堂の中の人々をグルリと見渡した。
「神は、常にわたしたちの傍に在ります。それは、決して変わりません。けれど、もう、命じはしないし、守りもしません。わたしたちは、もう、ただ守られるだけの幼い子どもではありません。わたしたちはわたしたちが生きる道を神に委ねるのではなく、自ら選び取っていかなければならないのです。わたしたちの生はわたしたちのもの。だから、自分たち自身で生きていかなければならないのです。神々は、わたしたちを――人を信じています。人が自分たちの力で生きていけるということを、信じてくださっているのです」
聞こえてくるのは、すすり泣き。彼らの眼差しは、すがるようにシィンにまとわりついた。
庇護者に突き放されてしまった者の嘆きの声に突き動かされるように、シィンは続ける。
「皆さん、わたしは皆さんの傍にいます。あなた方がわたしを必要とする限り、ここに留まるでしょう」
その言葉と共に、そこかしこから漏れ聞こえてくる、安堵の溜息。
自分は、張りぼての『神の娘』だ。けれども、こんな自分でも人々が望むというのであれば、それに応えよう。
シィンは、胸中でそう呟いた。それは、諦めとは、違う。違うけれども、よく似通っていた。
「皆さん、怖がらないで。神々は、決して見放しはしません。見守る存在となられるだけです。いつでも、あなたの傍にいます」
最後にもう一度だけ、眼下を見渡して、後ずさる。踵を返して振り向いた先には、ローグとラス、そして――。
彼らに向けて、シィンは笑う。
精一杯の気持ちを込めて。
彼女には、別れなければならない人たちに贈れるものが、それしかなかったから。
「シィン様、大丈夫ですか?」
「平気。ラスとローグも怪我しないでね」
息を切らしながら彼女が答えると、ラスがわずかに目元を細めた。と、柱の陰から不意に飛び出しシィン目がけて手を伸ばしてきた衛兵を、身を翻したローグが回し蹴りで叩きのめす。
「ありがとう、ローグ」
パッと笑顔を返してきた彼は、ほんの数日で急に大人びたようだ。まるで、止まっていた時間が急に動き出したかのように。翳りで曇っていたこげ茶の目は澄み渡り、以前はなかった茶目っ気で輝いている。きっと、これが本来のローグの姿なのに違いない。
(ローグも、道を見つけたのかな)
進むべき道を決めたから、先を見られるようになったのだろうか。
(わたしと、同じように)
そう、シィンは進む先を選んだ。
これまで、シィンの全ては『与えられたもの』だった。与えられるものを受け入れるだけで、自分で得ようとしたものは、何一つなかった。
けれど、この道は、これから進もうとしている道は、彼女が考え、彼女が選んだ――初めて自分自身で決めたものなのだ。
その先に何が待っているのかは、判らない。けれども、カイネが言ったように、自分がしようと思っていたことを、したいと思っていたことを、しようと思った。
(わたしがしたかったのは、一人でも多くの人を幸せにすること)
そんなのは、無理なことなのかもしれない。
あるいは、思い上がったことなのかもしれない。
だけど、嘆いたりしているよりも、こうやって動いている方が、ずっといい。
無理だ、できない、と逃げるよりも、無理だった、できなかったと悔しがる方が、ずっといい。
廊下を走って走って、シィンたちは講堂に出る。
高座から見下ろす人々は、皆、後ろを向いていた。誰も彼もが、入口の方に押し寄せていて、戻ってきたシィンに気付く者はいない。彼らが向かう先に目を凝らせば、そこにはアシク達の姿が見え隠れしていた。彼らは剣を使わず、素手で群集を防いでいるようだ。
「まずいな、数が多いし、町民相手ではアシク達は手が出せまい」
眉をひそめたラスに、ローグが顔を曇らせる。
「何とかしないと……」
けれども、何をしたらいいのだろう。誰も傷付けることなく、皆の意識をこちらに向けるには。
シィンは意を決すると、高座の際まで進み出た。
「シィン様……?」
あまりにギリギリに立つ彼女を案じて手を伸ばしたラスを、ローグが首を振って引き留める。
二人の視線を背中に受けながら、シィンは一度大きく息を吸って、吐いた。
もう一度人々を見渡してから、目を閉じる。
そして。
思うがままに、腹の底から声を溢れさせる。
その喉が奏でる調べに、決まりなどない。ただ、高く、低く、謳った――自分の中にある、祈りをこめて。
透き通るような旋律は、人々の怒号の中を縫っていく。
「おい、あれ……」
最初にシィンに気付いた一人が、振り仰いで指差した。それは次第に伝播していく。
高座から放射状に、怒号はさざめきへと変わりゆき、人々の眼は侵入者から一心に謳い続ける『神の娘』へと移りゆく。
いつしか、広間にいる者は全て、シィンの歌声に聴き入っていた。かつての彼女の歌声は、人々を熱狂はさせたが魅了はしなかった。今の彼女の歌声は、盲目的な吸引力は失っていたが、人の心を包み込み、ささくれ立った心を穏やかにする力を持っている。
ふとシィンが気づいた時、広間は囁き声一つ無く、静まり返っていた。
シィンは口を閉じ、その夜明け間近な空の色の瞳で人々を見渡す――一人一人を見つめるつもりで。彼らは、皆、その目に尊崇と賛美と思慕の色を浮かべていた。
身に余るそれらの想いを受け止めることに、シィンは身震いする。怖気づきそうになる心を、奮い立たせた。
彼らは、皆、わたしの言葉を求めている。
自分の言葉がどれほどの力を持つのかは判らない。けれども、やるだけやってみようと、シィンは覚悟を決めた。
すう、と息を吸い、一度溜める。
そして。
「皆さん、わたしの言葉を聞いてください」
人々の視線が、突き刺さる。シィンは一度、唾を呑み込んだ。
「わたしたちは、今まで、アーシャル様に、他の全ての神々に――守られてきました。けれども、彼らは、もうわたしたちに手を伸ばすことはなさいません」
その瞬間、シンとしていた広間にどよめきが走る。それが大きな渦になる前に、シィンは更に声を振り絞る。
「今、この神殿の外には、国の各地から集った人たちがいます。彼らは、ヒトはヒトの力で生きていけると気付いた人たちです。彼らに、あなたたちを害する意図はありません。ただ、みんなでより良く生きる術はないかと、みんなでより良く生きていきたいと、願っているだけです」
「それは、神が……アーシャル様が……」
おずおずと声を上げたのは、民の中に紛れた神官だ。彼の言葉に、そこかしこで頷く者が出る。
シィンは頬の内側を噛み、そして講堂の中の人々をグルリと見渡した。
「神は、常にわたしたちの傍に在ります。それは、決して変わりません。けれど、もう、命じはしないし、守りもしません。わたしたちは、もう、ただ守られるだけの幼い子どもではありません。わたしたちはわたしたちが生きる道を神に委ねるのではなく、自ら選び取っていかなければならないのです。わたしたちの生はわたしたちのもの。だから、自分たち自身で生きていかなければならないのです。神々は、わたしたちを――人を信じています。人が自分たちの力で生きていけるということを、信じてくださっているのです」
聞こえてくるのは、すすり泣き。彼らの眼差しは、すがるようにシィンにまとわりついた。
庇護者に突き放されてしまった者の嘆きの声に突き動かされるように、シィンは続ける。
「皆さん、わたしは皆さんの傍にいます。あなた方がわたしを必要とする限り、ここに留まるでしょう」
その言葉と共に、そこかしこから漏れ聞こえてくる、安堵の溜息。
自分は、張りぼての『神の娘』だ。けれども、こんな自分でも人々が望むというのであれば、それに応えよう。
シィンは、胸中でそう呟いた。それは、諦めとは、違う。違うけれども、よく似通っていた。
「皆さん、怖がらないで。神々は、決して見放しはしません。見守る存在となられるだけです。いつでも、あなたの傍にいます」
最後にもう一度だけ、眼下を見渡して、後ずさる。踵を返して振り向いた先には、ローグとラス、そして――。
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